主日礼拝

派遣

「派遣」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第130編 1節-8節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第9章 10節-22節
・ 讃美歌 ; 4、227、519

 
サウロの回心
 使徒言行録第9章の前半には、教会の、あるいは世界の歴史にとって大変大きな意味を持つことになった出来事が語られています。それは「サウロの回心」という出来事です。主イエス・キリストを信じる信仰に反対し、迫害の急先鋒だったサウロが、180度の転換をとげ、キリストを信じる者となり、さらにはイエス・キリストこそ救い主であると宣べ伝える伝道者になったのです。このサウロ、後のパウロによってこそ、キリストの福音はユダヤ人の民族宗教の枠を真実に超え出て、全世界に宣べ伝えられるようになったのです。サウロの回心は世界の歴史にとっても大きな意味を持つ出来事だったというのはそういうことです。本日ご一緒に読むのは、このサウロの人生の大転換を語っている物語の後半の部分です。先々週の礼拝において、その前半部分を読み、サウロにここで何が起ったのか、彼は何を体験したのかを考えました。それを少し振り返っておきたいと思います。

打ち倒されたサウロ
 サウロは、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートであり、主なる神様がイスラエルの民にお与えになった律法を守ることによってこそ、イスラエルの民は神様の民として歩むことができるという固い信念によって生きていました。その律法への熱心さのゆえに彼は、キリスト教会を迫害する者となったのです。律法を守ることによってではなく、十字架につけられて殺されたナザレ人イエスを救い主と信じることによって神様の救いにあずかれると語っているキリスト教会は、サウロには、イスラエルを神様の民でなくしてしまおうとしている陰謀にしか思えなかったのです。そのサウロが、はるばるダマスコにまで迫害の手を伸ばそうとして道を急いでいた時、天からの光に打たれ、その光の中から、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかける声を聞いたのです。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがありました。これは彼にとって、まさに天地がひっくり返るような体験でした。彼がこれまで神様の敵として激しく憎んできたイエスが、生ける神として語りかけて来たのです。彼がこれまで確信を持ち、これこそ正しい、神様に従う信仰者の生き方だと思って熱心に励んでいたことが、実は神様に従うどころか、激しく敵対することに他ならなかったことを思い知らされたのです。このことによって彼は地に打ち倒され、目が見えなくなってしまいました。深い淵、暗闇に陥り、何も見えなくなり、この先どう生きていったらよいのか、わからなくなってしまったのです。9節に、人々に手を引かれてダマスコに入ったサウロが、三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったとあります。三日の間彼は、深い闇の淵に閉ざされ、飲み食いもできずにいたのです。

主イエスとの出会い
 サウロの回心はこの体験から始まりました。後の大伝道者パウロの出発点はこの深い闇の淵の体験だったのです。このことを私たちは改めてしっかりと見つめておきたいと思います。先々週の説教でも申しましたが、サウロの回心を、教会の最初の殉教者ステファノの姿に感銘を受けたからだ、と説明しようとする向きがあります。しかしそのように彼の回心の原因を内面における心境の変化に求めようとするのは、話としては面白いかもしれないが、聖書に語られていることとは違います。サウロがここで体験したのは、「心境の変化」ではなくて、生けるキリストとの出会いです。その出会いによって彼は打ち倒され、何も見えなくなったのです。私たちが信仰者になる時に起ることも、基本的にはこれと同じです。私たちは、自分の人生の問題を真剣に考え、熱心に真理を探し求めていって、結論としてキリストを信じる信仰に到達するのでは決してないのです。まことの信仰は、そのような人間の求める心の行きつく先にはありません。熱心に求めることは良いことですけれども、そういう私たちの求める心がそのまま信仰に育っていくのではないのです。むしろ、私たちの求める心そのものが、主イエス・キリストとの出会いによって打ち砕かれるのです。その深い闇の淵の中にこそ、ほんとうの信仰が神様によって与えられるのです。

深い淵の底から
 本日共に読まれる旧約聖書の個所として、詩編第130編を選びました。深い淵の底から主なる神様に呼ばわり、罪の赦しを願うこの詩人の叫びは、目が見えず、食べも飲みもしなかったあの三日間のサウロの思いと重なると思います。その3節に、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」とあります。サウロが、生ける主イエスとの出会いによって体験したのはこのことです。それは、それまで気づかなかった真理に気づき、それまでの生き方が間違っていたことを反省して新しくやり直そうと思った、などという呑気なことではないのです。自分の罪はもはや自分で償い得ないほど大きい、主なる神様がそれを数え上げられるなら、もはや自分は生きることができない、滅ぼされずにはおれない、そういう罪による滅びの事実に彼は直面したのです。
 しかしそこには同時に、希望への糸口も与えられていました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語られた主イエスは、それに続いて、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と彼にお語りになったのです。ダマスコの町において、なすべきことが知らされる。あなたには、なおなすべきことがある。この主イエスのお言葉は、罪による滅びの事実に直面し、深い闇の淵に陥ったサウロに、一筋の光明を与えるものでした。もはや滅びるしかない自分が、なお新たに生かされる、つまり罪を赦されて新しくされる、その希望がかすかに示されたのです。彼はそのみ言葉に従ってダマスコに入り、そして「なすべきことが知らされる」のをひたすら待っていたのです。それが、あの三日間の、目が見えず、食べも飲みもしなかった間に彼がしていたことでしょう。11節には、主イエスがアナニアという弟子に現れ、サウロのもとを訪ねるようにお命じになったことが語られていますが、そこに、「今、彼は祈っている」とあります。サウロは今祈っている。その祈りは、詩編130編の詩人の祈りと重なると言えるでしょう。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と詩人は神様に語りかけています。そしてそれゆえに、「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして」と、主なる神様のみ言葉を待ち望んでいるのです。サウロはあの三日間、深い淵の底から、そのように主なる神様を呼び求め、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」と祈っていたのでしょう。

教会によって
 本日の個所は、そのように祈っているサウロのもとに、主イエスによってアナニアが遣わされ、それによってサウロがもう一度見えるようになり、主イエスを信じる者として、さらには宣べ伝える者として新しく立てられていったことを語っています。この10節以下と9節までとでは、大きく違っていることがあるのに気づかされます。9節までにおいては、主イエスが直接サウロに出会い、あるいは彼の前に立ち塞がって、語りかけておられます。ところが10節以下では、主イエスが語りかけておられるのはもはやサウロではなくてアナニアです。ここには、主イエスとサウロとの会話はありません。「あなたのなすべきこと」は主イエスから直接にではなく、アナニアを通して彼に知らされたのです。このアナニアは、ダマスコの町にいた主イエスの弟子、つまり信仰者です。既にダマスコにも、主イエスを信じる者たちの群れ、教会があって、アナニアはその一員だったのです。彼はそのダマスコ教会の代表として、サウロのもとに遣わされたのです。そして彼がしたことは、主イエスのみ言葉をサウロに伝え、彼の上に手を置いて、聖霊に満たされるように祈り、そして彼に洗礼を授けることでした。アナニアによってサウロは洗礼を受けて教会に加えられたのです。そこで行われているのは、教会の通常の営みです。み言葉を語り、手を置いて聖霊に満たされるように祈り、洗礼を授ける、それはまさに教会が日々していることであり、私たちの教会も同じことをしているのです。深い闇の中で祈っていたサウロは、教会の働きによって、主イエスの恵みのみ心を示され、罪の赦しにあずかる洗礼を受け、新しく歩み出したのです。彼の目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった、―「目からうろこが落ちる」という諺はここから来ているのですが―、そのことが起ったのは、アナニアが彼の上に手を置いて祈った時でした。つまり教会において、み言葉を語り祈る教会の営みの中で、彼の目は開かれたのです。サウロの回心は、このように、教会において実現したのです。その始まりは、主イエスご自身の直接的な働きかけでした。しかしその後は、主イエスは教会において、教会に連なる人を通して、間接的に彼に働きかけ、彼の罪を赦し、新しい使命をお与えになったのです。ここにも、サウロの回心が、彼個人の内面の変化ではないことが示されています。彼が一人で祈っている時に、主イエスから何かの示しがあり、それによって新しく生き始めたのではないのです。回心は、それによって与えられる信仰は、自分が一人でいろいろなことを思い巡らし、聖書を読み、神様のこと、主イエスのことを考えていくところに起るものではありません。それは教会において、教会の営み、その中心は礼拝ですが、そこにおいてこそ起るのです。「目からうろこが落ちる」ことを私たちが本当に体験するのは、教会の礼拝においてなのです。

熱心に生きるのではなく
 さて、目からうろこが落ちて、サウロは再び見えるようになりました。それはただ視力が戻ったという話ではありません。目からうろこが落ちることによって、人は変えられるのです。新しくなるのです。サウロはどのように変えられたのでしょうか。教会を迫害する者から教会の伝道者になった、それが目に見える変化です。しかしその表面的な変化のみを見ているのでは、ここでサウロに起った変化の本当の意味を見失うことになります。たとえば、それまでは教会を撲滅することこそが正しいことだと考え、それに情熱を注いでいたのが、教会の教えこそ真理であることに気付き、今度はそれを宣べ伝えることに情熱を傾けるようになった、などとこのことを理解するとしたら、サウロの回心について、肝心なことが何も分かっていないのです。サウロの回心は、単に情熱を注ぐ対象が変わったということではありません。自分の信念に基づいて情熱を注いで生きる、という彼の生き方そのものが変わったのです。教会を迫害していた時のサウロは、自分の信じるところに従って、熱心に、情熱を注いで生きていました。9章1節に、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」とありましたが、まさに彼は意気込んで、前の口語訳聖書の言葉で言えば「息をはずませて」いたのです。それはある意味で大変活気のある、元気のよい、熱心な歩みです。先々週も申しましたが、この彼の姿に疑いや躊躇はありません。彼はまさに神様に熱心に仕える思いで、教会を迫害していたのです。そのサウロが、主イエスとの出会いによって新しくされました。それは、今度は正反対のことを熱心にするようになったのではなくて、自分の熱心さによって生きるのをやめたのです。
 主イエスを信じるようになり、洗礼を受けた後の、19節後半からの彼の姿は、直ちにダマスコのあちこちのユダヤ人たちの会堂で、「イエスこそ神の子である」と宣べ伝え、イエスがメシア、即ち神様から遣わされた救い主であることを論証して、ダマスコのユダヤ人たちをうろたえさせた、とあるように、大変力強く、熱心に伝道をしています。迫害への熱心が伝道への熱心に入れ替わったようにも見えます。けれども、この二つの熱心さは、本質的に全く違うものなのです。サウロが主イエスを信じる者へと新しくされて洗礼を受け、さらに主イエスを宣べ伝える者となったのは、自分の熱心さからではありません。彼がそのようになったのは、主イエスがアナニアに語った15節のみ言葉によってなのです。主イエスはこう言われました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。アナニアは当然この主イエスのみ言葉をサウロに伝えたのです。サウロは、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らに、主イエスの名を伝えるために、主イエスご自身が選んだ器である。主イエスが、彼をそのように用いようとしておられるのです。「あなたのなすべきことが知らされる」と主イエスが言われた、そのなすべきこと、使命とはこれだったのです。この使命を主イエスから与えられたことによって、彼はあの深い闇の淵の底から身を起こし、新しく生き始めることができたのです。19節以下のサウロの熱心な伝道は、この主イエスの命令、主イエスが彼に与えた使命によることです。決して彼自身の熱心さ、信念にによることではありません。彼は、自分の信念に基づいて熱心に情熱を傾けて生きる者から、主イエスに与えられた使命に生きる者へと変えられたのです。

器として
 主イエスに与えられた使命に生きる彼の姿を端的に表わしているのが、15節の終わりにある、「器」という言葉です。異邦人や王たち、またイスラエルの子らにみ名を伝えるために、主イエスは彼を「器」として選ばれたのです。器は、それ自身に価値があったり、それ自身の意志で動いたりするものではありません。持ち主がそこに何を注ぐかによって、その価値は決まり、また用途も決まるのです。勿論世の中にはそのものが大変高価だったりする器もありますが、この場合のサウロは、主イエスを迫害していた者なのですから、むしろ打ち壊され、捨てられてしまっても仕方のない無価値な器です。しかし主イエスがそのサウロを用いて、み名を人々に告げ広めようとしておられるのです。サウロという器に、主イエスのみ名、神様の救いの恵みというまことに高価な宝を注ぎ、そのために用いて下さるのです。サウロは、主イエスに用いられる器になったのです。自分の信念に基づき、自分の主体性において、自分の熱心さによって生きる者から、主イエスに用いられる器になった、それがここでサウロに起ったことです。彼の目からうろこが落ちて、目が見えるようになって、新しく見えてきたのは、本当に神様に従って生きるとは、つまり本当の信仰とは、自分の信念によって熱心に生きることではなくて、神様の、主イエスの器として、用いられるままに生きることなのだという真理だったのです。19節以下の彼の熱心な伝道の姿の秘密はそこにあります。またそうでなければ、彼が相変わらず自分の信念への熱心さに生きていたのなら、このように突然正反対のことをしていくことは出来なかったでしょう。

苦しめる者から苦しむ者へ
 サウロの回心とは、主イエスとの出会いによって自分の信念に生きる歩みを打ち砕かれ、深い闇の淵の底に突き落とされたサウロが、教会において、主イエスのみ言葉を与えられ、彼の罪を赦し、新しい使命を与えて下さる主イエスの恵みを示されて、目からうろこが落ち、新しくされ、主イエスの器として派遣されたという出来事でした。彼が自分の熱心さに生きる者から、主イエスに用いられ、派遣される器に徹する者となったことによって、後の大伝道者パウロが誕生したのです。主イエスは16節で、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と言っておられます。サウロの、パウロの伝道者としての歩みは、主イエスのみ名のために多くの苦しみを受ける歩みでした。自分の熱心さによって生きていた時の彼は、苦しみを受けるのではなく、教会の人々を苦しめ、殺していたのです。しかし主イエスの器となった彼は、人を苦しめるのではなく、自分が苦しみを受ける者となりました。主イエスを信じ、従っていく信仰者になるとはこういうことです。教会において、目からうろこが落ちる体験を与えられるとき、私たちは、自分の信念を貫こうとする熱心が、たとえそれが神様に対する、信仰の熱心であっても、いかに人を苦しめ、傷つけるものであるかを示されるのです。新しくされたサウロは、それではもう信仰の信念を捨て、熱心に生きることをやめたのかというと決してそうではありません。大伝道者パウロは主イエスに対する信仰の節操を貫き通しました。しかし彼はそのことによって、人を苦しめ傷つけるのではなく、自分が苦しみを受けたのです。自分の熱心さは人を傷つけ、殺します。しかし主イエスの器となって生きるならば、そこでの熱心さは、自らに苦しみを引き受け、人を生かすものとなるのです。

アナニアの派遣
 サウロは主イエスの派遣によってこのように変えられ、新しく生かされました。同じことが、サウロのもとに派遣されたアナニアにも、また彼によって代表されるダマスコの教会にも起ったと言えるでしょう。主イエスが幻の中で語りかけ、サウロのところへ行って手を置き、目を見えるようにするようにお命じになった時、アナニアはそれに抵抗しました。13、14節。「しかし、アナニアは答えた。『主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています』」。その通りです。サウロは、主イエスの教会にとって、不倶戴天の敵なのです。せっかく打ちのめされ、目が見えなくなっているサウロを癒すなど、とんでもないことです。アナニアの気持ちはよく分かります。しかし主イエスは彼に、「行け」とお命じになるのです。彼をサウロのもとに派遣なさるのです。アナニアはその主イエスのみ言葉に従って出かけます。彼もまたここで、自分の思い、確信によって歩むことをやめ、主イエスの器となったのです。彼がもしここであくまでも自分の考えにこだわり、サウロのもとに行くのを拒んだならば、サウロの回心は完成せず、大伝道者パウロは生まれなかったかもしれません。そうしたら、世界の歴史は随分違ったものとなっていたでしょうし、今こうして私たちが、日本で、主イエス・キリストの父なる神様を礼拝することもできなかったかもしれません。アナニアが、そしてダマスコの教会が、自分の信念や考えによって生きるのでなく、主イエスに用いられる器となったことによって、主イエスのみ名が、その福音が、全世界に、私たちのところにまで、伝えられてきたと言えるのです。私たちが、教会が、主イエスから与えられた使命を、なすべきことを、しっかりと果たしていくために必要なのは、私たち一人一人が、自分の信念による熱心さに生きるのではなく、主イエスに用いていただく器となることです。その時に、主イエスは私たちを用いて大きなみ業を行って下さるのです。私たちはそれぞれ、まことにお祖末な、ちっぽけな、無価値な、ひびの入った器です。しかし主イエス・キリストが私たちを選んで、教会へと呼び集めて下さったのです。主イエスはどのような器をもお用いになることができます。器が自己主張をやめて器に徹していく時に、主イエスが私たちを豊かに用いて下さるのです。

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