ペンテコステ

愚かさと賢さ

「愚かさと賢さ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; ヨエル書 第3章1-5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第1章18-25節
・ 讃美歌 ; 343、54、356

 
聖霊の働き
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生し、伝道が開始されたことを記念する日です。本日読まれた旧約聖書の箇所、ヨエル書第3章はそのペンテコステの出来事の預言です。神様の霊が注がれ、人々が預言をするようになる、それは、神様のみ言葉を語り伝えるようになる、ということです。そのようにして、「主の御名を呼ぶ者」の群れである教会が生まれ、神様の救いにあずかる民が興されていく。この預言が、使徒言行録第2章に語られているペンテコステの出来事において実現しました。その時以来、聖霊が教会を生かし、導き続けて下さっています。私たちのこの礼拝にも、同じ聖霊が働いておられるのです。この聖霊のお働きを覚えるペンテコステの礼拝において、特別な聖書箇所を選ぼうかとも思いましたが、考えた末、今読み進めているコリントの信徒への手紙一の続きを読むことにしました。この箇所と、ペンテコステの出来事とがどのように結びつくのか、最後まで聞いていただくことによってそれが分かっていくことを願っています。

説教は愚かなこと
 本日の説教の題を「愚かさと賢さ」としました。ここには、「愚かな」という言葉と、「賢い」あるいは「知恵」という言葉が繰り返し出てきます。愚かさと賢さあるいは知恵が見比べられているのです。その愚かさは、21節に「宣教という愚かな手段」とあるように、宣教ということにおいて現れています。宣教とは、教えを宣べ伝えること、つまり今私がしている説教を中心とする教会の中心的営みのことです。説教は愚かなことだとパウロは言っているのです。私も時々そう感じます。私たち牧師や伝道師は、毎週日曜日の礼拝で説教をします。それが私たちの最も大事な仕事です。でも、私たちがこのようなお話を三十分かそこらしたところで、世の中何かが変わるわけではありません。これは虚しい、愚かなことなのではないか、と思わされることがあるのです。聖書はそれに対して、いやそんなことはない、お前のしていることは尊い、立派なことだと慰めてくれるかと思ったら、本当にそれは愚かなことだと書いてある。神様がそういう愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのだ、と言っている。25節には「神の愚かさ」とすら書いてある。つまり聖書は、神様は愚かな方だとすら言っているのです。神様が愚かなんだから、神様に仕えるお前が愚かなことをしているのも仕方がないと思ってあきらめろ、ということでしょうか。

十字架につけられたキリスト
 「宣教は愚かなことだ」ということについて、もっとよく考えてみなければなりません。「宣教という愚かな手段」と21節にありましたが、「手段」という言葉は原文にはありません。直訳すると、「宣教の愚かさによって」です。宣教、説教という手段が愚かだと言っているのではなくて、愚かなのはむしろそこで語られている内容です。何が語られているのか、それが23節に示されています。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」。「十字架につけられたキリスト」、これこそパウロが語り、教会が宣べ伝えている宣教、説教の内容です。それが愚かなことなのです。教会の宣教、説教は、聖書の説き明かしですが、それは聖書の言葉の単なる説明や解説ではありません。イエス・キリストのことを宣べ伝え、証ししているのです。しかもそのイエス・キリストを、立派な教えを説いた昔の一人の偉人として見つめ、その教えを学ぼうとしているのではありません。教会はイエス・キリストを、私たちのために十字架につけられた方として見つめ、そのキリストを神の子、救い主と宣べ伝えているのです。しかし十字架は極悪人を死刑に処する道具です。しかも当時のローマ帝国においては、最も身分の低い、奴隷などを処刑する時にのみ用いられたものでした。当時の人々にとって十字架は、見るも汚らわしいものだったのです。その十字架につけられて殺されたイエスを、キリスト、つまり救い主と信じ、宣べ伝える、それが教会の宣教、説教の内容なのです。それはまことに愚かなことだと言わなければならないでしょう。十字架につけられた者の話など、誰が喜んで聞くでしょうか。その人こそ神の子、救い主だなどということを誰が信じるでしょうか。多くの人を集め、信じさせようとするなら、もう少し見栄えのする、喜んで聞けるような話をした方がいい、と誰もが思うのです。

ユダヤ人とギリシャ人
 この「十字架につけられたキリスト」の愚かさをさらに詳しく述べているのが23節後半です。そこには、十字架につけられたキリストは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」と言われています。ユダヤ人も異邦人も、どちらも十字架につけられたキリストを愚かなこととして受け入れようとしないのです。しかしそこで感じられている「愚かさ」はユダヤ人と異邦人とでは違っています。ユダヤ人はそれを「つまずかせるもの」と感じ、異邦人は「愚かなもの」と感じているのです。その違いの原因が22節にあります。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが」というのがそれです。異邦人とは、本来はユダヤ人以外の全ての人々のことを意味する言葉ですが、ここではギリシャ人のことです。この手紙が宛てられたコリントの町はギリシャにあり、その町にいたユダヤ人のみならず、多くのギリシャ人たちに、十字架につけられたキリストが宣べ伝えられていたのです。どちらの人々もなかなかキリストを信じようとはしません。しかしその理由は異なっているのです。ユダヤ人は、しるしを求めるがゆえに、十字架につけられたキリストを受け入れないのです。しるしとは、目に見える証拠です。イエスがキリスト、つまり神様が遣わして下さる救い主である証拠をはっきり示せとユダヤ人たちは求めるのです。これは、科学的な証明を求めているということではありません。ユダヤ人たちは、自分たちが神様に選ばれた神の民であるという誇りと自負を強く持っていました。その誇りを支えていたしるしは、旧約聖書の教えに従って、割礼という儀式を体に受けていることと、神様から与えられた掟である律法を守っていることです。それらのことによって自分たちが神様の民であると誇っているユダヤ人たちにとって、イエスが救い主キリストであるしるしとは、自分たちが受け継いでいるユダヤ的伝統を尊重し、律法を守っているか、ということです。つまり、自分たちが神の民である誇りの拠り所としている基準に主イエスが従っているなら、救い主と認めてやろう、と言っているのです。そのような彼らの思いからすれば、十字架につけられたイエスは、惨めな失敗者でしかありません。旧約聖書には、「木にかけられた者は神に呪われている」という言葉があるのです。ですから、十字架につけられて殺された者が救い主であるはずはないのです。それゆえにユダヤ人たちは十字架につけられたキリストにつまずいたのです。  他方異邦人、ギリシャ人は、知恵を求めています。古代ギリシャには多くの思想家が生まれ、哲学の基礎が彼らによって据えられました。哲学は英語でフィロソフィーですが、フィルは愛する、ソフィーは知恵という意味です。知恵を愛する、それが哲学の基本であり、古代ギリシャ人の基本的性格だったのです。そのように知恵を愛し、求めている人々は、十字架につけられて死刑になったキリストに何の魅力も感じません。主イエスの教え、例えば「敵を愛せよ」とか「自分がして欲しいと思うことを人にもしなさい」といった教えを守って生きていこう、ということなら彼らも「それは立派な、知恵ある教えだ」と聞く耳を持ったかもしれません。しかし十字架につけられたキリストには、知恵を求める思いを満足させるものは何もないのです。それはまさに愚かなことでしかないのです。

十字架を拒む
 ユダヤ人とギリシャ人はこのように違った理由で、しかし共通して十字架につけられたキリストを拒んでいます。ユダヤ人でもギリシャ人でもない日本人である私たちはどうでしょうか。私たちはこの両方の思いを持っているのではないでしょうか。私たちは一方でギリシャ人のように知恵を求めています。キリストの教えに人生を歩むための知恵を求めて聖書を読む人は多いのです。しかしそのような人が感じるのは、「キリストの教えは好きだが、奇跡の話には疑問を感じる、そして教会では十字架が強調されて、それが私たちのためだとか言われるのにはちょっと閉口する。まして、復活などと言われるともうとてもついて行けない」ということです。十字架につけられて殺され、そして復活したキリストなど、愚かなもの、信じるに値しないものに思われるのです。私たちはもう一方でユダヤ人と同じようにしるしを求めてもいます。信じる決断をするためには、はっきりとしたしるし、証拠が欲しいと思うのです。その証拠とは、自分が納得できる理由や根拠のことです。納得できなければ信じることはできない、と思うのです。それはある意味当然のことで、納得できなくてもただ信じるのでは、いわゆる「鰯の頭も信心から」という世界になってしまいます。けれども、先ほどユダヤ人がしるしを求めるとはどういうことか、というところで申しましたことをもよく考えなければなりません。納得できる理由を求めるというのは実は、自分の思いに適っていることを求める、ということである場合が多いのです。自分が考えていること、常識としていること、あるいはこうあるべきだと思っている主張が前提としてあって、神がそれに適っているなら納得できるから信じてやろう、という姿勢です。これは実は神様を信じる姿勢ではなくて、人間が神を判定し、合格とか不合格と決める支配者になっている、ということはちょっと考えれば分かることです。つまり、神が神であるなら納得できる証拠を示せ、という姿勢は、信仰を求めるのには相応しくない姿勢なのです。

愚かになった神
 少し横道にそれましたが、私たちは皆、時にはユダヤ人のように思い、時にはギリシャ人のように思いつつ、いずれにせよ十字架につけられたキリストを拒んでいるのではないでしょうか。しかし神様は、十字架につけられたキリストの愚かさによって、信じる者を救おうと決意されたのです。そのみ心によって、神様の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って、見るも汚らわしい十字架の死刑を受けて下さったのです。「木にかけられた者は神に呪われている」と旧約聖書にあると先ほど申しました。それは、死刑に処せられた罪人は神に呪われているということです。神様の独り子が、その罪人の受けるべき呪いを、私たちに代って引き受けて下さったのです。つまり十字架につけられたキリストは、神様が、私たち罪人を救うために、徹底的に愚かになって下さった、そのお姿なのです。「宣教の愚かさによって」とはそういうことです。神様はそのようにして、罪人である私たちを救おうと決意して下さったのです。21節には、神様がそのように「お考えになったのです」とありますが、この言葉は、「喜んでそうする」という意味の言葉です。昔の文語訳聖書はここを「この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救うを善しとし給へり」と訳していました。つまり神様は、十字架につけられたキリストの愚かさによって私たち罪人を救うことを、喜んでして下さったのです。喜んで、ご自分から、徹底的に愚かになって下さったのです。それが主イエス・キリストの十字架の死の意味なのです。

賢くなりたい私たち
 神様はこのように、愚かになることによって私たちを救おうとして下さっています。ところが私たちはそのことにつまずき、愚かなことを拒もうとしています。何故そんなことになるのか。それは、私たちが、しるしを求めているからです。言い換えれば、自分の思いや感覚や主張にあくまでもこだわり、自分が納得できるなら、つまり神が自分の思いに適っているなら信じてやろう、という姿勢でいるからです。そしてその自分の思いというのは、より賢く、知恵のある者となりたいという思いですから、それは知恵を求めているということでもあります。しるしと知恵を求める思い、ユダヤ人とギリシャ人の思いは、全ての人間が共通に抱いている思いであり、それは一言で言えば、愚かさから賢さへと上昇していこうとする思いです。創世記11章にあるあのバベルの塔の物語は、人間のそういう思いを描いています。天にまで届く塔を建てようとしたのです。しかしあのバベルの塔がの建設は、人々の言葉が乱れ、お互いの言葉が通じなくなってしまうことの原因となりました。上へ上へと上昇しようとする思いによって、どちらがより上か、という競争が起り、人と人との関係が破れていくのです。一致が失われ、様々な対立や争いが起っていくのです。パウロは、先週読んだ10節以下のところにあったように、コリント教会の中に起っている党派争い、対立の事態を頭に置きながらこの手紙を書いています。その争いの原因をパウロはここに見ているのです。あなたがたの間に争いがあるのは、あなたがたがしるしと知恵を求め、より賢くなろう、より立派になろう、より上昇して高くなろうとしていることに原因があるのだ、しかしそのように愚かさから賢さへと上昇しようとするところに、本当の救いはないのだ、とパウロは言っているのです。

本当の救い
 私たちの本当の救いはどこにあるのでしょうか。それは、私たちがより高い者、立派な、知恵ある、賢い者となるところにではなくて、神様が、独り子イエス・キリストにおいて、罪人である私たちのところに降りてきて下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったところにこそあるのです。それは私たちの目にはまことに愚かな、見栄えのしないことに思われます。それは十字架の死がグロテスクで見るも汚らわしいというよりも、そこにこそ救いがあると受け入れるなら、自分が本当はあの十字架につけられなければならない罪人であると認めることになるからです。誰もそんなことを認めたくはありません。そうではなくて、自分がより高く、立派になり、知恵ある者となることによって救いを得る、という方がずっと好ましいことに思えるのです。それは私たちの誰もが抜きがたく持っているプライドによることです。人間プライドを満足させられることほど喜ばしいことはないし、逆にプライドを傷つけられるほど嫌いなことはないのです。だから人々を引き付け集める宗教を興そうと思ったら、そういう人間のプライドをくすぐって、ここへ来ればより賢く、高く、立派になれますよ、と教えていけばよいのです。いや私たちは既に主イエス・キリストをも、そのような救い主として捉えてしまっているのかもしれません。主イエスの教えによって自分がより賢い、立派な者になることができる、と期待しているかもしれません。しかしそれは聖書の教えではありません。聖書は、私たちが愚かさから抜け出して少しずつ知恵を身につけ、より高く立派な者になっていくことで救いを得ることができる、とは言っていないのです。そうではなくて、私たちは十字架につけられて死ななければならない罪人であり、自分の力で救いを得ることはできないのだ、と言っているのです。そして、その私たちの、自分ではどうすることもできない罪を、神様の独り子イエス・キリストが全て担って十字架にかかって死んで下さった、そこに神様による赦しの恵み、救いがある、と教えているのです。それが教会の宣教の言葉なのです。
 聖書が語り、教会が宣べ伝えているこの宣教の言葉が、18節では「十字架の言葉」と言われています。そしてそれは「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言われています。これは、人間はもともと救われる者と滅びる者の二種類に分けられている、ということを語っているのではなくて、「十字架の言葉」が語られる時に、それを愚かなものとして退けるか、それともそこに神様の救いの力を見るか、ということによって、私たちの間に救われる者と滅びる者の区別が生じるのです。救われる者は、滅びる者よりも賢い、立派な、知恵ある者なのではありません。そうではなくて、自分が本来十字架にかかって死ななければならない罪人であることを認め、キリストの十字架の死によってその罪が担われ、赦されたことを信じ受け入れる者が、救われる者なのです。けれどもそれは、私たちの信仰の決断によって救われる者と滅びる者とが分けられる、ということではありません。24節には、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」とあります。「救われる者」がここでは「召された者」と言い替えられているのです。私たちは、自分で救いを獲得するのではありません。神様が私たちを選び、救いへと召して下さることによってこそ救いにあずかることができるのです。愚かな、見栄えのしない十字架につけられたキリストこそ、私たちのために神様が遣わして下さった救い主だと信じることができるのは、神様が私たちをご自分のもとへと召して下さっているからなのです。この神様の召しを私たちの間で実現して下さるのが、聖霊です。私たちが、十字架の言葉を信じ、十字架につけられたキリストこそ私たちに救いを与える神の力、神の知恵であることを受け入れる時、そこには、聖霊が働いて下さっているのです。
 ペンテコステに弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が生まれ、伝道が始まりました。それは、弟子たちが聖霊によって十字架の言葉を語り始めたということです。十字架につけられたキリストを宣べ伝える宣教の愚かさによって、信じて救いにあずかる者を神様が聖霊によって召し集め、その群れをこの世に立てて下さったということです。その聖霊は今日に至るまで教会を導き、今この礼拝においても、私たちに働きかけていて下さいます。聖霊の導きの下で私たちは、十字架の言葉にこそ、神様の救いの力があることを知らされていくのです。この聖霊に導かれる私たちの歩みは、しるしと知恵を求めて、自らがより高く、賢く、立派になっていこうとする歩みではあり得ません。21節に「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。」とあるように、人間の知恵や賢さは、神様を、その救いの恵みを捉えることはできないのです。むしろ私たちの目にはまことに愚かなことに見える、十字架につけられたキリストにこそ、私たちを本当に救い、恵みの下に生かすことができる神様の力、神様の知恵があるのです。そのことを私たちに分からせ、示して下さるのが聖霊です。この聖霊の働きを受けることによって私たちは、より賢く、より立派な者へと上昇していこうとするプライドから、即ち罪から、解放されるのです。対立や争いの問題の解決はそこにこそ与えられます。コリント教会にとって最も必要だったのは、聖霊のお働きによって、十字架につけられたキリストを示され、そのキリストこそ神の力、神の知恵であることを知らされ、神の愚かさは人の知恵よりもはるかに賢く、神の弱さは人の力よりもはるかに強いことを体験させられることだったのです。そしてそれは、私たちにおいても最も必要なことです。私たちもそのことによってこそ、プライド、誇り、高ぶりから解放されて、お互いがお互いの賜物を認め合い、いろいろな違いを持ちつつ一つに結び合う本当によい交わりを築いていくことができるのです。聖霊によって教会が生かされ、導かれるとはそういうことなのです。

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