「見ないで信じる者の幸い」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第20章24-29節
・ 讃美歌:
主イエスの復活を信じないトマス
本日ご一緒に読むヨハネによる福音書第20章24節以下には、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」が出て来ます。この人はこの福音書に既に何度か登場しています。11章16節には、主イエスが、病気で死んだラザロのもとに行こうとされた時、トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったことが語られていました。ラザロはエルサレムに近いベタニアに住んでいましたが、そこへ行くことは、主イエスを殺そうとしている人々のただ中に出向くような危険なことだったのです。しかしトマスは、我々も主イエスと行動を共にし、一緒に死のうではないか、と言ったのです。また14章5節には、主イエスが、「わたしは父のもとに行って、あなたがたのための場所を用意してから、戻って来てあなたがたを迎える」とおっしゃった時に、トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言ったとあります。これらのことから、このトマスという人は、とても熱心に、熱情を込めて忠実に主イエスに従おうとしていたけれども、同時に、納得できないこと、分からないことを曖昧にせずに、分からないことは分からないとはっきり言う人だったことが分かります。そういう彼の性格が本日の箇所にも現れています。
彼は十二人の弟子の一人でしたが、先週読んだ13節以下の、イースターの日の夕方に弟子たちが集まっていたところに復活した主イエスが来られ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さった時に、その場にいませんでした。復活した主イエスと会うことができなかったのです。他の弟子たちは彼に「わたしたちは主を見た」と言いました。ここで使われている言葉の形は、何度も繰り返し言ったことを意味しています。しかしトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。自分がこの目で見て納得できないことは信じない、という彼の性格がここに現れています。他の弟子たちの言葉を聞いても、彼は主イエスの復活を信じなかったのです。
翌週の日曜日に
「さて八日の後」と26節にあります。八日の後とは、足掛け八日目ということで、主イエスが復活した日は週の初めの日、日曜日だったと19節にありましたが、その日から足掛け八日目ということは次の日曜日のことです。つまり私たちは先週の日曜日にイースターの日曜日の出来事を聞いたわけですが、その一週間後の日曜日の出来事を、一週間後の日曜日である今日聞くのです。「弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」とあります。この日はトマスも他の弟子たちと一緒にいました。そこに、主イエスが再び現れたのです。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。先週と同じく、弟子たちは戸に鍵をかけていました。先週の所には、それは「ユダヤ人を恐れて」のことだったと語られていました。恐れて部屋の中に閉じ籠っていた弟子たちのところに、復活して生きておられる主イエスが来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったのです。主イエスは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言って、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。復活した主イエスによって彼らは神の祝福を受け、聖霊を与えられ、恐れから解放されて、主イエスの十字架と復活による罪の赦しを宣べ伝える者として人々のもとへと遣わされたのです。それが先週の出来事でした。その彼らが、一週間後に再び戸に鍵をかけて部屋の中に閉じ籠っているというのは変だなと思います。このことは、トマスの心を象徴的に表しているのでしょう。トマスは、一週間前の他の弟子たちと同じように、心の戸を閉ざして閉じ籠っているのです。マグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と言っても彼らが信じなかったように、トマスも、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても信じないのです。
礼拝の縮図
そのように、主イエスの復活を信じない、納得できない、分からない、と言っているトマスが、この主の日、他の弟子たちと共にこの部屋にいました。このことがとても大事です。ここに、主の日の教会の姿があります。彼らが集まっていたこの部屋は、今私たちが守っている礼拝の縮図です。礼拝には、主イエスを救い主と信じており、復活して生きておられる主イエスと出会い、主イエスが目には見えないけれども聖霊のお働きによって共にいて下さることを体験している人たちが勿論います。しかし同時に、主イエスを信じたい、信仰を得たいと思ってはいるけれども、あるいは聖書の教えやその信仰に興味や関心はあるけれども、信じることはできない、納得できない、分からない、と思っている人もいます。それでいいのです。それが教会の礼拝です。そのようにいろいろな人が共に集まっているところに、復活した主イエスが来て下さり、真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。復活した主イエスとの出会いがそこで起るのです。このことから、既に信仰を与えられ、教会のメンバーとなっている者たちが心得ておかなければならないことが見えてきます。つまり私たちは、この礼拝の場に、主イエスを信じることができない、納得できない、理解できない、と思っている人々を喜んで迎え入れて、共に礼拝を守らなければならない、ということです。弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と繰り返し語りかけ、主の復活を証ししました。しかしそれを頑なに信じようとしないトマスを彼らは仲間外れにしたり、群れから追い出したりせずに、共に集まり、共に祈っていたのです。その群れの真ん中に、主イエスが来て下さり、主イエスご自身が語りかけて下さることによって、信じない者が信じる者へと変えられていったのです。
トマス一人に向けて
再び弟子たちの真ん中に来て下さった主イエスは、先週と同じく、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいました。先週と同じく、神の祝福を告げて下さったのです。そして今回主イエスはもっぱらトマスに語りかけて下さいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。先週のところには、主イエスは「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、「手とわき腹をお見せになった」とありました。今週もそれと同じことをなさったのです。トマスに、手の釘跡とわき腹の傷をお見せになって、ここに触って確かめてごらん、とおっしゃったのです。先週申しましたように、主イエスの手とわき腹の傷は、弟子たちが主イエスに従い通すことができず逃げてしまった中で、主イエスが十字架につけられて死んだ、その傷です。トマスも、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」などと言っていたのに、結局逃げてしまったのです。だからその傷跡は弟子たちの、またトマス自身の罪をはっきりと示しています。復活した主イエスは、その彼らに「平和があるように」と語りかけて、彼らの罪を赦し、神の祝福を与えて下さるのです。その恵みを主イエスはこの日、トマスに、トマス一人に向けて語りかけ、与えて下さったのです。しかも、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」というみ言葉は、トマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていたこととぴったり重なります。あなたは、こうしなければ信じないと言っている、その通りにしてごらん、納得できるまで確かめてごらん、と主イエスは語りかけておられるのです。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい
この主イエスの語りかけに答えてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。主イエスが復活して生きておられること、その主イエスこそ自分の主であり、自分の神であると彼は信じて、その信仰を告白したのです。トマスは、主イエスの手の釘跡とわき腹の傷に触って確かめたから信じたのではありません。触らなくてもその傷を見たから信じたのでもありません。主イエスがこのように語りかけて下さったことによって彼は信じたのです。主イエスは手とわき腹の傷跡に触ってごらんとおっしゃいました。でもそれは、ほらここに動かぬ証拠があるではないか、私の復活は否定しようのない事実なのだ、と彼を追い詰めて信じさせようとしておられるのではありません。トマスが主イエスのお言葉から聞き取ったのは、自分が納得できない、分からないと言っているその思いを主イエスが受け止めて下さり、それに答えようとして下さっていることです。頑なに信じようとしない自分の固く閉ざした心の扉を主イエスが叩き続けて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さっていることです。トマスはそこに、疑い深い自分を主イエスが深く愛して下さっており、その自分を見捨てることも置き去りにすることも決してなさらないという恵みを感じ取ったのです。そのように自分を愛して下さっている主イエスが、生きて自分と出会い、語りかけて下さっていることを体験したのです。それによって彼は「信じる者」となり、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。つまりトマスの頑なな心を動かしたのは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主イエスの語りかけだったのです。
礼拝において起ること
礼拝というのは、そういうことが起る場です。ここにはいろいろな人が集まっています。イエス・キリストが神の独り子であり救い主であるということがなかなか信じられない、どうもよく分からない、納得できない、と感じている人もいます。あるいはトマスのように主イエスの弟子として、つまり信仰者として主イエスに従って歩んできたけれども、主イエスが復活して生きておられることが信じられない、周りの信仰者たちが「わたしたちは主を見た」と証をしても、それを信じて受け入れることができない、という人もいるでしょう。それでいいのです。そういう疑いや、納得できない思いがあることを後ろめたく思う必要はないし、隠す必要もありません。そういう思いを抱きつつ、でもこの礼拝の場に身を置いていることが大事なのです。そこに既に神の招きがあります。この礼拝の場に身を置き続けることによって、生きておられる主イエスが、戸を閉ざし鍵をかけている私たちの心の真ん中に来て下さり、「あなたがたに平和があるように」と神の祝福を告げて下さり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さるのです。その時私たちは、多くの人々が集っている礼拝の中で、主イエスがこの自分に、自分一人に向けて語りかけて下さっていることを体験します。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と主イエスが自分に語っておられるみ声を聞くのです。そのみ声に私たちも、「わたしの主、わたしの神よ」と応えていくのです。「イエスさまあなたこそわたしの主です。わたしの神です。わたしはあなたを信じます」という信仰の告白が、心の内に沸き上がってくるのです。
わたしを見たから信じたのか
29節で主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。このお言葉は一見、トマスのことを責めているように感じられます。「あなたは私があなたの前にこうして現れ、わたしの姿を見たのでようやく信じた。でも本当は、私の姿を見ないで、他の弟子たちの証しを聞いただけで信じるべきだったのだ。見て信じたあなたよりも、そのように見ないで信じる人の方が幸いなのだ」と言っておられるように感じるのです。しかし、このお言葉をそのように理解することは間違いです。そもそも、他の弟子たちだって、主イエスのお姿を見るまで信じなかったのです。マグダラのマリアの「わたしは主を見ました」という証しを受け入れなかったのです。彼らは、主イエスが現れて下さったことによって、主を見て信じたのです。だから彼らの証しも「わたしたちは主を見た」でした。遡ればマグダラのマリアも、主イエスが現れて「マリア」と語りかけて下さったことによって初めて信じたのです。そして「わたしは主を見ました」と弟子たちに証ししたのです。つまりこれらの人たちは皆「わたしを見たから信じた」人たちです。トマスだけがそうなのではありません。トマスも含めたこの人々が、復活した主イエスと直接出会い、そのお姿を見て主イエスを信じ、そしてその信仰をこのように証ししていったのです。「私たちは主イエスに従い通すことができず、主を見捨てて逃げ去ってしまった。主イエスを『知らない』と言ってしまった者もいる。主イエスはその私たちの罪を背負って、十字架にかかって死なれた。しかし父なる神はその主イエスを復活させて下さった。私たちは、再び主イエスの前に立つことなどとうてい出来ない罪深い者なのに、復活して生きておられる主イエスが私たちの真ん中に来て下さり、『あなたがたに平和があるように』と語りかけて、私たちの罪を赦して下さり、神の祝福で満たして下さった。そして私たちに息を吹きかけて聖霊を与えて下さり、主イエスの証人として遣わして下さった」。このように彼らは証しをしていったのです。復活した主イエスを見て信じた人々のこの証しによって、主イエス・キリストによる救いが宣べ伝えられていったのです。ヨハネ福音書全体が、主イエスを見て信じた人の証しとして書かれています。そのことが分かるのは、例えば19章の35節です。ここは主イエスの十字架の死の場面ですが、35節にこう語られています。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」。これはこの福音書全体を貫いている著者の思いです。彼は主イエスによる救いの出来事を目撃した者として、それを証ししているのです。その証しを読む人が、主イエスを信じるようになるためです。
見ないのに信じる人
ここに、主イエスを見て信じた人たちの証しによって主イエスを信じるようになる者たちのことが見つめられています。その人たちは、主イエスのお姿を見てはいません。復活した主イエスは父なる神のもとに上られたので、それ以降、地上を生きる者たちは主イエスのお姿をこの目で見ることはできないのです。その人々は、主イエスを見た人々の証しにを聞くことによって、主イエスをこの目で見ることなしに信じて生きていくのです。その人々のために主イエスが祈って下さったことが17章20節以下に語られていました。17章20節には「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。「彼ら」とは、主イエスがこの世に残していく弟子たちです。主イエスを見て、信じた人々です。彼らの言葉、証しによって主イエスを信じる人々、つまり教会のために主イエスは祈って下さったのです。教会は、主イエスのお姿をこの目で見てはいないけれども、復活した主イエスを見て信じた使徒たちの、「わたしたちは主を見た」という証しを聞いて、信じて生きる群れです。「見ないのに信じる人」とはこの教会の人々のことです。つまりそれは私たちのことです。私たちは、主イエスのお姿をこの目で見たから信じているのではなくて、礼拝において、使徒たちの証しの言葉である聖書を読み、その説き明かしである説教を聞くことを通して、見ないのに信じているのです。その私たちは幸いだ、と主イエスはここでおっしゃったのです。
見ないで信じる者の幸い
私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないのは幸いではない、と思いがちです。彼ら弟子たちのように、復活した主イエスが目の前に現れて下さり、手とわき腹を見せて語りかけて下さったらどんなに幸いだろう、と思うのです。確かに、そのように主イエスと出会い「わたしは主を見た」と証しをした彼ら使徒たちは幸いです。しかし、同じ幸いが私たちにも与えられているのです。私たちは礼拝において、使徒たちの証しである聖書のみ言葉を聞いています。そのみ言葉は、神の私たちへの深い愛を証ししています。この福音書の3章16節がその代表です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神の独り子でありまことの神である主イエスが、人となってこの世を生きて下さったのです。そして私たちの罪を全て背負って「世の罪を取り除く神の小羊」として十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって、神は私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さっています。そのことを証ししているみ言葉を私たちは礼拝において聞いているのです。なかなか信じられないかもしれません。納得できない、分からない、と思うことも多いでしょう。でもその礼拝の場に身を置き続けることによって、復活して生きておられる主イエスが来て下さり、私たち一人ひとりに、「あなたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さるのです。そのみ声を聞くことによって私たちも、主イエスを見ないで信じる者の幸いに生きることができるのです。