「主イエスによるとりなし」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第62編2-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第17章6-19節
・ 讃美歌:
弟子たちのための祈り
最後の晩餐における長い説教の最後に、主イエスは祈られました。その祈りがヨハネによる福音書17章です。この祈りは三つの部分に分けられると先週お話ししました。第一の部分は、先週読んだ1?5節です。そこで主イエスは、ご自分に栄光を与えてください、と祈られました。しかしそれは主イエスご自身のための祈りではありません。主イエスが栄光をお受けになることによってこそ、私たちの救いが実現するのです。つまり主イエスは私たちの救いのためにこれを祈って下さったのです。
祈りの第二の部分が、本日読む6?19節です。ここは弟子たちのための祈りだと先週申しました。9節に「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」とあります。「彼ら」とは主イエスの弟子たちのことですが、ここで「彼ら」弟子たちのことが、「わたしに与えてくださった人々」と言い換えられています。そのことは本日の箇所の最初の6節にも語られています。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」。つまり「彼ら」弟子たちとは、父なる神が世から選び出して主イエスに与えて下さった人々なのです。その人々に、主イエスは父なる神の御名を現しました。彼らはそれによって父なる神を信じるようになったのです。「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」とも語られています。元々父なる神のものであった彼らを、父が主イエスに与えて下さったのです。それで彼らは、主イエスのもの、主イエスに従って共に歩む弟子となったのです。その弟子たちのために、主イエスは祈って下さったのです。
御言葉を守った
「彼らは、御言葉を守りました」と6節の終わりにあります。その意味を語っているのが7、8節だと言えるでしょう。7、8節に「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」と語られています。父なる神が与えて下さった弟子たちに、主イエスは父から受けたみ言葉を伝え、彼らはそれを受け入れたのです。そして、主イエスが父なる神のみもとから出て来た独り子であり、父から遣わされた救い主であることを信じたのです。それが「彼らは、御言葉を守りました」ということの意味です。御言葉を守ったというのは、倫理道徳の教えを守り行ったということではなくて、主イエスがお語りになった神の言葉を受け入れ、主イエスを神の子、救い主と信じたということなのです。主イエスの言葉を聞いて、父なる神を信じ、主イエスが父から遣わされた独り子、救い主であると信じた者たち、それが弟子たちです。
主イエスのものとされた私たち
私たちも、礼拝において、聖書を通して主イエスのみ言葉を聞いて、父なる神が独り子主イエスによって与えて下さった救いを信じています。つまり私たち信仰者も主イエスの弟子です。本日の箇所の「彼ら」ということろに私たちは自分のことを当てはめて読むことができるのです。ですから主イエスのこの祈りは、私たちのための祈りでもあります。そしてさらに言えるのは、私たちも、父なる神が世から選び出して主イエスに与えて下さった者たちなのだということです。私たちは元々、父なる神のものでした。父なる神が私たちに命を与え、生かして下さっているのであって、私たちの人生は父なる神のみ手の中にあるのです。ところが私たちはそのことを見失って、自分の人生の主人は自分だと錯覚し、自分の思い通りに生きようとしています。世の人々は誰もが皆そういう罪の中にいるわけですが、父なる神は世の多くの人々の中から私たちを選び出して主イエスに与え、主イエスのものとして下さいました。主イエスのものとされたことによって私たちは、父なる神によって生かされている本来の自分を回復することができたのです。そこに、私たちへの神の愛があり、救いがあります。その救いを喜び、感謝して生きることが私たちの信仰です。信仰とは、元々神のものだったのにそこから失われていた自分を、神が世から選び出して救い主イエス・キリストに与えて下さったことによって、ご自分のものとして取り戻し、恵みによって生きる者として下さった、そのことを喜び、感謝することなのです。その信仰に生きる私たちのために、主イエスは祈って下さったのです。
私たちによって栄光を受けて下さる
さて10節には「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。主イエスのものは全て父なる神のものであり、父なる神のものは全て主イエスのものである。そう言うことができるほどに、父なる神と独り子主イエスは一体なのです。そこに主イエスの神としての栄光が示されています。主イエスはその栄光を、彼らつまり弟子たちによって受けた、と言っておられるのです。弟子たちが、つまり私たちが、主イエスを神の子と信じ、父なる神から遣わされた主イエスによる救いを信じることによって、主イエスは神としての栄光をお受けになる、と言っておられるのです。主イエスが私たちによって栄光を受けるなどということは本当はあり得ません。私たちはむしろ罪によって主イエスの顔に泥を塗ってばかりいる者です。それなのにその私たちが主イエスを信じ、父なる神を信じて救いにあずかることによって、「わたしは彼らによって栄光を受ける」と主イエスは言って下さっている。救いの恵みをいただいて感謝するばかりの私たちの信仰を、主イエスはご自分の栄光を表すものとして喜びをもって受け止めて下さっている。それは主イエスの恵み以外の何ものでもありませんです。「わたしは彼らによって栄光を受けました」というお言葉は、主イエスの驚くべき恵みを語り示しているのです。
世に残る弟子たちのための祈り
11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とあります。ここに、主イエスが弟子たちのためにこの祈りを祈られた中心的なみ心が示されています。この祈りは、最後の晩餐において祈られました。この後主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられるのです。十字架の死と復活を経て、主イエスはこの世から父のもとに行こうとしておられるのです。それによって主イエスはもはや世にはおられなくなりますが、弟子たちは世に残ります。主イエスが父のもとに去った後、弟子たちは、主イエスが目に見えるお姿においてはおられなくなったこの世を生きていくのです。その彼らを守ってください、と主イエスは祈って下さったのです。16章までの、最後の晩餐における長い説教も、そういう思いで語られたものでした。主イエスはいよいよ、十字架と復活によって父なる神のもとに行こうとしておられる、弟子たちがそれによってもう主イエスのお姿を見ることができなくなる、その弟子たちが、目に見えない主イエスを信じて、主イエスというまことのぶどうの木に繋がっている枝として、豊かに実を結んでいくために、あの長い説教が語られ、その最後に主イエスは弟子たちのために祈って下さったのです。
弟子たちのもとを去るにあたって
12節で主イエスは、弟子たちとのこれまでの歩みを振り返っておられます。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」とあります。これまで主イエスと一緒にいた弟子たちは、主イエスによって保護されていたのです。「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」というのは、主イエスを裏切って去って行ったユダのことです。彼だけが、旧約聖書に預言されていたことの実現として滅びたのです。しかしそれは他の弟子たちはちゃんとしていたということではありません。彼らも皆、この後主イエスが捕らえられる時には逃げ去ってしまうのだし、ペトロに至っては三度、主イエスのことを「知らない」と言ってしまうのです。そのような弱さや罪を抱えている彼らを、主イエスが守って下さっていたので、彼らは滅びてしまうことなく、弟子であり続けることができたのです。弟子たちはこれまでそういう主イエスの守りの内にいました。しかし13節には「しかし、今、わたしはみもとに参ります」とあります。弟子たちを守っていた主イエスが父のみもとへ行ってしまうことによって、彼らはこれまでのように主イエスに直接守られて歩むことができなくなるのです。そのことに備えて主イエスは語り、祈っておられるのです。13節後半にはこうあります。「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。まだ世にいる間に、弟子たちと共にいる間に、彼らの内に主イエスご自身の喜びが満ちあふれるようになることを主イエスは願っておられるのです。その喜びによってこそ、弟子たちは支えられていくからです。主イエスをこの目で見ることができなくなり、主イエスによる守りが目に見える仕方では与えられなくなる弟子たちの歩みは、主イエスご自身の喜びが彼らの内にも満ちあふれることによって支えられていくのです。
主イエスの喜びが私たちの内に満ちあふれる
主イエスご自身の喜びとはどのようなものでしょうか。15章11節には、この13節とつながるみ言葉が語られていました。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。そしてこの箇所の前後に語られていたのは、父なる神が主イエスを愛しておられ、主イエスもその父の愛のもとに留まり、父のみ心を行っている、同じように主イエスも弟子たちを愛しておられ、弟子たちがその愛に留まり、主イエスのみ心を行うことを、具体的には、主イエスが彼らを愛したように、彼らも互いに愛し合うことを願っている、ということです。つまり主イエスご自身の喜びとは、父なる神に愛され、その愛に応えてご自分も父なる神を愛し、そのみ心に従って生きることなのです。そして主イエスご自身のこの喜びが、弟子たちの、そして私たちの内にも満たされることを主イエスは願っておられます。つまり私たちが、主イエスに愛され、それに応えて私たちも主イエスを愛し、主イエスのみ心に従って兄弟姉妹と互いに愛し合うことによって、主イエスの喜びが私たちの内にも満たされるのです。それは言い換えれば、父なる神と主イエスの思いが、愛において一つであるように、主イエスと私たちの思いが、愛において一つとなることです。先程は読みませんでしたが、11節の最後のところに「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とありました。それはこのことに繋がっています。主イエスと父なる神が、愛において一つであられる、そこに主イエスの喜びがあります。その愛を受けた私たちも、その愛に応えて、父なる神と主イエスを愛し、互いに愛し合うことにおいて一つとなることで、主イエスの喜びが私たちの内にも満ちあふれるのです。それは具体的には、この福音書の3章16節に語られていた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉に示されていた神の愛を私たちが受け、私たちも神を愛し、み心に従って兄弟姉妹と互いに愛し合って生きるということです。主イエスの喜びはそのようにして私たちの内にも満ちあふれるのです。この世を生きる私たちの信仰は、この喜びによってこそ支えられるのです。主イエスは弟子たちが、そして私たちが、その喜びによって生きる者となるために父なる神に祈り願って下さったのです。
世から取り去ることではなく
主イエスが父なる神のもとに行かれた後、弟子たちは、私たちは、この世でどのようなことを体験していくのか、それが14節に語られています。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」。主イエスによってみ言葉を伝えられた私たちは、神による救いにあずかり、主イエスのもの、神のものとなって歩みます。そのために、世に憎まれ、迫害されるということが起るのです。15章19節に「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と語られていた通りです。主イエスの弟子として、信仰者としてこの世を生きることにはそのような苦しみが伴うのです。その私たちのために主イエスは15節で「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と祈って下さいました。ここに、私たちが祈り願うべきことは何かが示されています。私たちが祈り願うべきことは、もはやこの世に属していない私たちをさっさとこの世から取り去ってあなたのみもとに行かせてください、ということではありません。私たちがこの世にしっかり踏み留まって、そこで神さまによって、具体的には聖霊なる神によってですが、悪い者から守られて歩むことをこそ主イエスは求めておられ、そのために父なる神に祈って下さっているのです。もはやこの世に属しておらず、神のもの、主イエスのものとされている私たちは、この世において苦しみを受けますが、その苦しみの中で、神に守られつつ、この世にしっかり踏み留まって生きていくことを、神は求めておられるのです。
世に遣わされた私たち
それは何のためなのでしょうか。そのことが16節以下に語られているのです。16節では「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」ということがもう一度確認されています。そして17節には、「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」とあります。弟子たちが、信仰者が、世に属しておらず、神のものとされている、それは彼らが「聖なる者」とされているということです。「聖なる者」というのは、神が選んでご自分のものとなさった者、ということです。神は私たちを選んで下さり、主イエスによって真理の御言葉を語りかけて下さり、私たちをご自分のもの、聖なる者として下さっているのです。それは何のためか。それが次の18節です。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」。父なる神が独り子主イエスをこの世にお遣わしになったように、主イエスも私たち信仰者を、この世にお遣わしになっているのです。父なる神が私たちを世から選び出して主イエスに与えてくださり、主イエスのものとして下さいました。主イエスはその私たちを、ご自分のもの、聖なる者として、救いのみ業のためにこの世にお遣わしになるのです。私たち信仰者は、主イエスによってこの世へと派遣されているのです。だから私たちは、この世にしっかり踏み留まり、主イエスに遣わされた者として生きるのです。
神にささげられた者
主イエスは、私たちを神のもの、聖なる者としてこの世に遣わすために、人間となってこの世を生き、十字架にかかって死んで下さいました。そのことを語っているのが19節です。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。主イエスは弟子たちのために、私たちのために、自分自身をささげて下さいました。それは十字架の苦しみと死を引き受けて下さったということです。主イエスは十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、復活によって、死を超えた永遠の命の先駆けとなって下さったのです。この救いのみ業のために主イエスがご自身をささげて下さったのは、私たちが「真理によってささげられた者」となるためです。真理とは、神の愛による救いの真理、神がその独り子を与えて下さったほどに私たちを愛して下さっているという神の愛の真理です。私たちがその神の愛によって生かされ、それに応えて私たちも神を愛し、み心に従って兄弟姉妹と互いに愛し合って生きていく、そのようにして神の愛の真理を証しし、伝えていくために私たちは世に遣わされるのです。「真理によってささげられた者となる」とはそういうことです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください」という主イエスの祈りはそのことを祈り求めているのです。真理によってささげられた者、即ち聖なる者とされてこの世を生きることには苦しみが伴います。でも既に自分自身をささげて十字架の苦しみと死を引き受け、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さり、私たちのために父なる神に祈り、支えて下さっているのです。
主イエスのとりなし
私たちがこの世を、信仰をもって、神に属する者として生きる歩みは、主イエスのこの祈りに支えられています。主イエスが私たちのために、父なる神に祈って下さっているのです。そのような祈りをとりなしの祈りと言います。17章全体が、主イエスによる私たちのためのとりなしの祈りです。この祈りが語られているのは、私たちの信仰の歩みが、私たち自身の善い行いや努力によってではなく、主イエスのとりなしによって支えられていることを示すためです。今私たちは、「コロナ禍」の中で何もできず、心が暗く沈みがちになっています、先の見えない不安が私たちを支配し、苦しめています。その私たちのために、復活して父なる神のもとに行かれた主イエスが、父なる神にとりなして下さり、支えて下さっているのです。