主日礼拝

聖霊による平和

「聖霊による平和」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章5-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第14章25-31節
・ 讃美歌:341、453

事が起こる前に
 ヨハネよる福音書第14章の終わりのところにきました。繰り返しお話していますが、この第14章は、祭司長やファリサイ派の人々によって捕えられる直前に主イエスが弟子たちと共になさったいわゆる「最後の晩餐」において語られたみ言葉です。主イエスはこの後捕えられ、翌日には十字架につけられて殺されるのです。主イエスがそのことをはっきりと意識しつつ語っておられることは、本日の箇所では29節、30節から分かります。29節に「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」とあります。「事が起こる」とは、主イエスの逮捕と十字架の死が現実となる、ということです。30節にはそのことが「世の支配者が来る」と言い替えられています。この世を支配し、権力を握っている人々によって主イエスは捕えられ、殺されようとしているのです。その事が起こったときに、弟子たちが信じるように、つまり主イエスを信じる信仰を失ってしまわないようにと、その事が起こる前に大切なことを話しておられる、それがこの14章なのです。

世の支配者
 この世の支配者たちによって主イエスは捕えられ、殺されようとしています。しかし30節の「世の支配者」は単数形です。「支配者たち」ではなくて、「この世を支配しているある者」と言われているのです。それは、主イエスを殺そうとしている人々の背後に働いている、悪魔、サタンのことでしょう。サタンが、この世の権力者たちを用いて、神の独り子である主イエスを滅ぼし、救いのみ業を妨害しようとしているのです。しかし主イエスは30節後半で、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」とおっしゃいました。サタンは人々を使って主イエスを十字架につけて殺そうとしていますが、それによって主イエスを滅ぼし、父なる神の救いのみ業を潰えさせることはできないのです。父なる神はサタンよりもはるかに強い力をもって、主イエスを死者の中から復活させ、ご自分のもとにお迎えになるのです。十字架の死と復活を経て、主イエスは、元々そこにおられ、そこからこの世に来られた、父なる神のもとにお帰りになるのです。つまり主イエスは十字架の死によってサタンに支配され滅ぼされてしまうのではなくて、父なる神のもとに行くのです。28節の後半で主イエスは、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」とおっしゃいました。まもなく「事が起こ」り、それによって主イエスは父なる神のもとに行こうとしておられるのです。

主イエスが共におられなくなる
 しかし「喜んでくれるはずだ」という言い方は、弟子たちにとって、それが単純に喜びとは言えない事柄であることを示しています。主イエスが父なる神のもとに行くことは、弟子たちのもとを去って行くことを意味しています。これまで弟子たちは主イエスに従って共に歩んできました。彼らはいつも主イエスと共にいたのです。しかし「事が起こ」って、主イエスが父なる神のもとに行ってしまうと、もう彼らといつも共にいては下さらなくなるのです。そうなった時にも、弟子たちが主イエスを信じる信仰を失わずに歩んでいけるようにと、主イエスは事が起こる前に語っておられるのです。ですから、「事が起こる」というのは、主イエスが捕えられて十字架につけられて殺されることだけを指しているのではありません。それだけなら、主イエスは復活するのですから心配することはないのです。けれども主イエスは、十字架の死と復活を経て父なる神のもとに行こうとしておられるのです。弟子たちのもとを去って行こうとしておられるのです。事が起こった後、弟子たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができない中を生きていかなければならなくなるのです。主イエスはその弟子たちのことを心配して、彼らがそのような中で動揺し、信仰を失ってしまうことなく、主イエスを信じて生きていけるようにと、ここで前もって語っておられるのです。

私たちのためのみ言葉
 そのお言葉は私たちのために語られたものでもあります。私たちは、事が起こった後の時を生きています。主イエスの十字架の死と復活は既に起こり、復活して永遠の命を生きておられる主イエスは今や天において父なる神の右の座に着いておられるのです。つまり主イエスによる救いのみ業は既に実現しています。私たちは主イエスを信じる信仰によってその救いにあずかり、罪を赦され、神の子とされて新しく生きることができるのです。けれども、父のもとに行かれた主イエスのお姿を、この世を生きている私たちはこの目で見ることができません。主イエスご自身から直接み言葉を聞くこともできません。主イエスが神の独り子であられ、私たちの救い主であられ、今も生きて救いのみ業を行って下さっていることの目に見える証拠は、この世に目に見える仕方ではないのです。むしろ目に見えるこの世の現実においては「世の支配者」が力を振っています。権力者たちが人々を支配しているというだけでなく、それらの背後にいるサタンが、神のご支配に敵対しているのです。サタンは今、新型コロナウイルスを用いて私たちを神の恵みから引き離そうとしています。ウイルスによる恐れや不安に支配されて、生きる気力を失い、自分の命を粗末にしてしまうことが起ったり、ウイルスへの恐れの中で人を愛しいたわることができなくなり、今こそ協力し合うべきなのにかえって人を批判するようになり、分断に陥ってしまうなら、それはまさに「世の支配者」であるサタンの虜になっているのです。目に見える現実においてはこのようにサタンの力が猛威を振るっています。その中で、はっきりと目には見えない、主イエスの十字架と復活による神の救いを信じるか、と今私たちは問われているのです。その問いは、事が起こって主イエスが父のもとに行かれた後、弟子たちが直面したのと同じ問いです。その弟子たちのために語られた主イエスのお言葉は、私たちのためのみ言葉でもあるのです。

あなたがたのところへ戻って来る
 主イエスがここで弟子たちのために、そして私たちのために語って下さったことの中心は、27節の後半から28節前半にかけての、「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた」ということです。14章の冒頭の1節にも「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」とありました。主イエスのお姿をこの目で見ることができず、世の支配者が来て力を振るっているこの世の現実は、弟子たちの、そして私たちの心を騒がせ、おびえさせます。主イエスはその私たちに、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」という約束によって慰めと励ましを与えて下さっているのです。この約束は2節から3節に語られていた、あなたがたのための場所を用意するために父のもとに行く、そして用意ができたら戻って来てあなたがたを迎える、というお言葉にも示されていたし、18節にも「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と語られていました。十字架の死と復活を経て父なる神のもとに行こうとしておられる主イエスは、あなたがたのところへ戻って来て共にいる、と繰り返し約束して下さったのです。
 この約束が最終的に果たされ、私たちが主イエスと共にいる、という救いが完成するのは、この世の終わりに主イエスが父なる神のもとからもう一度来られる、いわゆる「再臨」の時です。私たちは礼拝において唱えている「使徒信条」において、主イエスは「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白しており、その主イエスが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と信じているのです。主イエスが天からもう一度来られて最後の審判が行われることによって、父なる神と独り子主イエスのご支配が確立し、敵対するサタンの力は完全に滅ぼされて、神の恵みのご支配が最終的に完成する、それが私たちの救いの完成です。ですから私たちは、日本基督教団信仰告白が語っている、「主の再び来りたまふを待ち望む」信仰に生きているのです。
 けれども主イエスがここで「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言っておられるのは、終わりの日の再臨のことではありません。それ以前の、この世の歩みの中においても、主イエスは戻って来て私たちと共にいて下さるのです。そのことを実現して下さるのが、26節に語られている「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」です。聖霊が遣わされることが語られる中で、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」という約束が語られているのです。16節以下においてもそうでした。主イエスが父なる神にお願いして、別の弁護者、真理の霊を遣わして下さる、その約束の中で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と語られていたのです。復活して天に昇られた主イエスが、目に見える仕方で最終的に戻って来て下さるのは、世の終わりの再臨の時です。しかしそれ以前の、今私たちが生きているこの世の現実の中においても、聖霊なる神が来て下さり、共にいて下さることによって、目には見えない仕方で、主イエスご自身が戻って来て、共にいて下さるのです。それは、世の終わりに与えられる救いの完成を、この世の歩みの中で前もって体験させていただく、ということでもあります。聖霊なる神は私たちにそういう体験を与えて下さるのです。

聖霊のみ業
 26節にはその聖霊のみ業がこのように語られています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。「父がわたし(つまり主イエス)の名によってお遣わしになる」のが聖霊です。父なる神と、独り子なる神主イエス、そして聖霊なる神が、まさに一体となって私たちの救いを実現して下さっているのです。その中で聖霊がして下さっているのは、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ことです。「すべてのことを教え」と「わたしが話したことをことごとく思い起こさせる」は同じことを言っています。つまり聖霊は、主イエスがお語りになったこと、主イエスによって成し遂げられた救いの全てを私たちに教え、思い起こさせて下さるのです。思い起こさせる、というのは、忘れていることを思い出させると言うよりも、本当に分からせる、実感させ、納得させる、ということです。聖霊は、主イエスのご生涯、とりわけ十字架の死と復活によって実現した神による救いを私たちに本当に分からせ、その救いにあずからせ、私たちを主イエスと共に生きる者として下さるのです。つまり神が独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さっている、その神の愛を私たちに実感させて下さるのです。この聖霊のお働きによって私たちは、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、サタンの力が全て滅ぼされて神のご支配が完成する、その救いの完成を、この世の歩みの中で、いわば先取りして体験することができるのです。

聖霊による喜び
 その聖霊は、主イエスが父のもとに行くことによって、父なる神が、主イエスの名によって遣わして下さる方です。主イエスが父のもとに行き、今そこにおられるからこそ、聖霊が私たちのもとに遣わされ、私たちは主イエスによる救いにあずかることができるのです。28節で「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」と言われていたのはそのためです。これは、私にとっては父のもとに行くことは喜びなのだから、私のためにそれを喜んでくれるはずだ、ということではなくて、私が父のもとに行くことによって、聖霊があなたがたに遣わされ、聖霊の働きによってあなたがたは私の救いにあずかり、私と共に生きることができるようになる、だからそれはあなたがたにとっても喜びであるはずだ、ということなのです。私たちにも今、その喜びが与えられています。主イエスが父のもとに行かれたことによって、聖霊なる神が私たちのところにも来て下さって、み業を行っておられるのです。今私たちはこうして教会の礼拝に集っています。そのこと自体が聖霊のみ業です。私たちが礼拝に集うようになり、主イエス・キリストを信じるようになり、洗礼を受けてキリストと結び合わされ、教会に連なる者となることは全て聖霊のみ業なのです。私たちが礼拝において、神の恵みのみ言葉を聞き、神が独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さっていることを実感するのも聖霊のお働きによることです。聖霊が私たち一人ひとりの内に働き、主イエスによる救いについての「すべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださ」っているのです。さらに聖霊は私たち一人ひとりの内でみ業を行って下さっているだけでなく、私たち皆を主イエス・キリストという頭に結び合わせ、一つのキリストの体、神の民の群れとして下さっています。つまり教会という、主イエス・キリストに連なる共同体を築き、その中で私たちを兄弟姉妹との交わりに生かして下さっているのです。この聖霊によって私たちは、主イエスによる救いにあずかって主イエスと共に生きる喜びを体験し、また主イエスを頭とする教会に兄弟姉妹と共に連なる喜びを与えられているのです。このように、主イエスが父のもとに行くことによって、聖霊が私たちに遣わされ、主イエスが戻って来て与えて下さる救いの完成を先取りする信仰の喜びが私たちに与えられているのです。

聖霊による平和
 主イエスは27節でこのように語っておられます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」。父のもとに行かれた主イエスは私たちに平和を残して下さっているのです。この平和も、聖霊のお働きによって与えられるものです。聖霊によって私たちが、主イエスの十字架の死と復活による救いが本当に分かるようになり、独り子をお与えになったほどの父なる神の愛を感じるようになり、その救いにあずかって主イエスと共に生きる者となるところに、平和が与えられるのです。その平和は、世が与える平和、つまり世間で「平和」という言葉によって見つめられているものとは違います。いわゆる「反戦平和」というような、戦争のない平和な世界ということではなくて、神との間の平和です。神との間の平和とは、神が自分のことを愛して下さり、大切に思って下さっていることが本当に分かる、ということです。そしてそれは、自分自身との間の平和の土台です。自分自身との間の平和とは、自分が自分であること、自分に与えられていることと与えられていないこと、自分が生きている人生とそこで起こる全てのことを、神が恵みのみ心によって自分にお与えになったものとして受け入れ、与えられた人生を前向きに、積極的に生きる、ということです。自分が自分であることを受け入れ、喜ぶことができていないなら、自分自身との間の平和が失われているのです。神との間が平和であり、神が自分を愛して下さっていることが分かっているなら、自分自身との間にも平和があり、自分が自分であることを喜んで生きることができるのです。聖霊が私たちの内に働いて下さることによって、主イエス・キリストによる救いが分かり、神の愛を感じて生きるようになるなら、私たちは神との間の平和を与えられ、それに伴って自分自身との間の平和も与えられます。そういう平和を主イエスは聖霊によって私たちに与えて下さるのです。

さあ、立て。ここから出かけよう
 そしてその平和は、他の人との間の平和をも作り出していきます。神との平和、自分との平和を与えられている人は、自分が神に愛されているように、人を愛することができるようになるのです。それによって人との間に平和を作り出していくことができるようになるのです。このように、神との間の平和は、自分自身との間の平和と、他の人との間の平和を生み出していきます。主イエスは父なる神のもとに行かれるのを前に、この平和をあなたがたに残していく、と約束して下さったのです。その約束に続いて「心を騒がせるな、おびえるな」とおっしゃったのです。私たちが心を騒がせられ、おびえてしまうのは、主イエスのお姿をこの目で見ることができない中で、神の愛を見失い、神との平和を失い、それによって自分との平和も他の人との平和も失ってしまうことによってです。世の支配者であるサタンは常に私たちからこの平和を奪おうとしています。そのために今、新型コロナウイルスを利用しているのです。しかし、サタンは主イエスをどうすることもできません。父なる神は、独り子主イエスの十字架の死と復活によって私たちの全ての罪を赦して下さり、私たちとの間に平和を確かに打ち立てて下さいました。そして聖霊なる神が今私たちの内に働いて下さっていて、主イエスによる救いを、神の愛を、分からせ、主イエスと共に生きる者として下さっているのです。14章の最後で主イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう」とおっしゃいました。私たちは、主イエスが聖霊のお働きによって与えて下さる平和にあずかって、この礼拝から立ち上がり、心を騒がせることなく、おびえることなく、それぞれの一週間の生活へと出かけていくことができるのです。

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