「自分で聞いて信じる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第96編1-13節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章39-42節
・ 讃美歌:300、145、539、79
証し、証言によってイエスを信じる
四月に入り、2019年度が始まりました。川嶋章弘伝道師をもお迎えし、新たな思いで教会の営みを始めたいと思います。この2019年度の教会の年間主題は、「聖霊を信じて祈り求めつつ証しする教会」です。これまでの年間主題には「伝道する教会」という言葉が出てくることが多かったのですが、今年度は「証しする教会」となっています。「伝道する」も「証しする」も基本的には同じ意味ですが、今年度「証しする」という言葉を用いたのは、今私たちが主日礼拝において基本的にヨハネによる福音書を読み進めていることによるのだということを、この主題を決めた2月の教会総会において、また2月の昼の聖書研究祈祷会においてお話ししました。「証しする」はヨハネによる福音書において鍵となる言葉の一つであって、しばしば出てきます。本日の箇所の冒頭の39節にもそれが出て来ているのです。39節には「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」とあります。ここにある「証言した」が「証しする」という言葉なのです。つまり証しするとは、証言するということです。自分が確かに見たり体験して知っていることを「こうでした」と証言する、それが「証し」です。その言葉はこの福音書のしめくくりのところ、21章の24節にもあります。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」。「これらのこと」とはこの福音書において著者が語ってきた、主イエス・キリストのみ言葉とみ業の全てです。それらについての証しとしてこの福音書は書かれたのです。その目的は、この福音書を読んだ人が、そこに書かれている主イエスによる救いが真実であることを知って、主イエスを信じるようになることです。そのことが39節において起ったのです。一人の女性が主イエスについて証言をし、それを聞いた人々がイエスを信じたのです。この福音書全体が目指していることを先取りするように、一人の女性の証言によって人々が主イエスを信じたのです。
サマリアの女と主イエス
今読んでいるこの話は、サマリアのシカルという町の近くの「ヤコブの井戸」のところで、主イエスが一人のサマリアの女性と出会った、という話です。正午頃に水を汲みに来たこの女性は、五人の男と結婚しては離婚し、今は六人目と同棲していました。彼女は愛を切実に求めながら、真実に愛し合う関係を誰とも築くことができず、もはや自分は愛することも愛されることもできないという絶望をかかえて生きていたのです。また周囲の人々からは汚らわしい女だと批判され、仲間はずれにされ、自分も人の目を避けて生きていたのです。普通は誰も来ない真昼に水を汲みに来たところに、誰にも会いたくない、人と関わりを持ちたくない、という彼女の思いが現れています。しかしイエスとの出会いによって、正確には主イエスが語りかけて下さったことによって、彼女は変えられました。町の人たちの目を避け、誰にも会いたくないと思っていた彼女が、積極的に人々に語りかけ、主イエスのことを証しするようになったのです。そのことが28、29節にこう語られています。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、いい当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」。この女の言葉を聞いて、30節にあるように、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」のです。本日の39節はこの30節の続きです。39節に「その町の多くのサマリア人は」と言われているのは、30節の、彼女の言葉を聞いて町を出てイエスのもとにやって来た人々のことなのです。その人々が、この女性の「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」という証言によって、イエスを信じたのです。
主イエスによって変えられた人の証言によって
私たちはこれを不思議に思います。この女性のこの証言だけで、どうして彼らは主イエスを信じたのだろうか、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と聞かされたからといって、それでイエスを信じることなどあり得るのだろうか、と疑問に思うのです。しかし私たちはここで、彼女の語ったこの言葉だけに注目していてはいけないと思います。ここで起っているのは、この女性が、劇的に、全く新しく変えられたということです。愛を求めて男性遍歴をしてきたあげく、愛に絶望し、人々からは汚らわしい女と蔑まれ、自分の殻の中に閉じこもって人との交わりを断ち、誰とも会いたくないと思っていた彼女が、町へ行って自分の方から人々に語りかけ、「さあ、私と一緒にあの人のところに行きましょう。きっとあの人こそ私たちの救い主メシアであるに違いありません」と語り出したのです。それはびっくりするような変化です。おそらく彼女自身も、自分がそんなことをしていることに誰よりもびっくりしていたでしょう。主イエス・キリストとの出会いは、キリストによる救いは、私たちにこのような変化を、自分でもびっくりするような新しさをもたらすのです。その新しさは、自分がこれまで背負い、かかえていた罪とそれによる苦しみから解放されることによる新しさです。「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」という言葉がそのことを示しています。主イエスは、彼女の過去の行いを、そこで犯してきた罪を、人を傷つけ、自分も傷ついてきた苦い経験の全てをご存知であり、それを明らかになさったのです。しかしそれは彼女を咎め、断罪し、裁くためではありませんでした。彼女の罪の全てを主イエスはご自分の身に背負って下さり、それによって彼女をその重荷から解き放ち、罪赦された者として新しく生かして下さったのです。主イエスによって罪の赦しを与えられ、抱えていた苦しみから解放されたからこそ、彼女はそれまで避けていた人々の目の前に自分を晒し、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と言うことができたのです。つまり彼女は主イエスとの出会いによって、背負ってきた罪の重荷から解放され、自由になったのです。そのことが彼女をびっくりする程変えたのです。
彼女自身もびっくりしているその新しさは、周囲の人々をもびっくりさせます。人々は、いったい彼女に何が起ったのか、と不思議に思ったのです。人々が町を出てイエスのもとにやって来たのはその驚きのためだし、彼らが彼女の言葉によってイエスを信じたと語られているのは、彼女がこのように劇的に変ったのは、イエスという人と出会ったことによってであることが分かったということでしょう。「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」という不思議な体験を聞かされても、それで人が信じるわけではありません。しかし、人を避けて自分の殻の中に閉じこもって生きていた者が、心を開いて人に語りかけるようになり、明るく積極的に生き始めるのを見るなら、その変化によって人々は驚き、そこに何があったのかを確かめようとするのです。そういうことが私たちにおいても起ります。主イエス・キリストによる救いは、私たちを新しく生かすのです。肩に重くのしかかっていた罪の重荷を主イエスが代って背負って下さることによって、私たちは解放され、自由になり、喜んで積極的に、主イエスによる救いを証ししつつ生きる者となるのです。するとその私たちの証しによって人々が主イエスを信じるようになる、ということが起っていくのです。
泊まる、とどまる、滞在する
とは言え、先程申しましたように、ここで人々が「信じた」というのはまだ本当の意味で主イエスを信じる信仰を持ったということではありません。主イエスとの出会いによって新しくされ、変えられた人を見た驚きは、それだけではまだ信仰とは言えません。しかし信仰がそこから育っていく芽ではあります。この驚きがどのように信仰へと育っていったのかをヨハネ福音書は、本日の箇所の40節以下で語っているのです。40節には、彼女の証しを聞いて主イエスのもとに来たサマリア人たちが「自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された」とあります。あの女性がびっくりするほど変わったのを見て驚いた人々は、その変化をもたらした主イエスに、自分たちのところにとどまるように頼み、主イエスはその求めに応じてそこに滞在なさったのです。「とどまる」と「滞在する」は原文において同じ言葉です。そしてこの言葉も、「証しする」と同じく、ヨハネによる福音書において大変重要な、鍵となる言葉なのです。その言葉は既に1章の38節に出て来ていました。二人の人が主イエスの最初の弟子になったという箇所ですが、そこで主イエスは彼らに、「何を求めているのか」と問われたのです。それに答えて彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言いました。この「泊まる」が本日の箇所の「とどまる、滞在する」と同じ言葉です。主イエスに「何を求めているのか」と問われて、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねるというのはおかしなことだと感じます。宿泊場所を聞いて何になる、と思うのです。しかし、主イエスがどこに泊まるのか、とどまるのか、滞在するのかということは、この福音書においてとても大事な意味を持っています。主イエスが自分たちのもとに泊まり、とどまり、滞在して下さることによってこそ、その救いの恵みを受けることができるからです。
主イエスにつながっている
そしてそれだけではありません。この「泊まる、とどまる、滞在する」という言葉は、この福音書の15章においても大切な役割を果たしています。15章で主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」であるとお語りになりました。その4節に、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。ここに何度も出てくる「つながっている」が、「泊まる、とどまる、滞在する」と同じ言葉なのです。次の5節にも「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。つまりこの「泊まる、とどまる、滞在する」という言葉は、主イエスが私たちのもとにとどまって共にいて下さることだけでなく、私たちが主イエスにつながっていること、主イエスというぶどうの木につながっている枝であることによって私たちも豊かな実を結ぶことができる、ということを語るために使われている言葉でもあるのです。ヨハネ福音書はこの言葉によって、主イエスが私たちのところに留まり、共にいて下さると共に、私たちも主イエスにつながっており、主イエスのもとにとどまっているということを見つめようとしているのです。主イエスとの間にそのような深い、相互のつながり、交わりが生まれることによってこそ私たちは、主イエスによる救いにあずかることができるのです。
信仰の成長
サマリアの人々の願いに応えて「イエスは、二日間そこに滞在され」ました。それは、主イエスが彼らと共にいて下さり、彼らも主イエスにつながっている、という深い、相互の交わりがそこで与えられたということです。その結果が41節です。「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」。主イエスが共にいて下さり、自分も主イエスにつながっている、という相互の交わりの中で、主イエスのみ言葉を聞く体験が与えられ、そこに、主イエスを信じる者たちが興されていくのです。「更に多くの人々が」信じたと言われています。あの女性の証言を聞いてイエスを信じた人々よりも更に多くの人々が、ということですが、それは単に人数が増えたということではなくて、よりはっきりとした、より深い信仰が与えられていったということを意味しているのでしょう。そのことが42節に、信じた人々自身の言葉として語られています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。彼らもはじめは、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」というあの女性の証言を聞いて、そして先ほども申しましたように、彼女が喜びに満ちた新しい生き方へと大きく変えられたことに驚いて主イエスのところに来たのです。そして主イエスが自分たちの内にとどまって下さり、自分たちも主イエスとつながっているという相互の交わりの中で、主イエスの言葉を、直接自分自身が聞く体験を与えられたのです。それによって彼らは、「この方が本当に世の救い主であると分かった」のです。そのことを自分で確信するようになり、主イエスを信じたのです。このようにして彼らの驚きは信仰へと成長したのです。
自分で聞いて信じる信仰へ
ここには、私たち自身の信仰がどのように芽生え、成長していくのかが語られています。信仰が芽生え、本物へと成長する過程において、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」という言葉は重要な意味を持っています。私たちの信仰は、人の証し、証言を聞くことから始まります。主イエスのことを証ししてくれる人なしには、私たちは主イエスを知ることができないし、信仰へと至ることはできません。ヨハネによる福音書もそのために主イエスについての証し、証言として書かれているのです。証しを聞き、主イエスによって変えられた人の姿に感銘を受けることは、信仰の芽となります。しかしそれはまだ信仰ではありません。証しを聞いた者は、それに促されて主イエスのもとにやって来るのです。そして主イエスに、自分と共にいて下さるようにと願うのです。主イエスはその願いに応えて共にいて下さり、み言葉を語りかけて下さいます。主イエスが与えて下さるこの相互の交わりの中で私たちは、主イエスのみ言葉を自分自身が聞くという体験を与えられます。そこに、もはや人の証しの言葉によってではなく、「自分で聞いて信じる」本当の信仰が与えられていくのです。
礼拝における体験
これらのことを私たちは礼拝において体験します。人の証しを聞いて主イエスのもとに行く、それは私たちが教会の礼拝に出席するということです。この礼拝こそ、主イエスが共にいて下さり、私たちと相互の深い交わりを持って下さる場です。ここで私たちは、主イエスが語りかけて下さるみ言葉を聞くのです。そして自分で信じ、その信仰を言い表して洗礼を受け、主イエス・キリストのからだである教会の一員として生きていく者となるのです。洗礼を受け、主イエス・キリストのからだに連なる者とされた私たちが、そのキリストとのつながりを味わい、体験するために、聖餐が備えられています。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスが共にいて下さり、また自分が主イエスというぶどうの木につながっている枝であることを体験し、主イエスの恵みによって豊かに実を結ぶ者とされていることを確信して生きるのです。
主イエスによってもたらされたまことの礼拝
このようにこの箇所には、教会の礼拝において起ることが先取りされて語られていると言うことができます。サマリアの女性に主イエスは21節で「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」とおっしゃいました。また23節では「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」ともおっしゃいました。サマリアの女性との出会いのこの話は、主イエス・キリストによってもたらされたまことの礼拝のことを語っているのです。そのまことの礼拝が、サマリア人たちに示され、与えられていることは大事な意味を持っています。サマリア人は当時ユダヤ人から、神の民の血筋を汚した者として軽蔑され、なまじ血がつながっている分、ある意味異邦人よりも忌み嫌われていたのです。しかし主イエスは、人間が作り出し、交わりを損ねているその隔ての壁を乗り越えて、サマリア人たちと出会い、彼らをまことの礼拝に生きる者として下さり、自分で聞いて信じるまことの信仰を与えようとしておられるのです。その救いの恵みが私たちにも及んでいるので、私たちも今こうして、主を礼拝する群れとされているのです。
隣人への眼差しが変わる
もう一つ、サマリア人たちが主イエスとの交わりの中で、自分でみ言葉を聞いて、「この方が本当に世の救い主であると分かった」と言っていることに注目したいと思います。主イエスこそ「世の救い主」であることをみ言葉によって確信して生きることが信仰です。それは一つには、主イエスは私という個人の救い主であられるだけではない、ということです。主イエス・キリストを、自分の悩みや苦しみを取り除き、自分に慰めと支えを与えてくれる方としてのみ見つめているとしたらそれは主イエスのことが本当に分かっていないのです。主イエスは世の救い主です。世の全ての人々の罪を取り除き、救って下さるために主イエスは来られ、十字架の苦しみと死への道を歩まれたのです。主イエスを信じる私たちの信仰は、自分の救いだけでなく、隣人の、そして世の救いを見つめ、隣人を、世の人々を、神が主イエスによって罪を赦し、救おうとしておられる人々として見つめていく、そういう新しい眼差しを与えるものです。主イエスの救いにあずかる時、私たちの、隣人を見つめる眼差しが、大きく劇的に変わるのです。憎しみや恨み、妬みの眼差しが、人を愛する眼差しへと新しくなるのです。そのことによってこそ、私たちはあのサマリアの女性と同じように、主イエスを証しする者となることができるのです。
世の救い主イエスを信じて
そして主イエスが「世の救い主」であられることの第二の意味は、この世の人々の歩み、それによって営まれている諸国の歴史を本当に導き、支配しておられるのは、主イエス・キリストであり、キリストの父である神であられるのだ、ということです。このことを見失わせようとする力がこの世界には満ちています。この国においても、まもなく天皇の代替わりが行われようとしており、そのことによって時代が変わり、新しくなるかのような錯覚を私たちに与えようとする力が働いています。しかし私たちはそれらに惑わされることなく、主イエスこそが「世の救い主」であられることをしっかりと見つめ、父なる神による天地創造から、主イエスによる救いの出来事を経て、聖霊のご支配の下で救いの完成である終末へと向かっているこの世界の歴史の深い真実にしっかりと根ざして歩んでいきたいのです。それこそが、主イエスこそ本当に「世の救い主」であると分かる、ということです。このことを私たちが聖書から聞いて、自分ではっきりと分かり、その信仰に生きていくために、毎週の礼拝が与えられており、共にあずかる聖餐が備えられているのです。