夕礼拝

主イエスの弟子となる

「主イエスの弟子となる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第27編1-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章35-42節
・ 讃美歌:17、459、519

主イエスの弟子となるとは  
 本日ご一緒に読むヨハネによる福音書第1章35節以下には、主イエス・キリストの最初の弟子となった人々のことが語られています。二人の人がここで、主イエスの弟子、つまり主イエスに従って行く者となったのです。他の三つの福音書には、ガリラヤ湖の湖畔で二人の漁師たちに主イエスが「わたしについて来なさい」と声をかけ、彼らが従ったという話が語られていますが、ヨハネ福音書はそれとは全く違う仕方で、最初の弟子の誕生を語っているのです。また他の福音書では、最初に弟子となったのはペトロとアンデレの兄弟だったとされていますが、ヨハネにおいては、アンデレは共通していますが、もう一人はペトロではなくて名前の分からない人です。ペトロはその後アンデレによって主イエスのもとに連れて来られて弟子となったのです。このようにヨハネ福音書と他の福音書とでは語られていることが違っているわけですが、それを矛盾であるとかどちらが正しいのかと考える必要はありません。ヨハネ福音書は、歴史的事実を描くと言うよりも、出来事の根本にある意味を象徴的に語る、という手法で書かれています。ですから本日の箇所においてもヨハネ福音書は、主イエスの弟子となるとはどういうことなのか、そこで私たちに何が起るのかを語っているのです。ですからここに語られていることを、私たち自身の事柄として読むことが求められているのです。

ヨハネの弟子から主イエスの弟子へ  
 本日の箇所も、前回の29節以下と同じく、洗礼者ヨハネの言葉から始まっています。36節に、ヨハネが「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」とあります。29節には「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」とありました。いずれにおいても、ヨハネが主イエスを見て「この人は神の小羊だ」と語ったのです。37節には「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。ヨハネが主イエスのことを「神の小羊だ」と語ったのを聞いて、二人の人が主イエスの弟子となったのです。この二人は、35節に「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」と語られているように、元々は洗礼者ヨハネの弟子であり、彼のもとにいた人たちです。ヨハネの弟子だったこの二人が、ヨハネ自身の「この人こそ神の小羊だ」という言葉を聞いて、主イエスに従う者、主イエスの弟子となったのです。このことは、当時実際に起っていたことでしょう。つまり、主イエスより先に洗礼者ヨハネが現れて、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていました。そのヨハネのもとに集まった人々がヨハネの弟子となったのです。しかしヨハネは、前回のところに語られていたように、自分の後に現れる救い主の備えをすることを自らの使命としていました。だから彼は主イエスと出会うと、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だ、と語ったのです。つまりヨハネは自分の元に集まって来た人々に主イエスを指し示し、人々が主イエスの弟子となることをこそ願っていたのです。実際そのようにして元々はヨハネの弟子だった人たちが主イエスに従って行くようになったのです。  
 しかし先程も申しましたように、ヨハネ福音書はこのことに象徴的な意味を見つめています。つまりこのことは、主イエスを信じて従っていく弟子となる、つまり信仰者となることにおいて私たちに起ることでもあるのです。私たちも、元々主イエスの弟子だったわけではありません。何か別のものを信じていたり、依り頼んでいたのです。別の神を信じ、別の宗教の信者だったということではなくても、人生において頼りにしていたもの、これこそが肝腎だと思っていたものがいろいろあったのです。しかしある時私たちは、「イエス・キリストこそ神の子であり、私たちの罪を取り除き、赦して下さる救い主だ」と語る誰かの言葉を聞きます。教会の礼拝において、牧師が説教でそれを語るのを聞くという場合が一番多いかもしれません。あるいは教会へと誘ってくれた知り合いの信仰者から、「イエス様こそ救い主だ」と聞くこともあるでしょう。主イエスのことを語る誰かの言葉を聞くことを通して、私たちは主イエスを知るようになり、信じるようになるのです。最初の弟子たちも、洗礼者ヨハネの言葉によって主イエスを知り、従う者となった。ヨハネ福音書はこの場面において、主イエスの弟子となることにおいて私たちに起ることを見つめ、描いているのです。

信仰の告白が証しとなる  
 ヨハネは自分の弟子たちに主イエスのことを指し示し、「見よ、神の小羊だ」と言いました。このように主イエスを指し示して語られる言葉を「証し」と言います。主イエスを証しすることこそがヨハネの使命であり、彼はそのためにこの世に生まれたのだ、ということが、これまでに読んできた第1章の前半に語られていました。そのヨハネの証しによって、主イエスに従って行く弟子が生まれたのです。ヨハネは主イエスを見つめつつ、「見よ、神の小羊だ」という証しを語りました。前回の29節と本日の36節にその言葉が記されています。しかし前回のところと本日の箇所では、語られた情況が少し違います。29節は、「自分の方へイエスが来られるのを見て」だったのに対して、36節は「歩いておられるイエスを見つめて」となっています。この違いにも象徴的な意味があります。「自分の方へイエスが来られるのを見て」というのは、まさに主イエスが自分の方に向かって来られる、自分と出会おうとしておられる、そのような主イエスとの出会いにおいて、ということです。そこで語られた「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉は、ヨハネの主イエスに対する信仰告白、「あなたこそ神の子、救い主であると信じます」という信仰の表明でもあります。そういう信仰の告白が、周囲の人たちに対しては主イエスを証しする言葉となった、ということが29節以下には語られていたのです。

証しの言葉を聞いて  
 それに対して本日の箇所では、「歩いておられるイエスを見つめて」となっています。その「歩く」という言葉は、その人の言葉や行動の全て、つまり「生き方」を意味していると言えるでしょう。日本語でも「その人の歩み」という言い方があります。主イエスの歩みを見つめてヨハネは「見よ、神の小羊だ」と言ったのです。それは主イエスに対する信仰の告白と言うよりも、この場合には自分のもとにいる弟子たちに対して主イエスのことを証しする言葉です。だからこの場合には29節よりも「見よ」に強い意味が置かれています。この方、主イエスをこそ見つめなさい、この方こそ、神が私たちの罪を取り除くために遣わして下さった小羊である方、私たちのためにご自身を犠牲にして下さる救い主なのだ、とヨハネは証ししたのです。その証しを聞いて、ヨハネの弟子であった人たちが、主イエスに従う者、主イエスを信じる信仰者となったのです。  
 ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と言うのを聞いただけでどうして彼らはイエスに従っていくことができたのだろうか、という疑問もここでは必要ありません。ヨハネ福音書は、私たちが主イエスに従う信仰者となるのは、主イエスこそ救い主だ、という証しの言葉を聞くことによってこそ起るのだ、ということを語っているのです。

何を求めているのか  
 そこにおいてむしろ見つめるべきことは38節の「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」ということです。主イエスを証しする言葉を聞いて、主イエスに従って行こうとする者に、主イエスは「何を求めているのか」とお尋ねになるのです。私たちもこの問いを受けます。主イエス・キリストを信じて生きていくことを多少なりとも考え始めると、自分は主イエスに何を求めているのだろうか、何を得たいと願ってイエス・キリストのもとに来ているのだろうか、という問いが生じるのです。最初のうちは、病気の苦しみから救われたいとか、あの悩み、この苦しみを解決してほしい、ということを願って教会に来るかもしれません。しかし通っているうちに気づくことは、そういう悩みや苦しみに対する直接の解決が与えられるわけではない、ということです。信じたから病気が治るわけではないし、人間関係が急に改善されるわけでもない、教会というのはそういう直接のご利益を与えてくれる所ではないことが分かってくるのです。その時に、だったらもう来ても仕方がないと思ってやめてしまうのか、それとも、自分が最初に求めていたのとは違うけれども、何かもっと大切なものがここで与えられるのではないかと感じて、それが何なのかを求めていこうとするのか、そこに、信仰に至るかどうかの分かれ道があります。自分は何を求めて主イエス・キリストのところに来ているのか、主イエスが自分に与えようとしておられる救いとは何なのか、そういう問いを抱くことにおいて私たちは既に信仰への最初の一歩を踏み出しているのです。

どこに泊まっておられるのですか  
 「何を求めているのか」という主イエスの問いを受けた彼らは、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。「ラビ」とはここに記されているように「先生」という意味であり、ユダヤ人の間で、神から与えられた律法を人々に教え、律法に基づく生活のあり方を教えていた人々、つまり宗教的指導者を指す言葉です。彼らは、それまで師と仰いでいたヨハネが「見よ、神の小羊だ」と指し示したイエスが、神のみ心に従う信心深い生活のあり方を教えてくれるヨハネ以上の先生であると思ってそのように呼びかけたのです。  
 彼らが主イエスに尋ねたのは「どこに泊まっておられるのですか」ということでした。宿泊場所を尋ねてどうする、もうちょっと気の利いた質問はないものか、と私たちは思います。しかしこの「泊まる」という言葉はヨハネ福音書においてとても重要な意味のある、また繰り返し出て来る大事な言葉なのです。この言葉は「泊まる」の他に、「つながる、留まる」と訳すことができます。それが出て来るよく知られた箇所は15章です。その5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスのお言葉があります。そこに、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります。その「つながっている」がこの「泊まる」という言葉なのです。さらに15章の10節には「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。その「とどまっている」も同じ言葉です。このようにこの「泊まる」は、主イエスが父なる神の愛の内にとどまっており、私たちが主イエスにつながっており、その愛の内にとどまっているという、私たちと主イエス、そして主イエスと父なる神の関係を言い表す大事な言葉なのです。ですから「どこに泊まっておられるのですか」という問いは、宿泊場所を尋ねているというよりも、主イエスが父なる神との関係において、また私たちとの関係において、どこにとどまっておられるのか、神と私たちとの間でどのような働きをなさるのか、ということを尋ねる象徴的な問いなのです。先程見たように、主イエスを証しする言葉を聞いて、自分も信仰をもって生きて行こうとする時に私たちは、主イエスから「何を求めているのか」という問いかけを受けます。自分が主イエスに本当に求めていることは何なのかが、私たちにはなかなか分かりません。しかし私たちが根本的に求めているのはこのことなのではないでしょうか。つまり主イエスは父なる神さまと私たちとの間でどこにとどまっておられるのか、どのような働きをしておられるのか、要するに主イエスは私たちにとってどのような救い主であられるのか、ということです。主イエスを信じる信仰者となる上で避けて通ることのできないこの根本的な問いを、「どこに泊まっておられるのですか」という問いは象徴的に表しているのです。

来なさい、そうすれば分かる  
 そしてこの問いに対して主イエスは「来なさい、そうすれば分かる」とおっしゃいました。これは直訳すれば「来なさい、そして見なさい」となります。私が父なる神との関係において、またあなたがたとの関係において、どこにとどまっているのか、何をしているのか、つまり私はどのような救い主であるのか、そのことは、私のもとに来れば分かる、だから私のもとに来なさい、そして私の歩みをよく見なさい、と主イエスはおっしゃるのです。それは私たちに対しても語られているみ言葉です。主イエスは私たちに、「わたしのところに来なさい、そしてあなた自身の目でよく見なさい、そうすればわたしのことが分かる、と言っておられる、つまり私たちをご自分のもとへと招いておられるのです。  
 この主イエスのお言葉を受けて彼らは、「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」のです。主イエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見る、私たちに求められているのもそのことです。主イエスに従って行くとか、弟子つまり信仰者となって生涯を生きて行くというようなことは、最初からそういう決心をして歩み出すようなことではありません。さらにそれは、私たちの決心や決断によって実現するようなことでもないのです。私たちは、主イエスから「来なさい、そして見なさい」と語り掛けられて、主イエスのあとについて行って見るのです。そしてそこで主イエスの歩みを見、み言葉を聞くのです。そのことの中で、「イエスのもとに泊まる」ということが起っていきます。ぶどうの木である主イエスに私たちがつながって豊かな実を実らせていくことが、また主イエスの愛の内にとどまり、神の愛を受けて生きることが起るのです。それは私たちが自分の決心や努力によって実現することではなくて、私たちをご自分のもとに招いて下さった主イエスの恵みによって与えられていくことなのです。

証しをする者となる  
 こうして主イエスのもとに泊まった二人の内の一人であるアンデレは、おそらく翌日、自分の兄弟であるシモン・ペトロに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と言いました。メシアとは、ここに語られているように「油を注がれた者」という意味の言葉です。油を注がれるとは、神によって大事な務めに任命されるということであり、この場合には、救い主として立てられることを意味しています。「わたしたちはメシアに出会った」とは、「救い主に出会った」ということなのです。アンデレは救い主である主イエスと出会った自分の体験を兄弟ペトロに語りました。それは、ヨハネがその弟子たちに、主イエスを指して「見よ、神の小羊だ」と語ったのと同じ証しの言葉です。ヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスのもとにとどまる者となったアンデレが、今度は自分の身近な人に主イエスを証しする者となったのです。そして彼はシモンをイエスのところに連れて行った、と42節にあります。これらも、私たち自身に起ることです。誰かの証しを聞いて主イエスのもとに来て見ることによって、私たち自身が主イエスにつながり、そのもとにとどまる者となる、つまり信仰者となる、そしてその私たちが今度は、誰かに主イエスを証しし、人を主イエスのもとに連れて来る者となるのです。イエスこそ救い主だと私たちが語ることを通して、主イエスのもとに来る人が新しく興されていくのです。主イエス・キリストを信じる信仰はこのようにして世界中に広まっていったのです。一人の人の証しによって一人の人が新たに主イエスのもとに連れて来られる、これが伝道の基本です。コミュニケーションの手段が発達して、一度に多くの人々に情報を伝えることができるようになっても、主イエス・キリストを信じる信仰は、一人の人から一人の人へと伝えられていくものなのです。

ペトロをご存知である主イエス  
 アンデレの証しによって、その兄弟シモン・ペトロが主イエスのもとに連れて来られました。42節の後半には「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする』と言われた」とあります。シモン・ペトロに主イエスが「ケファ」という新しい名を与えた、と言われているわけですが、他の福音書には、主イエスがシモンに与えた名前はペトロだったと語られています。しかしペトロもケファもその意味は「岩」です。マタイ福音書の16章には主イエスが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったことが語られています。主イエスがシモン・ペトロを教会の土台としてお立てになることが、本日の箇所においても意識されているのは確かでしょう。十二人の弟子たちの筆頭となるシモン・ペトロはこうして主イエスの弟子となったのです。  
 しかし本日の箇所において見つめるべき大事なことは、アンデレが連れて来たペトロを、主イエスが既にご存知であり、彼に新しい名前をお与えになったということです。それは、主イエスとペトロの間には以前から面識があったということではありません。これもまた、主イエスとの出会いにおいて私たちが体験することなのです。私たちも、誰かの証しを聞き、誰かに連れられて主イエスのもとに来ます。そこで初めて主イエスと出会うのですが、しかしそこで私たちが示されるのは、主イエス・キリストが既に自分のことを知っておられ、待っておられたということです。私たちの方は初対面だと思っているのに、主イエスは、「私はあなたのことを生まれる前から知っており、見つめており、あなたを待っていた」とおっしゃるのです。主イエス・キリストと出会う時に私たちは、自分が主イエスのことを全く知らなかった時から、主イエスが自分のことを知っておられ、いつも見つめておられ、待っておられたのだということに気づかされるのです。

新しい人生が開かれていく  
 そして主イエスはペトロに新しい名前をお与えになりました。それは彼を生まれ変わらせ、新しい人生を与えて下さったということです。ペトロは、主イエスと出会い、弟子となって、それまでとは全く違う新しい人生を歩んでいったのです。私たちも、主イエス・キリストと出会うことによって新しく生まれ変わり、新しい人生を生きる者とされます。洗礼を受けるとはそういうことです。主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして復活して、新しい命、永遠の命を生きておられます。洗礼によって私たちはこの主イエスにつながり、そのぶどうの木の枝となり、主イエスの愛の内にとどまって生きる者となるのです。この後聖餐にあずかります。聖餐は、主イエスというぶどうの木の枝として、その愛の内にとどまって生きる者とされた私たちが、このぶどうの木の命を受け、主イエスの愛によって養われるために備えられている恵みの食卓です。主イエスが自分のことを知っていて下さり、招いて下さって、新しく生まれ変わらせ、主イエスにつながって生きる者として下さった、信仰者はその恵みを聖餐において味わいつつ生きるのです。誰かの証しを聞いて主イエスのもとに来て見ることから、そのような新しい人生が開かれていくのです。

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