「恵みがあなたがたと共に」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第54章10節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第5章23-28節
・ 讃美歌:18、536
パウロの祈りの言葉
テサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきて、本日で読み終えます。本日の箇所ではこの手紙でこれまで見つめられてきたことが凝縮されて語られています。それらに目を向けつつ、この手紙で語られていたことを振り返っていきたいと思います。
まず23節全体を捉えたいと思います。長い文章で分かりにくいのですが、文の構造、文の骨格に目を向けると、この文の主語は「平和の神御自身」です。そして23節前半は「してくださいますように」で終り、後半も同じように「してくださいますように」で終わっています。23節の冒頭には「どうか」とありますから、この文章の骨格は「どうか、平和の神御自身が…してくださいますように」となります。つまり23節全体はこの手紙の著者であるパウロの祈りの言葉です。
人生のあらゆる出来事の主語は神
その祈りの内容についてはこれから見ていきますが、その前に、パウロの祈りの文章の骨格から気づかされることがあります。彼は、テサロニケ教会の人たちが「こういうことができますように」とか、「ああいうことができますように」と祈っているのではなく、「平和の神御自身が…してくださいますように」と祈っています。つまり彼らがなにをするかではなく、神が彼らになにをしてくださるかを見つめて祈っているのです。もちろん私たちは、自分が「こういうことができますように」と祈るときも、神の働きを祈り求めていると思います。しかしその上でなお、このパウロの祈りのように神が主語である祈りは私たちの信仰生活の核心を突いていると思うのです。なぜなら私たちの人生のあらゆる出来事の主語は神だからです。もし自分の年表を書くとしたら、普通は自分を主語として自分は何年に生まれ、何年に学校に入学し、何年に就職した、というように綴っていくと思います。しかしキリスト者はその年表を、実際にそのように書くかは別としても、神が何年に自分に命を与えこの世に生まれさせてくださり、何年に学校に入学させてくださり、何年に働きにつかせてくださった、というように綴っていくのです。私たちの人生を神が導いてくださるとは、私たちの人生が神の御手の内にあるとは、私たちの人生におけるあらゆる出来事の主語が神であることにほかならないのです。
神御自身が与えてくださる喜びと祈りと感謝
5章16節以下では「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言われていました。しかしそれは私たち自身が自分の人生を「いつも喜び絶えず祈りどんなことにも感謝する」人生にする、ということではありません。そうではなく神御自身がそのような人生を起こしていってくださる、ということなのです。日々私たちは、自分が喜べず、祈れず、感謝できない現実を突きつけられています。このみ言葉を私たちが頑張って到達すべき目標として受けとめるなら、そのようにはなれない私たちは追い詰められ、絶望に叩き落とされるしかありません。私たちが目を向けなくてはならないのは、このみ言葉に続いて「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」とあることです。「神があなたがたに望んでおられること」とは、神の私たちへのご意志、御心です。主イエス・キリストにおいて示されている神の御心に目を向けて生きていく中においてこそ、私たちに喜びと祈りと感謝が与えられていく、起こされていくのです。裁かれ滅ぼされるしかない私たちの代わりになんの罪もない神の独り子が十字架に架けられ死ぬことにおいて、神は私たちへの愛の御心を示してくださいました。また、神が死の力を打ち破り主イエスを復活させてくださったことにおいて、神は私たちに終りの日の復活と永遠の命の約束を与えてくださいました。神御自身が私たちに示してくださっている愛の御心に目を向け、約束してくださっている希望に生かされるとき、喜べず祈れず感謝できない苦しみや悲しみの中にある私たちに、神御自身が与えてくださる喜び、祈り、感謝が起こされていきます。神御自身が「いつも喜び絶えず祈りどんなことにも感謝する」人生を私たちに起こしていってくださるのです。
平和の源である神
そのように私たちの人生を導いてくださる神を、23節でパウロは「平和の神御自身」と呼んでいます。「平和の神御自身」とは「平和の源である神御自身」ということです。5章13節でも「互いに平和に過ごしなさい」と言われていて、「平和」という言葉が使われていました。教会に連なる人たちが教会を導く人たちを重んじ、愛をもって心から尊敬することによって、また教会に連なる人たちが互いに戒め合い、励まし合い、助け合うことによって、互いに平和に過ごせるようになると言われていたのです。しかしこのことにおいても私たちが目を向けるべきなのは、平和の源である神御自身によってこそ、私たちが「互いに平和に過ごせる」ようになるということです。「平和」は、今、私たちに重くのしかかっている言葉です。この世界のどこに平和があるのだろうかと思います。そのような世界にあって平和をつくり出すためにどうしたら良いのだろうかと考えます。なにもできないことに落ち込むこともあります。平和という言葉が虚しく思えることもあります。この世界の現実が平和という言葉を虚しくしているのかもしれません。しかしこのようなときだからこそ、私たちは人間がつくり出す平和ではなく、平和の源である神御自身がつくり出してくださる平和に目を向けなくてはなりません。なぜなら私たちは平和の源にはなりえないからです。平和を望むからこそ私たちはなによりも平和の源である神に目を向けるのです。神は、主イエス・キリストの十字架において、神と私たちの間に和解を与えてくださり平和を打ち立ててくださいました。神と私たちが相互に歩み寄ることによって和解が実現したのではありません。神の敵であり続けた私たちを、神が一方的に赦してくださったことによって和解が実現したのです。私たちにはすでに、この神御自身がつくり出してくださった「主にある平和」が与えられています。確かにこの世界の現実は私たちの目には平和と程遠いように映ります。しかしそのような世界へ、救いに与りキリストに結ばれた私たちは「主にある平和」を携え、平和の使者として遣わされていきます。主イエス・キリストの十字架による救いにこそ平和があるという「平和の福音」を証ししていくのです。そんなことでこの世界の複雑な現実にあって平和を実現することなどできないと言われるかもしれません。しかし私たちは信じます。「主にある平和」がすべての平和の根拠であり、源であることを信じます。「主にある平和」に目を向け、その平和の内に生かされることによってこそ、私たちは自分自身との間に平和をつくり出し、隣人との間に平和をつくり出していくことができるのです。教会において互いに平和に過ごすことへと、またこの世において互いに平和に過ごすことへと導かれていくのです。
聖霊の働きによって「聖なる者」へと変えられる
パウロは、23節でまず「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」と祈ります。「聖なる者」という言葉は4章3節でも使われていて、そこでは「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」と言われていました。私たちは本来「聖なる者」ではありません。罪の汚れに満ちた私たちは聖なる神の御前に滅ぼされるしかない者です。それにもかかわらず私たちは、ただキリストの十字架による罪の赦しによって、神のものとされ「聖なる者」とされたのです。けれどもすでに「聖なる者」とされているから、私たちはどのように生きても良い、どのような生活をしても良いということではありません。神の御心は、私たちが「聖なる者となる」ことであり、4章7節にあるように「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるため」だからです。キリストによる救いに与った私たちは、その救いの恵みを真剣に受けとめ、それにお応えして「聖なる者」として生きることへ、「聖なる生活」へと導かれていくのです。しかしそれは私たちの努力や頑張りによるのではありません。このことにおいても神御自身が私たちを「聖なる者」として生かしてくだり、「聖なる生活」へと導いてくださるのです。パウロの「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」という祈りは、まことの神である聖霊の働きによって、私たちが「聖なる者」へと変えられていくこと、「聖なる生活」へと導かれていくことを祈り求めているのです。私たちがなすべきことはその聖霊の働きを拒んだり妨げたりせずに受け続けていくことです。「聖なる者」へと変えられることを諦めてしまったり、「聖なる生活」へと導かれることはあり得ないと決めつけてしまうならば、4章8節にあるように、私たちは「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになる」のです。それは、まことの神である聖霊の働きを拒むことであり、その聖霊を私たちの内に与えてくださる神御自身を拒むことにほかなりません。キリストの十字架による救いによって「聖なる者」とされたら、それで終りなのではなく、私たちは聖霊の働きによって「聖なる者」へと変えられ続けていくのです。だからこそパウロと共に私たちは「平和の神御自身が、私たちを聖なる者としてくださるよう」に、聖霊の働きを信じて祈り求めていくのです。
全存在を非のうちどころのないものとしてください
パウロは「聖なる者としてくださいますように」という祈りに続いて、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」と祈っています。この文も複雑な文ですが、原文や色々な訳を見てみると、「あなたがたの霊と魂と体の全体が、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとして保たれますように」と訳すのが良いのではないかと私は思います。このように訳したほうがここで見つめられていることがはっきりするからです。それは、これまでもこの手紙の色々なところで語られてきたように、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」、つまりキリストの再臨にほかなりません。「霊と魂と体の全体」とは要するに私たちの全存在ということです。キリストが再び来られるとき、私たちの全存在が「非のうちどころのないものとして保たれますように」、私たちの全存在を「非のうちどころのないものとしてくださいますように」と祈られているのです。
主イエス・キリストの来られるときに
私たちが「聖なる者」へと変えられることも、あるいは「非のうちどころのないもの(者)」へと変えられることも、すでに始まっていることです。私たちが主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、新しくされ、キリストに結ばれてこの地上の人生を歩む中で、聖霊の働きによって、すでに私たちは変えられ始めているのです。私たちはこのことを信じて良いし、このことを信じるとは、先ほどもお話ししたように、私たちが聖霊の働きを拒んだり妨げたりせずに受け続け、そのように自分が変えられていくよう聖霊の働きを信じて祈り求め続けることにほかなりません。しかしその一方で、私たちの日々の歩みを振り返るならば、私たちが「聖なる者」、「非のうちどころのない者」へ変えられているとはなかなか思えないのです。むしろ私たちは日々、神と隣人とに対して罪を犯しています。この地上の人生において、私たちは救われてなお自分が「聖なる者」となり得ないことに、「非のうちどころのない者」ではなく弱さと欠けを抱えている者であることに繰り返し繰り返し直面するのです。そのことによって私たちは自分に失望したり、苛立ったり、焦ったりしてしまいます。本来、救われた者の生活は、その救いの恵みへの感謝と喜びに満ちた生活です。しかし「聖なる者」、「非のうちどころのない者」へ変えられているようには思えない出来事に直面するたびに、むしろ失望と苛立ちと焦りに覆われた生活となってしまうのです。だからこそ私たちは、今だけに目を向けるのではなく、神が約束してくださっている将来に目を向けなくてはなりません。ここでパウロが単に「非のうちどころないものとしてください」と祈っているのではなく、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてください」と祈っていることに目を向けなくてはならないのです。十字架で死んで復活し天に昇られたキリストは終りの日に再び来てくださり救いを完成してくださいます。終りの日にキリストに結ばれて死んだ私たちは復活させられ永遠の命に与り、いつまでも主と共に生きるようになるのです。このことが4章後半から5章前半で集中的に語られていました。そして私たちが復活させられ永遠の命に与りいつまでも主と共に生きることこそが、私たちが本当に「聖なる者」、「非のうちどころのない者」とされることなのです。「聖なる者」や「非のうちどころのない者」とは、清く正しく生きる者ではなく、いつまでもキリストと共に生きる者にほかならないからです。私たちには終りの日の復活と永遠の命の約束が与えられています。私たちがこの約束に希望をおいて地上の人生を歩むならば、自分が「聖なる者」、「非のうちどころのない者」へ変えられているとは思えない、自分の惨めな不甲斐ない現実に幾度となく直面するとしても、失望や苛立ちや焦りに覆われることはないのです。私たちは終りの日の救いの完成を見つめ、そのことに希望をおいて、神御自身が私たちを変えていってくださることを信じ、なおいっそう聖霊の働きを祈り求めるのです。その歩みは、たえず自分の振る舞いをチェックするような息苦しい窮屈な生活ではなく、救いの恵みに心から大胆に喜んで生きる生活に違いないのです。
神の約束は必ず実現する
神が私たちに与えてくださっている終りの日の復活と永遠の命の約束は、私たちが日々の歩みの中で、自分自身や隣人に対して結ぶ約束とはまったく異なります。私たちはどれほど覚悟を決め、思いを込めて約束しても、その約束はどこまでも不確かで移ろいやすいものです。私たちは人間の約束に究極的な信頼をおいて生きることはできません。しかし神の約束は、そのような私たちの約束とは異なります。24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」と言われているように、私たちを選び、招き、救いに与らせてくださった神は真実な方であり、私たちに与えてくださった終りの日の復活と永遠の命の約束を必ず実現してくださいます。私たちは死んで終りなのではなく、「必ず」復活させられ主イエスと共にいつまでも生きるようになるのです。真実な神の約束にこそ私たちは究極的な信頼をおいて生きていくのです。共に読まれた旧約聖書イザヤ書54章10節でも、このように言われています。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる」。ここでも慈しみ深く憐れみ深い神の結ぶ契約が、神の約束が決して揺らがないことが見つめられているのです。
互いに励まし合い慰め合う
25-27節でパウロはテサロニケ教会の人たちに、「わたしたちのためにも祈ってください」、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい」、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」と勧めています。この手紙から分かるのはパウロが苦難の中にあるテサロニケ教会の人たちを一方的に励まし慰めているのではないということです。3章7節でパウロは「わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」と語っていました。福音を宣べ伝えるために苦難の中にあったパウロは、テサロニケ教会の人たちの信仰によって励まされ慰められたのです。パウロとテサロニケ教会の人たちの関係は一方的なものではなく、互いに励まし合い慰め合う関係なのです。それはなによりも互いに祈り合うことによって与えられていく関係であり、だからこそパウロは彼らに「わたしたちのためにも祈ってください」と勧めているのです。
この手紙では、教会に連なる人たちが互いに励まし合い慰め合うことも繰り返し語られてきました。27節で言われている教会に連なるすべての人がこの手紙を分かち合えるようにすることも、また26節で言われている互いに「聖なる口づけによって挨拶」をすることも、主にある交わりにおいて互いに励まし合い慰め合うことの目に見える形です。キリスト教会の伝統においては、礼拝の中で愛と一致のしるしとして教会員が互いに「平和の接吻(口づけ)」あるいは「平和の挨拶」を交わしてきました。かつては「口づけ」によって、最近は「握手」によって挨拶を交わすことが多いようです。口づけによる挨拶という習慣のない私たちが同じことをすれば良いという話ではありませんが、大切なことは、この挨拶が、私たちが主にあって一つとされていることのしるしであるということです。キリストによる救いによって主にあって一つとされた私たちは、終りの日の救いの完成に希望をおいて、苦しみや悲しみの多い現実の中を互いに励まし合い、慰め合いつつ歩んでいくのです。
恵みがあなたがたと共に
この手紙の冒頭には「恵みと平和が、あなたがたにあるように」とありました。そしてこの手紙は「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」で結ばれます。主イエス・キリストの恵みが、私たちと共にあります。神御自身が実現してくださった平和がすでに私たちの間にあります。私たちは、私たちの教会は、恵みと平和が見えないように思える世界の現実のただ中にあってキリストの恵みと平和を発信していきます。教会こそがキリストによる救いの恵みの発信源であり、神御自身が実現してくださった平和の発信源なのです。私たちの教会はこれからも恵みと平和を告げる神の言葉を、救いの喜ばしい知らせをこの世に響き渡らせていくのです。