「主イエスが来られるとき」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第35章3-10節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第3章11-13節
・ 讃美歌:
第一の到来と第二の到来の間を生きる私たち
先週の主の日は主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマス礼拝でした。正確に言えば、アドヴェント(待降節)第四主日をクリスマス礼拝として守ったのです。12月25日が日曜日の年を除いて、私たちは25日(降誕日)直前の日曜日にクリスマス礼拝を守っています。降誕日までの四週間がアドヴェントということになりますが、アドヴェントという言葉は「到来」を意味するラテン語に由来します。今年も私たちはアドヴェントに御子キリストの到来を待ち望み、そして先週のクリスマス礼拝において、御子キリストの到来を、神の独り子が私たちの救いのために世に来てくださったクリスマスの出来事を心から喜び祝ったのでした。
2000年以上前に起こったクリスマスの出来事は、単なる過去の出来事ではなく、今を生きる私たち一人ひとりに関わる出来事です。御子キリストは世に来てくださり、その十字架の死によって罪の力による支配に打ち勝ってくださいました。ほかならぬこの私の救いのためです。罪と死によって支配されていたこの私が、キリストの十字架による救いに与り、洗礼によってキリストと結ばれて神の子とされ、新しい命を生き始めるようになるためです。ですからクリスマスの出来事は今を生きるこの私の救いに、この私の人生に関わる出来事であり、2000年前の御子キリストの到来は今の私たちと決定的に結びついています。しかしそれだけではありません。2000年前の御子キリストの到来を「第一の到来」と呼ぶならば、復活して天に昇られたキリストが再び世に来てくださる再臨の出来事を「第二の到来」と呼ぶことができます。今を生きる私たちは、御子キリストの「第一の到来」だけでなく、その「第二の到来」にも決定的に結びついているのです。キリストが再び世に来てくださるとき、十字架と復活によって実現した救いが完成します。「第一の到来」と「第二の到来」の間を生きている私たちは、「第二の到来」と救いの完成を待ち望むことなしに、絶望という名の力に押しつぶされそうな日々にあって希望を持って生きることはできません。また同時に「第二の到来」は、「第一の到来」なしには起こり得ないことです。クリスマスの出来事こそがキリストの再臨の確かな保証なのです。
テサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきました。すでに見てきたように、この手紙にはキリストの再臨について語られているところが少なくありません。本日の箇所は手紙の前半部分の終りですが、ここでもキリストの再臨が見つめられています。先週の日曜日に私たちはキリストの第一の到来であるクリスマスを喜び祝いました。そしてこの主の日、期せずして第二の到来であるキリストの再臨が見つめられている聖書箇所が与えられています。このことは、第一の到来と第二の到来の間を生きる私たちにとって、真にふさわしいことではないかと思うのです。
パルーシア
とはいえ本日の箇所を読んで、どこにキリストの再臨について語られているのだろうか、と思われるかもしれません。先ほど申したように、本日の箇所は手紙の前半部分の締めくくりでありパウロの祈りが記されています。その祈りの内容については後で詳しく見ていきますが、パウロとテサロニケ教会の「今」に関わる祈りであることはすぐに分かります。そのような「今」に関わる願いを祈る中で、しかし13節の前半に「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」とあるのです。新共同訳では間に文が挟まっていて分かりにくいのですが、原文の順序に沿って訳せば、「わたしたちの主イエスが来られるときに、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に」となります。この「わたしたちの主イエスが来られるとき」こそ、キリストの「第二の到来」、キリストの再臨にほかなりません。さらに日本語の訳では分かりませんが、原文では特別な言葉が使われていて、「わたしたちの主イエスのパルーシアにおいて」と言われています。「パルーシア」というギリシャ語はもともと「再臨」を意味するのではなく、「目の前にいること」や「到来」を意味し、そのような意味でも新約聖書で使われています(二コリ7:6-7、10:10、フィリ1:26など)。しかし多くの場合、新約聖書では終りの日の主イエス・キリストの到来を示す特別な言葉として使われているのです。またパルーシアという言葉には、「再び」到来するという意味合いがあるわけでもありません。それにもかかわらず、「わたしたちの主イエスのパルーシア」とか、「主のパルーシア」というような表現によって、終りの日にキリストが再び来てくださることが、キリストの再臨が言い表されているのです。そしてキリストの再臨を言い表す特別な言葉としての「パルーシア」は、新約聖書で16回使われている内、4回がこの手紙で使われています。つまり実に四分の一が5章からなるこの短い手紙に集中的に見出だせるのです。このことは、この手紙以外ではキリストの再臨が語られていないとか、重要視されていないということではありません。「パルーシア」という言葉が使われていようといまいと、終りの日にキリストが再び世に来てくださり救いを完成してくださるという信仰は、新約聖書全体が告げていることだからです。しかしそうだとしても、「パルーシア」が集中的に使われていることからも分かるように、この手紙は、ほかのどの箇所よりもキリストの再臨をしっかり見つめていると言えるでしょう。たとえば4章13節以下では、キリストの再臨について具体的に描かれていますし、5章1節以下では、いつキリストの再臨が起こるかについて語られています。そして本日の箇所においても、パウロは祈りの中で、「わたしたちの主イエスが来られるとき」を、つまりキリストの再臨を見据えているのです。あるいは、パウロはキリストの再臨から「今」を見据えている、と言ったほうが良いかもしれません。キリストの再臨から今の自分自身を、今のテサロニケ教会とその教会の人たちを見据えているのです。私たちの信仰の歩みも同じです。キリストが再び来てくださるのを待ち望んで生きるとは、いつか、将来、キリストの再臨が起こるだろうと漠然と思っているということではなく、キリストの再臨から自分を見つめつつ、捉えつつ歩んでいくことにほかならないのです。だからこそ、「第一の到来」であるクリスマスの出来事が「今」を生きる私たちに関わるように、「第二の到来」であるキリストの再臨も、いつか分からない未来ではなく、「今」を生きる私たちに関わることなのです。
テサロニケへ行くことを願う
さて11-13節のパウロの祈りでは、彼の二つの願いが祈られています。一つは、パウロたちがテサロニケ教会の人たちに会いたいという願いであり、もう一つは、テサロニケ教会の人たちの愛が豊かに満ち溢れてほしいという願いです。第一の願いについてパウロは11節でこのように祈っています。「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。」今までも繰り返しお話ししてきたことですが、パウロは不本意ながら生まれたばかりのテサロニケ教会から離れなければなりませんでした。そのためにパウロはもう一度テサロニケを訪れて、テサロニケ教会の人たちに会いたいと願っていたのです。しかしこのパウロの願いは、過去の不本意な別れにばかり気を取られた願いではないと思います。過去に出来なかったことや出来なくなってしまったこと、あるいは失ってしまったことを取り戻したい、というような「後ろ向きな願い」ではないのです。本日の箇所の直前の10節にはこのようにあります。「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」パウロは、テサロニケ教会の人たちの信仰に必要なものを補うために彼らに会いたいと祈っていたのです。このパウロの祈りに私たちは戸惑いを覚えるのではないでしょうか。この手紙においてこれまでパウロは、彼らの信仰に足りないところがあるとはまったく述べてきませんでした。むしろ苦難の中にあっても、彼らが主イエス・キリストにしっかりと結ばれ、その信仰と愛が揺らいでいなかったことを喜び、神に感謝していたのです。それにもかかわらず、パウロがテサロニケ教会の人たちの信仰に欠けがあると言うのは、パウロが彼らの「今」だけでなく「未来」を見据えているからではないでしょうか。終りの日のキリストの再臨から「今」を見据えているのです。「あなたがたの信仰に必要なものを補いたい」とは、「今」のテサロニケ教会の人たちの信仰を裁く言葉ではありません。彼らの信仰が、これから終りの日に向かって、聖霊の働きによって豊かにされ、育まれていくことを願う言葉です。そのことに仕えるためにパウロはテサロニケへ行きたいと願っていたのであり、だからこそ11節で、テサロニケへ行く道を開いてください、と祈っているのです。
聖霊の働きによって欠けが満たされると信じる
私たちはしばしば「今」に縛られてし まいます。「今」の自分が欠けだらけであることにひどく落ち込んでしまうことがあり、あるいは「今」の隣人の欠けが目につき気になってしまうことがあります。教会の営みにおいても、色々と足りないところがあり、どうしたらよいか分からないことも少なくありません。そして私たちはどこかでそのような欠けがあっても仕方がない、と諦めてしまっているのではないでしょうか。確かに「今」だけを考えるなら、自分や隣人のことであれ、教会のことであれ諦めても仕方がないかもしれません。そのような欠けは、私たちの力ではどうにもならないように思えるからです。けれども、キリストの再臨から「今」を見つめるならば、私たちの欠けや教会の欠けが、聖霊の働きによって満たされていくことを信じて良いのです。「今」は足りないとしても、これからもずっと足りないままなのではなくて、キリストの再臨による救いの完成に向かって、聖霊が豊かに注がれて私たちも教会も満たされ変えられていくからです。二年近くに渡るコロナ禍にあって、与えられた恵みも少なくありませんが、失われたものも多くあります。そして「今」、日本でも新たな変異株の感染が広まりつつあり、私たちの目には再び先行きが見えなくなってきています。しかしそうであったとしても、キリストの再臨から「今」を見つめるなら、その失われたものは、必ず聖霊の働きによって満たされるのです。それは単に、コロナ前に戻ることができるということではありません。多くを失ってもなお、私たちは救いの完成に向かって導かれているのであり、その歩みにおいて確かに満たされ、豊かにされていくに違いないということです。私たちは「今」の現実に圧倒されたり、自分たちの無力に打ちのめされたりするのではなく、キリストの再臨による救いの完成から「今」を見つめ、聖霊の働きによって満たされ変えられていくことを求めて、諦めることなく祈り続けていきたいのです。
お互いの愛
12節にはパウロの第二の願いがこのように祈られています。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」ここでも原文に沿うならば、この祈りの言葉の骨格は、「主があなたがたを愛で豊かに満ちあふれさせてください」という願いです。それをさらに説明して「お互いの愛とすべての人への愛とで」と言われています。愛で豊かに満ちあふれさせてくださいと願われているその愛は、一つには「お互いの愛」であり、もう一つには「すべての人への愛」なのです。「お互いの愛」とは、テサロニケ教会の中において、教会員同士が互いに愛し合う、その愛のことです。テサロニケ教会は生まれたばかりの教会であり、未熟さと不安定さを抱えていたに違いありません。そのような中で、キリストの体なる教会が形づくられていくのは、神に愛され神の子とされた教会員一人一人が、神を愛し、お互いに愛し合うことによってです。いえ、生まれたばかりの教会に限ったことではありません。神によって召し集められた者の群れである教会の根本にあるのは、神を愛することと隣人を愛することにほかなりません。主イエスが「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:37-38)と言われたことが想い起されます。教会に連なる人たちがお互いの愛で豊かに満ちあふれることによって、その教会は育まれていくのです。
すべての人への愛
さらにパウロは、「お互いの愛」だけでなく、「すべての人への愛」について祈ります。「お互いの愛」が、テサロニケ教会の中において、教会員同士がお互いに愛を持って接していることを意味しているのに対して、「すべての人への愛」とは、教会の中ではなく、教会の外にいる人たちへの愛を意味します。「主がテサロニケ教会の人たちを教会の外にいる人たちへの愛で豊かに満ちあふれさせてください」、とパウロが祈ったのは、テサロニケ教会が教会の外に対して自らを閉ざそうとしていたからかもしれません。生まれたばかりで、指導者であったパウロが去り、教会を取り囲む状況が厳しかったテサロニケ教会が、教会の外に対して自らを閉ざすことを考えたとしても不思議ではありません。教会の中のことだけで精一杯、教会の外にいる人たちのことまで考える余裕がない、というのが実情だったのかもしれません。けれども、たとえどのような事情があったにせよ、教会の中だけで互いに愛を持って接していればそれで良いということはないのです。どのような困難な状況にあったとしても、教会は内にこもって外への扉を閉ざしてはなりません。なぜなら神の愛は、教会の中にだけとどまっているものではないからです。ルカによる福音書の降誕物語において、主の天使は、救い主の誕生がすべての人たちに与えられる大きな喜びであると告げました。その大きな喜びを知らない方々が教会の外にたくさんいらっしゃいます。救い主イエス・キリストにまだ出会っていない方々が教会の外にたくさんいらっしゃるのです。ですから教会は世界に対して開かれていなくてはなりません。そして教会の中にいる人たちにだけではなく、外にいる人たちに向かって神の言葉を、福音を響き渡らせなくてはならないのです。教会の外にいる人を愛するとは具体的にはどのようなことなのか、と思われるかもしれません。それは色々な形があると思いますが、なによりもその方々を教会にお連れすること、礼拝にお招きすることではないでしょうか。礼拝においてこそ、神はみ言葉を通して、ご自身の愛を一人ひとりに示してくださるからです。独り子を世に遣わしてまで私たちを愛してくださった、その神の愛が示されるからです。
キリストの再臨から見つめ、キリストの再臨に向かって
13節で、パウロの祈りはこのように締めくくられています。「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」すでに見てきたように、ここではキリストの再臨が見つめられています。「御自身に属するすべての聖なる者たちと共に」とありますが、福音書で終りの日にキリストが「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(マタイ25:31)と言われていることから分かるように、ここでの「聖なる者たち」とはキリスト者のことではなく天使たちのことです。パウロは、キリストの再臨のときに、主がテサロニケ教会の人たちの心を強め、父なる神の御前で、「聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」と祈ります。しかしこの祈りは、「今」と切り離されてキリストの再臨のときのことだけを祈っているのではありません。11、12節の祈りと無関係に13節が祈られているのではないのです。むしろこの祈り全体が、13節のキリストの再臨から捉えられています。パウロがテサロニケ教会に再び訪れることを願うのは、テサロニケ教会の人たちの信仰が、終りの日に向かって、聖霊の働きによってその欠けを満たされ、豊かにされるためでした。またテサロニケ教会の人たちが、教会の中において互いの愛で満ちあふれることによって、キリストの体なる教会は形作られ、育まれていきます。そして彼らが外の人たちへの愛で満ちあふれることによって、救いのみ業の前進にも仕えていくのです。「第一の到来」であるキリストの誕生と「第二の到来」であるキリストの再臨の間にあって、教会の使命は伝道にあるからにほかなりません。教会は、世界に対して扉を開き福音を宣べ伝えていきます。神の愛を届けていくのです。
パウロの祈りは、「今」に関わる祈りであると同時に、キリストの再臨に向かう祈り、キリストの再臨から見つめた祈りです。私たちが生きている「今」は、キリストの誕生と決して切り離せない「今」であり、キリストの再臨とも決して切り離せない「今」なのです。そのような「今」を生きるとは、終りの日に向かって、キリストの再臨に向かって、救いの完成に向かって歩むことにほかなりません。その歩みの中で、聖霊の働きによって私たちの信仰が育まれ、私たちの愛が豊かにされていきます。そのことにおいて、私たちは「聖なる、非のうちどころのない者」に変えられていくのです。私たちの力によってではなく、「わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエス」によって、そして聖霊の働きによって、私たちは変えられていくのです。そのことを信じ祈り求め、私たちの主イエスが再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望みつつ、希望を持って新しい年主の2022年を迎えていきましょう。