主日礼拝

忘れてはいけないこと

「忘れてはいけないこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第3章1-9節
・ 讃美歌 ; 6、470、509、81(聖餐式)、67(洗礼)

 
教会の誕生日
 今日のこの礼拝は、私たちのこの横浜指路教会のお誕生日を記念する礼拝です。この教会は、132年前、1874年(明治7年)の9月13日に生まれました。今年で、満132歳になるのです。132年というと、ものすごく長い年月です。そんなに長く生きている人はまずいません。この教会が生まれた頃のことを知っている人はもう誰もいないのです。私たちの教会は、とても長い歴史を持っています。日本では一番古い教会の一つです。でも、132年くらいで驚いてはいけません。イエス様の教会そのものは、もう二千年になろうとする歴史を持っています。それを考えれば、私たちの教会も、まだまだ生まれたばっかりの新しい教会と言ってもいいくらいなのです。

礼拝の歴史
 この教会は132年の間、一つのことをずーっとしてきました。場所も違ったことがあるし、建物も変わったし、集まる人たちの人数も、顔ぶれも変ってきましたし、牧師も、私で数えて13代目になるようですが、そのようにいろいろなことが変っていっても、一つのことをずっと続けてきたのです。それは何でしょうか。それは、今私たちがしていること。つまり、日曜日に神様を礼拝する、ということです。教会の132年の歴史は、神様を礼拝してきた歴史なのです。それはこの教会の歴史だけではありません。イエス様の教会が二千年にわたってずっとしてきたことも、礼拝です。教会というのは、神様を礼拝する人たちの集まりなのです。

礼拝の心
 神様を礼拝する、と言いましたけれども、それはいったい何をすることなのでしょうか。今私たちはこうして、賛美歌を歌って、お祈りをして、聖書のお話を聞く、という礼拝をしていますが、そういう礼拝の形は二千年の間にずいぶん変ってきました。でも、その礼拝の心と言うか、一番大切な精神は変わっていません。その、礼拝の一番大切な心が、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、申命記第6章の4、5節に語られていたのです。そこをもう一度読んでみます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これが、礼拝の一番大切な心です。ここで、「聞け、イスラエルよ」と呼びかけられているのは、イエス様がお生まれになるよりもずっと昔の、イスラエルの人々です。イエス様の教会は二千年の歴史があると言いましたが、神様を礼拝することは、それよりももっとずっと前から、イスラエルの人々によってなされてきたのです。教会は、イスラエルの人たちが大切にしてきた礼拝の心を受け継いで、イエス様の父である神様を礼拝してきました。この横浜指路教会も、その礼拝をする群れとして132年前に生まれ、今までずっと変ることなく、心と魂と力を尽くして、神様を愛するための礼拝をしてきたのです。

礼拝の心を受け継ぐ
 イスラエルの人々は、この、心と魂と力を尽くして神様を愛する、という礼拝の心を、大人から子供へと大切に受け継いできました。今日私たちはこの創立記念日の礼拝を、大人と子供が一緒に守っています。教会学校の皆さんにも、大人の人たちと一緒に神様を礼拝することによって、神様を礼拝する心を知ってもらいたい、そしてそれを受け継いでいってもらいたいという願いからこのようにしているのです。イスラエルの人たちも、子供たちに礼拝の心を繰り返し語って聞かせて、それを伝えようとしていました。そのことが6~9節に語られています。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。イスラエルの人たちが、忘れてはいけない大切なこととして受け継いでいったのは、神様を礼拝する心、心と魂と力を尽くして、神様を愛することだったのです。私たちの教会も、このことを、多くの先輩の方々から、132年の間受け継いできました。これからも、心と魂と力を尽くして神様を愛する礼拝の心を決して忘れないで歩んでいきたいのです。

自分で得たのではない恵み
 でも、神様を心から愛することはどうしてそんなに大事なのでしょうか。そのことが、申命記6章の10節以下に語られています。10節から12節までを読んでみます。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい」。イスラエルの人たちはこの時、奴隷とされ苦しめられていたエジプトから神様によって救い出されて、四十年の苦しい荒れ野の旅を経て、いよいよ、神様が約束して下さったカナンの地へと入ろうとしていました。神様の約束がいよいよ実現しようとしているのです。カナンの地に入ったなら、自分で建てたのではない、大きな美しい町々や、自分で貯えたのではない、あらゆる財産で満ちた家に住むことができます。また、自分で掘ったのではない貯水池があり、自分で植えたのではないぶどうやオリーブの畑からの収穫を楽しむことができます。そういう豊かな生活を、自分で苦労して努力して作り上げたのではないのに、得ることができるのです。自分で苦労して作り上げたのではない、それは、他の人が苦労して作ったものをいただく、ということですが、それを与えて下さるのは神様です。私たちが苦労して、努力して手に入れるのではなくて、神様が、恵みによって与えて下さるのです。神様が約束して下さったカナンの地に入る、というのはそういうことです。それは私たちが、教会で、イエス様の救いにあずかって歩むことと同じだと言うことができます。イエス様の救いの恵みは、私たちが何かをしたから与えられるものではありません。私たちが苦労して、頑張って、立派な人間になり、善いことを沢山したら、神様がそのご褒美として救って下さるのではないのです。私たちの救いは、神様が独り子のイエス様をこの世に遣わして下さって、そしてそのイエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって与えられています。私たちは何もしていないのです。イエス様が全てのことをして下さったのです。私たちは、自分が努力も苦労もしていない救いを、イエス様によって与えられているのです。私たちが教会で与えられるイエス様による救いとはそういうものです。このことを私たちは忘れないでしっかり覚えておかなければなりません。イスラエルの人々に言われているのもそのことです。約束の地に入って、そこで、自分が苦労して手に入れたのではない豊かな生活をしていく時に、その全てを与えて下さった主なる神様を忘れてはいけない、自分たちは何も苦労していないのに、神様が全てのことをして下さって、この恵みを与えて下さったことを忘れないで、その神様に感謝して、心と魂と力を尽くして神様を愛する礼拝を大切に守っていきなさい、と言われているのです。私たちの礼拝もそれと同じ心で行われます。私たちも、自分は何も善いことをしたわけではないし、むしろ神様に背き逆らう罪を繰り返している者なのに、イエス様がその私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さって、私たちの救いのための全てのことをして下さった、そのおかげで、神様の家族になることができたのです。神様を父なる神様とお呼びしてお祈りをして、神様といっしょに歩むことができるようになったのです。そのイエス様に感謝して、イエス様を遣わして下さった父なる神様を、心と魂と力を尽くして愛する礼拝をささげていくのです。

洗礼と聖餐
 今日この礼拝で、一人の人が洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは、イエス様を信じます、という信仰を言い表して、毎週日曜日に、心と魂と力を尽くして神様を愛する礼拝をする者となる、ということです。自分は何も善いことをしていないし、立派な人でもないのに、イエス様が私のために十字架にかかって死んで下さり、復活して私たちを神様の子供として下さった、教会は、このことを信じて洗礼を受けた人たちの群れなのです。この教会も、132年前に、その洗礼を受けた人たちによって設立されました。そしてそれ以来、その人たちに続いて洗礼を受ける人たちを沢山生み出してきました。今日この教会の誕生日をお祝いするこの礼拝で、また新しく一人の人が、洗礼を受けた人たちの仲間に加えられるのです。
 洗礼式の後、洗礼を受けた人たちがみんなで、聖餐をいただきます。小さなパンの一切れと、小さな杯に一杯のぶどうジュースをいただくのです。それは、イエス様が私たちのために十字架にかかって、肉を裂き、血を流して死んで下さった、その恵みを体全体で覚えるためです。私たちの救いのために必要な全てのことをイエス様が、命をささげて成し遂げて下さった、そのことを口で味わって、神様に感謝するのです。そして、私たちもイエス様のからだである教会に結び合わされているんだ、ということを忘れないで歩んでいくのです。ですから、この聖餐も、洗礼も、そして賛美歌もお祈りも聖書の朗読も、私のこのお話、説教も、礼拝の全ては、心と魂と力を尽くして、神様を愛するためになされているのです。

神と隣人を愛する
 今日一緒に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書22章34節からのところには、イエス様が、今の申命記の、神様を心から愛するという礼拝の心を何よりも大切なこととしてお教えになったことが語られています。イエス様はそこにもう一つ、同じように大切なことがあるよと教えて下さいました。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。隣人といのは、お隣の人です。それは、今お隣に座っている人から始まって、家族、友達、そしてこの日本に共に住んでいる人たち、さらにはこの地球上に共に生きている全ての人々にまで広がっていきます。世界の全ての人々を、自分自身と同じように愛すること、それも、神様を心から愛することと並ぶ、もう一つの大切なことなのです。そしてこの二つは別々のことではありません。神様を心から愛するならば、私たちは、その神様が愛しておられる世界の人々を、もっと身近なところで言えば、あんな人嫌いだと思っている人をも、愛する者とされていくのです。神様を愛することと、隣人を愛することは一つであり、それが礼拝の心です。神様がまず私たちのことを深く愛して下さって、私たちの救いのために全てのことをして下さった、イエス様によって与えられたこの神様の愛を、私たちは礼拝で教えられ、味わいます。そしてその神様の愛に押し出されて、神様を愛し、隣人を愛する者として歩んでいくのです。教会が132年の間、いや二千年にわたってずっと続けてきたこの礼拝をこれからも大切にして、礼拝の心を受け継ぎ、深められながら歩んでいきたいと思います。

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