「御国が来ますように」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; ゼカリヤ書、第14章 1節-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 1節-4節
・ 讃美歌 ; 136、559、81
1 「御国が来ますように」、主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りです。「御名が崇められますように」と祈ったら、それに続いて「御国が来ること」を祈り求めなさいと主は教えてくださいました。「み名が崇められる」ということは、神と私たち人間との関係をはっきりとさせます。神さまのお名前、つまり神様ご自身が敬われ、畏れられ、礼拝されるというのですから、神が主であり、私たちは僕になる、ということです。神が主人であり、私たちはこのお方の下に置かれるのです。神が私たちに眼差しを注いでいてくださり、私たちはこの神を仰いで歩みます。そのようにして、神と私たち人間との関係、縦の関係、垂直方向の関係がはっきりとされるのです。
これに対して「御国が来ますように」という祈りは、私たちが生きるこの世界、横に広がるこの地に、神の国がやって来ることを願い求めます。神と私たちの間に貫き通された縦の関係が、この水平の世界のどこにおいても実現していくことを祈り求めるのです。ちょうど池の上に石が落とされると、落ちたところを中心に、池の水面に波紋が広がっていくように、この地上にもたらされた神のご支配が、この地上に広がり、すべてを覆い尽くしてくださるように、と願うのです。御国と言いますと、なにか境目を持った国のことを私たちは想像してしまうかもしれません。ある領域、ある領土をもって区切られた国があって、それがある時、忽然と世界のまっただ中に出現する、そんな想像をするかもしれません。たしかに、新約聖書の最後にある、ヨハネの黙示録が語るところによれば、終わりの時には、新しいエルサレムと呼ばれる都が、天から降ってくると言われています。けれども、そのことでもって一つのある国がまたこの世界に付け加わる、といった話ではありません。そうではなく、そこで注目されているのは、「神のご支配」がそこに実現する、ということなのです。神が治め、神が支配をしてくださること、そのことが私たちにおいて、またこの世界全体において実現する、キリスト者として生きるなら、このことが私たちの日々の祈りとなるはずだ、それが、主イエスが弟子たちに伝えたいことなのです。
2 神のご支配がやって来ますように、こういう祈りが捧げられるのはどうしてでしょうか。今もって私たちがこの祈りに生きるのはどうしてでしょう。祈り求められる、ということはそれがまだ完全に実現していないためでしょう。それがまだこの地上に完成していないからでしょう。ルカが伝える主イエスの最初の公のお言葉は、主がナザレの会堂で預言者イザヤの巻物を朗読された、そのお言葉であります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(4:18,19)。油を注ぐという儀式は、神に任命された王が、その務めを身に帯びる時に行われたことです。神に遣わされた王がやってくる時、その支配が始まり、そこには捕らわれている者、目の見えなかった人、圧迫されている人の解放、癒しが伴う、ということが語られているのです。しかもこのことは、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスはおっしゃいました。神の支配、御国は、主イエスが来られたことによって始まっているのです。ところがまだ、それが完成、実現をしてはいないのです。
「御国が来ますように」、私たちがそう祈り求めるのは、御国が来ることを邪魔しているもの、妨げているものがあることを知っているからです。それがあるがために、御国がなかなか来ない、やっかいなものがあることを知っているからなのです。それは、神の支配を受け入れないで、自分の支配をこそ実現したいと、いつも計画を立てている私たちの思いなのです。私たちはこの祈りでもって、御国がやって来るのを妨げている、この世の何か抽象的な力が排除されるようにと、祈っているのではありません。そうではない、まさに私たちが、この御国の到来を妨げている張本人であることを認めているのです。私たちの自己追求、自分の思い、自分の計画が御国の来るのを妨げています。神ではなく、自分が王座についていたい、自分の人生は、自分のいいようにしていたい、その思いが御国の到来を邪魔しているのです。先のナザレの会堂で、主イエスのお話を聞いた群衆が、主を山の崖まで追いつめ、突き落とそうとしたことを、深く思い見なければならないのではないでしょうか。自分以外の者が自分を支配することは、そのままの私たちには気にくわないこと、不愉快なことなのです。「みこころ」が自分自身の中に貫き通ることをゆるさず、自分の思いにこだわり、かえって地上における自分の思いを天に向けて押しつけるようなことをしているのが私たちなのです。つまり、まるっきり神を王として、支配者として、私たちの主としてお迎えする備えができていないのが私たちです。だからこそ、主は教えてくださいました。「祈りなさい、み国が来ますように」、と。この祈りで私たちが願うのは、何よりも私たちが自分の王座から降りることができ、神を王としてお迎えできますように、ということなのです。主イエスが主としてわたしたちの生活を占領してくださるように、という祈りなのです。
3 ドイツの牧師であったヘルムート・ティーリケという人が教会で行った主の祈りの説教があります。毎回、一つ一つの祈りについて順番に説き明かされたのですが、その説教を一つにまとめた本が日本語にも訳されています。この説教集を読んで私が心を打たれたのは、この説教が、第二次世界大戦の最中、連日激しい空爆が行われている最中になされていたことです。「御国が来ますように」、この祈りについてなされた説教には、以下の注記がなされています。「この説教は、これを行なう直前に、教会堂が空襲にみまわれて、みじめな廃墟と化したために、やむを得ずホスピタルキルヘのコワイアで行ったものである。シュトゥットガルト市の中心部も、その時に、完全に壊滅した」(『主の祈り』、74頁)。神のご支配などいったいどこにあるのか、と思われるような悲惨な状況、礼拝堂さえ破壊され、落ち着いて礼拝を守ることも脅かされているような状況の中で、しかしティーリケは語るべき言葉を与えられたのです。こんな状況の中で一体何が語れるというのだ、そういう魂の奥底から搾り出されるようなうめきが、土曜日の夜にはきっとあったに違いありません。けれども、彼は語るべき言葉を与えられたのです。しかも説教の冒頭で、荒れ狂う猛火の嵐の後で、主の祈りに聞こうと呼びかけて説教をはじめることが許されているのは、それだけで大いなる慰めであり、そのこと自体が今日のメッセージになっている、とまで語ることができたのです。
それはいったいどうしてでしょうか。人生の困難や試練、痛みや苦しみ恐れや嘆きのあるところには、もはや神のご支配はない、と考えるならば、こんなことは言えないでしょう。ティーリケももはや、語るべき何の言葉も見出せなかったはずであります。けれども、神の国は、この暗闇の最中にあることを彼は知っていたのです。私たち人間が自らを王様にし、国と国が支配権を巡って争い、そのために自分自身が傷つきうめいている、本当のご支配を知らないゆえに苦しんでいる。そこにこそ、神は憐れみを注ぎ、沈黙の最中でこそ、誰も知らなかった救いのみ業を行っていてくださるのです。このことが起こったのが、主イエスが十字架におかかりになった出来事です。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、そう言って息を引き取られるまで、神の御心に従い尽くされたお方が、私たちの主であり、まことの王なのです。私たちの苦しみや悩み、どん底の最中、そこにこそ神は共におられるのです。共におられるばかりでなく、既にその苦しみ、悩みを十字架の上で担い、味わい、背負ってくださっているのです。私たちのどんな悲しみや恐れも、もはや主イエスのご存知でないものはありません。すべて主が担われ、神の顧み、神の勝利の中に受け止めてくださっている悲しみであり、恐れであるのです。ティーリケはこう言っています。「主の祈りは、全世界をつつみ、従ってまた、みんなが今そこに閉じ込められているこの恐るべき異例の状況にあるわれわれをも包んでいる」。「うれしいことも、苦しいことも、あなたがたの身に起こることはすべて、あなたがたの父の御心を先ず通り過ぎてこなければならない」。「主の祈りの言葉は、どんな状態の時にも密接な係わりを持っている。農夫は一日の仕事を終えて後、主の祈りを祈り、ほんとうにほんとうに静かな秋の夜の平静につつまれることができる。母親は防空壕の中で、その上を死をもたらすものが通り過ぎる時にも、子供たちといっしょに主の祈りを祈ることができる。父の庇護をはじめて予感するほどの小さい子供にも、残されたわずかの時の試練に会っている老人にも、主の祈りを祈ることが許されている」(74頁)。「御国が来ますように」、と祈られる時、やってくる神のご支配が与り知らないこの世の領域は何もない、ということが覚えられています。神の知らない痛みも苦しみも何一つない。誰にも知られないところで一人悩んでいる、恥じ入っている、そんな心の片隅にある暗闇も、またこの世界に荒れ狂っている暴力も、神の顧みから見放されてはいないのです。主の祈りを巡るティーリケの説教集に、「世界を包む祈り」という副題が付けられているゆえんであります。
4 ルカによる福音書が伝える主の祈りには、「御国が来ますように」という祈りに続いて、私たちがいつも祈る祈り、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがありません。ルカにおいては、この祈りは「御国を来たらせたまえ」という祈りに含まれている祈りだ、ということでありましょう。御国が来る、ということは、父なる神の御心が、地上においても実現する、そうして神がすべてにおいてすべてとなられる、ということであるからです。
けれども私たちはそのままでは、神のご支配に自らを明け渡すことができません。この地上において、誰も父なる神の御心に、完全に自らの心を重ね合わせて生きる者はありません。むしろ先ほど申したように、自分の思い、自分の計画、自分の支配にこだわり、神との関係を自ら歪んだものにしてしまっているのです。ただお一人、主イエス・キリストのみが、神の御心に自らの思いを重ね切って、御心に従い尽くして歩まれました。ゲツセマネの祈りを思い起こしたらどうでしょう。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)。主はここで祈りの戦いをしておられます。父なる神とご自身との間に、ご自分の思いが入り来て邪魔をすることがないように、祈り戦っておられるのであります。そしてこの祈りにおいて打ち勝たれた主イエスは、父なる神の御心に従い尽くして十字架に上られたのです。それが神の御心であったからです。それが神のご支配、み国が来るためになくてならない、欠かせないことであったからです。私たちは、そのままでは神のご支配を認めようとしない反逆者です。そのままでは神の国に入ることは決してゆるされない者です。反逆者が神の国に入るには、犯したこの反逆が赦され、その罪が帳消しにされなければ成りません。それが主の十字架において成し遂げられたのです。十字架によって、私たちの罪が赦され、神に反抗して自らの王国を建てようとしていた思い上がりが打ち砕かれました。受けるべき神の怒りを、何の罪もない神の独り子が代わってその身に受けてくださったのです。その暗闇の最中で、沈黙のただ中で、隠されていた神のご支配が力強く輝き出すのです。神のご支配は主イエスが来てくださったことで始まっています。主の十字架は、私たちを神の国に招くため、その罪を赦すのです。主の復活は、死をも討ち滅ぼす神のご支配を明らかにします。主が神の右に挙げられるのは、この先どんな時、どんな場所でも、そこに神のご支配が始まっていることを知らせるためです。そしてやがてそこから再び来られる主が、このご支配を完成させてくださることを約束しておられるのです。
5 み国がいつやってくるのか、それは分かりません。その日、その時はただ神のみがご存知のことです。けれども、それは確かにやってくるのです。主イエスご自身が私たちのもとに来てくださったからです。このお方を通して私たちは今、父なる神の御心が何であるかを知らされているからです。主イエスが再び来られる時に、すべてが裁かれ、今始まっている神のご支配が完成に至るのです。主イエスにおいて始まっているご支配、それは今は信仰の目にだけ見える、隠された形を取っているでしょう。しかしそれは着実に前進しているのです。終わりは近づいているのです。そこで神が王であり、主であることがどこまでも貫き通されるのです。このことが貫かれるなら、神に反逆する者にとっては、それが裁きになるのです。私たちの行く手に、神の裁きが待ち受けている、それは恐いことに思えます。恐ろしいことでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。その時、裁くお方として来られるのは、ほかのどなたでもない、主イエス・キリスト、このお方なのであります。私たちを御国へと招くため、十字架におかかりになり、私たちの罪を赦してくださった神の独り子が、私たちの裁き主です。ですから、私たちは深いところで、平安のうちに主の御前に立つことができます。主の御名を刻まれた者、キリストのものにされた者として、救いを完成され、神のご支配、み国へと招き入れられることに確信を持ってよいからです。
それゆえに、「み国を来たらせたまえ」という祈りは、希望に結びつきます。今たとえどんな恐れや悩み、苦しみ、嘆きがあっても、それがどこまでも続くことはない、最後には神のご支配が貫き通され、私たちの救いも完成される、そのことにより頼むことで、今を堪え忍び、慰めを与えられ、感謝と喜びを携えつつ歩む力が、そこに与えられていくからです。祈りは運命の力に負けません。どうせ世の中こんなもんさ、という醒めたあきらめのような感覚の正反対を行きます。むしろ祈りは、もっとも積極的で、力強い歩みの原動力となるのです。主イエスのご支配の完成に望みをおいているからです。教会は、この終わりの時の恵みを知っています。今、主イエスにおいてその恵みの確かさを示されているからです。礼拝はこの恵みのご支配を先駆けて味わう時なのです。今日もここに主の食卓が備えられています。今ここに、御国で与かる祝宴を思い、私たちに与えられている希望を新たにしたいと願います。預言者ゼカリヤの言葉に導かれつつ、来るべきみ国の力を味わいたいのです。
「しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく 夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で 半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい 夏も冬も流れ続ける。 主は地上をすべて治める王となられる。 その日には、主は唯一の主となられ その御名は唯一の御名となる」(ゼカリヤ14:7-9)。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私共の直面する悩みも悲しみも、恐れも憂いも嘆きも、何一つあなたのふところに受け止められていないものはありません。すべてあなたが独り子主イエスにおいて担ってくださっているものであります。どうか今、私共の中にある自らの思いへのこだわりから私共を解き放ち、すべてのものをあなたの御心の中に投げ入れることができますように。私共の支配ではなく、あなたのご支配が実現しますように。今、あなたの御国の祝宴を先んじて味わう聖餐を通し、私共に与えられている希望を新たにさせてください。主の御国が来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。