夕礼拝

御国を見る喜び

「御国を見る喜び」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第52章 1節-15節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第10章 21節-24節
・ 讃美歌 ; 360、479

 
1 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。主の名を用いて悪霊に命じると、どの悪霊も、自分たちの思い通りになる、それが小気味よくて喜びながら帰ってきた弟子たちに主がお与えになったお言葉です。悪霊が自分たちの思い通りになることが、あなたがたの喜ぶべきことではない、むしろもっと深い喜び、このことを通して現されている恵み、この出来事の背後に隠されている喜び、御国で覚えられていることにこそ、あなたがたの思いを向けなさい。主イエスはそうおっしゃっておられます。
 このようにして弟子たちに向かって、彼らが本当に喜ぶべきことを語っているうちに、主イエスご自身がその深みから湧き上がってくる喜びに満たされて、神に賛美を捧げ始めました。主イエスご自身が、聖霊に満たされて、いわば興奮して神に呼びかけないわけにはいかなくなったのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(21節)。主イエスが喜びにあふれた理由、それは神の御心が、知恵のある者や賢い者にではなしに、何も分からない幼子のような者に示されたことでした。これは私たちが普通考える常識とは違っています。私たちは普通、知識を増し加えていき、賢くなっていけばいくほど、いろいろなことが分かってくると考える。ですから、神様のことについても同じように、知識を積み重ねて、だんだん賢くなっていけば、次第に分かってくるんじゃないかと思うわけです。そうしてだいぶ神様のことが分かってきたら、そのうち洗礼を受けることも考えてみていいかもしれない、そんな具合に考えます。
 教会に通い、キリストの道を尋ね求めている方々と接する機会を与えられると、多くの方が信仰についての知識が足りない、学びが不十分である、ということを気にされていることが分かります。そのことをまるで自分には信じる資格がまだできていないかのように受け止め、信仰の世界に飛び込むことをためらっておられることがままあります。けれどもここで、主イエスは知識を積み上げれば信仰が必ず分かるようになる、とはおっしゃらない。むしろ、知恵ある者や賢い者には、神の奥義が隠されているとおっしゃり、そのことをこそ神に感謝しておられるのです。そして幼子のような者に、神の奥義が開き示されたことをこそ喜び、父なる神に感謝を捧げておられます。知恵ある者や賢い者は、神のことがいろいろと分かるように見えながら、実は何も見えていない。むしろ何も分からない、ただ与えられたものを受け取るだけの幼子の方が、神の御心を知る者にふさわしい、主イエスにおいて何が始まっているのかを見ることが許されている、そうおっしゃっているのです

2 私たちは普通、今は分からないこと、隠されていることを知るために学びます。新しいことを学び、吸収し、それを用いながらさらに新しい領域を開拓していきます。ついには目的を達成し、知りたかった知識を身に着け、自分のものにして満足感を得るのです。そのようにして人はますます賢くなっていく、私たちは普通そう考えています。逆にいえば、そういう知識の積み重ねがないこと、賢さに欠けていることは、なにかとても恥ずかしいことであり、劣等感を感じたり、後ろめたさを感じたりするもとになっているのです。今日どれだけ多くの人が、特に学校で学んでいる若い人たちが、この問題で悩み苦しんでいるか、はかりしれません。お隣の国、韓国でも、過熱化する受験競争が生んだストレスが、大学受験での集団のカンニング事件を引き起こし、社会問題となりました。知識を増し加えて賢い者になるということが、人間として価値のあること、偉いことだと、一般には考えられているのです。
 けれども、こと神に関する知識については、事情はそういうものではありません。神についての知識の扉を開いたり、閉じたりする権威は、私たちの方にはありません。私たちがたとえどんなに学びを積んで、知識を増し加え、賢くなっていっても、神がその人にご自身を現すことをよしとされなければ、その人は決して神を知ることはできません。神が私たちと出会うことを御心としてくださらなければ、私たちはどんなに知識を積み重ねていっても、決して神と出会うことはできないのです。言い換えるなら、私たちが神を知ることができるかどうか、ということは、私たちがどれだけ知識を増し加えたかということに全面的に依存してはいないのです。私たちは知識を積み重ね、自分が築き上げてきた物事を理解する枠組みの中で、すべてのことをとらえ、解釈しようとします。相手をとらえ、モノのように眺め回し、分析し、それがどういうものであるかを把握しようとします。その時、相手をつかまえ、支配し、それについての判断を下す立場にいるのは自分自身です。自分が主人になって、今目の前にあるモノをとらえ、解釈してやる、そういう立場に立っています。人間が同じように、そういうやり方で神にも向き合おうとするなら、神はご自身を人間に現すことを拒否されるのです。なぜなら、それは人間が神を支配し、生きて語りかけてくださる神をモノのように扱うことになるからです。
一方、幼子は知識や賢さを盾にして生きることはできません。そういうものは何も持っていない。だから、全面的に親に依存しています。おむつを替えること、お乳を与えること、服を着替えさせること、体を洗うこと、何一つ自分自身の力で成し遂げることはできません。すべて親に委ねるしかありません。自分の中に持てるものが何もないからです。お母さんが見えなくなったら、お父さんが消えてしまったら、泣いて再び現れてくれるのを待つしかない、そういう存在です。人間的に見れば、実に頼りなく、心許ない有り様ですが、実はこのような者にご自分を現されることこそ、神の御心に適っているというのです。ただ神がご自身を現されること、そのことだけを頼りにし、時には泣きながら神が出会って下さる時をただ待ち続ける、自分の中に誇れるものは何一つないがゆえに、与えられる恵みだけを頼りにして生きる、そのような者にこそ、神は出会ってくださるのです。

3 神が神であることを現されるのは、ほかでもない、神ご自身です。決して私たちが知識や賢さを駆使して、よし、これなら神と認定しようと、認可を与えるような、傲慢な話ではありません。先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書が語っているように、ただ神ご自身が力を奮い、ご自身が神であることを示されるのです。5節、「そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる」。主ご自身がみ名の権威を回復されるためにご自身を現し、力を奮われるのです。
 かつて私が大学生の時、自分の性格についての悩みを抱えて、大学のある先生に相談に行ったことがありました。その時、その先生が示されたのは、私が相談したような問題について、教会が過去にどんな判断を示してきたか、ということをまとめた文書資料集でした。それを読むといろいろ参考になる、といったお話であったと思います。けれども、私はそれで決して納得しなかったし、思いが満たされることも、平安が与えられることもありませんでした。うなだれて家路についたことを覚えています。紹介された本を購入する気にさえなりませんでした。1万円以上の高い本だったから、ということもありました。けれどもそれだけではありません。私は自分の悩みは、本を読み知識を得ることで解消する問題ではないことを知っていたからです。結局私は、自分の弱さや破れを心の奥底までよくご存知の主が、しかしよくご存知の上で、その弱さと破れを私が十字架の上で引き受けようと、おっしゃってくださる、その主イエスご自身が直に私と出会ってくださる以外に、癒され慰められることはなかったのです。

4 主イエスは喜びにあふれて、父なる神に呼びかけられました、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(21-22節)。私はこの主イエスの御言葉を声に出して読み、聴くとき、主イエスが天を仰いで、父なる神に祈りを捧げておられるお姿を想像します。祈りにおける賛美を感じます。この賛美の中で、主イエスは喜んでおられます。この喜びは何でしょう。父なる神とご自身との間の、この上ない交わりを生きておられる、そのことへの喜びです。父なる神とのこれ以上ない交わりのうちに生きていることへの感謝です。ここにはこの世の何物によっても味わうことのできない父なる神と子なるキリストとの命の通い合いがあります。いわば父と子の間の、目配せ一つですべて通じ合うような親密な交わりがあります。意自ずから通ずる間柄があるのです。
 けれども、主イエスはその祈りの中で、ご自分と父なる神との関係だけを見て喜んでおられるのではありません。主イエスの祈りの中にすでに、弟子たちのことが覚えられているのです。「父のどういう者であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(22節)。この「子が示そうと思う」という言葉はまた、「子が啓示することを決意する」、とも訳せる言葉です。すべてのことが父から任せられている主イエスが、父なる神がどのようなお方であるかを誰に示すか、それをお決めになる権威を持っておられるのです。それは私たちが知識を積み上げ、賢くなることによって到達するようなものではない。ただ、誰にご自身を開き示されるか、その全権をご自分のものとして持っておられる主イエスの御心に、ひとえにかかっている事柄なのです。

5 このことがはっきりと示された上で、主イエスの眼差しが、今度は天から、すぐそばにいる弟子たちへと移ります。主イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけにおっしゃるのです、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(23-24節)。主イエスと父なる神とのこの上ない交わり、それは本来は主イエスだけがご存知の交わりです。主イエスだけが独占しておられる交わりです。けれどもその交わりを、「子が示そうと思う者」、「子が啓示することを決意する」者にも与えようとしてくださる、それが主の御心なのです。弟子たちは主イエスにおいて父なる神を目の当たりにしているし、主イエスにおいて父なる神からの直接の語りかけを聴いているのです。弟子たちに向かって、「彼らだけ」に、主はこのことをお語りになりました。いわば主イエスだけが父なる神のみ前で持っておられる特権に、弟子たちも今与っていると示してくださっておられるのです。主イエスがその喜びの祈りの中に、弟子たちを呼び入れ、巻き込み、「わたしと一緒に喜んでくれ」、と語りかけておられるのではないでしょうか。父と子との、命の通い合いの中に、私たちの命を巻き込み、招き入れてくださっています。父なる神を仰ぎ見つめた眼差しの中に、弟子たちをも覚えてくださり、あなたがたもこの交わりの中にいるのだ、と弟子達にまなざしを向けて下さいます。父と子の目配せ一つで通じ合うような親密な交わりに私たちも生きるようにしてくださっています。主イエスの祈りの中に、選ばれた彼らだけを、置いてくださっているのです。
 ルカの教会はこの語りかけをどう聴いたでしょうか。主イエスは「これを見ているあなたがた弟子たちは幸いだ」、とは語りませんでした。そうではなく、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と語ったのです。ということは、何もあの時主イエスのすぐそばにいた弟子たちだけがこの特権に与ったのではない。あの時あの場所だけではなく、いつどこであれ、主イエスによって選ばれ、主イエスの招きに与り、父と子の命の通い合いを見ることができるなら、その目を与えられたあなたがたは幸いだ、そこに始まっている神のご支配を、主の語りかけの中で聴き取ることができるなら、その耳を与えられていることに勝る幸いなことはないとおっしゃっておられるのです。そのように心の目を開き、魂の耳を開けて下さり、神のご支配が見えるようにし、神の語りかけを聞けるようにしてくださるのが聖霊です。主イエスを喜びにあふれた聖霊が今、ルカの属する教会の人々にも注がれ、目を、耳を、開いて下さるのです。今、肉において主イエスのおそばにはいなくても、霊において主と共にいる、ルカの教会の人々も、自らが主イエスの弟子であり、それゆえに主に選ばれ、主の見ているものと同じものを見、主の聴いておられる声と同じ御声を聴き、主の生きておられる命の交わりに自らも生かされていることを、礼拝の中で深く味わったのです。

6 今、私たちにも同じことが起こっています。私たちもあの弟子たち、またこの福音を聴いたルカの教会の人々のように、今主イエスの恵みのご支配を見る目を、主から与えられています。神からの語りかけを聴く耳を、主から授かっています。主が見えない目を開き、聞こえなかった耳を開けてくださったから、主の恵みのご支配を見て、御声を聴くことができるのです。ひと言で言えば、神と出会うことができるのです。そういう選ばれた者の特権に与ることができます。私は先日教会員を訪ねました。齢を重ね、弱さを覚えられ、もう長いことふせっておられる方です、聖書の御言葉、祈りの言葉に反応され、懸命に目を開き、何かを伝えようとされていました。病の床にあってもなお、御言葉の前でこの方の心はすっくと立ったのです。私はそこで、私たちがどんなになっても決して失われることのない神の確かなご支配がここにあることを思いました。御国がもう既に始まり、その影響が現れで始めているのです。そしてこれを目の当たりにするのはなにも伝道者だけではない、教会に生きる者はだれでも、ここに御国を見る幸いを知っているのです。
 この特権に与らせるためにこそ、主イエスは十字架におかかりになり、自分の知恵や賢さにしがみつく私たちの思い上がりを、ご自分の死と共に滅ぼし去ってくださいました。そして幼子のように、ただ父なる神がご自身を現してくださることを待ち望み、与えられる命の通い合いを、ただ喜んで受け入れる、与えられる恵みに生き切る道を、ここに備えてくださったのです。復活の命に生かされ、父と子の命の通い合いの中に生かされよ、と今日も私たちを恵みの内に招いてくださいます。どうしてかは分からない、何の取り柄もない私たちですが、ただ主イエスが恵みの選びのうちに私たちを取り分け呼び出し、ここに集め、命の恵みを共に受け継ぐ者として、今主の御前に立たせてくださっています。神の恵みのご支配、御国を見る喜びに与らせてくださっているのです。この喜びがあふれるとき、「ヨハネの手紙一」がその冒頭に書き記したように、この喜びを伝える喜び、恵みの証しに生きる喜びもまた、私たちの内にこみ上げてくるのです。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びがみちあふれるようになるためです」(ヨハネの手紙一1:1-4)。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、教会に生きることの幸いを思います。ここにある父と子の命の交わりの中に、私共も今まさに与っていることを覚えます。教会に生きる私共は、人間的に見て知恵のある者でもなく、能力のある者でもなく、家柄のよい者でもありません。むしろ無学、無力な者であり、この世的に見るならば、なぜこのような群れが神に顧みられるのか、そういぶかられても致し方のない群れであるかもしれません。優れた者、知識や知恵の豊かな者なら世にいくらでもおります。けれどもそれがあなたと出会うことの条件には絶対になりません。ただあなたが恵みの内に顧みてくださる、主の眼差しによりすがることが、私共のすべてであります。それ以外にはありません。もし私共が自分の知識でもってあなたをとらえていると思い、その知恵を誇り、教会は賢い知恵ある者の集まりだなどとどこかでいささかなりとも思っているところがあるのなら、その思い上がりをたたき割り、「誇る者は主を誇れ」との御言葉を魂に刻み込ませてください。そして「十字架の言は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語られた、福音の神髄に貫き通された歩みを、今ここから始めさせて下さい。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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