夕礼拝

娘よ、起きなさい

「娘よ、起きなさい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; ミカ書、第7章 8節-10節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 40節-56節
・ 讃美歌 ; 236、446、74

 
1 主イエスのお生まれになる降誕日を待ち望む時、待降節と呼ばれる時を過ごしております。しかし混迷を深めるこの世界、また私たちの生きる社会の荒みようを目の当たりにしていると、信仰を持っていること自体、奇跡的なことではないか、という思いすらする時もあります。私たちの信仰さえ、いざという時に力を振るえない、そんな事態に向き合うことだって十分あり得るような世の中に見えます。こんな言い方は少し変かもしれませんが、いざ、ここぞという時に、信仰が役に立たないということも、実はままあったりするのではないでしょうか。
 今日語られる二人の人物もそのような経験をした人です。

2 最初に登場するのは、会堂長のヤイロという人です。会堂長は、長老たちと協力してユダヤ教の会堂を管理し、そこで行われる礼拝について責任を担っていた人です。彼らは礼拝を司会し、ふさわしい人に祈りと聖書朗読、またお勧めのお話をするよう命じ、すべてを整える務めを担っていました。この時代の会堂というのは神の教えを与え、信仰を守るためになくてはならぬ大事な役割を果たしていました。礼拝のほかに、地域で起こった事件の裁判や、子どものための学校の働きにも使用されており、いわばその地域の公民館のよう役割も負っていたわけです。主イエスを喜んで出迎えた群衆の中にも、日頃お世話になっていた人たちがたくさんいたことでしょう。会堂長という役職は、その意味で人々に親しまれ、また尊敬されていた仕事であったわけです。社会的に身分の高い務めであったわけです。
 ところがこの人の一人娘が今、死にかかっていました。おそらくは何かの病気に苦しめられていたのでしょう。この娘は12歳くらいであったといいます。実は当時の社会で12歳といえば、もうすぐ嫁に行くくらいの年齢です。日本でもかなり昔の時代には10代の半ばくらいで大人の仲間入りをする儀式を行い、間もなく結婚していたのと同じように、この地方でも、このくらいの年齢で婚姻関係が結ばれていたらしいのです。そんな日がもうすぐ来ることを夢見ながら大切に、大切に育ててきたたった一人の娘だったのです。これから幸せになるはずの娘だったのです。それが命が危険に曝さらされるような大病になってしまった。この会堂長の慌てようといったら大変なものだったはずです。あちこちを駆け回ってよい医者はいないか、何か栄養をつける食べ物はないか、よく効く薬は売っていないか、と訪ねてまわる。あちこちまわって手を尽くしてきたはずです。けれども何をしてもついにこの一人娘を元気にすることはできなかったのです。
この会堂長は自分の限界を感じたことでしょう。もしかしたら普段の礼拝を守っている時も、気が気でなかったかもしれません。娘のことが気になって礼拝に集中できないのです。最近、ある牧師の方と食事をした時に、その先生の娘さんがつい数日前に、学校の帰り道で交通事故に遭ったという話を聞きました。幸い、大きな怪我はせず、数日入院した後で家に帰ってきてからは、何事もなかったかのようにテレビゲームをしていたのでとりあえずほっとされた、とのことでした。けれどもその事故が起こったのは土曜日のことで、娘が入院している中で説教準備をし、まだ検査結果も分からない中で日曜日を迎えた時には、礼拝中も気が休まらなかった、「本当にゆだねることってなかなかできないものですね」、その先生はそうおっしゃっていました。
 この会堂長もしばしば、礼拝中でさえ、そんな思いに捕らえられていたかもしれません。しかも、この人の立場はある意味で宗教的権威です。宗教者というのは、実はよほど気をつけないと思い上がった傲慢な存在になる危険を持っています。へりくだることを教えていながら、自分自身がなかなか砕かれていない。頭を下げる経験さえあまりしないできてしまう、そのためか、ここぞという時に、神に委ねることができない、自分の教えてきたことに、自分自身が生かされていない、ということが起こり得るのです。この物語は大きな枠組みで言えば、8章の四節以下から始まっている種蒔きのたとえ話の中に置かれています。そこでは「どう聞くべきかに注意すること」、「神の言葉を聞いて行うこと」、預けられた御言葉をないがしろにすることなく、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」ことが語られていました。そういう観点から見るならば、この会堂長は御言葉を守り、ゆだねて歩む生き方に徹することができなかったわけです。石地に落ちた種や、茨の中に落ちた種のように、試練が襲ってきた時には身を引いてしまう、人生の思い煩いが生じてくると礼拝も心ここにあらずのような状態になってしまう、そういう弱い存在であったわけです。ただこの人は万策尽きてもはや何もできない、悩みの果てにこちらも病気になってしまいそうだ、と思いつめ、自分の信仰の力のなさに打ちのめされる、そういう思いの中で、最後に主イエスの足もとに倒れこんだのです。「ああ、主よ、なんとかしてください。私の信仰ももはや太刀打ちできません!」、それが自分の家に来てくださるようにと主イエスに願った時の、会堂長の心の叫びであったのです。 

3 この会堂長の願いに応えてその家に向かう途中、もう一人の登場人物が現れます。おそらく婦人病の一つであろうと考えられていますが、長い間出血を伴う病気を患っていた女性です。しかもそれは昨日今日の話ではない、12年このかたの苦しみであったのです。そう、ちょうどあの会堂長の一人娘が生まれた頃から今に至るまでと同じだけの期間、この女性は苦しんでいたのです。この女性もやれる限りのことはしてきました。医者に全財産を使い果たしたといいます。この財産と訳されている言葉はまた、命をも意味する言葉です。まさに、この病を巡るあれやこれやで命をすり減らすような思いをしてこの12年間を過してきたわけです。人には言えないような恥ずかしさを感じていたでしょう、近所の陰口に悩まされたこともあったかもしれません。とても人々の注目するような場所へ出て行く気にはなれません。けれどもある日この女性は耳にしたのです。イエスという名の方がおられ、あちこちで病を癒し、悪霊を追い出している。しかもこの方に従う群れの中には悪霊を追い出され、病気を癒していただいた何人かの女性たちも含まれているそうだ、と聞いたのです。「もしかしたら私も・・・」、万策尽きたこの女性は最後の望みをかけて主イエスに近づいていったのです。けれども恐い、心の底を見透かされているような思いがする、それで群衆にまぎれ、後ろからその服の房に触れたのです。女性の出血は直ちに止まりました。
 ところが、喜ぶ間もなく、この女性は主イエスの前に呼び出されることとなったのです。「わたしに触れたのはだれか」(45節)。「こんなに人々が押し寄せてきて、ひしめき合っているのだから、誰が触ったかなんて分かりっこないじゃありませんか」、そういいたげなペトロの言葉をよそに、主イエスはなおも、ご自分に触った人を探し続けられます、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)。主イエスは「誰かが触ったけれど、まっ、いいか」と言っておすませにはならなかったのです。それは主イエスの力は限りがあり、減っていくことが感じられるとか、黙って力を盗んでいくとはけしからんとケチくさいことを言おうとしておられるとか、そういうことではありません。そうではなく、主イエスはご自分が癒そうとする人と、本当の意味で出会おうとされたのです。ご自分が癒そうとされる一人の人と出会い、その人をしっかりと覚えることを願っておられるのです。このことは、主イエスとの確かな出会いのないところでは、実は真実の癒しも与えられないことを示しています。もしこの出会いが起こらなかったら、女性の癒しはある種の魔術、不思議な出来事で終わったでしょう。この女性にとって、主イエスはせいぜい命の恩人くらいで終わったのであり、この次にまた試練が襲いかかって来た時には、また同じような苦しみに打ちのめされることでしょう。けれどもこの女性が主の呼びかけに促されて震えながら進み出てひれ伏した時、彼女は主イエスに従って歩む人生に踏み出していたのです。神との生ける交わりの中を歩む人生に入り込みつつあったのです。あれほど人目を恐れはばかり、隣り人との交わりからも締め出されていた彼女が、皆の前で、神が自分になしてくださったことを証しし始めているのです。そこに主イエスの宣言がとどろきます、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。

4 けれどもこの救いの宣言がなされているその最中に、会堂長ヤイロの許には悲しい知らせが届けられます。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」(49節)。 この言葉は最後の望みを断ち切る言葉です。人間の希望に最後通告を突きつける言葉です。もうすべては終わった、今やあらゆる試みが、主イエスに訴え出たということさえも、無駄になった。「すべては手遅れになったんだ、あきらめなさい」、というあきらめを促す言葉です。そして人間であれば誰も反論できない言葉です。死んでしまったらすべてが終わり、それが世の中の常識だからです。会堂長ヤイロの目の前は真っ暗になったはずです。すべてが遠く彼方へ離れていってしまう、気が遠くなる思いをし、二度と立ち上がれない絶望を味わいかけたはずです。頭をガツーンと叩かれたような衝撃が、体中を駆け巡ったはずです。その思いを言葉で表すことさえできない、まさに言葉も出ない状況です。周りにいた群衆も力なくうなだれ、かける言葉も持ち得ないで気まずい思いをしている。
 それでも、その中でただ一人、発するべき言葉を持っている人がいたのです。主イエスです。その言葉はこうでした、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」(50節)。まさに発するべき何の言葉も持たないヤイロの心を汲み取り、引き取るようにして主はそうおっしゃったのです。さらに家に着いた主は、娘のために泣き悲しんでいる人々に言われます、「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」(52節)。すでに娘の体が冷たくなり、こわばりつつあるのを知っている人々は、何を馬鹿なことを言うのか、死んだのだかからもう何をしても無駄だ、すべてが終わったのだ。眠っているのでなく、間違いなく死んでいるんだ」とあざ笑います。死の圧倒的な力を前にしてはすべてが虚しいのだ、と悟りきったような冷たい笑いです。

5 そのあざ笑いの声を押さえ込むようにして家の中に主の声が響き渡ります、「娘よ、起きなさい」!この時もまたすぐに娘は起き上がったのです。「娘よ、起きなさい」、それは死がすべての終わりである、それを眠っているなどと言うのは馬鹿げている、人生は死んだらすべておしまいなのだ、という人生観に強烈な打撃を与える声です。そうではない、神は人生を虚しいものとしてせせら笑い、せいぜい生きているうちに楽しく暮らせればいいんだ、という狭い個人的な幸福主義を打ち破られるのです。死をも越えた向こう側まで広がる、私たちがこの世で思い描くのよりもはるかにすばらしい世界がある。キリストと結ばれて神との生ける交わりの中を歩み続ける命の道があることを告げる声です。ヤイロというこの会堂長の名前はこの出来事になんとふさわしいことでしょうか、なぜならこの名前は「神は起こされるであろう」という意味だからです。神がこの一人娘を死の床から起こしてくださり、そのことを通して、くず折れたヤイロの魂をも助け起こしてくださったのです。
 私たちは思います、48節で長血を患っていた女性が告げられた言葉、「あなたの信仰があなたを救った」、この言葉が言う「信仰」って一体何なのだろう。あるいはヤイロが娘の死を知らされて恐れ惑う時、主が「ただ信じなさい」とおっしゃった、その際何を信じるように言われているのだろうか、そう疑問に思います。あの女性は何か信仰を告白したわけではありませんでした。初めから主の前に進み出ていったわけでもない。それどころか群衆にまぎれて主に近寄り、あわよくばその魔術的な力にでも与かって癒しだけ受けることができれば、と願っていたにすぎません。主イエスを救い主と信じていたわけでもない。ただもうどうしようもない、他に何の頼みとするところもない、ただ最後の頼み、ただ一つの望みをこのお方にだけ託して、その足元に倒れ伏すような中で主の衣に触ったのです。同じように会堂長も、思い乱れて礼拝にも集中できない、御言葉を守り、忍耐して実を結ぶ戦いに挫折してしまう、いざ試練が襲ってきたらやっぱり駄目だった、そこそこの信仰があると思っていた自分の中に、何も見出すことができないことを思い知らされ、力尽きて倒れ伏すしかない、そういう思いに打ちひしがれていたのです。
 私は神学生の時代に精神病院で患者さんの話を聞く訓練を二年間受けました。
 「臨床牧会教育」というコースを取ったのです。学生はそれぞれ一人の患者さんを担当して年間を通じて毎週決まった時間に訪れて話を聞きます。後で自分の反応も含めてすべてを逐語的に記録に起こし、それを基に専門家から聞き方についての指導を受けるのです。最初の年に私が担当させていただいたのは、家族からもほとんど見放され、同室の仲間ともうまくいかない男性でした。次の年は不倫関係を持ったことがきっかけとなり、その罪意識に悩まされて精神を病んで苦しんでいる女性でした。ここで私たち神学生は自分の信仰が何ほどの力にもなれないことを思い知らされました。もともとキリスト教主義ではない、一般の病院でさせていただいている実習ですから、お話をする中で信仰の事柄を積極的には話さないようにという原則が与えられているということもありました。しかしたとえ信仰について語れたとしても、そこで自分自身の信仰は何ほどの力にもなれないことを思ったのです。何もできない、ただ一生懸命聞いて、きわめて不十分ながらその思いに少しでも共感しようとすることしかできない。私たちの中にある信じる思いとは何と危ういものであるかを思わされました。

6 同じようにしてすべての頼りになるものを失ったその時、あの会堂長はひれ伏しました。この女性もひれ伏しました。この「ひれ伏す」という言葉は、「倒れる」とか、「落ちる」という意味の言葉です。まさに、人間が自分で事態をよくしようとする試みのすべてが失敗に終わり、絶望しかかる。もうどうしようもない。信仰さえも失いかける。そういう中で、主の足元に、「主よ、もう駄目です」と言わんばかりに倒れこむ、落ちていく、くず折れるのです。けれども実はその時、主イエスはそこにこそ、信仰を見出してくださるのではないでしょうか。それは自分の中にある信じる心にさえもはやより頼むことができず、ただ力尽きて倒れ伏す時に、なお私はあなたの側につく、あなたの味方だと言って、人生をあざ笑う力から私たちを守ってくださる、その主の確かさにより頼む信仰です。信仰とは、私たちの信じる思い、確信の確かさですらありません。自分の中にも外にも、もはや頼みにする何ものも見出せない時に、なお味方になっていてくださる主の確かさ、神の救いの確かさにより頼むことです。信じることのできない私たちのためにキリストが代わって信じていてくださると言ってもよいのです。「信じられないあなたの信仰を私に明け渡しなさい。後は任せなさい。私が代わってあなたの信仰を担おう」、主はそうおっしゃってくださるのです。信じられない私たちのために、最後は十字架の苦しみをも引き受けてくださったのが主イエスです。死をすべての終わりとしか受け止められない私たちの絶望をご自身の上に引き受けて、死の苦しみを極みまで味わわれ、そのようにして復活の命の道を開いてくださったのが主イエスなのです。父なる神の確かさにこそ信頼するようにと、聖霊を送って教えてくださったのが主イエスなのです。後に主イエスの十字架と復活を知った時、ヤイロもその一人娘も、あの癒された女性も、あの主の呼びかける声の深い意味を知らされたでしょう。「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」!それと同じよびかけを私たちもここで聞くのです。
 その時、預言者ミカが伝えた新しい約束を私たちも聞きます、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。 わたしは主に罪を犯したので 主の怒りを負わねばならない ついに、主がわたしの訴えを取り上げ わたしの求めを実現されるまで。 主はわたしを光に導かれ わたしは主の恵みの御業を見る」(ミカ7:8-9)。私たちはこの約束の中に歌われている神の確かさにより頼み、御国において再び起き上がる日、つまり復活の朝を待ち望みつつ、この待降節の中を歩むのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私たちの信仰が揺さぶられ、もはや力尽きて倒れ伏すしかないような時、なおあなたはその傍らにいてくださり、「私の服に触ったのは誰か」とおっしゃって、私たちを捜し求めてくださいます。御言葉にしがみつく戦いに負けて傷つき倒れ、信仰さえも失いかけてくず折れる時、その失いかけた信仰を引き継いで、私の確かさをあなたの信仰としなさい、そう呼びかけてくださいます。どうかこのあなたの呼びかける声を今新しく聞かせてください。
 今からあなたの備えてくださった食卓に与かります。どうかここで私たちの内にある信心の確かさではなく、救いを完成させてくださるあなたの確かさにより頼む思いを新たにさせてください。それこそが信仰であることを、聖霊なる御神が確かに悟らせてくださいますように。
 今おられ、やがて来たりたもう主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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