「執り成されている人生」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 創世記、第18章 16節-33節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第5章 17節-26節
・ 讃美歌 ; 351、483
序 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」、そうおっしゃってカファルナウムから出発した主イエスの旅は今日も続いています。ある家で主が話をしておられます。その周りにはファリサイ派の人々と律法の教師たちが座っていました。彼らはわざわざガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから集まって来たのです。15節にあるように、主イエスのうわさはますます広まっていったので、当然そのうわさはファリサイ派の人々や律法学者の耳にも入ったはずです。彼らは当時の宗教的指導者として、このうわさの主(ぬし)がいったいどんな人物なのか、確かめに来たのではないでしょうか。そしてどんな権威があってこんなことをしているのか、問題にしに来たのではないでしょうか。この日の事件は、このようにして律法の教師たちが主の一挙手一投足に注目している最中に起こったのです。
1 この日も主イエスの周りにはたくさんの人々が群がり集まっていました。主はある人の家をお借りして、そこで話をしておられたのでしょう。いわばこのご家庭を解放していただいて家庭集会を行っていたのです。先の15節にも、「大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まってきた」とありました。主の教えを聞き、癒されることを願って集まってきた群衆によって、この家はまさに立錐の余地なきほどにいっぱいになっていたのです。いや家におさまりきらず、庭にも、道端にも、人々があふれかえっていたに違いありません。あたりは人々の熱気でむんむんとしていたのではないでしょうか。昨年わたしはある神学者の講演を聴きに明治大学の会場に行ったことがありましたが、部屋の定員をはるかに上回る人々が何百名もつめかけて、座るスペースも全くないほどでした。そして人いきれがして会場は大変暑かったのです。主イエスの周りに人々が集まった時もこんな様子だったのではないかと感じさせられました。
主イエスの話が終わるか終わらないうちに、病をいやす働きが始められました。次々と押し寄せてくる病人たちに、主イエスは丁寧に向かわれ、その話を深くお聞きになり、これまでの悩みと労苦を受けとめてくださり、その病をいやしてくださったのです。主の力である聖霊が、この家に満ちる人いきれにも勝って、人々の心と体を満たしていたに違いありません。けれどもこのように次々と人々が押し寄せてくる状況の中では、とても主イエスの前にまで進み行くことはできません。せいぜい遠くから、その姿を見遣るだけです。「今日は無理だ、また別の機会にしよう」、「まだ自分の番は来ないのか、もう待ちきれない」、そう思ってその日は帰った人たちもきっといただろうと思います。疲れきって仮眠を取りながら順番を待っているような人もいたことでしょう。あるいは「他の医者に診てもらおう」と思って人だかりから離れていった病人もいたかもしれません。
そんなふうにして、人々の思いが入り乱れている中、なんとかして主の下に達しようと試みている男たちがいました。この男たちが主の下に行こうとしていたのは、自分たちのためではありませんでした。彼らが長年にわたって気にかけ、祈りに覚え、励まし支えてきた一人の「中風を患っている人」のためでした。この中風という病は、腕や脚、体が麻痺し、自由を奪われる病気です。脳や脊髄の出血や炎症によって引き起こされると考えられていますが、特に脳溢血の後に残る麻痺状態として知られている病気です。この病の特徴は体の自由を奪われ、感覚が麻痺することです。今運んでこられたこの人も、体の自由を失い、表情や言葉によって豊かに思いを表現する力を奪われていたことでしょう。もしかしたらもう何年もそのような状態に苦しめられてきたのかもしれません。どんなに惨めな思いで過ごしてきたことでしょう。どんなに悔しい思いを積み重ねてきたことでしょう。どんなに無力感を味わってきたことでしょう。他の人々はまだ主イエスのおられる家にまで群がり集まるだけの力があり、元気があったのです。けれども彼は動くこと、移動することさえ、自分の意志ですることができないでいるのです。長年の病気をすると、人生に対する「あきらめ」や「ふてくされ」の思いが強くなってきます。積極的に人生に向かう思いが萎えてきます。心がひねくれて「どうせ自分なんかこの世で必要とされてなんかいないんだ」といった悲観的な気持ちが広がってくるのです。
けれども彼は一人ではありませんでした。彼を何とか主イエスの下にお運びしようとする男たちがいたのです。床に乗せたまま運ぼうとしたのですから、その四隅を持つために、少なくとも四人の男たちがいたはずです。彼らはこの人のかつての友人だったのかもしれません。あるいは兄弟だったのかもしれません。親戚のおじさんたちだったかもしれません。いずれにしても彼らは今までこの病人のために祈り、その病が癒されるためにあらゆる方法を試みてきたに違いありません。心まで頑なになり、彼らの愛も受け入れられなくなり、いたわりの言葉にも顔をそむけてしまうようになってしまったこの人を前に、男たちは万策尽きた思いでいたことでしょう。そんな時、彼らは主イエスが近所の家で家庭集会を行っていることを聞きつけて、そこに最後で最大のチャンスを見出したのです。この機会をおいてほかに、彼が救われることはあり得ない、万策尽きたことを既に知っている男たちはそう思ったのです。主イエスこそ、より頼むべきお方だ、この人の中風の病を癒し、この人が捕らわれている無力感と絶望感、人生に対するあきらめからこの人を解放できるお方だ、このお方はそうする権威をお持ちの神に等しいお方なのだ、いや生ける神ご自身なのだ、男たちはそう信じたのです。
もはや男たちには群がる群衆など見えませんでした。主イエスしか見えなかったのです。主の前に、この病人をお運びすること意外に何も考えなかったのです。群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった時、彼らは何と屋根に上って瓦をはがし、そこにできた穴から病人を床ごとつり降ろしたのです。「こんなことをしたらこの家の人の迷惑になるな」とか、「並んでいる人の順番を抜かしてしまうな」とかいったことは彼らの考えの中にないのです。そんなことを考えている余裕や時間はないのです。今、この時を除いては、もはやこの病人が助かることはないのです。この行為に、彼らのこれまでの執り成しの祈りすべてが形を取って現われていたのです。天井からほこりや塵が土煙をあげながら落ちてきます。何事が起こったかと人々が見上げる中を、あの寝床が四隅を縄で結ばれて静かに降りてきたのです。主が受けとめてくださったのは、この男たちの信仰でした。主だけにただ一つの救いを求めた信仰、この主イエスが罪を赦し、人を解放する神の権威を担っておられるお方だと信じる信仰、その信仰を主は御覧になったのです。そして「人よ、あなたの罪は赦された」という神の権威に基づく罪の赦しを宣言してくださったのです。主がお与えになる癒しは単なる病気からの回復ではありません。それは罪の赦しと結びついた癒しなのです。人がまことに癒されて歩むには、病気が癒えるに留まらず、神に敵対する私たちの生き方の姿勢が根本から改められ、新しくされ、神に心を向けて歩むように変えられなければならないのです。主イエスはそのことを私たちの上に、成し遂げてくださるお方なのです。
ルカによる福音書においては、「真ん中」とか「イエスの前」という言葉は特別な響きを持っています。それは私たちが「主イエスと出会う場所」を意味するのです。たくさんの中の一人としてではなく、見物人の中の一人としてではなく、一対一で主イエスと向き合い、罪の赦しの言葉をいただくのです。いただくことができるのです。先に「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った重い皮膚病の患者に、主は「よろしい。清くなれ」とおっしゃってくださいました。「そうしてあげよう。そうすることが私の願いだ、私が望むことであり、欲することなのだ」とおしゃってくださったのです。私たちが「死ぬことでなく、生きること」、「うずくまることでなく、希望に満たされて起き上がること」、それが主の望んでおられること、欲しておられることなのです。
2 けれどもこの出来事の一部始終を目の当たりにしながら、ここに現れた救いを一緒に喜ぶことができない人たちがいました。冒頭に紹介された律法学者たちやファリサイ派の人々です。「神を冒?するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。彼らにとって、主イエスの言葉は聖なる神の御名を汚す言葉にほかならなかったのです。ユダヤ教でも重んじられていた十戒の中には、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。彼らにとって罪が残されるか、赦されるかを決定する権威を持つのはただ天におられる神お一人だったのです。それなのに地上に生きる一人の人間が、人々の尊敬を集めているのに乗じて罪の赦しを宣言するのは、神の専売特許を奪っていることになる、主の名をみだりに唱えていることになる、彼らは心の中でそう思い、理屈をこねていたのです。主はその思いを見抜かれて、彼らに問いを投げかけられます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。そしておっしゃるのです、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。もし「罪の赦し」という言葉があなたがたの躓きになるのなら、「起きて歩け」という言い方でもよい。主はそのようにして律法学者やファリサイ派の人々の頑なな心、ひょっとするとあの病人の、中風で固くなった体よりも固くなってしまった魂にも、心を砕いてくださったのです。私はこのことも大いなる慰めだと思います。宗教者はとかく神の自由な働きを理論の中に閉じ込めて、自分で説明しようとする罪を犯しがちなのです。その枠の中に入らないことをなかなか受け入れられないのです。彼らも主イエスを、律法という神から与えられた戒めの枠の中でしか見ることができませんでした。律法の枠をも越えた神そのものが、今、目の前に、地上に、自分たちの下に来てくださったということが見えなかったのです。
主のお言葉をいただき、その罪を赦され、中風を癒され、これまでのすべての捕らわれから解放された一人の男が、今自分の寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰っていきます。そして周りの人々も驚き、神を賛美し始めます。そこに「おそれ」が生まれ、神をあがめ、たたえる礼拝が生まれているのです。この喜びの歌を、共に歌うことができるか、この私において、生ける神がご自身を現してくださっているのを見ないのか、主の問いかけはきびしさと慈しみを含みながら、事態を目の当たりにした律法学者たち、さらには私たちにも投げかけられているのです。
結 一人の人が神の下に導かれ、信仰を告白し神のものとされる、その背後にはたくさんの人たちの執り成しがあります。祈りがあります。あの一人の男のためにも、少なくとも四人の男たちの執り成しがあったのです。その信仰に支えられて、中風の男は主の下に運んでもらうことができたのです。そしてこの男の上に罪の赦しが明らかにされた時、それは周囲にいたさらに多く人々への執り成しとなって、あの家に神を礼拝する賛美の歌声を満たしたのです。私たち一人一人も、この執り成しの働きへと召されています。主の名によって罪の赦しを伝え、執り成しの祈りを捧げることが許されているのです。神を求めて歩んでいる隣人のために、心にかけている家族や親戚のために、執り成しの祈りを捧げるのです。また教会員同士で心の重荷を聴きあい、執り成しの祈りと罪の赦しの宣言をしあうのです。あのアブラハムがソドムのためになしたしつこいほどの執り成しを、神は喜び受け入れてくださったのです。神は私たちがあのような執り成しに生きることを望んでおられるのです。
私たちがそうできるのは何よりも、主イエスご自身が神と私たちの仲立ちとなって、執り成し祈り、最後には私たちのすべての罪を十字架の上にお引き受けになってくださったからにほかなりません。罪の中で自由を奪われ、固くなり、麻痺した自分の惨めな姿を主の前にさらし、主の執り成しにゆだねることは、この上なく恥ずかしく、それが自分の本当の姿だとは認めたくもない、それが本音かもしれません。けれどもそうしなければ、あの「地上で罪を赦す権威」にじかに触れることはできないのです。私たちがこの礼拝において出会うのはこの罪を赦すまことの権威です。それは決して神冒?ではない。むしろこの主イエスにこそ、神がご自身を現してくださった、主イエスこそ生ける神だ、そう信じ、神を賛美することこそが、主の求めておられる礼拝なのです。
先週、オウム真理教の教祖の裁判が行われ、判決が出されました。あの新興宗教にたくさんのまじめな若者、真理を求める人々が自分のすべてをかけていったのはなぜでしょうか。私の下に送られてきたある牧師からのEメールには教会の伝道に対する責任が問われていると書いてありました。またこの判決を伝える報道番組の中である弁護士は「今こそまことの宗教の復権を望む、宗教がまやかしではなく、本当の宗教になってほしい」と語っておられました。今こそ本当の「真理」、本当の「罪を赦す権威」がさやかに指し示されねばなりません。私たちが礼拝に生きる時、私たちは今、この地上で、既に「罪の赦し」を聴くことを許されているし、また赦された者として執り成しの祈りに生きる者とされていることを知るのです。
祈り 今わたしたちもあの病人と同じように、主イエスの御前に立たせてください。主の執り成しゆえにあなたの御前に立てる者とされていることを覚えさせてください。頑なで、人前では見栄をはっている自分の真実の姿、憐れで惨めな姿を主の御前にさらけだすことを得させてください。どうか私たちにも今、「あなたの罪は赦された」という権威ある宣言を新しく聴かせてください。
思いがありながらも礼拝に集えずにいる方々、神を求めつつ歩んでいる方々、また本当の真理を見出せず、苦しみの中にある人々のために執り成しに生きる歩みへと私たちを導いてください。何よりも私たちの人生が主イエスによって「執り成されている人生」であることに感謝し、あなたを賛美する人生を歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。