「神の救いを仰ぎ見よ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第40章 1節-11節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第5章 12節-16節
・ 讃美歌 ; 136、456
序 「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(4:43)。主イエスは4章43節でこのようにおっしゃり、神の国の福音を告げ知らせる旅を始められました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9:58)。主イエスはこの地上にあってまさに旅人として過ごされ、同じ場所にいつまでも留まるということをなさいませんでした。5章の1節から6章の16節まで、主イエスと出会った人々、その出会いを通して全く新しい生き方へと招き入れられた人々が登場してきます。そこではそれまで人々が従っていた律法と呼ばれる神の掟と、今、ここに現れてくださっている神の子イエス・キリストとが、どのような関係にあるのか、そのことに大きな関心が払われています。
1 漁師を弟子として招き入れた主イエスは、その後、「ある町」に来られ、そこに少し滞在しておられました。ルカはあえてこの町の名前を挙げません。それにはいろいろな理由があるのかもしれませんが、もしかしたら具体的な名前を挙げることがはばかられるような、そんな町だったのかもしれません。なぜかというと、そこには「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)がいたからです。この病は、以前言われていたように現代のハンセン病にあたるような病であったかどうか、必ずしもはっきりとはしていないようです。いずれにしても、皮膚の皮下組織にまで及び、皮膚に変色を引き起こす、症状の重い病であったようです。「患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である」(レビ13:4)と律法には記されています。旧約聖書が証する神の律法において、この重い皮膚病を患っている者は、「汚れた者」と呼ばれ、忌み嫌われ、差別されていました。旧約聖書において「重い皮膚病」を意味する言葉にはまた、「むち」とか「こらしめ」といった意味も含まれていました。ですからこの病に襲われることは神の裁きとして受けとめられたわけです。そしてこの病に打たれた者については、こう定められていたのです。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:45―46)。自ら衣服を切り刻み、結った髪をほどいて振り乱し、威厳や尊厳の表れである口ひげを隠し、自分で自分のことを「わたしは汚れた者です」と言いふらしながら道を進まねばならなかったのです。周りの者は、そのような惨めな姿や呼ばわる声によって、この人は重い皮膚病を患っているということを知らされ、身をよけ、遠くを通っていったのです。「ベン・ハー」という映画を観ると、重い皮膚病を患っている人々が町から離れた深い谷の中に集められ、そこで隔離された生活を送っている場面が出てきます。家族の者が日に一度やって来て、食糧を谷の上から放り投げるのです。すると岩の陰からぼろ布をかぶって顔を隠した患者がはいずるように出てきて、食糧を拾い上げ、また暗がりに消えていくのです。このような形でやっと命を繋ぐしかない生活、人々の交わりから切り離されて、人間として生きることを否定されてしまった生活が、その岩陰にはあったのです。
そのような生活を強いられている者が住んでいる町にも、主イエスは来てくださいました。彼はいったい今までどんな人生を送ってきたのでしょう。家族もいたはずですし、友人もいたことでしょう。もしかしたらかつては家庭があり、妻があり、子供がいたかもしれません。今も別の町に住んでいるのかもしれない。けれども今、彼はそうした人間の交わりから断ち切られ、互いに愛し愛される関係から切り離され、もう長い間孤独のうちに打ち捨てられていたのです。
19世紀末から20世紀初めに生きた、ユダヤ人の小説家フランツ・カフカは『変身』という小説を書きました。主人公のグレゴール・ザムザがある朝目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わり果てているのを発見する場面からこの小説は始まります。ある日突然自分が人間の姿を失ってしまう、そして毒虫に変わり果てた自分のことを家族たちは忌み嫌い、部屋の中に閉じ込めてしまうのです。彼は汚れた部屋に押し込まれ、妹が日に何度か差し入れる餌でやっと命をつなぐ生活を始めるのです。彼の姿はこう描かれています、「おりおりグレゴールは、こんどドアが開いたらむかしとまったく同じようにひとつ家事の面倒を一身にひきうけてやろうと考える。彼の脳裏にはふたたびひさしぶりに店の社長や支配人、店員たちや小僧たち、―(中略)―別の商売をやっている二、三人の友だち、ある田舎ホテルの女中、楽しいはかない思い出、大まじめに、だがあんまりのんびりとした求婚の仕方をした、ある帽子店のカウンターにいる女の子などの姿が現れてくる。―(中略)―しかしそういう人たちは彼や彼の家庭を救ってくれるどころか全部が全部無力であった。彼らの姿がふたたび消えさったときにはほっとする。そうかと思うと、家族のことなど気に病む気持ちにぜんぜんなれないようなときもある。現在の虐待にたいしてむしょうに腹がたつばかりである」。
このような思いに、あの重い皮膚病を患っている人も、苦しめられていたのではないでしょうか。今まであらゆる手段を尽くして、癒されることを願い、人間としての交わりを取り戻す道を求めてきたにちがいありません。けれども、それらは「全部が全部無力」であったのです。わたしたち自身も、互いに愛し、愛され、人格を持つ者どうし、尊敬しあい、励まし助け合うような交わりに生きることを願っています。けれどもそう願いながらも、なかなかそのように生きることができないでいるのです。ひきこもりの状態で十年以上も自分の部屋で過ごしているような若者がいます、子供を愛したいと願いながら虐待し、傷つけてしまう親たちがいます。要塞のように固い心の砦を築いて、近所や隣人に心を閉ざす家族があります。信頼しあえる夫婦関係や友人関係を、願いながらも築けない人々がいます。私自身も、最初は親しくしていた友人や、敬愛していた先生とのよき関係が、年を経るうちに次第にこじれたり、険悪になったりしていく悲しさを、私なりに味わってきました。自分が願いながらもよき交わりを築けない、そんな私たちの姿は、あの律法の下で交わりを奪われている重い皮膚病を患う人の姿と重なってはこないでしょうか。その意味では私たちは誰も、神の御前でそうした病を背負っているのではないでしょうか。
2 もはやすべての頼みを奪われ、すべての望みを失い、生きる術を失った人間が、最後に懸けたのは主イエスの「御心」でした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12節)。彼は主イエスが汚れた悪霊につかれた男を癒し、多くの病人を癒し、熱病から人を解放するお方であるという噂(うわさ)を聞いていたのかもしれません。たとえ聞いていなかったにせよ、彼は近づいて来られる主イエスを見た時、そこに清める力と権威を身に帯びたお方を見出したのです。その時、あのシモン・ペトロが大漁の魚を目の当たりにして、主イエスの足もとにひれ伏したように、この人も主を見てひれ伏し、礼拝の姿勢へと導かれたのです。このお方と自分の間に無限の隔たりを感じ、このお方にこの上ない清さを見出したのです。「主よ、清めてください。お心さえあれば、お清めになれるのですから。あなたはわたしを重い病で裁く自由も、またわたしを癒し清める権威もお持ちです。どうかその自由と権威の中で、今僕にあなたの恵みの御顔をお向けください」。彼はそう願ったのではないでしょうか。
その時、絶望の中から呼ばわるこの人の声を主は深く受けとめて、御手を伸ばされたのです。「よろしい。清くなれ」(13節)。この力と権威に満ちた御言葉が、たちまちのうちに病を取り去ったのでした。かつて重い皮膚病が清められたかどうかを判定するのは祭司の務めとされていました。先ほどお読みいただいたレビ記はそのことを定めています。患者が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て、実にこまかに定められた清めの儀式を行ったのです。患者の状態を判定し、「あなたは清い」、「あなたは確かに汚れている」という判定を下すのは祭司の権限に属することでした。そのようにして神と人間の間を執り成し、いわば神の判断を代行して行っていたのが祭司だったのです。しかし今私たちの前にいらっしゃるお方は、ご自身の力と権威をもって「よろしい、清くなれ」、そう宣言し、私たちを失われていた交わりの中へと取り戻してくださるお方なのです。もし私たちが隣人との交わりへと取り戻され、互いに愛し、愛し合う交わりの中に生きる者とされるなら、それに先立って、ここに現れた神と私たちとの交わりの回復があるからなのです。しかも主ご自身が手を差し伸べて、私たちに触れてくださるのです。あの患者も、おそらくあの時、病気になって以来、初めて人に触れてもらう体験をしたに違いありません。何年ぶり、あるいは何十年ぶりに感じたぬくもりだったことでしょう。またそれはこれまで感じたことのないほどの温かさとやさしさを伝える感触だったことでしょう。この人はこの後どうしたでしょうか。福音書は語っていません。けれども、おそらく彼は、社会や家族、夫婦や家庭の交わりを取り戻し、神の交わりに支えられた隣人との交わりの中を喜んで生きたに違いありません。
けれども主は、このことを誰にも話さないようにと、この男に命じられます。律法が定めているとおりに、清めの捧げ物をし、自分が癒されたことを、きちんと律法の手続きを踏んで証明するようにお命じになられたのです。主イエスこそがまことの祭司、神と私たちの間を執り成すお方であることが、この男には今示されました。けれどもまだそのことは人々の目に隠されているのです。それは十字架と復活の光を仰いだ時、初めて人々の目に明らかになることだからです。主の十字架と復活、また高く挙げられたお方が今聖霊においてここに臨んでおられる、そのことに目が開かれる時、私たちも今、あの男と同じように、清められ、癒されるのです。「よろしい。清くなれ」との御言葉をいただけるのです。キリストの御名によって与かる洗礼は、そのような罪と汚れからの洗い清めであり、生まれかわりです。神との交わり、それに支えられた隣人との交わりに生きる、全く新しい歩みの出発なのです。
このことを知らず、ただよいお話しを求め、病を治してもらうことだけを期待し、自分の人生を歩むための手助けや方便のようにしか主イエスを受けとめない人々の願いには、主はお応えになりません。よい話し家、よい医者であることが主イエスの来られた目的ではありません。あの主イエスだけを最後の頼みの綱として御心にゆだねた男に、主は御手を伸ばして触れ、そのようにしてご自身の十字架においてあの重い皮膚病を引き受け、担われたのです。本当の交わりを築けない、神に対する反逆者である私たちを憐れみ、その病を担ってくださったのです。しかしまた主イエスはまだ主がどなたであるかを本当には知らぬ、しかしよい話、よい医者を求めて集まり騒ぐ群衆のためにも、執り成し祈ってくださっています。人里離れた荒れ野で、父なる神とのこの上なき交わりの中で、父の御心をご自身の心として、十字架への歩みが自らの歩みであることをいよいよ確かに自覚されていくのです。私たちも主イエスの御名によって祈る時、この主イエスの祈りに執り成されているがゆえに祈ることを許されていると気づくのです。
結 主イエスは律法に基づきながら、しかしその律法を越えて、これを新しい形で完成させるお方として、わたしたちの下に来てくださいました。今キリストと出会い、その祈りに執り成され、その十字架に支えられている人生に目が開かれる時、わたしたちもあの男と同じように、新たな一歩を歩み出すことができるのです。
祈り 父なる神様、私たちは愛そうとしても愛せません。信頼しようとしても疑いが忍び込みます。初めはよかった隣人との関係がこじれていきます。今度はうまくいくかと思っても、また身をよけて、離れ去っていく隣人がいます。自分でも気づかぬうちにそのように仕向けてしまう自らの罪を思います。どうか私たちにもあなたの御手をお伸ばしください。「よろしい。清くなれ」と、力強いお言葉をください。御前にひれ伏し、「主よ、御心ならば」と祈ることを教えてください。主がこの言葉をもってゲッセマネで祈り、私たちのために十字架への道を歩まれたことを深く覚えさせてください。そして今ここから、たとえささやかな一歩であっても、確実にそれまでとは違う、清められた一歩を踏み出すことを得させてください。
まことの大祭司なる、主イエス・キリストの御名により祈り願います、アーメン。