「平和があるように」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第24章28-43節
・ 讃美歌:326、152、532
エマオへの道で
受難週からイースターにかけての礼拝において、ルカによる福音書第24章13節以下を読んできました。ここには、主イエスが復活なさったイースターの日に、エルサレムからエマオという村へと向かっていた二人の弟子たちの傍らに、復活なさった主イエスが現れて共に歩んでいかれたことが語られていました。しかし彼らは目が遮られていて、それが主イエスだとは気づきませんでした。その人は共に歩きつつ彼らに、救い主メシアは苦しみを受けることを通して栄光に入る、それが神様の救いのご計画であり、そのことは聖書の、この場合はもちろん旧約聖書ですが、あそこにもここにも語られている、と教えてくれました。目指す村に到着して、共に夕食の席に着き、その人がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった時、彼らの目は開け、それが主イエスだと分かったのです。この話は、私たちが主イエスの復活を信じる者となることはどのようにして起るのかを描いています。私たちも、この二人の弟子と同じように、主イエスの復活をなかなか信じることができません。彼らはその朝、仲間の婦人たちが主イエスの墓に行き、そこに主イエスの遺体がなかったこと、彼女たちに天使が現れて主イエスの復活を告げたことを知らされていました。でもそれを信じることができなかったのです。そのように復活を信じることができない彼らの傍らに、主イエスご自身が現れて、共に歩み、聖書を説き明かして下さったのです。それは私たちにも起こることです。私たちがまだ主イエスを信じておらず、復活をも信じることができなかった時に、主イエスは共に歩んで下さり、聖書を説き明かして下さり、信仰へと導いて下さっていた、そのことに後から気付くのです。また主イエスがパンを取り、祈ってそれを分け与えて下さった時にそれが主イエスであることが分かったというのは、私たちが礼拝において聖餐のパンと杯にあずかることの中で、復活して生きておられる主イエスとの出会いと交わりを体験していくことと重なります。礼拝において聖書の説き明かしを聞き、聖餐にあずかることの中でこそ、復活して今も生きておられる主イエスとの交わりに生きる者とされるのだということをこの話は示しているのです。
こういうことを話していると
本日は、このいわゆる「エマオ途上」の話の後半、28節から、その次の所、43節までをご一緒に読みます。35節までが「エマオで現れる」話で、36節からは「弟子たちに現れる」という新しい小見出しがつけられています。しかしここは一続きの話です。パンを裂いておられるお姿を見て主イエスだと分かり、主イエスの復活を信じた二人の弟子たちは、直ちにエルサレムへと戻って行きました。夕方エマオに着いたのですから、夜の間に今来た道を歩いて戻って行ったのでしょう。そしてエルサレムに戻って他の弟子たちの所に行ってみると、十一人の弟子たちとその仲間たちが集まっていました。そして、「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」と34節にあります。シモンとは主イエスの一番弟子のペトロのことです。ペトロは12節によれば、婦人たちからの知らせを聞いて自分も主イエスの墓に走って行き、その中に遺体を包んでいた亜麻布しかないことを確認しました。しかし「この出来事に驚きながら家に帰った」とありますから、彼も主イエスの復活を信じたわけではなかったのです。しかしそのペトロに、主イエスご自身が現れて下さったのです。その具体的な様子は聖書に記されていませんが、ペトロも何らかの形で復活した主イエスとの出会いを与えられたのです。弟子たちはシモンからその話を聞き、それについて話していました。エマオから戻った二人も、「道で起ったこと」つまり主イエスが共に歩みつつ聖書を説き明かして下さったのに自分たちはそれが主イエスだと気付かなかったこと、そして「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を皆に話したのです。36節はその続きとして、「こういうことを話していると」とあります。35節と36節はそのように直接つながっており、同じ場面の続きなのです。そこに、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」ということが起りました。主イエスの復活について夢中になって話している彼らの真ん中に、当の主イエスご自身が突然立たれたのです。そして「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。
復活を信じる事の困難さ
その時彼ら弟子たちはどうしたか。37節、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。これは不思議なことです。彼らはまさに今、主イエスが復活してシモンに、また二人の弟子たちに現れて下さったことを話していたのです。そこにシモンも、二人の弟子たちもいました。つまり復活した主イエスを自分の目で見た人が三人もいたのです。それなのに彼らは、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのです。今語り合っていたことは何だったのか、復活した主イエスとの出会いを与えられた三人の人々の証言が全く意味をなしていないではないか、と思うのです。けれどもまさにそこに、主イエスの復活がいかに突拍子もない出来事であり、それを信じることがいかに困難であるかが描かれていると言えるでしょう。主イエスの復活は、生きておられる主イエスと出会った人にとってすら、あるいはその人々の目撃証言を聞いた人にとってすら、本当に信じ、その喜びに生きることがなかなかできないような事柄なのです。
復活を信じることがこのように困難である一つの理由は、エマオ途上の話にも語られているように、目の前にいる方が主イエスだと分かったとたんに、つまり彼らが主イエスの復活を信じたとたんに、そのお姿が見えなくなった、ということにあります。復活した主イエスとの出会いは目に見える仕方で与えられましたが、その体験は継続しないのです。シモンの場合もそうでした。彼も目に見える仕方で主イエスと出会いましたが、それからずっと主イエスと一緒にいたわけではありません。主イエスは彼の前から去って行かれたのか、あるいはエマオでの場合と同じようにそのお姿が見えなくなったのか、とにかく復活した主イエスとの出会いは一時のことだったのです。それは十字架の死の前との大きな違いです。彼ら弟子たちは主イエスが逮捕されるまでは、いつも主と一緒に行動し、寝食を共にしていました。しかし復活の後はそういうことはもう起らないのです。復活の前と後では、主イエスとの関わりにそういう違いが生じているのです。そしてこの復活後の主イエスとの関わりは、私たちが今体験している主イエスとの関わりに近いものです。私たちは、主イエスの復活と、その後の昇天、つまり主イエスが天に昇り、父なる神の右の坐に着かれた、その後の時代を生きています。つまり主イエスは目に見えるお姿としては地上を離れて天に昇られたので、私たちはこの世の歩みにおいて主イエスをこの目で見ることはないのです。目で見ることなしに、しかし主イエスが復活して今も生きておられ、天において父なる神の右の坐に着いておられ、聖霊の働きによって共にいて下さることを信じるのです。本日の箇所はまだ主イエスの昇天の前ですから、目に見える仕方での主イエスとの出会いがここでも与えられています。しかしここですでに意識されているのは、主イエスをこの目で見る時代は終ろうとしている、ということです。目で見ることなしに主イエスを信じて生きるべき時代が始まろうとしているのです。私たちはまさに今その新しい時代を生きているわけですが、そこでは主イエスの復活を信じることがより困難であることは確かです。主イエスの復活のことを語り合っているその真ん中に主イエスご自身が立たれたのに、なおそこで恐れおののき、疑いを抱いている弟子たちの姿は、復活を信じることがより困難な時代を歩んでいく教会の姿を先取りしていると言うことができるのです。
肉体における復活
しかしこの話は、復活を信じることの困難さだけを語っているのではありません。彼らは、亡霊を見ているのだと思って恐れたとあります。「亡霊」と訳すと、主イエスの幽霊が現れたと思ったということになりますが、実は原文において用いられているのは、単に「霊」という言葉です。「霊を見ているのだと思った」のです。つまり彼らは、主イエスの霊が、肉体を伴わずに現れたと思ったのです。38節から39節にかけての主イエスのお言葉はそういう弟子たちの間違った思いを正すために語られています。主はこうおっしゃいました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。「亡霊には肉も骨もないが」とありますが、ここも原文の言葉は「霊」です。「霊には肉も骨もないが、私にはこのように手や足がある。つまり肉体があるのだ」と言っておられるのです。ですからこの「わたしの手や足を見なさい」というお言葉を、幽霊には足がない、足があるのは幽霊ではない、という日本的な感覚で理解してはなりません。主イエスは、私は幽霊ではない、と言っているのではなくて、私は肉体をもって復活したのだ、霊のみで現れているのではない、と言っておられるのです。そのことを彼らにはっきりと分からせるために、40節で「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」のです。そして41、42節には、弟子たちがなお信じられず、不思議がっているので、主イエスがそこにあった焼き魚を一切れ食べてみせるというパフォーマンスをなさったことが語られています。主イエスが、「ほら見てごらん」と言ってみんなの前で焼き魚をむしゃむしゃ食べて見せた。ユーモラスな場面ですが、そこまでして主イエスは、そしてルカ福音書は、私たちに大切なことを示そうとしているのです。それは、主イエスの復活は、霊のみにおける事柄ではなくて、肉体の復活だったのだ、ということです。
霊における復活?
そしてこのことが、先ほど申しました、今私たちは復活を信じることがより困難な時代を生きている、ということと結びつきます。復活を、肉体におけることとしてではなく、霊における事柄とするならば、そんな困難はなくなるのです。イエス・キリストは霊において復活して弟子たちの前に現れた、ということならば、誰でもすんなり受け入れられるのではないでしょうか。「霊において」というのは様々な仕方で理解できます。弟子たちが主イエスの思い出を大切にして生きていったとか、主イエスならこうなさっただろう、といつもみ心を想像しつつそれに従って歩んだ、というのも「霊におけるイエスの復活」と言えるでしょう。復活をそのように人間の理性と調和させ、奇跡の持つ解りにくさ、つまずきを取り除こうとする試みは様々になされてきたのです。しかし聖書は、特にルカによる福音書のこの箇所は、そのような試みを拒んでいます。主イエスは、手と足を持った、肉や骨のある肉体として復活して、弟子たちの前に現れたのです。そのことを、目に見ることなしに信じて生きることが、主の昇天以後の私たちの、教会の信仰なのです。
あなたがたに平和があるように
主イエスは彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。これはもともとはユダヤ人たちが毎日普通に交わしている挨拶の言葉「シャーローム」だと思われます。ユダヤ人たちは日々、「あなたに、あなたがたに、平和がありますように」という挨拶を交わしているのです。しかし主イエスはここで単なる日常の挨拶を語られたのではありません。弟子たちの群れに、神の平和、祝福が豊かにあるようにという思いを込めてお語りになったのです。その神様の平和、祝福は、主イエスが体をもって復活なさったことを信じる信仰によってこそ私たちに与えられるのです。主イエスがここで、ご自分の手や足を示し、魚を食べることまでして、体の復活をお示しになったのは、この神による平和、祝福を彼らに与えるためでした。主イエスの復活を霊における復活として捉えていたのでは、神様による本当の平和、祝福に生きることはできません。なぜならそれは、自分が理解でき、納得できる範囲でのみ復活を捉えようとすることだからです。そのような復活理解は人間の常識や知識の範囲を一歩も超えることができません。人間を超えた神様の力が働く余地はそこにはないのです。別の言い方をすれば、霊における復活を信じるというのは、神様が主イエスによって実現して下さった救いを、自分の心の中だけの問題にしてしまうことなのです。そこに生まれる生き方は、基本的には人間の、自分の力によって生きていく中で、多少は神様の手助けを求める、というものです。しかし神様が、主イエスが私たちに与えようとしておられる平和、祝福、つまり救いは、そのような生き方によって得られるものではありません。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章はそのことを教えています。ここには、神様が与えて下さる救いの姿が描かれています。その救いにおいては、荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れ、熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなるのです。荒れ野、荒れ地が喜び踊り、砂漠が喜んで花を咲かせ、野ばらの花が一面に咲くのです。そして見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うのです。主イエスが告げておられる神の平和とはそういうものです。それは、人間の力や努力で実現できることではありません。主なる神様が、人間をはるかに超えた、世界を支配し導く全能の力によって与えて下さる平和であり、私たちはそれを努力して実現するのではなくて、信じて待ち望むのです。この神による平和、祝福、救いを信じて生きるためには、主イエスが神の力によって肉体をもって復活させられたことを信じることが必要なのです。つまり人間の理性、考え、常識をはるかに超えた神様の恵みのみ心が、主イエス・キリストの十字架の死と復活において具体的に実現していることを信じることによってこそ、この平和、祝福、救いを信じ、待ち望みつつ生きることができるのです。
日常の生活の中で
私たちは、主イエスの死と復活によって実現した神の平和、祝福、救いを、主イエスのお姿をこの目で見ることなしに信じて歩みます。それは先ほど申しましたように、困難な歩みです。ここでの弟子たちのように、疑いや迷いがいくらでも起るのです。しかしこれはイースターの礼拝において申しましたが、31節で、あの二人の弟子が主イエスの復活を信じたとたんにそのお姿が見えなくなったというのは、復活を信じて生きる者は主イエスのお姿をこの目で見る必要はないということでもあります。復活して今も生きておられる主イエスは、目で見るという人間の感覚をはるかに超えた、ずっと確かな仕方で、私たちと共にいて下さるのです。それは聖霊のお働きによってです。聖霊によって私たちは、この目で見るよりも確かに、主イエスと共に生きることができるのです。しかしそこでしっかり確認しておかなければならないのは、聖霊によって共にいて下さる主イエスは、単なる霊としてではなく、復活した体をもって共にいて下さるのだ、ということです。主イエスは聖霊のお働きによって、体をもって復活した方として、体をもってこの世を生きている私たちと、具体的に共にいて下さるのです。聖霊のお働きによって私たちは、頭や心の中だけではなくこの体全体をもって、復活なさった主イエスと共に生きるのです。体全体をもってというのは、日々の具体的な生活の中で、ということでもあります。本日の箇所において、「食事」というまことに具体的かつ日常的な事柄が大事な役割を果たしているのはそのことを示していると言えるでしょう。エマオにおいては、主イエスが食卓の主人として、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお与えになった、その食事において彼らの目は開け、主イエスの復活を信じることができたのです。また主イエスが体をもって復活なさったことをなかなか信じることのできない弟子たちのために、主イエスが焼き魚を食べて見せたというのも、食事というまさに肉体的な、そして日々の具体的な生活の場において、主イエスが共にいて下さることを示して下さるためでした。日常の生活の中でそのように主イエスと共に歩む体験を通して、私たちの中の、主イエスの復活への疑いや迷いは解消されていくのです。
主イエスの語りかけを受けて
私たちは、聖霊のお働きによって、この目で見ることなしに主イエスを信じ、復活して今も生きておられる主イエスと共に歩んでいきます。それが信仰者として生きることです。その信仰の生活は、三度三度の食事に代表される、日常的、具体的な毎日の生活の中で営まれていくのです。私たちの日常生活の真ん中に、復活して生きておられる主イエスが立って下さるのです。そして「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。その語りかけを聞くのは、日曜日の礼拝の場でだけではありません。家庭や職場や学校や、その他様々な場における日々の具体的な生活の中で、復活して生きておられる主イエスは私たちに語りかけて下さり、共に歩んで下さるのです。その語りかけを聞き取る耳を養うために、日曜日、主の日の礼拝があると言ってもよいでしょう。礼拝においてみ言葉を聞いているからこそ、私たちは日々の、肉体をもって具体的に生きる生活の中で、主イエスの語りかけを聞き、主イエスの十字架の死と復活において実現している神の平和、祝福、救いを信じ、待ち望みつつ生きることができるのです。