主日礼拝

主イエスのまなざし

「主イエスのまなざし」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第43章1-4節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章54-62節
・ 讃美歌:241、442、197

遠く離れて従うペトロ
 主イエスは捕えられて大祭司の家に連行されました。マタイ、マルコ福音書は、その時弟子たちが皆主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったことを語っています。しかし今私たちが読み進めているルカによる福音書は、弟子たちがその時どうしたかを語っていません。その代わりに、すぐその後の本日の箇所の冒頭の54節で、弟子の一人であるペトロが、連行される主イエスに「遠く離れて従った」ことを語っているのです。この「従った」という言葉は、彼らが主イエスによって召されて弟子となり従って行った、という時に使われていたのと同じ言葉です。つまりルカは、弟子たちが逃げ去ったことには触れず、その中のペトロがなお主イエスの弟子として従って行ったことを語っているのです。しかしそこには「遠く離れて」という言葉が加えられています。主イエスのすぐ後につき従って行くことができない、遠く離れて、人目を避けるようにこっそりと従って行こうとするペトロの姿が描かれているのです。主イエスが逮捕された今、弟子たちだってどういう目に遭うかわかりません。そういう危機的な状況の中で、言い換えれば信仰の試練の中で、なお主イエスに従おうとはしているけれども、恐れに捕えられ、人目をはばかりつつ、遠く離れて従っていく、ルカはペトロのそういう姿を描いています。ルカはこのペトロに、弟子たち全体の代表としての姿を見ているのではないでしょうか。弟子たちが逃げ去ったことには触れずにこのペトロの姿を語っていることにはそういう意図があるように思うのです。そしてそれは、このペトロが、私たち信仰者みんなの代表でもあるということではないでしょうか。主イエスに従うことがキリスト信者の信仰です。私たちはその信仰に生きることを決意して洗礼を受け、信仰者として歩んでいくのです。しかし私たちも様々な苦しみ、試練に遭う時、しばしば恐れに捕えられ、主イエスから遠く離れて、おぼつかない歩みで従うことしかできなくなるのです。

サタンのふるいの中で
 マタイ、マルコ福音書とのもう一つの違いは、これら二つの福音書では、主イエスの逮捕の後に語られているのは、大祭司の家でのユダヤ人の最高法院による裁きであり、その後に、ペトロが主イエスを三度知らないと言ってしまったという本日の話が語られているのに対して、ルカにおいては、最高法院による裁きは後に回されて、先にこのペトロの話が来ていることです。このように語ることによってルカは、ペトロのこの話を、先週の主イエスの逮捕の場面とダイレクトに結びつけているのです。そこにもルカの意図が伺えます。先週の説教において述べたことですが、この逮捕の場面において、主イエスを裏切り、逮捕しようとする人々を先導して来たユダも、武装して主イエスを捕えに来た人々も、そして彼らに抵抗して剣を抜いた弟子たちも、皆同じように、サタンによる試練の中で恐れに捕えられ、闇に支配されてしまっています。ルカはこの場面で、サタンによる試練の中で恐れに捕えられ、神様のみ心に従うことができなくなっている人々の姿を描いているのです。そしてそのクライマックスとして、弟子の筆頭だったペトロが、大祭司の中庭で、試練に負けて三度主イエスを知らないと言ってしまったことを語っているのです。主イエスはそのことを既に34節で予告しておられました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったのです。そしてその前の31節には、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」というみ言葉があります。これはルカのみが語っているみ言葉です。ルカはこの後、サタンのふるいにかけられていく人々の姿を語ってきたのです。そのクライマックスにこのペトロの話を位置づけるために、話の順序を変更したのです。そうであるならばなおさら、このペトロはまさに私たちの代表であり、試練の中で恐れにとりつかれ、信仰を失ってしまう私たちの姿がここに描かれていると言わなければならないでしょう。

「わたしはあの人を知らない」
 ペトロは遠く離れて従い、主イエスが連行された大祭司の家の中庭に入り込みました。人々がその真ん中に焚き火をしてその周りに座っていたので、彼もその中に紛れ込んだのです。彼らから見える所に、逮捕された主イエスが、見張りの者たちに囲まれています。63節以下には、主イエスが彼らから侮辱を受けたことが語られています。ペトロはその様子を、焚き火を囲んでいる人々に紛れてそっと伺っていたのです。すると、ある女中がペトロをじっと見つめて、「この人も一緒にいました」と言いました。「彼と」という言葉が原文にはあります。この人もあのイエスと一緒にいた、ということです。しかしペトロはそれを打ち消し、「わたしはあの人を知らない」と言ったのです。少したって、他の人がペトロを見て「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは「いや、そうではない」と言いました。それは直訳すれば「私は違う」という言葉です。それから一時間ほどたって、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ったのです。この人は「ガリラヤの者だから」という根拠を語っています。おそらくペトロの言葉にガリラヤなまりがあったのでしょう。だから確信を持って「確かにこの人も一緒だった」と言ったのです。ペトロはそれに対して、「あなたの言うことは分からない」と言いました。「あなたが何を言っているのか、私にはさっぱり分からない」という感じです。問い詰められ、窮地に立たされた時に私たちはよくこういう言い逃れをします。しかし彼がまだ言い終わらないうちに、突然、主イエスの予告通りに鶏が鳴いたのです。
 「わたしはあの人を知らない」、「私は違う」、「あなたの言うことは分からない」、このようにしてペトロは三度、主イエスを知らないと言ってしまったのです。ペトロのこれらの言葉を、マタイ、マルコ福音書のそれと比べてみると、かなり弱々しい感じです。マタイやマルコでは、誓ったとか、呪いの言葉さえ口にしながら、という激しい表現がありますが、ルカにはそういうことが全くありません。それは、ルカが語っているペトロの言葉は、私たちが普通に口にしそうな言葉だ、ということなのではないでしょうか。私たちが試練の中で、主イエスに従うことができなくなり、「知らない」と言ってしまう、信仰の挫折に陥ってしまう、そのことは、どちらかといえばこのルカが語っているような弱々しい、消極的な仕方で起るのではないでしょうか。私たちは試練の中で、恐くなって、「知らない、私ではない、何のことか分からない」というふうに弱々しく消極的に、主イエスとの関係を否定してしまうのです。このような弱いペトロの姿を語っているところにも、ルカがペトロを自分たち信仰者の代表として見つめていることが現れているのだと思います。

主イエスの言葉を思い出すペトロ
 この話において、マタイ、マルコ福音書とルカ福音書が最も大きく違っている点は、次の61節です。「主は振り向いてペトロを見つめられた」。ペトロが三度主イエスを知らないと言ったとたんに鶏が鳴いた。その声を聞いた主イエスは、振り向いてペトロを見つめられたのです。この場面に主イエスご自身を登場させているのはルカだけです。主イエスはペトロがこの中庭に来ていることをご存じであり、鶏が鳴き、あの予告が実現したことを知ると共に、ペトロを見つめられたのです。その主イエスのまなざしを受けて、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主のお言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。
 これは大変心打たれる場面なのですが、しかし疑問に思うこともあります。ペトロは、振り向いて自分を見つめられた、その主イエスのまなざしに触れた時に、わたしを三度知らないと言うだろうという主イエスの言葉を思い出したというわけですが、それは思い出すのが遅いのではないか、という気がします。主イエスの予告の言葉は、つい数時間前に、最後の晩餐の席上で語られたばかりです。それを忘れてしまっていたというのもおかしなことですが、それは記憶から失われていたということではなくて、そんなことが自分に起るとはとうてい考えられなかった、思ってもみなかった、ということだと言えるでしょう。しかしそれなら、最初のあの女中に「この人も一緒にいました」と言われ、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまった時に、どうして、「ああ、主イエスがさっきおっしゃった通りのことを自分はしている」と気付かなかったのでしょうか。三度それを繰り返して鶏が鳴くまでそれに思い至らないなんてあまりにも鈍感すぎる、と思うのです。しかしこの疑問に対しては、それは第三者として客観的にこの場面を眺めているから言えることで、実際にこの試練に遭っている者は、そんな冷静な判断はできないのだ、と言うこともできるでしょう。ペトロは、恐ろしさに震えながら焚き火に当っていた、そこであの女中に「この人もあのイエスと一緒だった」と言われて思わず「わたしはその人を知らない」と言ってしまった。そのままその場から逃げ出したいという思いと、少しでも主イエスの近くに留まって、成り行きを見届けなければ、という思いとのせめぎ合いの中で動くことができずにいるうちに、二度、三度と否定の言葉を繰り返してしまい、結局あの予告の通りになってしまった、ということでしょう。私たちが試練の中で信仰の挫折に陥る時にも、それと同じことが起るのです。いつも冷静に客観的に状況を判断して行動できるわけではないのが人間の弱さであり、私たちはそういう弱い人間なのです。
 そのように私たちは、ペトロのここでの心の動きについていろいろと自問自答するわけですが、しかしそういう自問自答よりも、聖書が、このルカによる福音書がここで何を語ろうとしているのかを正しく読み取ることが大事です。聖書を読んでいろいろとものを考えることは大事ですが、聖書の言葉にしっかり聞くことの中でそれはなされなければなりません。この箇所においては、主イエスが振り向いてペトロを見つめられた、するとペトロは主の言葉を思い出した、ということが大事です。ペトロが主の予告の言葉を思い出したのは、鶏の鳴く声を聞いて「そういえば主はああ言っておられた」と思い出したのではありません。「主は振り向いてペトロを見つめられた」、それによって彼は主の言葉を思い出したのです。この時、この大祭司の家の中庭で、主イエスとペトロの目が合ったのです。周りの人々は誰も気付いていない中で、いわゆる「アイ・コンタクト」が生じたのです。そのことが、ペトロに大きな衝撃をもたらしたのです。それこそが、ルカがここで語ろうとしている最も大事なことだと思うのです。

主イエスのまなざし
 振り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしはどのようなものだったのでしょうか。それは何を語っていたのでしょうか。主イエスとペトロの間に、ここでどのようなアイ・コンタクトがなされたのでしょうか。「それ見たことか、お前は『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』などと威勢のよいことを言っていたが、結局私が言った通り、三度も私を知らないと言って、私との関係を否定してしまったではないか」。主イエスのまなざしはそのようにペトロを責めていたのでしょうか。ペトロは主イエスのその叱責のまなざしに触れて、自分の信仰の挫折を予告しておられた主のみ言葉がその通りになったことに思い至り、どこまでも主イエスに従って信仰を貫くことができると自分の力、自分の信仰に信頼し自信を持っていたことがいかに愚かな思い上がりだったのかを思い知らされ、その悲しみの中で外に出て激しく泣いたのでしょうか。そうではないと思います。ペトロを見つめた主イエスのまなざしは、彼を叱責していたのではなくて、むしろ、22章31、32節のみ言葉をもう一度彼に語りかけていたのではないでしょうか。それは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみ言葉です。シモン・ペトロは今、まさにサタンのふるいにかけられ、その試練の中で信仰の挫折に陥り、主イエスとの関係を否定し、弟子として従っていくことができなくなってしまったのです。そういうことが起ることを、主イエスはご存知でした。ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いましたけれども、そのペトロの覚悟など、サタンによる試練の中ではひとたまりもないことを主イエスは知っておられたのです。そういう弱いペトロを、主イエスは責めたり、断罪して見放そうとしておられるのではなくて、むしろ彼のために、彼の信仰が無くならないように、祈って下さっているのです。振り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしは、ペトロのためのこの祈りをこそたたえていたのではないでしょうか。ペトロは、主イエスのまなざしに、三度「知らない」と言ってしまった自分のためになお祈っていて下さる主イエスの慈しみをこそ見たのではないでしょうか。「信仰が無くならないように」というのは、彼と神様との、そして主イエスとの、関係が失われてしまわないように、つながりが断ち切られてしまわないように、ということです。ペトロは、主イエスのことを「知らない」と言ってしまい、主イエスとの関係を、つながりを、自分で断ち切ってしまったのです。しかし主イエスは、その関係を、つながりをどこまでも保ち続けようとしておられます。そのために祈って下さっています。その祈りの一つの具体的な現れが、42節の、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りです。試練の苦しみの中で信仰を失い、神様との関係を断ち切ってしまう人間の罪を、神様の独り子である自分が背負って十字架にかかって死ぬことによって、彼らの罪が赦され、神様との関係が保たれる、それが父なる神様のみ心であるなら、そのみ心に従って十字架への道を歩み通そう、そういう祈りの戦いを主イエスは戦って下さったのです。これこそが、私たちの信仰が無くならないようにとの主イエスの祈りです。ペトロは主イエスが自分のためにこのように祈り、その祈りの通りに生きて下さっていることを、あのまなざしの中に見たのです。その時、彼は初めて、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃった主のお言葉の本当の意味を悟ったのです。それは、「お前は強がっていても結局は私を裏切る情けない人間なのだ」というダメ出しでもなければ、「このままだとこんな情けないことになるぞ。だからもっとしっかりして、私にこんなことを言われないような人間になれ」という叱咤激励でもなくて、サタンのふるいの中でひとたまりもなく信仰を失い、主イエスとの関係を断ち切ってしまう弱く罪深い自分を、主イエスは見捨てることなくどこまでも愛し、その自分のために祈り、つながりを持ち続けて下さるという、主イエスの強い意志を示すお言葉だったのです。主イエスご自身のこの強い意志によって、彼と主イエスとの関係、つながりは、たとえ彼がそれを否定し、拒み、もう自分は関係ない、主イエスと共に生きるのはやめた、と宣言してしまったとしても、なおつながり続けるのです。

激しく泣いたペトロ
 主イエスのまなざしによってこのみ言葉の本当の意味に触れた彼は、外に出て激しく泣きました。彼がそこで流した涙はどのような涙だったのでしょうか。勘違いしてはいけないのは、彼は主イエスのまなざしに自分のために祈って下さっている主イエスのお姿を見、そこに罪の赦しの恵みを見出して、その恵みに感極まって泣き、その涙と共に慰めを得て、新たに歩み出すことができた、ということではない、ということです。このように激しく泣いたことによってペトロが信仰の挫折から立ち直った、などと聖書は語っていません。自分のために、信仰が無くならないようにと祈って下さっている主イエスの慈しみをそのまなざしに見出した彼は、それゆえにこそますます深く、自分がしでかしてしまったことの罪深さに気付いたのです。このように自分のために祈っていて下さり、自分とのつながりをどこまでも保ち続けようとして下さっている主イエスを、自分は、三度も、知らないと言ってしまった、主イエスとの関係を否定してしまった、裏切ってしまった、そういう取り返しのつかないことを自分はしてしまったのだ、ということに彼は愕然としたのです。それは、私は、私だけでなく人間は、弱いもので、試練の中で信仰の挫折に陥ることがある、み心に従うことができなくなってしまうことがある、失敗してしまうことがある…、そんなふうに説明し、言い訳することのできない、もっと自分の存在の根底を揺さぶられ、その土台がガラガラと崩れ落ちていくような体験です。ペトロはそういう、とりかえしのつかない罪の悲しみの中で激しく泣いたのです。それは、しばらく激しく泣けばそれですっきりして、慰めを得て立ち上がることができるというような涙ではありません。ある意味で彼はここで本当に絶望したのです。望みを失ったのです。自分の中にある、自分の力でどうにかすることのできる望みの根拠はもう何もなくなったのです。しかしそのように全ての望みを失った彼を、主イエスのあの祈りがなお支えているのです。彼がその祈りによって立ち直ることができたのは、この時ではありません。そのためには主イエスが先ず、十字架にかかって死ななければならなかったのです。そして復活しなければならなかったのです。次にペトロが登場するのは、主イエスの復活が告げられたその場面です。彼のために十字架にかかって死に、そして復活して下さった主イエスがもう一度彼と出会い、招いて下さることによってこそ、彼はこの涙から、絶望から立ち直り、主イエスを信じ、従っていく者として新たに立つことができたのです。
 この後、讃美歌197番を歌います。「三たびわが主を否みたる 弱きペトロをかえりみて 赦すはたれぞ 主ならずや」と歌う讃美歌です。最終的にはそういうことになるのですが、しかしペトロはあの主イエスのまなざしによって赦しをいただいたのではありません。そんなに簡単なことではないのです。そのためには、主イエスの十字架の死と復活が必要だったのです。

主イエスのまなざしの中で
 私たちは今週、アドベント、待降節の第三週を歩みます。クリスマスの日まで、なお二週間備えをしていくのです。クリスマスを迎えるために私たちがなすべき信仰における備えは、私たちのための救い主としてこの世に生まれて下さった主イエス・キリストが、今私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのかを知り、そのまなざしを受けて私たちも主イエスを見つめていくことです。ペトロがそうだったように、試練の苦しみの中で私たちはまことの弱い者であり、自分の決意や覚悟などすぐにどこかへ吹き飛んでしまう者です。とりかえしのつかない罪の中で激しく泣かざるを得ない者です。しかしその私たちの信仰が無くなってしまわないために、主イエスが祈っていて下さり、私たちとのつながりを保ち続けて下さるのです。そのことを語っている主イエスのまなざしの中で生きることが、私たちの信仰であり、そこにこそ、私たちの絶望を乗り越える救いがあるのです。

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