主日礼拝

忍耐して命を得る

「忍耐して命を得る」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第42編1-12節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第21章5-19節
・ 讃美歌:50、130、580

世の終わりを見つめる
 先週に続いて、ルカによる福音書第21章5~19節を読みたいと思います。主イエスはここで先ず、壮麗なエルサレムの神殿が「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」ように徹底的に破壊される日が来る、と予告なさいました。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所であり、民族の存在の基盤でした。それが崩壊することは、彼らにとってこの世の終わりを意味するような出来事です。この神殿崩壊の予告によって主イエスは彼らを、「この世の終わり」に直面させておられるのです。このことから始めて、主イエスはここで、この世の終わり、終末についての教えを語っていかれたのです。
 神殿崩壊の予告を聞いた人々は、「それはいつ起るのですか、どんな徴、つまり前兆があるのですか」と問いました。彼らは、神殿の崩壊に代表されるような破局、災いを恐れ、脅えつつ、それにどう備えたらよいのかを知りたいと願っているのです。この災い、破局に備えることが、この世の終わりに備えることだと思っているのです。

おびえてはならない
 そのような恐れを抱いている彼らに対して主イエスは9節で、「おびえてはならない」とおっしゃいました。この一言は決定的に大事です。先週はこの言葉を中心にしてこの箇所を読みました。恐れ脅えることは、この世の終わりを見つめ、それに備える信仰の正しいあり方ではないのです。しかしそれは、この世の終わりに向かう歩みの中で、苦しみや悲しみ、破局が襲ってくることはない、ということではありません。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」ということが確かに起るのです。それによって戦争や暴動などが生じ、その苦しみを味わうことがあるのです。世の終わりに起る破局として人々が恐れているのは、戦争や暴動だけではありません。地震や飢饉や疫病、また天に現れる徴などがやはり世の終わりに向かう中で起ると考えられていました。戦争や暴動が人間どうしの対立から生じる苦しみであるのに対して、これらは自然災害によってもたらされる苦しみです。人災に対して天災と言ってもよいでしょう。しかし先週も申しましたように、天災と人災の境目は曖昧であって、天災を契機として人災が起るし、人災によって天災の被害や影響がより大きくなるのです。そのことを私たちは今、東日本大震災を通して経験しつつあるわけです。そのような天災と人災の組み合わさった苦しみが、世の終わりに向かう歩みの中で必ず起るのです。そういう現実を見つめつつ、主イエスは「脅えてはならない」とおっしゃるのです。

世の終わりは何によってもたらされるのか
 脅え、恐れずにはおれないような現実があるのに、何故主イエスは「脅えてはならない」などとおっしゃるのでしょうか。その根拠は、9節後半の「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」というお言葉に示されています。先週申しましたように、主イエスがここで語っておられることの中心点は、戦争や災害は必ず起るが、それが「世の終わり」ではない、ということです。戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は必ず起る、それは人間の努力によって避けることはできない、しかしそういう崩壊、破局によって全てが「おしまい」になることはない、「終わり」はそれとは別のものによってもたらされるのだ、と主イエスは言っておられるのです。
 それでは、「この世界の終わり」は何によってもたらされるのでしょうか。そのことがこの21章の27節に語られていることも先週申しました。27節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」、とあります。この「人の子」とは主イエス・キリストです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、それは主イエス・キリストのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立し、完成することです。この世界に終わりをもたらすのは、ということはこの世界と私たちを最終的に支配するのは、崩壊や破局をもたらす力、私たちを滅ぼそうとする力ではなくて、私たちの救い主イエス・キリストなのです。崩壊、破局による苦しみの現実の中で、恐れ脅えることなく生きることができるとしたら、それはこの主イエスの再臨を信じる信仰、救い主イエス・キリストのご支配が確立、完成することによってこそこの世界が終わるのだということを信じる信仰によってなのです。

一つの時代の終わりを超えて
 先週申しましたように、私たちは今、エルサレム神殿の崩壊に直面した当時のイスラエルの民とある意味で同じような事態と向き合っています。東日本大震災と福島第一原発の事故によって私たちは、一つの時代、価値観、生き方の終わりを意識させられています。今や新しい時代、価値観、生き方が求められているのです。何が終わったのか、あるいは終わらせなければならないのかを私たちは今考えさせられており、またこれからどのような時代を、どのような生き方を築いていかなければならないのかを模索しています。そのような時に直面している私たちに、主イエスのこの「脅えてはならない」というみ言葉は大いなる慰めと励ましを与えてくれます。一つの時代が終わりを迎え、今私たちには新しい生き方が求められている、つまり変わることが求められているのです。その変化に直面して私たちは戸惑いを覚え、不安になり、恐れ、脅えます。しかし時代が、生活が、私たちの営みが、どんなに変わっていくとしても、この世界自体の終わりではないのです。「世の終わりはすぐには来ない」、つまり神様が造り支配しておられるこの世の歩みは、時代の変化、移り変わりを超えてなお続いていくのです。神様のみ業はなお前進していくのです。それを信じて、その神様の新しいみ業についていくことが、今私たちに求められているのです。

迫害の苦しみ
 さてここまでが先週聞いたことですが、本日はこの箇所を、もう一つの視点から見ていきたいと思います。その視点は主に12節以下に示されています。12節にこうあります。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」。「これらのことがすべて起る前に」の「これらのこと」とは、世の終わりに向けて起る戦争や暴動、民と民、国と国との対立、また地震や飢饉や疫病などの諸々の災いの全てを指していると言えるでしょう。それらが世の終わりの近いことの徴とされているわけですが、それらのことより前に起ることがある、と言っているのです。このように言うことによって主イエスは、世の終わりに向かっていく歩みの中で私たちが必ず体験することは、天災や人災による災いだけでない、それとは別の苦しみも必ず起って来るのだ、と教えておられるのです。それは一言で言えば「迫害」の苦しみです。人々があなたがたを、会堂や牢に引き渡し、王や総督の前に引っ張って行く、つまり捕えられて尋問や裁判を受けることになるのです。それは「わたしの名のために」です。主イエスの名のために、つまり主イエスを信じる信仰を理由として、捕えられ、裁かれるのです。信仰による迫害を受ける、ということです。ルカはこの福音書の続きとして「使徒言行録」を書いて、最初の教会とその伝道の様子を語りました。そこにはこのように主イエスを信じる信仰のゆえに迫害を受け、捕えられ、裁かれ、鞭で打たれ、殺された人々のことが語られています。キリストの福音が宣べ伝えられていく所ではどこにおいても、またいつの時代にも、このような迫害があるのです。世の終わりに向かう信仰者の歩みにおいて、天災や人災と共に、これらのこともまた必ず起るのです。

信仰者の間ですら
 16、17節にもこの迫害のことが語られています。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。信仰のゆえに苦しみを受けることは、家族、親族、友人など、親しい人々との間でも起ります。さらには世の中のすべての人に憎まれることすら起ると主イエスはおっしゃるのです。これらのことを考える上で、私たちが振り返って見なければならないことがあります。日本においても、戦前戦中の時代に、信仰を貫き、はっきりと主張したために投獄され、中には獄死した人たちがいました。しかし私たちがその流れを受け継いでいる教会からはそのような人はほとんど出ていません。私たちの流れの教会は、むしろそのように迫害を受けている人々を見捨てたと言わざるを得ない歴史があるのです。あの時代、迫害を受けたキリスト者たちは、仲間であるはずのキリスト教会の人々からも見捨てられ、むしろ憎まれていることを感じたのです。つまり迫害の中で、キリスト信者どうしの間にも対立が生じ、むしろ迫害に加担してしまうようなことすらも起るのです。「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」というのはそういうことを意識していると言えるでしょう。本来仲間であるはずの者たちに裏切られ、憎まれる、ということが起るのです。そして私たちは、自分たちがむしろその裏切る者、憎む者となってしまうことを警戒しなければなりません。66回目の終戦記念日を目前にして、平和を祈り求めていく中で、こういうことをも振り返っておく必要があるのです。

二種類の苦しみ
 主イエスはここで、この世の終わりに向かう歩みにおいて生じる二種類の苦しみを見つめておられます。一つは、先週読んだ所に語られていた、人災や天災によって生じる災いによる苦しみです。それは全ての人に共通して襲って来る苦しみであると言えます。しかしそれと並んで、信仰者が、信仰のゆえに受ける苦しみがあると語っておられるのです。それは信仰者のみが体験する苦しみであり、主イエスを信じ従っていないならば受けることのない苦しみです。信仰をもって生きる時に、あなたがたはそういう苦しみをも必ず体験することになる、と主イエスは言っておられるのです。第一の、全ての人に共通する災い、苦しみを見つめつつ主イエスがお与えになった勧めは、あの「脅えてはならない」でした。第二の、信仰者のみが体験する苦しみを見つめつつ語られている勧めは何でしょうか。それが19節の「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」なのです。

忍耐によって命をかち取れ
 信仰者が信仰のゆえに受ける苦しみ、それは一言で言えば迫害の苦しみですが、主イエスはそれを、いわゆる「迫害」よりも広い意味で、信頼できるはずの信仰の仲間からも裏切られてしまうという苦しみをも含んだものとして見つめておられます。つまりこれは信仰のない人々から受ける苦しみであるのみでなく、むしろ信仰者どうしの交わりの中で生じる苦しみでもあるのです。そのようなまさに信仰のゆえの苦しみにおいて主イエスが私たちに求め、勧めておられるのは、忍耐することです。忍耐することによって、「命をかち取りなさい」とあります。「かち取る」というと、自分の力で勝利を得て栄冠を勝ち取るというイメージであり、その勝利のために頑張れと叱咤激励しているように感じられますが、ここはそういうことではなくて、「忍耐によってあなたは自分の命を得ることができるのだ」という約束を語っているのです。信仰のゆえにこそ受ける苦しみの中で必要なのは忍耐することだ、それによってこそ、命を得ることができる、と主イエスはおっしゃっているのです。

逃げ出さずに留まる
 ここで使われている「忍耐」という言葉のもとの意味は、何かの下に留まっている、ということです。忍耐するとは、そこに留まり続けること、言い換えれば、そこから逃げ出さないことです。迫害を受け、信頼できるはずの仲間にも裏切られ、すべての人に憎まれてしまっているように感じる時にも、その場を逃げ出さずに、そこに留まり続けること、それが忍耐です。信仰のゆえに受ける苦しみにおいてはこのことが何よりも大切なのです。それは見方を変えれば、信仰のゆえの苦しみからは逃げ出すことができる、ということです。先週見つめた、天災や人災によって生じる戦争や暴動、あるいは地震や飢饉や疫病といった苦しみは、誰もそこから逃げ出すことができないものです。しかし信仰による苦しみはそうではありません。逃げ出そうと思えば逃げ出せるのです。つまり迫害を逃れようと思うなら、信仰を捨てればよいわけです。私たちに引き寄せて言えば、こんな苦しみを受けるぐらいならもう信仰は捨てた、と言って教会に来るのをやめればよいのです。そのことで私たちを責める人はいません。教会は、来なくなったからといって何かペナルティーが課されるような所ではないのです。そのように逃げ出すことができる中で、しかし神様を信じる者として、主イエスに仕える者として留まり続け、教会の礼拝に通い続ける、それが忍耐することなのです。

証し人としての命に生きる
 その忍耐によってこそ「命」が得られると主イエスは言っておられます。いったいどういう命がそこで得られるのでしょうか。13節の言葉に注目したいと思います。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」とあります。「それ」というのは、迫害を受け、会堂や牢に引き渡され、主イエスの名のために王や総督の前に引っ張って行かれることです。そういう迫害の苦しみから逃げずに、そこに留まり続けるなら、それは私たちにとって証しをする機会となるのです。証しをする、というのは、主イエス・キリストのことを、主イエスによって与えられた神様の救いの恵みを人々に語り伝えること、つまり伝道することです。信仰のゆえにこそ味わう苦しみの中に忍耐をもって留まり続けることが、証し、伝道の機会となるのです。もっとも「機会」という言葉は原文にはありません。ここを私なりに大胆に意訳すると、「あなたがたが迫害の中に留まり続けることが結果的に証しになる」となります。ですからここを、逮捕されて裁判を受けることが、王や総督の前で信仰の証しをするための機会、チャンスになる、という意味にのみ取る必要はありません。自分の信仰を堂々と力強く語る、という「証し」のみが考えられているのではないのです。むしろ、その人が、主イエスを信じる信仰に生きており、そのためにこのような苦しみを受けていながら、なお逃げ出さずに信仰に留まり続け、信じている主に忠実に生きている姿こそが、どんな見事な演説よりも証しになるのです。その人の生きている姿そのものが、主イエスこそ救い主であると証ししているのです。忍耐によって命をかち取ることができる、とはそういうことではないでしょうか。その命とは、生きている姿そのものが主イエスを証ししているような命、主イエスこそこの人の救い主であり、この人を生かし、慰め、力づけている方だということが自然に分かるような命です。信仰のゆえの苦しみを忍耐してそこに留まり続けることによって、私たちはそのような命を生きる者となるのです。そこから逃げ出してしまったら、肉体の命を失うことからは免れるとしても、証し人としての命に生きることはできないのです。

主イエスが授けて下さる言葉と知恵
 14、15節に語られていることも、この流れの中で捉えることができます。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」。主イエスが授けて下さるというこの言葉と知恵、それを私たちは、単なる巧みな言葉と理解してしまってはならないのです。迫害する者が対抗も反論もできず、ギャフンと言い、こちらの正しさを認めざるを得ないような言葉が授けられる、ということではないのです。そもそも、迫害の場、信仰のゆえに苦しみを受ける場面というのは、議論においてどちらが筋が通っているか、論争においてどちらが勝つか、というような場ではありません。どんなに見事な論理を展開し、相手の主張をことごとく論破したとしても、それで迫害が、信仰のゆえの苦しみがなくなることはありません。論争に勝つことが証しになることはないのです。主イエスが授けて下さる言葉と知恵は、本当に証しになる言葉と知恵です。それは人間の知恵による巧みな言葉ではなくて、その人の生きている姿としっかりと結び合っている言葉であり、そこに主イエスによる救いの恵みが示され、証しされる、そういうまことの知恵ある言葉です。それは前もって準備し、勉強して知識を得ることによって語れるようになるものではありません。「前もって弁明の準備をするな」というのはそういうことです。主イエスが授けて下さる言葉はまさにその場で咄嗟に与えられるものです。そしてそういう言葉を咄嗟に語ることができるのは、忍耐して、信仰のゆえの苦しみの中に留まり続けている人、その苦しみをしっかり背負って生きている人なのです。そこに与えられる言葉は、どんな反対者でも、対抗も反論もできないような力ある証しとなるのです。

世の終わりを見つめつつ
 主イエスは、信仰をもって生きる者がその信仰のゆえに必ず受ける苦しみを見つめさせ、忍耐してその苦しみの中に留まり、それを背負って生きるようにと私たちに勧めておられます。このことが、先週から見てきたように、この世の終わり、終末についての教えの中で語られていることをもう一度思い起こしたいと思います。様々な災害の苦しみを見つめつつ語られていたのは、それらによってこの世が終わるのではない、ということでした。この世界は、主イエスがもう一度来られ、今は隠されているそのご支配が誰の目にもあらわになり、完成することによってこそ終わるのです。だから、災害などの苦しみの中でも、「脅えてはならない」と言われていたのです。本日の所における、信仰のゆえの苦しみもそれと同じ流れの中で見つめられています。つまり迫害に代表されるその苦しみも、終末へと向かうこの世の歩みの中のみにおける苦しみなのであって、主イエス・キリストのご支配が完成する世の終わりにおいては、それらは全て解消され、取り除かれるのです。その終わりの時における救いの完成を信じ、それを待ち望むがゆえに、私たちは今この世においてその苦しみを忍耐し、逃げ出さずにその中に留まり続けることができるのです。18節で主イエスは、「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」とおっしゃっています。その前の所には、迫害によって殺される者もいる、と語られていますから、それと矛盾している、と思うかもしれません。しかし、私たちが信仰のゆえの苦しみの中に忍耐して留まり続けるなら、たとえそこで殺されることがあるとしても、なお私たちは、私たちの髪の毛一本までも数えていて下さり、守り導いて下さっている、その神様のみ手の内にあるのです。

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