「義とされて帰る」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第51編1-21節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第18章9-14節
・ 讃美歌:8、134、441
自己評価の問題
ルカによる福音書を読み進めておりますが、先週の箇所に続いて本日の9節以下でも、主イエスは一つのたとえをお語りになりました。8節までの所のたとえは弟子たちに対して語られたものでしたが、本日の所のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して語られたものだと9節にあります。これは主イエスがお語りになったことではなくて、この福音書を書いたルカの、言わば解説の言葉です。「このたとえはこういう人々に対して語られたのだ」ということをルカは読者のために付け加えたのです。主イエスご自身はこのたとえの意味や目的を解説はしておられません。結論としておっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。ルカは主イエスのお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、口語訳聖書では「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」となっていました。ここに訳し出されているように、ここには「自分を」という言葉が二度繰り返されています。「自分を」高くする者と「自分を」低くする者とが並べられているのです。この言葉は、この箇所を理解する上で大事な鍵となります。9節におけるルカの解説の言葉にも、「自分は」正しい人間だとうぬぼれて、とやはり「自分」という言葉があります。主イエスがこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。
ところで、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」というところですが、口語訳聖書では「自分を義人だと自任して」となっていました。「うぬぼれて」は意訳であって、「自任して」の方が原文のニュアンスを伝えています。原文の言葉は直訳すると「自分に信頼して」となります。「うぬぼれて」は結果として生じる高慢な姿を語る言葉ですが、ここで見つめられているのはむしろそういう高慢を生む元にある高い自己評価、自分で自分を正しい者だと思い込み、自分に信頼し、自信を持つことです。そのような自己評価の問題をこのたとえはえぐり出しているのです。
対照的な二人
そこで、主が語られたたとえの内容を見ていきたいと思います。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」という設定です。「祈るために」という所が大事です。神様のみ前に出て、神様と相対し、神様に語りかける、それが祈ることです。そのために最も相応しい場所は、神様がそこにおられると考えられていた神殿でした。彼らは二人共、神様のみ前に進み出るために神殿にやって来たのです。その二人が、ファリサイ派の人と徴税人だったというのは、全く対照的な二人ということです。ファリサイ派は、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しい生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に認めていた人々です。この人々こそ、神様のみ前に出て祈るのに最も相応しいと誰もが思っていたのです。それに対して徴税人はその正反対、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金を徴収し、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、罪人の代表です。お前などどの面下げて神様の前に出られるのだ、と思われていたのです。
ファリサイ派の人の祈り
この対照的な二人の祈りがまたまことに対照的でした。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。彼は神様に感謝の祈りをささげています。何を感謝しているのかというと、「ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと」です。この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう連中とは違う、特にあそこにいるあの徴税人のようなとんでもない罪人とは全く違う生き方をすることができていることを彼は神に感謝しているのです。そしてさらに彼は、自分が神様に仕えてどのような信仰の行為、奉仕をしているかを語っています。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。一般のユダヤ人に求められていたのは、年に何度かの断食でしたから、週に二度というのは、普通の人々よりもはるかに多く断食をしているということです。また「全収入の十分の一を献げている」というのも、作物や生まれた家畜の十分の一を献げることが定められていましたが、「全収入の」十分の一というのは、はるかに徹底した献げ方です。このように彼は他の人々が真似できないようなすばらしい信仰的行いをしている、そのことを祈りにおいて神様に述べているのです。
徴税人の祈り
他方徴税人の祈りは一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」でした。しかも彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、神殿の境内のユダヤ人男子が入ることができる庭の中でも、聖所から遠くの隅の方で、ということです。ファリサイ派の人はおそらく聖所の正面のごく近い所で祈ったのだと思われるのに対して、彼は隅っこの方で、しかも「目を天に上げようともせず」に祈ったのです。目を、つまり顔を天に上げて祈ることがユダヤ人の普通の祈りの姿です。それが神様に顔を向ける姿勢なのです。ファリサイ派の人はまさにまっすぐに天を仰いで祈ったことでしょう。しかしこの徴税人は顔を上げることができない、神様に顔向けできないのです。また「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表すしぐさです。彼は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。この「憐れんでください」も、口語訳聖書では「おゆるしください」となっていました。17章13節に、重い皮膚病を患っている十人の人が主イエスに「わたしたちを憐れんでください」と叫んだことが語られていましたが、本日の箇所で用いられているのはその「憐れんでください」とは別の言葉です。この言葉は「罪を償う」という意味です。これが名詞になると「罪を償う供え物」という言葉になるのです。ですからここは口語訳のように「おゆるしください」と訳すべきです。この徴税人が祈り願ったのは、漠然とした「憐れみ」ではなくて、神様が自分の罪を赦して下さることです。彼の罪によって壊れ、失われている神様との関係がもう一度回復されることを願って彼は祈ったのです。
義とされて家に帰ったのは
この対照的な二人の対照的な祈りの言葉を語った上で主イエスは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。それをすることができるのは神様のみです。あの徴税人は神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。つまり彼の祈りは聞き届けられたのです。彼が願った罪の赦しが与えられ、神様との関係が回復されたのです。一言で言えば彼は救われたのです。それに対して、ファリサイ派の人は義とされなかった、神様によって義なる者と見なされなかったのです。人々の目から見たら、この人こそ正しい人、義である人と思われていたし、自分でもそう思っていたわけですが、神様は彼を正しい者と認めて下さらなかったのです。ということは彼は神様から罪人であると宣言されたということです。罪のゆえに神様との交わりが破壊されてしまっているのは、あの徴税人ではなくてファリサイ派であるこの人の方だと主イエスはおっしゃったのです。それは何故なのでしょうか。
自分を高くする者、低くする者
続いて語られている「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というみ言葉がその理由を示しているように思われます。これは先ほど申しましたように、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という言葉です。つまり自分を高く評価する者は神様によって低くされ、自分を低く評価する者は神様によって高くされる、ということを語っています。それが、この二人に起ったことでした。ファリサイ派の人は自分を高く評価しました。自分は周囲の罪人たちとは違い、神様にしっかり仕えている正しい者だ、と評価したのです。しかしそういう者は神様によって低くされ、罪人と宣告されました。それに対して徴税人は自分を低く評価しました。自分は神様のみ前に出るに値しない罪人だ、と評価したのです。そういう彼を神様は高くして下さり、罪を赦して義として下さったのです。だとするとここに語られているのは、自分の立派な所、優れた所、信仰深く神に仕えていることなどを見つめて自分を高く評価するのでなく、むしろ自分の罪や欠点をこそ見つめ、自分を低く評価し、神様の赦しを求める方がいい、神様はそういう謙遜な者をこそ高くして下さるのだ、ということになります。そうなると、最終的に神様によって高くしてもらうためには自分をできるだけ低く評価した方がよい、というノウハウを教えているようなことになります。しかし果して主イエスはそういうことを教えるためにこのたとえを語られたのでしょうか。
独り言
彼ら二人の祈りの言葉にもう一度目を向けたいと思います。ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その彼が見つめているのは「ほかの人たち」の姿です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちが世の中には沢山いる、そういう人々のことを彼は見つめています。そして今この祈りの場においては、あそこにとんでもない罪人である徴税人がいる、神殿に祈りに来る資格などないはずの者がずうずうしくやって来ている、と彼の目は徴税人に向けられています。彼の感謝は、それらの他の人々と自分とを見比べることによる感謝です。そして彼がこの祈りにおいて見つめているもう一つのもの、それは自分自身です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神に仕え、どれだけ献金をしているか、それを彼は見つめています。そのように彼の心の目は、他の人と自分自身にばかり向けられていて、神様の方に向けられていないのです。11節に彼が「心の中でこのように祈った」とあります。ここは直訳すると「自分自身に向かって祈った」となるのです。自分自身に向かって語る言葉、それは「独り言」です。彼の祈りの言葉は独り言になっている、それは、祈る相手である神様がしっかりと見つめられていないからです。そこに、彼の祈りの根本的な問題がありました。いや、それはそもそも祈りになっていなかったのです。
神の前に立つ
それに対して徴税人の祈りは、神様に、神様のみに向けられています。彼が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてどうだということではありません。私はあそこで祈っているファリサイ派の人のような立派な信仰生活は全然できません、罪を犯してばかりです、私はだめです、などと言っているのではないのです。彼の目には、周囲の人間は全く入っておらず、ただひたすら神様のみを見つめ、神様による罪の赦しを願い求めて祈っているのです。それはまさに神様に向けられた祈りです。神様は彼のその祈りに応えて下さり、彼を義として下さったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、つまり神様が彼を高くして下さったのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからではありません。彼が神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えて下さったのです。ファリサイ派の人は、自分を高くするような思い上がった祈りをしたからかえって低くされてしまったのではありません。彼は、そもそも神様に祈っていないのです。神様の前に立っていないのです。他の人々と自分を見比べて、自分の正しさや立派さを確認して喜び、その喜びを独り言で語っていたに過ぎないのです。それは祈りではありません。そして祈りのない所には、神様との交わりは成り立たないのです。
神の前に立つか、人の前に立つか
つまりこの二人の違いの根本は、本当の意味で祈っているかいないかです。言い換えれば、神様を本当に見つめ、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べてばかりおり、つまり人間の前に立っているか、ということなのです。そしてこのことが、「自分を高く評価するか低く評価するか」という違いを生んでいるのです。他の人と自分を比較する中で私たちが求めているのは、自分を少しでも高く評価することです。他の人からも高く評価されたいし、自分でもそう思いたいのです。それがうまくいかずに劣等感に陥ることもあります。しかしそれは高く評価されたいという願いの裏返しです。人間どうしの比べ合いに生きている限り、私たちは常に、自分を高くする者であり続けるのです。そのことは様々な仕方でなされます。このファリサイ派の人の祈りの言葉はまことに高慢な鼻持ちならないものですが、しかしある意味でこういうのはまことに無邪気な、単純なあり方だとも言えます。私たちはもっと手の込んだ仕方で自分を高く評価しようとします。つまり自分をこの徴税人の立場に置きつつ、「神様、私は世間の多くの人々のように、神様の赦しなど必要としないと思っている高慢な者ではなく、またあのファリサイ派の人のように、良い行いをすることによって神様のみ前に出ることができるなどと思っている者でもないことを感謝します。私はあの人たちとは違って、自分が神様の前に出る資格などなく、神様に赦していただかなければならない罪人であることを知っています」などと祈ることもあるのです。それはあのファリサイ派の人の祈りと同じことです。私たちはどちらかというとこういう仕方で自分を高くしようとすることが多いのではないでしょうか。つまり、自分はこの徴税人の方だと思えばそれで事が済むわけではありません。徴税人だったはずの者がいつのまにかファリサイ派の人になっているということがいくらでもあるのです。
大切なことは、神様のみ前に本当に立つということです。神様のみ前に本当に立ったなら、私たちはもはや人と自分とを見比べていることなどできません。神様のみ前では、「あの人よりは自分の方がましだ」と自己弁護をすることも、「あの人がこうだったから」と人のせいにすることも、「この人のことはどうなのか」と話を人のことにすり替えることもできません。神様は私たち一人一人に対して、「人はどうであれ、あなたは、私を信じ従うのか、それとも拒むのか」と問われるのです。その問いの前に立つ時、私たちは誰もが、この徴税人と同じように、遠くに立ち、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈り願うしかないのではないでしょうか。そこでは、自分を高く評価するか低く評価するかなどと考える余地はこれっぽっちもないのです。そんな自己評価ができてしまうのは、神様のみ前にではなく、人間どうしの比べ合いの中にいるからなのです。そして先ほども申しましたように、そこでは私たちは必ず、自分を高く評価しようとするのです。
神の裁きを信じる
神様のみ前に本当に立つ、それは言い換えれば、神様の裁きの前に立つということです。神様がこの私をお裁きになる方であるということを本当に知ることこそが、神様のみ前に立つことなのです。あの徴税人は、神様の裁きを知っており、それを恐れていました。だからこそ、「罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったのです。他方ファリサイ派の人は、神様の裁きなど真剣に受け止めていません。恐れてもいません。だから呑気に、あの人と比べて自分は立派だ、などと思って満足していられるのです。つまりこの二人の違いの根本には、神様の裁きが必ず行われることを信じ、恐れをもってそれに備えているか否か、ということがあるのです。それは、先週読んだ1~8節に語られていたたとえと同じテーマであると言うことができます。先週の箇所におけるたとえによって主イエスは、一人のやもめの姿を通して、神を恐れず人を人とも思わない不正な裁判官の下にあるこの世の現実の中で、正しい裁きが行われることを求めて気を落とさず絶えず祈り求め続けるべきことをお教えになったのです。あのやもめの姿と、本日の箇所の徴税人の姿は重なります。どちらも、神様の裁きが行われることを信じて祈っているのです。つまり、神の国、神様のご支配の完成を待ち望みつつ生きる信仰者の姿がこれらのたとえによって描き出されているのです。
二つのたとえ
9節に、「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあります。ここに「も」という言葉があることの意味がそこに見えて来ます。これは英語で言えばandに当る小さな言葉ですが、これがあることによって、本日の所のたとえは8節までのたとえと結びついていることが示されています。どういう結びつきがあるのか、それは、どちらも、神の国、神様のご支配、神様による正しい裁きが行われることを信じ、恐れをもってそれに備えて生きる信仰のあり方を教えているということです。先週の箇所は、弟子たち、つまり信仰者に対して語られたたとえでした。それゆえにそこには、「気を落とさずに絶えず祈りつつ」神様の裁きを希望を持って待つことが教えられていました。本日の箇所のたとえは今度は、主イエスを信じていない、つまり主イエスによって既に神の国、神様のご支配が到来しているという福音を受け入れていない人々に対して語られています。その人々に対しては、神様の裁きの前に立つことを恐れることの大切さが語られているのです。神による裁きを恐れることのない人は、人間による評価を恐れます。いつも人と自分を比べ合い、お互いがお互いを評価しつつ、その評価に左右されて生きることになるのです。そしてそこには、自分を少しでも高く評価しようとする思いと、その裏返しとして他人を見下し、あるいは攻撃し、おとしめるようなことが起るのです。
義とされて帰る
しかし私たちがそのように人のことばかりを見つめ、人と比べ合ってばかりいる目を、神様の方に向け、神様の裁きを恐れをもって信じつつそのみ前に立つならば、私たちはこの徴税人のように自分を低くする者となります。神様のみ前に堂々と立つことなどできず、遠くから、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈る者となるのです。その時私たちは本当に祈る者となります。神様はその祈りをしっかりと受け止めて下さり、私たちを義として下さるのです。そのために、神様の独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。そのことを信じて洗礼を受けることによって、罪人である私たちが赦され、義とされて、キリストによって既に到来している神の国にあずかる者となり、またその完成を待ち望む者となるのです。その洗礼を受けた者たちは本日これから聖餐にあずかります。聖餐は、主イエスの十字架と復活によって既に到来した神の国を私たちが心で信じるだけでなく体で味わうために備えられている食事であり、またその神の国が、世の終わりにキリストがもう一度来て下さることによって完成し、誰の目にも明らかになる、その救いの完成においてあずかる神の国の食卓を垣間見る希望の食事でもあります。私たちは、神様のみ前に立つのに全く相応しくない罪人ですが、この礼拝において、神様に祈る者とされ、み言葉と聖餐とによって罪を赦され、義とされて、それぞれの家へと、生活へと帰って行くことができるのです。