主日礼拝

わたしに従いなさい

「わたしに従いなさい」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 列王記上 第19章19-21節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章51-62節
・ 讃美歌:96、505、443

エルサレムへの旅
 ルカによる福音書は、本日の箇所、9章51節から新しい局面に入ります。51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。主イエスの活動は4章14節から始められていますが、そこにも記されているようにそれはガリラヤ地方でなされてきました。主イエスがお育ちになった出身の町はナザレであり、活動の拠点となったのはカファルナウムですが、それらは皆ガリラヤの町です。聖書の後ろの付録の地図の6「新約時代のパレスチナ」を見ていただきたいのですが、ガリラヤ湖の西側の地域がガリラヤ地方です。主イエスのこれまでの活動はここでなされてきたわけです。しかし本日の9章51節において、主イエスはエルサレムへと向かう決意を固められたのです。ここからは、エルサレムへ向けての旅が始まります。ガリラヤでの活動が主イエスのお働きの第一段階とするならば、エルサレムに向けての旅が第二段階です。そして第三段階はエルサレムにおける活動となります。つまり9章51節から、主イエスの活動の第二段階が始まるのです。
 そのように主イエスの歩みをはっきりと三つの段階に分けて語っているのはルカによる福音書の特徴です。主イエスが最初ガリラヤで活動し、最後にはエルサレムに来て、そこで十字架につけられたということは、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる「共観福音書」が共通して語っていることです。しかしガリラヤからエルサレムへの旅ということを明確に語っているのはルカだけです。そのことが語られている箇所を紹介しておきます。一つ目がこの9章51節ですが、次は13章22節です。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。17章11節にも「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。そして19章28節には「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。ここから、エルサレムにおける主イエスの活動を語る第三段階に入るのです。つまりルカは本日の9章51節から19章27節までを、主イエスの活動の第二段階、「エルサレムへの旅」として語っているのです。

天に上げられる
 主イエスは何のためにエルサレムへと向かわれたのでしょうか。ガリラヤ地方というのは、当時のユダヤ人たちにとっては、ユダヤ本国とは区別された辺境の地です。3章1節に、この当時「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主」だったと語られています。つまりユダヤとガリラヤは支配者が違っており、ユダヤはローマ帝国の直轄地、ガリラヤはローマに認められたヘロデの王国だったのです。ユダヤ人たちの宗教や文化の中心はエルサレムのあるユダヤです。ですからガリラヤからユダヤへ、エルサレムへというのは、辺境の地から国の中心である首都へ出る、ということです。主イエスもいよいよ、ユダヤ人の首都であるエルサレムに進出しようとしたのでしょうか。そうではないということがこの51節に語られています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。主イエスがエルサレムに上ろうと決意されたのは、天に上げられる時期が近づいたからだったのです。主イエスが天に上げられる、それは、主イエスが復活して天に昇られたことによって実現しました。しかしそのことが起る前には先ず、逮捕され、死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されるという受難があるのです。「天に上げられる」という言葉は受難をも含んでいると言えます。十字架の死と復活と昇天によって天に上げられる、その時がいよいよ近づいたことを主イエスは悟り、そのことが起るべき場所であるエルサレムへと向かう決意を固められたのです。ですからこれは、田舎でばかり活動していても埒が明かないから首都に進出しよう、などということではありません。主イエスは既に22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とご自分の受難を予告しておられますが、いよいよそのことに向けて歩み出したのです。ここは口語訳聖書では「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」となっていました。原文にはこのように、「顔をその方へ向ける」という言葉があります。多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして復活することへと、主イエスはまっすぐに顔を向けて歩み始めたのです。

サマリア人の村
 さてそのようにしてエルサレムへの旅が始まったわけですが、この旅において主イエスは、52節にあるように、「先に使いの者を出された」のです。使いに出されたのは弟子たちです。この後の10章の初めにも同じことがなされています。主イエスのエルサレムへの旅において、弟子たちは主イエスの先駆けとして遣わされたのです。そのことの意味は日を改めて考えたいと思います。
 先ほどの地図を見ると分かるように、ガリラヤからエルサレムへ向かうとは、南に向かうということです。ガリラヤの南、ユダヤとの間にあるのがサマリアです。主イエスはこのサマリアを通って旅していったのです。従って弟子たちもサマリア人の村へと先に派遣されました。それが52節の後半「彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った」ということです。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」と53節にあります。これは、当時ユダヤ人とサマリア人との間にあった対立によることです。それには歴史的な背景があり、その経緯を説明していると長くなってしまいますので省きますが、簡単に言えばサマリア人というのはユダヤ人と異邦人の混じりあった民族で、ユダヤ人たちはサマリア人を不純な民として軽蔑しており、サマリア人もそれに対抗してエルサレムとは違う場所に自分たちの礼拝の中心を置いていたのです。ですからエルサレムへと上っていくユダヤ人である主イエスと弟子たちの一行をサマリア人が歓迎しないのは当然で、これは主イエスとその弟子だから、という理由ではありません。しかしいずれにせよ、主イエスと弟子たちの一行はサマリアの人々に歓迎されなかった、むしろ敵意をもって迎えられたのです。

敵意に対してどうするか
 そういうサマリア人の敵意に対して、弟子のヤコブとヨハネが、こちらも敵意をもってふるまおうとしたというのが54節です。彼らは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。ここには、ユダヤ人がサマリア人に対して抱いていた憎しみが現れていますが、同時にこの二人の弟子の性格も現れています。ヤコブとヨハネは兄弟ですが、彼らは主イエスから「雷の子」と呼ばれたということがマルコ福音書に語られています。それは彼らが時々癇癪を起して突然怒り出す、いわゆる瞬間湯沸器のような人だったということでしょう。この時も彼らは、自分たちに敵意を向けるサマリアの人々に対して激しく怒り、「こんなやつらは滅ぼしてしまいましょうか」と言ったのです。しかし主イエスは、「そんなことを言ってはいけない」と彼らをたしなめたのです。
 主イエスの弟子として、主イエスに従って歩む時に、私たちは、この弟子たちが経験したように、人々から歓迎されず、むしろ敵意を向けられるようなことがあります。その時にどうするべきか、そういう事態をどう受け止めるべきか、がここに教えられています。ヤコブとヨハネは腹を立てたのです。怒って、こんな連中は滅びてしまえ、と思ったのです。しかし主イエスは、そんな思いを抱いてはいけない、と言われたのです。敵対する者たちに対して怒り、敵意に敵意をもって返すことを戒められたのです。これはとても大事な教えです。主イエス・キリストを信じ、主イエスに従って生きることが私たちの信仰ですが、そこにおいて私たちはともすると、自分たちの信仰を受け入れずに敵対する人々を、神様に敵対する悪魔の手先であるかのように考え、こんな人々は滅ぼされるべきだ、と思ってしまうことがあります。実際そのような思いから虐殺が起ったりしたこともあるのです。唯一の神を信じる一神教は不寛容だからそういうことが起る、と日本ではよく批判されますけれども、しかし本日の箇所が語っているのは、主イエスご自身がそういう思いを戒めておられるということです。敵対する者を悪魔の手先として殺したりすることは、主イエスのこの教えに従わない人間の罪によることなのです。敵対する者に対する怒りを押さえ、その人々を滅ぼしてしまうことによって問題を解決しようとする思いを捨てることこそが、主イエスの弟子として、信仰者として主イエスに従って生きる者のあり方なのです。

主イエスに従うには
 主イエスの弟子となって主イエスに従うとはどのように歩むことか、ということが57節以下にも語られています。ここには、主イエスに従って行こうとした三人の人々に対するお言葉が並べられています。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。すばらしい信仰の決意表明です。しかし主イエスはこの人の決意に水をさすように、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたのです。「人の子」とは主イエスがご自身を指して言われる言葉です。「あなたは私の行く所ならどこへでも従って来ると言っているが、その私には枕する所もないのだ、安住の地のない、心の休まる暇もない歩みをしていくのだ、その私に本当に従えるのか」というお言葉です。捕えられ、十字架につけられるためにエルサレムへと向かう主イエスの旅はまさにそのような枕する所もない歩みです。主イエスに従うとは、主イエスのこの旅路を共に歩むことなのです。このお言葉が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という決意を語った人に対して語られたことを見つめておく必要があります。このお言葉によって主イエスは、主イエスに従っていく信仰の歩みは、自分の決意や努力によって、つまり人間の力によって実現するものではない、ということを示そうとしておられるのです。私たちが、自分は主イエスにどこまでも従って行くことができる、などと思うのはとんでもない傲慢なのです。
 二人めの人には、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と声をおかけになりました。これが、主イエスが弟子を招く一般的なあり方です。するとその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのです。すると主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃいました。この人は、主イエスの招きに応えて従って行こうとしているのです。しかしまず父の葬りをすませたいと言っているのです。父親の葬式を出すことは、私たちの社会でも同じですが、当時のユダヤ人たちの間でも、子供としての最大の義務とされていました。しかし主イエスは、主イエスに従うことを、父親の葬式を出すことよりも優先せよとおっしゃるのです。そのくらいの思いを持っていないと主イエスに従って生きることはできない、というのです。第三の人においても同じようなことが語られています。その人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言ったのです。しかし主イエスは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とおっしゃいました。家族に別れを告げようとすることは、鋤に手をかけてから後ろを顧みるような未練がましいことだ、そういう思いを断ち切るのでなければ、神の国にふさわしくない、主イエスによってもたらされる神の国にあずかる信仰者は、家族との関係よりも、主イエスに従うことの方を大切にすべきだ、というのです。

何を第一とするか
 この57節以下に語られているのは大変厳しいことです。私たちはこの厳しさを割り引かずにしっかりと受け止める必要があると思います。主イエス・キリストに従うことが私たちの信仰であり、そこにはこのような厳しさが伴うのです。父を葬りに行くとか、家族にいとまごいに行くというのは、人間として最も大事な、なすべきことです。それは当然優先にされるべきだと誰でも思うのです。しかし私たちは、そういう、当然優先されるべきことを他にもたくさんかかえています。この世を生きる者として、この社会の一員として、家庭の中で、いろいろな責任を負っている者として、これは大事だ、これは優先にしないと、ということはいくらでもあるのです。そういう現実の中で私たちは、主イエスに従おうと思いつつも、いつしかそれを二の次三の次四の次にしてしまう、放っておけば必ずそうなるのです。主イエスのこの厳しいみ言葉は、そのような私たちに、本当に大切なこと、最終的に第一とすべきことは何なのかを教えています。そういう意味で私たちはこのみ言葉をしっかりと受け止める必要があるのです。

エルサレムへの旅路の中で
 しかしそれと同時に、これらのみ言葉を、51節以来の流れの中で読むことがとても大切だと思います。主イエスは、ご自分が天に上げられること、つまり十字架の死と復活と昇天との時がいよいよ近付いたことを意識して、その苦しみを受ける地であるエルサレムへと歩み出されたのです。主イエスがそのように苦しみを受け、十字架につけられて殺されるのは、私たちの罪を全て背負って下さり、私たちの身代わりとして死んで下さるためです。そのことによって私たちの罪が赦され、新しくされて神の子として生きるために、主イエスはエルサレムへの旅路を歩まれたのです。この主イエスの歩みによってこそ、私たちの救いが実現したのです。その救いは私たちの力によって得られたものではないし、私たちが努力してよい行いをしたとか、立派な人間になったから与えられたのでもありません。主イエスの十字架の死と復活への歩みを通して、神様が恵みによって与えて下さった救いです。この救いのゆえにこそ私たちは、十字架の死へと向かう主イエスに従ってその旅路を共に歩むのです。そして、当然大切にしなければならないことがいろいろある中で、この主イエスに従っていくことを何よりも大切にして生きるのです。それは、そういう私たちの努力によって救いが得られるということではありません。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と決意し、それを実行することによって救いが実現するわけではないのです。私たちの救いは、天に上げられるためにエルサレムへと歩んで下さった主イエス・キリストによって、その十字架と復活と昇天とによって実現し、与えられているのです。

旅立つこと
 そういう意味では、このみ言葉を、父の葬式を出している暇があったら伝道せよ、とか、家族のことなどはほうっておいて主イエスに従え、という律法、戒律が与えられたように理解することは間違っています。私たちがここから読み取るべきことはむしろ、信仰者として主イエスに従って生きる時に、私たちは主イエスと共に旅する者となるのだ、ということです。信仰とは旅立つことです。旅立つとは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」という言葉に象徴されている自分にとっての安住の地、安心できる家を離れることです。父を葬るとか、家族にいとまごいをすることに象徴されている親や家族との関係から出て、一人の人間として主イエスと共に生きる者となることです。言い換えれば、信仰者になるとは、私たちが生まれつき属している集団、そこに連なっていれば安心でき、連帯感が得られるような群れ、その中で自然に共有されている考えや感覚、常識などを離れて旅立ち、主イエス・キリストと共に生きることにおいて与えられる新しい意識、感覚、思いや志に生きていくことなのです。具体的に言うならば、ユダヤ人としての生まれつきの意識と感覚に生きていたヤコブとヨハネは、敵対するサマリア人を滅ぼしてしまおうか、と考えました。しかし主イエスに従って旅立った者は、そのような民族主義的な思い、敵対する者を悪魔のように捉える感覚から解放されて、罪人の救いのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って、敵を愛し、迫害する者のために祈るという新しい思いと志に生きる者となるのです。

信仰の旅路における恵み
 主イエスに従って旅立つことによって、私たちはこのように新しい思いと志を与えられます。そしてその信仰の旅路において、神様の大きな恵みを体験していくのです。主イエスご自身は確かに、枕する所もない歩みを、十字架の死に至るまで歩み通して下さいました。しかし主イエスのこの歩みによって私たちには、救い主イエス・キリストによって実現した神様の恵みによって罪を赦され、支えられ、守られ、育まれるまことの幸いな歩みが与えられているのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」というみ言葉も、その恵みの中で読むことができます。父を葬る、それは愛する身近な者の死に直面するということです。死の力が、私たちから愛する者を奪い去っていくのです。そして私たち自身もいずれ、その死の力に捕えられ、命を失っていくのです。葬り、葬儀は、死の力の支配に直面させられる時です。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉はいろいろに読むことができますが、それは要するに、葬られる者も葬る者も共に死の力の支配の下に置かれている中で行なわれる葬り、ということでしょう。それに対して主イエスは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃったのです。神の国とは、神様のご支配ということです。主イエス・キリストが天に上げられたことによってそれが実現したのです。もはや私たちを支配しているのは死の力ではない、十字架にかかって死なれた主イエスを復活させて下さった神様が、死の力を打ち破り、今や私たちを、この世界を、支配して下さっている、それが神の国の福音であり、主イエスに従うとは、この神の国を言い広めることなのです。この神の国の福音が言い広められ、告げ知らされる所でこそ、私たちは、愛する者の、そして自分自身の死と向き合うことができるのです。単なる気休めでない、本当に慰めと希望のある葬りはそこでこそできるのです。ですから主イエスのこのお言葉は、親の葬式を出している暇があったら伝道せよ、ということではありません。主イエスに従って旅立ち、神の国の福音に生き、それを宣べ伝えていく所でこそ、本当の慰めと希望が告げられ、死の悲しみや恐れに打ち勝つような葬りがなされる、ということをこのみ言葉は告げているのです。
 家族との関係においても同じです。信仰者は家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけない、などと言われているのではありません。主イエスに従って旅立ち、神の国、神様の恵みのご支配に生きる者となる時に、私たちは、しばしば私たちを縛りつけ、身動きできなくする生まれながらの人間の絆から解放され、自由になり、その自由の中で、本当に家族を愛し、大事にすることができるようになるのです。

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