「婚礼の客として」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第58章1-14節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第5章33-39節
・ 讃美歌: 300、117、512
断食の問題
ルカによる福音書を礼拝において読み進めてきまして、第5章の終わりになりました。本日の箇所の冒頭の33節に、「人々はイエスに言った」とあります。この「人々」は、先週読んだ27節以下に出てきたファリサイ派や律法学者たちとは別の人々です。先週の所には、ファリサイ派の人々が主イエスを批判する思いを抱いてつぶやいたことが語られていました。彼らは直接主イエスにではなくて、弟子たちに文句を言ったのです。それが「つぶやき」というものの特徴だと申しました。本日の箇所に出てくる「人々」はそれとは違って主イエスご自身に対して語っています。そういう意味ではこれは「つぶやき」とは違いますが、主イエスと弟子たちに対してある批判を持っていることは同じです。彼らはこう言っています。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。彼らが問題としているのは「断食」のことです。一定期間食事を断つ断食は旧約聖書以来信仰的な行為として重んじられてきました。その伝統を受け継いで、いわゆる洗礼者ヨハネの弟子たちも、また律法を厳格に守るファリサイ派の人々も熱心に断食をしていたのです。この福音書の第18章に出てくるファリサイ派の人は、自分は週に二度断食をしていると言っています。そういう人々に比べて、主イエスの弟子たちはあまり断食をしていなかったようです。ということは勿論彼らの指導者である主イエスご自身もそうだったのでしょう。断食を頻繁にしているかどうかという点に、主イエスの弟子たちと、ヨハネの弟子やファリサイ派の人々との大きな違いがある、とこの人々は感じているのです。つまりそこに、主イエスを信じる者たちの信仰の、それまでの伝統的な信仰に対する新しさがある、と感じているのです。
悔い改めと断食
伝統的な信仰において断食はどのような意味を持っていたのでしょうか。旧約聖書を読みますと、断食は、罪の悔い改めと深く結びついています。自分の罪を覚え、神様の前にそれを懺悔し、お詫びをする、そのことを食事を断つという行為によって、空腹の苦しみを自分に課して、その苦しみに耐えることによって表すのです。断食はそういういわゆる苦行の一種です。またそれは祈りと結びついています。本日の所にも「断食し、祈りをし」とあるように、ただ食事を断って空腹に耐えるだけでなく、その間神様に祈るのです。それは悔い改めの祈りです。罪人である自分が神様に祈り、悔い改めを言い表すのです。その時には、呑気に食事などしてはいられないのです。ですから、断食して祈ると言うよりも、悔い改めの祈りから断食が必然的に生まれるのです。このような意味で、断食はユダヤ人たちの信仰の大切な要素だったのです。
食べたり飲んだりする
ところが主イエスと弟子たちはその断食をしていなかった。全くしていなかったわけではないと思います。主イエスご自身も、例えばこの5章の16節に「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあるように、祈りの時を大切にしておられました。断食をして祈っておられたこともあったでしょうし、そのような祈りを弟子たちにも教えておられたと思います。けれどもそれは今読んだ箇所にもあったように「人里離れた所に退いて」のことで、人々の目にとまることではありませんでした。人々の目に印象づけられたのはむしろ、先週の箇所にあったように、主イエスと弟子たちが、徴税人レビの家で催された盛大な宴会の席に連なり、喜んで食べたり飲んだりしている姿です。この人々が「あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と批判しているのは、このレビの家での宴会を見てのことでしょう。別に飲んだり食べたりしてはいけないと言うわけではないけれども、でもあんな宴会に連なることはどうなのか。方やヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は熱心に断食をしているのに、あなたがたは徴税人の家で楽しく宴会をしている、それで本当に神様を信じ従って生きていると言えるのか、そういう批判ないし疑問を彼らは投げかけているのです。
信仰の基本的性格
彼らが見つめているのは、主イエスの弟子たち、主イエスに従う信仰者たちにおいて、信仰がどのような生き方として現れているか、ということであり、その現れ方が、洗礼者ヨハネの弟子たちとも、ファリサイ派の人々とも、根本的に違っているということです。彼らはこの違いに、両者の信仰の基本的性格の違いを見て取っているのです。ですからこの人々の問いに対して、先ほど申しましたことを持ち出して、「いや、主イエスやその弟子たちも、人々に見えない所でちゃんと断食をしていたのですよ」と答えても意味がありません。問われているのは、断食をしているか否かではなくて、それぞれの信仰の基本的な性格の違いなのです。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の信仰は、断食という苦行に代表される、自らに苦しみを課してそれによって神に祈り、罪の赦しを願い、従っていくという性格の信仰でした。簡単に言えば、努力と精進に生きる信仰です。それに対して主イエスを信じる弟子たちの、つまりキリスト教会の信仰は、食べたり飲んだりするという宴会の喜びに代表される、喜びに生きる信仰だったのです。この違いに、主イエスを信じる信仰の決定的な新しさがあったのです。
婚礼の客として
主イエスはこの新しさを34節でこのように言い表しておられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。つまり主イエスは、弟子たちのことを「婚礼の客」と言っておられるのです。弟子たちが断食をしないのはそのためです。花婿を迎え、お祝いに集った婚礼の客が断食をすることは相応しいでしょうか。それは私たちで言えば、結婚披露宴に招かれておりながら、出された食事に一切手を付けずに、ただ陰気な顔をして座っているようなものです。それは新郎新婦に対しても、また列席の人々に対しても失礼なことであり、祝いの席をぶち壊しにする行為です。婚礼の客である主イエスの弟子たち、主イエスに従う信仰者たちにおいては、断食はそのように相応しくないのだ、と主イエスは言われたのです。
悔い改めの喜び
主イエス・キリストを信じて生きることは、婚礼の祝いの席に連なるような喜びに生きることです。その喜びとは、先週の箇所にあった、レビの家での盛大な宴会の喜びです。レビは徴税人であり、当時のユダヤ人たちの間で罪人の代表と見なされていた人でした。人々から嫌われ、一人寂しく収税所に座っていたレビに、主イエスが「わたしに従いなさい」と声をかけ、招いて下さったのです。それは、罪を赦され、新しく生まれ変わって生きることへの招きでした。レビはこの招きに応えて立ち上がり、何もかも捨てて主イエスの弟子となったのです。罪の中に座り込み、孤独に生きていたレビは、主イエスという人生の本当の主人と出会い、主イエスに従っていくことに、人生の本当の意味と充実を見出したのです。彼はそのように生まれ変わりました。それが彼の悔い改めでした。そしてこの悔い改めの喜びと感謝を表すために彼は盛大な宴会を催し、そこに自分と同じように罪の中で孤独に生きている人々を招いたのです。彼らも主イエスと出会うことによって自分と同じ喜びに生きる者となって欲しいとの願いを込めてです。このレビの喜びこそ、主イエスを信じて生きる者の喜びです。それは悔い改めの喜びです。悔い改めて神様のもとに立ち帰ることができた喜びです。主イエス・キリストを信じる信仰者、キリスト信者は、この喜びに生きるのです。
祝いの喜びに連なる信仰
この喜びを主イエスは、婚礼の祝いの席に連なる喜びにたとえられました。それによって、この喜びに断食は相応しくないことを示されたのです。しかし断食は先ほど申しましたように、本来悔い改めと結びついているものです。信仰者の喜びが悔い改めの喜びなら、断食がそれに相応しくないとはどういうことなのでしょうか。ここで主イエスは、断食がその本来の精神から離れて陥りやすい落し穴を見つめておられるのです。断食は苦行です。自分に苦しみを課して、それによって悔い改めの思いを表すのです。それが断食の本来の精神ですが、それはしばしば、そのように自分に苦しみを課してそれに耐えることによって救いを獲得することができる、という勘違いを生んでしまうのです。悔い改めは、本来、神様が罪を赦して下さり、それによって私たちが新しくされることです。神様の赦しの恵みのゆえに私たちは悔い改めることができるのです。ところが、その神様の赦しの恵みよりも自分が悔い改めることが主になってしまい、悔い改めが自分の手柄のようになってしまうのです。そうなると何が起るか。自分はこれだけ断食をして、熱心に悔い改めている、ということを人に見せようとする、ということが起るのです。だから断食をしている時にはいかにもそれらしい陰気な顔をして、わたしは罪を悔いて断食しています、というオーラを発していくのです。婚礼の客というたとえを用いることによって主イエスが示そうとしておられるのは、そういう陰気なオーラを発して生きることは信仰に相応しい生き方ではない、それは本当に悔い改めて生きることとは違う、ということです。本当に悔い改めるとは、神様の恵みによって罪を赦していただき、神様のもとに立ち帰ることができた、その喜びに生きることであるはずなのであって、いかにも断食をしています、ということを表面に出すのは、自分の悔い改めを誇ろうとしているのです。それゆえに主イエスは、マタイによる福音書の第6章で、断食をする時には、自分が断食をしていることを人に気づかれないように、頭に油をつけ、顔を洗えとおっしゃいました。断食は人に見えない、神様のみが見ておられる所でなされてこそ意味があるのです。またそれはただ断食していることを人に隠せというだけの教えではありません。頭に油をつけ、顔を洗うというのは、祝いの席に連なる備えです。祝いの喜びに連なりつつ、人知れずなされる断食こそあなたがたの信仰に相応しいのだと主イエスは言われたのです。
花婿主イエス
しかし主イエスがこの婚礼のたとえによって語っておられるもっと大事なことがあります。それを表しているのが、「花婿が一緒にいるのに」という言葉です。婚礼の宴席が成り立つのは、そこに花婿がいるからです。勿論花婿と花嫁がいなければならないのですが、ここで花婿のみが出てくるのは、それが主イエスのことを指しているからです。弟子たちは今婚礼の喜びの席にいる、その喜びは、主イエス・キリストが彼らのまん中におられることによる喜びなのです。彼らを招き、レビを招いて、神様のもとに立ち帰らせ、悔い改めを与えて新しく生かして下さっているのは主イエスです。その主イエスのもとに、主イエスと共にいる、それが弟子たちの喜びの源であり、そこにこそ、彼らの信仰の新しさがあるのです。主イエスがおられなかったら、彼らもまた、古い信仰のまま、自分の力で必死に悔い改めなければならなかったでしょう。ヨハネの弟子やファリサイ派の人々と同じように彼らも、断食に生きるしかなかったのです。主イエスが来て下さったからこそ、断食ではなく、喜びの宴会に連なって飲んだり食べたりする新しい信仰に生きることができるようになったのです。
花婿が奪い取られる時
主イエスは続く35節で「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われました。花婿である主イエスが奪い取られる時、それは主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されてしまうその時です。その時には弟子たちも断食をすることになる。断食は悲しみの表明でもあります。悔い改めも、自分の罪を悲しみ、悔いることであるがゆえに、断食と結びつくのです。ですから主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて悲しみの断食をするのは相応しいことであり、それゆえに教会は、主イエスの受難を覚えて断食して祈ることをしてきました。今私たちは、レントと呼ばれる受難節、主イエスの十字架の苦しみと死とを特に覚える時を歩んでいます。この時にこそ、断食して祈ることは相応しいのです。しかしここでしっかり覚えておかなければならないのは、その主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちの罪が赦されたことです。私たちが立派な善い人間になることによってではなく、また私たちが熱心に断食して悔い改めるからでもなく、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されたのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しの喜びを私たちは与えられています。ですから、主イエスの受難、苦しみを覚えて歩むこの時の私たちの信仰も、その根本は、婚礼の客としての喜びに生きることなのです。その救いの喜びの中で、私たちも、断食して祈る、つまり自分の欲望や喜びを断ってひたすら神様との交わりに生きる時を持つことがあります。それは、誰かに強制されてすることではないし、そのような祈りによって救いを獲得するためでもありません。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と言われ、花婿が奪い取られる時には彼らは断食することになる、と言われた主イエスは、根本的には花婿主イエスを迎えた婚礼の喜びの中を生きる私たちが、あくまでも自分の意志で、時として断食をすることがあると言っておられるのです。
古いものと新しいもの
36節以下で主イエスはたとえを用いて語られました。婚礼の話も既に一つのたとえですが、新たなたとえが二つ語られたのです。第一のたとえは、新しい服から布切れを破り取って古い服に継ぎを当てたりはしない、そんなことをしたら、新しい服もだめになるし、新しい服の布切れは古い服には合わない、というたとえです。第二のたとえは、新しいぶどう酒は古い革袋には入れない、そんなことをしたら古い革袋は破れて革袋もぶどう酒もだめになってしまう、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない、というたとえです。第二のたとえで言われているのは、新しいぶどう酒はまだ盛んに発酵を続けているので、弱くなっている古い革袋はそれに耐えられずに破れてしまう、ということのようです。いずれにしてもこれらのたとえによって言い表されているのは、新しいものと古いものとは合わない、新しいものを古いものにあてはめようとするのは愚かだ、ということです。その新しいものとは、主イエスを信じる弟子たちの信仰、つまりキリスト信者の信仰です。古いものとは、断食に代表される伝統的な信仰のあり方です。主イエスの弟子たちに断食することを求めるのは、新しい服を破ってその布切れを古い服にあてはめようとすることで、とうてい合うものではないし、どちらもだめになってしまう、またそれは新しいぶどう酒を古い革袋に入れるようなもので、やはりどちらもだめになってしまうのです。ですから、新しいものが本当に生きるためには、それを古いものにくっつけるのではなくて、新しい枠組み、新しい器が必要なのです。つまり、主イエス・キリストによって始まっている新しい福音、神様による救い、解放の恵みは、ユダヤ人の伝統的な信仰生活の形や枠組みを突破する新しい信仰のあり方、信仰に基づく生活、具体的には、飲んだり食べたりするという宴会に象徴される、喜びを基本的な性格とする信仰生活を生むのであって、それを、断食という苦行に象徴される、自分の努力と精進で悔い改めて正しい者となろうとする古い信仰のあり方によって批判したり規制しようとすることは間違っているのです。
新しいぶどう酒は新しい革袋に
主イエスはこのたとえによってこのように、古い信仰のあり方を主張する人々に対して、主イエスによる新しい信仰のあり方を語られたわけですが、私たちはこの教えを、単にユダヤ人の伝統的信仰と主イエスを信じるキリスト教信仰との間でのこと、と読んでしまってはならないでしょう。そう読んでしまったら、この話はもはや過去のことであって私たちとはあまり関係がなくなってしまいます。しかし、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」というみ言葉は、私たちが今、自分自身に対して語られているみ言葉として聞かなければならないものだと思うのです。なぜなら私たちの信仰もまた、主イエスによる新しさを失って、いつのまにか古い、断食という苦行に象徴される、自分の力で悔い改めて、努力と精進によって正しい者となろうとする信仰になってしまうことがあるからです。つまり私たちの信仰がヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の信仰により近いものとなってしまうことが起るのです。どうしてそんなことが起るのでしょうか。それは、私たちの信仰の新しさは、先ほど申しましたように、主イエスという花婿が共にいて下さることによってしか維持され得ないからです。弟子たちが、断食ではなく、食べたり飲んだりする宴会に象徴される喜びに生きることができたのは、彼らを招き、悔い改めを与え、新しく生かして下さる主イエスと共にあったからです。私たちも、自分の力で悔い改めて、努力と精進によって正しい者になることによって救いを獲得するのではなく、主イエスによって神様が与えて下さっている罪の赦しの恵みの中で悔い改め、新しくされる喜びに生きることができるのは、復活して今も生きておられる主イエス・キリストと出会い、主イエスとの交わりに生きる者とされることによってこそです。この主イエスとの出会いと交わりは、私たちの知識や所有物になってしまうことはありません。私たちは常に新しく主イエスと出会い、生きておられる主イエスとの交わりを聖霊によって与えられていくことによってのみ、主イエスによる新しさに生きることができるのです。言い換えるならば、私たちが主イエスのことを「分った」と思い、信仰が自分の知識の一環となり、信仰生活とはこういうものだ、という固定観念が生まれたとたんに、その信仰は新しさを失ってしまうのです。そこには、自分の知識や経験に依り頼み、それにこだわり、信仰生活とはこうあるべきだ、という自分の思いによって人を批判するような歩みが生まれます。それはまさに、「あなたの弟子たちは断食をせずに飲んだり食べたりしている」と言った人々と同じ姿なのです。
主イエスによる新しさに生きる
主イエスは最後の39節でこう言われました。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」。これは何を言っているのでしょうか。新しいぶどう酒よりも古いぶどう酒の方がよい、ということでしょうか。ぶどう酒ならばそういうことが当時から言われていたのです。主イエスはそのような人々の常識をここに持ってくることによって、新しいぶどう酒、つまり主イエスと共にあることによって与えられる新しい信仰をなかなか受け入れようとしない人々を皮肉っておられるのです。私たちは、信仰生活においても、古いぶどう酒の方を好むという傾向を持っています。その方が慣れ親しんでいるから安心できるし、落ち着くのです。冒険をせずにすむのです。しかし教理的にどんなに正しい信仰であったとしても、古いぶどう酒を好み、「新しいものよりやっぱりこっちの方がいいね」と言っているだけでは、主イエスが私たちに与えようとしておられる信仰に生きることはできません。主イエスはここで明らかに、新しいぶどう酒をこそ私たちに飲ませようとしておられるのです。主イエスを信じ、主イエスと共に歩む信仰は、常に新しいぶどう酒です。その新しいぶどう酒は、古い革袋を打ち破っていくエネルギーを秘めています。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。このみ言葉は、私たちが、教会が、主イエスが与えて下さる新しいぶどう酒に相応しい新しい革袋となることを求めています。主イエスは私たちに、常に新しいことをなさろうとしておられるのです。聖霊のお働きによって共にいて下さる生ける主イエスとの出会いと交わりとを求めていくことによって、私たちは主イエスによる本当の新しさに生きることができます。そしてそこには、主イエスという花婿を迎える婚礼の客としての、喜びと祝いに生きる信仰が与えられていくのです。