夕礼拝

主イエスが与えて下さるもの

「主イエスが与えて下さるもの」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第107編17-22節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第3章7-12節
・ 讃美歌:1、288

<集まって来たおびただしい群衆>
 主イエスのもとに、おびただしい群衆が集まって来た、と今日の聖書箇所にはあります。
 この群衆がどこから集まってきたのかというと、ここにはたくさんの地名が並べられています。聖書の後ろの方に「6.新約時代のパレスチナ」という地図があります。
 主イエスが活動の拠点にしておられたのは、上の方にある湖、ガリラヤ湖があるガリラヤ地方です。今日の聖書箇所の7節「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」というのは、このガリラヤ湖のことです。まずこのガリラヤ地方で、多くの群衆が主イエスのもとにやってきました。さらに、南の方のユダヤ、エルサレム、イドマヤ。またヨルダンの向こう側というのは、東側のぺレアやデカポリスという地域。ティルス、シドンは地図の上の北の方、フェニキアという場所にあります。
 こんなに広い地域の、まさに四方八方から、主イエスめがけておびただしい群衆が集まってきたのです。

 この群衆は、どうして集まってきたのでしょうか。それは、10節にあるように「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」とあります。

 主イエスは、多くの力ある御業を行なっておられました。病を癒し、悪霊を追い出し、汚れている人を清め、からだが麻痺していた人を歩かせました。
 8節に「群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて」とあるように、その噂や評判が人々に口伝えでどんどんと広がっていったのでしょう。「病を癒すことができるすごい方がおられる」「この方なら、どんな病でも癒していただけるかも知れない」「この苦しみから助けていただけるかも知れない」。
 病や、さまざまな苦しみ、悩み、悲しみを、体に、心に持っている人々が、主イエスの奇跡の御業に一縷の望みをかけて、助けを求めて、一斉に集まってきたのです。
 その勢いは、9節にあるように、主イエスが群衆に押しつぶされそうになるほどでした。

 この、必死にすがる思いを、わたしたちも知っていると思います。
 さまざまな苦しみ、悩み、病を抱えた時、そのことが自分の力でどうにもならないとき、より偉大な力に、解決や、癒しを必死に求めようとます。
 この主イエスを押しつぶすほどの勢いで殺到する群衆の中に、期待と望みをもって駆けつける人々の中に、わたしたちも自分の姿を見いだすのではないでしょうか。

 人には多くの願いがあります。よりよく自分の人生を生きることが出来るように、自分の望みどおりの生活をしていくことが出来るように、という願いです。また、不幸と思われる現実から抜け出すこと、耐えられないと思われる苦しみから、解放されることです。
 それは誰しもが当然願うことであり、本当に切実な、心からの願いでしょう。
 とくに、自分の力ではどうにもならない現実が目の前にあるとき。そういうときに、人間の力を超えた存在に、願いを叶えてもらおうとする。救いを求める。それは、人間の自然な心の動きだと思います。

 聖書のおびただしい群衆も、主イエスの不思議な力を知って、苦しみの中からの解放を心から求めて、主イエスのところの押し寄せてきたのです。
 「押し寄せる」という言葉は、元の言葉では「誰かの上に飛び掛かる」とか、「誰かの上に身を投じる」というような意味です。群衆の凄まじい苦しみが、主イエスの上に覆い被さってきたのです。

<小舟に乗る主イエス>
 さて、主イエスは、これらの群衆に対してどのようになさったのでしょうか。
 9節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」とあります。つまり、主イエスは小舟に乗ってガリラヤ湖に出て、押し寄せる群衆から距離を取られたのです。

 そして、主イエスは岸辺に押し寄せている群衆に、舟の上から教えを語られたのだと思われます。なぜそう言えるかというと、4:1以下に同じように、主イエスがおられた湖のほとりに「おびただしい群衆が集まって来た」場面があり、そのために主イエスは舟に乗って、湖の上から教えられたことが書かれているからです。
 4:1以下には「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえで色々と教え…」とあります。

 今日の場面でも、主イエスは小舟に乗って、岸辺にいたおびただしい群衆に教えを語られたはずです。神の御言葉を語られたのです。
 主イエスがずっと教えておられることは、マルコ1:15にあること、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。
 神の国とは、神がご支配なさる、ということです。神に背を向け、神から離れて、罪に支配されている人々を、神が恵みのご支配へと招いて下さっている。だから、この招きに応えて、神のもとに立ち帰りなさい。神の恵みの中を生きる者になりなさい。主イエスはそのように教えておられるのです。

 この良い知らせである「福音」を告げ、神の恵みのご支配を実現するために、神の御子である主イエスは、神に遣わされて、救い主として世に来られました。主イエスは、単に何でも癒せる、力ある「医者」なのではありません。神の御心を人々に伝え、すべての者を神に立ち帰らせるため、人々の救いのために来られた方なのです。

<人々の求めと、主イエスの教え>
 群衆は、今の苦しみからの解放を求めてきました。しかし、主イエスが人々に与えようとしておられるのは、神との正しい関係です。神に命を与えられ、神の恵みによって生かされている人間は、神に従って、神と共に生きることが自然なことであり、もっとも幸いな姿なのです。
 しかし、人は神を神とせず、自分の思いのままに生きようとします。まるで自分が自分の人生を支配しているようなつもりになり、自らが神となって、神に逆らって歩もうとしてしまうのです。人がそれぞれ、自分が神のように振る舞うならば、互いが互いを従わせようとしたり、自分の思いを叶えようとして、争いや憎しみが起こったり、人と比べ合ったり、傷つけたり傷ついたりします。そして、失敗したり、現実に行き詰ってしまったら、そこで絶望するしかありません。自分中心の人生観は、自分だけの狭い視野に捕らわれています。

 しかしそうではなく、人の人生は神が支配なさるということを、主イエスは教えておられます。だから、神の思いを知り、神が望んでおられることを知りなさい。神を愛し、隣人を愛しなさい、と言われるのです。
 そのために、主イエスは人々に言葉を語りかけられます。語りかけることは、その相手と関係を築こうとすることです。そうして、神からの語りかけを聞いた者が、答えることを待っておられる。主イエスはここで、人々に神との関係、神との交わりを与えようとしておられるのです。

 しかし、押し掛しかけた群衆は、実際、神との関係よりも、病の癒しを求めています。「神」を求めているわけではない。今の自分の願いや思いを叶えてくれる、自分に役に立つ力を求めているのです。彼らは、求めに応えてくれるのなら、苦しみが取り除かれるのなら、神さまでも、医者でも、祈祷師でも、何でも良かったのかも知れません。
 その証拠に、自分の願いを受け入れてくれなかった主イエスを、最終的に人々は捨てるのです。今は押しつぶされるくらいの群衆に取り囲まれている主イエスが、十字架につけられるときには、最も近かった弟子たちも誰もおらず、たった一人になられたのです。

<主イエスが与えて下さるもの>
 人々の求めと、主イエスが与えようとしておられるものは違う、ということは、主イエスは病の癒しや、苦しみからの解放を、何も与えて下さらないのでしょうか。それらのことを求めるのは、間違っているのでしょうか。そうではありません。

 マルコの1:29以下のところでは、弟子のシモンとアンデレの家に滞在しておられたとき、人々が病人や悪霊にとりつかれた者を連れてくると、主イエスはこの大勢の人たちに奉仕して下さり、癒しを与え、多くの悪霊を追い出して下さった、ということが語られていました。他にも、これまでさまざまな癒しが語られています。そうして実際に病を癒され、助けられた人々が、主イエスのことを他の人々に言い広めたのです。

 しかし、これらの主イエスの癒しや奇跡の御業というのは、病の癒しや、苦しみの解決そのものが目的なのではありません。それは、主イエスが、神に遣わされた神の子であること、まことの神の力を持ち、神の恵みのご支配を実現する方、神の権威を持っておられる方であることを、証しする「しるし」として、これらの業は行なわれているのです。

 ですから、まず主イエスは教えを語られます。御言葉を語りかけ、交わりを築こうとなさるのです。これが、人間にとって最も必要なものであり、最も良いものだからです。
 主イエスは、表面的な癒しや解決も、人々に与えることがお出来になります。
 しかし、神との関係がなければ、一時的な癒しを与えられ、一時的な苦しみからの解放を得ても、また次の苦しみや病が襲ってきます。現在の表面的な状況が良くなったとしても、人生の根本的な苦しみや悩みは何も解決していないのです。
 群衆がそのように、主イエスが本当に与えようとしておられるものを受け取らず、神の力を利用しようとしているだけなら、癒しが行われても、そこに本当の救いはありません。救いと言うのは、自分が望むもの期待するものが、その通りに与えられることではないのです。

 ですから主イエスは、まず御言葉を語りかけられます。
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。あなたの造り主である神を知りなさい。罪から離れ、すべてを支配しておられる神に、立ち帰りなさい。神が命を与え、恵みを与え、あなたを生かし、祝福し、守られるのだ。あなたを愛しておられる神にすべて委ね、神と共に生きる者になりなさい。これが、あなたたちの救いだ。
 主イエスはそのように語りかけ続けて下さるのです。

 この神を知り、神と共に生きるのなら、自分の人生における病や、苦しみや、悲しみも、すべて神がご存知であり、自分のすべてが神の御手の内におかれていることを知ることが出来ます。神に目を向ける時、わたしたちの目は、神のご計画を共に見つめるようになります。世界も、自分の人生も、神が支配しておられるものとして、見つめるようになるのです。
 そして、すべてを支配なさる神だからこそ、わたしたちの思いも苦しみも、何もかも知っていて下さると信じ、必ず恵みを与えて下さると信じ、自分の苦しみも、悲しみも、悩みもすべてを訴え、すべてをお委ねすることができるのです。
 そうするとき、神は一時的な、表面的なことではなく、わたしたちの思いや願いを超えた、神のみに為さることが出来る仕方で、まことの癒し、慰め、平安、解決を与えてくださるでしょう。
 それは、自分の状況が自分の思い通りに変わるということではなく、自分自身が神との関係に生きる者に変えられ、神の恵みのご支配を知ることによって、与えられるものなのです。

<どうやって与えて下さるか>
 ところが群衆は、神との関係こそ、自分たちが最も必要としているものである、ということさえ、気付くことが出来ません。皮肉なことに、今日の聖書箇所でも、主イエスがまことに「神の子」であると知っていたのは、汚れた霊どもだったのです。

 「群衆」は、マルコ福音書の最後の方で、印象的に登場します。15章で、主イエスは教えに反発する人々によって裁判にかけられます。そこで、今は自分の望むものを求めて必死に主イエスのもとに集まっている「群衆」が、主イエスが自分の期待に沿わないと知ると、15:13ではこのように叫ぶのです。「群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ』」。

 神が、御自分が創造なさった人間を愛するがゆえに、ご自分との交わりへと招くために遣わして下さった、御子イエスです。その方を殺してしまう。これが、神から離れ、滅びに向かって行く、罪に捕らわれた人間の姿です。

 しかし、主イエスは、これらの人々の罪も、すべてご自分の十字架の死によってお引き受けになりました。そして、主イエスは、人々に一時的な癒しや慰めを与えるのではなく、ご自分の命をお与えになったのです。
 これは、わたしたちにも与えられたものです。
 そして神は、御子主イエスの十字架の死を、すべての人の罪の贖いとして下さいました。御子の十字架によって、わたしたちの罪を赦して下さったのです。
 そこまでして、神はわたしたちを愛して下さっているし、わたしたちが神との関係に生きることを望んで下さっているのです。そのためになら、神の御子が命を与えて下さることまで、して下さるのです。それが神の全能です。神は、わたしたちの救いのためなら、何でもお出来になるということなのです。
 そして神は、御子イエスを死者の中から復活させて下さり、この世の罪にも、悪にも、そして死にも勝利なさる方であることを明らかにして下さいました。
 わたしたちが、神の語りかけを聞き、この神の御子イエスを、神が遣わして下さった救い主と信じ、神の恵みのもとで生きる者となるならば、神はわたしたちにも、この死にさえ打ち勝つ勝利に与らせて下さるのです。これが、まことの癒しであり、救いです。本日の詩編107:20で「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から救い出された」とある通りです。
 主イエスが与えて下さるものは、ご自分の命です。罪の赦しと、復活の命です。主イエスは、ご自分と、信じる者たちを、聖霊によって深く結び合わせ、神との関係、交わりの中に生かして下さるのです。

<わたしたちにも与えられている>
 今もこの礼拝で、主イエスを指し示す聖書の御言葉が語られる時、主イエスは御自分の命をわたしたちに差し出し、神との恵みの関係へと招いて下さっています。
 わたしたちは、目の前の苦しみや悲しみからすぐに逃れたいし、今すぐに、自分にとって都合の良い解決を求めているし、自分の期待する通りに救われたいと願います。
 しかし、そのことだけ神に求めても、まことの神との交わりがなければ、神の愛を受け取り、神を愛するということがなければ、わたしたちは、単に、神に一方的な注文をして、その力を利用しようとしている、ということになっているかも知れません。そして思い通りにならなければ、役に立たないと言って、この方を捨て去ってしまう。主イエスを殺せと叫ぶ群衆の一員になるのです。神に対して、自分が神のように振る舞うのです。

 しかし神は、そんな絶望的な罪の中にあるわたしたちを、お見捨てになりません。とにかく主イエスのもとに来たことを喜んで下さる。そして、まことの救い、神との恵みの交わりを与えようとして、御言葉を通して語りかけてこられます。関係を築こうとされます。そして、わたしたちの人生が神の方へ向くことを、望んで下さっています。
 神は、神の御心が分からなかった、わたしたちの罪を、主イエスの十字架と復活の御業によって赦して下さいます。そして、病も、苦しみも、悲しみも、死も、主イエスがすべて共に負って下さるのです。力強い恵みの御手の内において下さるのです。そして、この方と共に歩むなら、わたしたちはこの方の復活の命にも与ることが出来ます。
 神と共に生きる者とされる時、わたしたちは、死んで終わるこの世の中の望みを求めるのではなく、この世の苦しみも、死も、はるかに超えた、終わりの日の確かな希望を与えられます。そのゆえに、苦しみや悩みに満ちた世の歩みの中でも、必ず神の恵みが共にあることを信じ、しっかりと神を見つめて、神と共にある人生を喜んで、大切に、生きていくことが出来るのです。

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