「かたくなな心を悲しみ」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:出エジプト記 第20章8-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第3章1-6節
・ 讃美歌:3、202
<安息日>
本日の聖書で読まれたのは、安息日の出来事です。
安息日は、先ほどお読みした旧約聖書の出エジプト記に20:8出てきました。これは、神に救われたイスラエルの民が、神に感謝して、神の民として生活するために与えられた「十戒」の、第四番目の戒めです。そこには「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と書かれています。
聖別というのは、神のために特別に取り分ける、ということです。そのために、六日の間働いて、七日目はいかなる仕事もしてはならない、と言われています。
その七日目を安息日として、その日は神が、世界と人間をお造りになり、祝福してくださったこと。また神が、イスラエルの民を、エジプトの奴隷の家から導きだし、救いのみ業を行なってくださったことを覚えて、感謝して過ごしなさい、と言われています。
安息日は、人が神を礼拝し、神の祝福と平安にあずかるように。また、命の源であり、救いを与えて下さる神がいつも共にいて下さることを覚え、喜んで過ごすようにと、神が人のために備えてくださった日なのです。
主イエスの時代になって、イスラエルの国は滅びてしまいましたが、ユダヤ人たちは、いつかまた神が自分たちを救い出して下さることを信じて、神の民として、これらの神から与えられた戒めを大切に守っていました。
安息日にはいつも、ユダヤ人たちは会堂に集まって、神の御言葉の朗読を聞き、その教えを聞いていたようです。
<手の萎えた人>
今日の聖書の箇所も、安息日であったことが語られており、主イエスも会堂にやってこられました。
すると、「そこに片手の萎えた人がいた」とあります。どんな人か、どういう原因で片手が動かなくなってしまったか、詳しくは分かりません。ただ、ギリシア語では男性名詞が使われているので、男の人であることは分かります。そして、仕事も生活も不自由だったでしょうし、働けなくて経済的にも困っていたかも知れない、ということも想像できます。
しかし恐らく、何より深刻だったのは、当時、病や体を損なうことなどは、罪の結果であり、神の罰だと考えられていたことです。ですから、この手の萎えた人は堂々と喜んで会堂に集っていたのではなく、恐らく会堂の片隅で、人々の陰に隠れて、目立たないように、身を小さくして集っていたのではないでしょうか。
神の御前に喜んで立つことの出来ない苦しみ。周りの人々の自分への眼差しに対する苦しみ。この人は、体のことだけでなく、そのような心の苦しみをも抱えて、会堂にいたのです。
<訴えようとする人々>
さて、会堂に集まっていた多くの人々は、会堂に入ってこられた主イエスと、この手の萎えた人に注目しました。2節にあるように「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」のです。
「人々はイエスを訴えようと思って」とあります。
特に主イエスを訴えようとしていたのは、律法学者たちでしょう。6節に「ファリサイ派の人々」とありますが、ファリサイ派は律法学者の一つの学派で、特に厳格に律法を守る人々のことです。
彼らからすれば、これまでイエスという人は、罪人と呼ばれる人や、嫌われている徴税人たちと一緒に食事をしたり、神のように「罪の赦し」を宣言したり、彼の弟子たちまでもが、安息日にしてはいけないと決められているのに麦の穂を摘んだりして、とても我慢ならないことをしてきました。
律法学者たちは、主イエスと弟子たちが、自分たちは一所懸命大切に守っている「戒め・律法」を破り、蔑ろにしていると思ったのです。それで、何とか契機をつかんで主イエスを訴えてやりたい、と思っていたのでしょう。
そこで、この「手の萎えた人」の存在はうってつけでした。
安息日は、「仕事をしてはならない」と定められています。安息日の治療行為については、律法学者の解釈では、「命の危険を伴う場合に限って」許されることになっていました。手が萎えている、という状態は「命の危険」ということではありません。ですから、この男をもし主イエスが癒したなら、それは安息日の戒めを破った、ということになり、主イエスを堂々と訴えることが出来るのです。安息日の律法違反は、死刑です。
彼らは、「もしイエスが手の萎えた人を癒したら、すぐに安息日の律法違反で訴えてやろう」。そういう思いを抱いて、主イエスに敵意の眼差しを向けていたのです。
<律法が求めているものは何か>
主イエスは、そのような、御自分を訴えようとする人々の思いを、十分に見抜いておられました。主イエスは、手の萎えた人を人々の真ん中に立たせました。そして、4節にあるように、こう言われたのです。
「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか。」
これは人々に対して、中でも律法学者に対しての問いかけです。
律法学者にとって、律法は「守るか、守らないか」が絶対的に重要なことです。
しかし、主イエスがここで問われたのは、「律法に照らして正しいことは、安息日に善を行なうことか、悪を行なうことか。安息日に命を救うことか、殺すことか」ということです。「根本的に、律法は安息日に何を求めているのか」という質問だったと言ってもよいでしょう。
この主イエスの問いに対して、もし律法学者が「律法が求めていることは、安息日に善を行なうこと、命を救うことです」と答えれば、主イエスが安息日に癒しの御業を行なうことを認めてしまうことになります。
しかし、だからと言って、「律法が求めていることは、安息日に悪を行なうこと、殺すことです」などと答えられるわけがありません。それは明らかに間違っています。
それで、彼らは黙ってしまいました。
主イエスは、「律法が本当に安息日に求めていること、ひいては、律法を与えた神が、人々に本当に望んでおられることは何か」ということをお尋ねになりました。
それは、何がなんでも決められたものを形式的に守ることなのでしょうか。安息日に絶対に仕事をしてはいけない。人を癒すことも、律法に逆らうことになるから、安息日に人を癒したなら死刑だ。そんな考えは、本当に神が与えた律法が求めていることなのでしょうか。
ファリサイ派の人々の安息日には、神が人を祝福し、創造してくださった祝福を覚えること。神がエジプトから救い出して下さったことにを感謝し、喜ぶこと。そういった、安息日の律法が定められた本来の目的と、その恵みや祝福が失われてしまっていました。むしろ、その律法によって人を裁き、殺そうとしている。それは、神が望んでおられることとは真逆の方向です。
神が安息日の律法を与えることで望んでおられることは、人々が、創造主である神の方を向き、神の恵みに生かされていることを喜び、神の祝福を受け、神と共に歩んでいくことなのです。
<主イエスの怒り>
しかし、人々はそれを理解しようとしません。沈黙し、主イエスの問いかけを拒絶するのです。神の御心を知ろうとしないのです。
5節には「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲し」まれた、とあります。
主イエスは怒っておられます。わたしたちはだいたい、主イエスに対して、穏やかな、柔和なお顔をイメージしているのではないでしょうか。それはその通りであったろうと思います。しかし、神の御心を受け入れない者に対して、主イエスはお怒りになる。激しい怒りです。
この「怒る」という言葉は、聖書において、「神の怒り」としてよく出てきます。
わたしたちをお造りになった創造主である神は、わたしたちを愛し、慈しみ、憐れんで下さいます。しかし、その神の愛を裏切ること、神から離れることに対しては、激しくお怒りになるのです。その深い愛のゆえにです。激しく怒られ、その怒りによって滅ぼしてしまうほどに、神は激しくわたしたちを愛して下さっているのです。
「十戒」では神が、わたしは「ねたむ神」「熱情の神」である、だからわたし以外のものを拝んではならない、偶像礼拝をしてはならない、ただ神のみを神とせよ、わたしだけを見つめなさい、とおっしゃっています。相手の心が他のものに動くなら、ねたみを覚える。そのような、熱烈な愛です。
それなのに人は、そのような神の愛を前にしながら、神の恵みを忘れ、神の御心を知ろうとせず、神から離れるのです。その行きつく先は、滅びです。
そのような、罪に捕らわれ、神から離れてしまった人々を救い出すために遣わされたのが、神の御子である主イエス・キリストです。
神は、ご自分の御子を通して、主イエスのご生涯を通して、ご自分がどれだけわたしたちを愛して下さっているか、またわたしたちを罪や悪、そして死から救い出して下さる恵みを、はっきりと示して下さるのです。
主イエスは、教えや御業において、人々に神の御心を示そうとしておられます。神に立ち帰り、神の愛を受け入れ、恵みにあずかりなさい。そう人々に語りかけておられるのです。
神が本当に人々に求めておられるのは、人を生かし、恵みを与えて下さる神の愛を知ることであり、その神の愛に応えて、神に心を向けて、神と共に歩むことだと教えておられるのです。
だから安息日は、この神に礼拝をささげ、神の愛を覚えるためにある。神の恵みにあずかり、命を養われるためにあるのです。安息日の律法によって、人を裁いたり、人を縛ったり、殺したりするものではありません。
それなのに、人々は神の方を向こうとしない。まったく反対の方向を向き、この神の愛を示すために来られた主イエスを受け入れず、拒絶するのです。主イエスの怒りは、人々が神の愛に応えない、そのことに対する、激しい神の怒りです。
ですから間違ってはいけないのは、主イエスは、彼らを「律法ばかり守って、安息日だからといって、苦しんでいる人を癒すことを許さないなんて、頭のかたい、融通の利かない人たちだ」といって怒っているのではありません。
主イエスももちろん、神の律法を重んじておられるのです。問題は、形式にこだわり、自分の正しさを主張するために、最も根本的な、律法の精神を忘れてしまっていること。つまり、神を愛し、人を愛することを忘れ、心が神に向いていないこと。主イエスを拒絶し、神の愛を拒否することに対して、怒っておられるのです。
<かたくなな心を悲しみ>
そして、主イエスは「彼らのかたくなな心を悲し」まれた、とあります。自分の正しさに固執して、自分の思いを第一として、神の御心を受け入れようとしない、どうしようもないかたくなな心です。
ある写本では、ここは「かたくなな心」が「死んだ心」という言葉になっています。神の恵みを受け入れようとしない彼らの心は死んでしまった。命を造って下さり、生かして下さる、その神の恵みを自ら拒否するのですから、死んでしまうのは当然のことです。
しかし、主イエスは、そのまま彼らの心が死んで、滅びていくのを良しとされません。それを悲しいと思って下さる。憐れに思って下さる。どうしようもない奴らだから、滅びてしまえばいい、とはおっしゃらないのです。彼らは主イエスに敵対している者たちなのに、主イエスを陥れようとしている者たちなのに、彼らのために心を痛め、彼らのために悲しんでおられるのです。
この主イエスの怒りと悲しみは、律法学者たちに対するだけではありません。
わたしたちもまた、この「かたくなな心」の持ち主です。自分のことばかり考え、神の御心を忘れます。自分の正しさを通すために、人を裁こうとします。神を信頼せず、自分の力や、目に見える偶像に頼ろうとします。神の愛を無視して、そっぽを向いて、嘆いたり絶望したりします。
神は、恵みを差し出し、共にいて下さるのに、わたしたちは神に敵対したり、神を無視したり、拒絶したりしているのです。
ここで表される主イエスの怒りは、わたしたちに対する怒りでもあります。主イエスを悲しませたのは、彼らの、そしてわたしたちの「かたくなな心」なのです。
<癒しの御業>
さて、主イエスは、先ほど会堂の片隅から呼び寄せ、人々の真ん中に立たせた手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。その男が手を伸ばすと、手は元どおりになった、とあります。主イエスは癒しの御業を行なわれたのです。
主イエスの癒しや奇跡の御業は、そのこと自体が目的ではありません。これらの御業を通して、主イエスが神の権威を持つ方であることを示し、主イエスが教えておられる福音、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」との御言葉が、まことであることを証しするための「しるし」として行われています。
救い主として、神に遣わされた方である主イエスは、神の国、神のご支配を実現するために来られた方です。
ここで起こった癒しの御業は、単に体が良くなったというだけでなく、会堂の片隅に身を寄せ、喜んで神の御前に立てなかった者を呼び出して、神の御前に立たせ、彼を苦しみから解放して下さった。この男を、神の恵みの中に置き、心から神を礼拝し、賛美する者に、新しく変えてくださった、という出来事なのです。
神を心から礼拝する者となる。それこそ、人のまことの癒しであり、死んだかたくなな心ではなく、生きた心を持つこと。神によって生かされる、やわらかい心を持つ、ということなのです。
そして、主イエスは、この癒しの御業を通して、神の権威をお示しになり、会堂に集っているすべての人々に、罪から解放する神の恵みのご支配が、主イエスによって、今ここに、まさに到来していることを、示しておられるのです。そして、ご自分を受け入れるように、神の恵みを受け入れるようにと、人々を招いておられるのです。
<罪と、赦し>
ところが、6節には、まだ神の思いに背き続けるファリサイ派の律法学者たちの姿が描かれています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。
神を礼拝する安息日、神の恵みに感謝する安息日に、彼らは神の御子を殺す相談をし始めました。ここに人の罪の深刻さ、そして、神から離れた者が陥っていく闇の深さが示されています。命の源である神から離れたところは、死であり、滅び、破壊です。
かたくなな心、死んだ心は、神の愛を現すために来て下さった救い主を殺そうとします。そうして自分を守ろうとしている。それが正しいことだと思っている。
人は、このような深刻な罪から、自ら抜け出すことは出来ないのです。
そのような罪に捕らわれているわたしたちに対して怒り、また悲しんで下さる方は、この罪を解決するために何をして下さったでしょうか。
主イエスは、それらの罪をすべて担って、十字架で死なれたのです。
聖書では、このファリサイ派の人々の殺意は、この後ますます高まっていく様子が語られていきます。そうしてとうとう、主イエスを十字架に架けるのです。
しかしこれは、彼らだけがしたことではありません。これは、わたしたちを含む、すべての人の「かたくなな心」が引き起こすことなのです。
神の愛を拒否することから始まる罪は、神を拒絶し、神が遣わして下さった方の存在を認めようとしません。そして、消してしまおうとさえします。それは、わたしたちが自分の命を差し出しても、何をしても赦されることのない罪です。
しかし主イエスは、十字架に架けられたご自分の命を、わたしたちの罪の贖いとして下さいました。神は、御自分の御子の死によって、わたしたちの罪を赦して下さるというのです。この主イエスの十字架にこそ、神の愛が示されています。
主イエスの十字架の死によって、罪人のわたしたちも一緒に死に、また神が主イエスを復活させて下さった、その新しい命に、わたしたちを生かして下さるというのです。
主イエスの十字架と復活の御業が、かたくなになり、死んだ心を、新しい心に造り替えて下さる。そして、神が望んで下さったように、神の恵みを受けて、神と共に、喜んで生きる者として下さいます。このことを信じなさい。この救いを受け取りなさい。わたしたちは、そのように招かれているのです。
今、キリスト教の教会では、ユダヤ教のように週の七日目、つまり土曜日ではなく、週の初めの日、つまり日曜日を安息日として礼拝を守っています。それは、この週の初めの日が、主イエスが十字架の死から復活なさった日だからです。
その日に神の御子イエスが、わたしたちを新しく造り替え、新しく創造して下さった。罪の奴隷となっていた中から救い出してくださった。その恵みを覚えて、日曜日に神の御前に集い、神を礼拝し、神を賛美するのです。
今ここでも、わたしたちは主イエスによって「真ん中に立ちなさい」と、神の御前に立たせていただいています。そして、主イエスの御業によって、罪を赦され、新しくされ、主イエスの命が注がれた、神を喜ぶ、生きた、やわらかい心を与えられるのです。