主日礼拝

誘惑を受けられる主

「誘惑を受けられる主」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 創世記 第22章1-14節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章12-13節
・ 讃美歌:284、495、528

愛する子への霊の導き
本日与えられました聖書箇所は新約聖書マルコによる福音書第1章12、13節と短い部分であります。 主イエスが荒れ野で誘惑を受けられるという場面です。洗礼を受けられた主がすぐに、荒れ野へおいでになり、そこでサタンの誘惑を受けられた。神の御子である主イエスが、なぜ荒れ野で誘惑をお受けにならなければならのでしょうか。本日の直前には、主イエスが洗礼者ヨハネより洗礼を受けられたことが描かれております。主イエスが洗礼を受けられた時に主イエスは「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る」のをご覧になりました。そして、天からの声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声でした。洗礼において、神の霊が主イエスに注がれたのです。聖霊が鳩のように目に見える姿で主イエスに降って来ました。このことによって主イエスは聖霊に満たされました。そしてヨルダン川から帰り、いよいよ伝道活動を開始されたのです。人々に神の国の福音を語り、御言葉を語り始め、病いや苦しみを癒す御業を主イエスが始められたのです。神様の霊、聖霊が主イエス注がれることによって主イエスの伝道の御業、いわゆる主イエスの公生涯が始まりました。

「それから」
本日の箇所は「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。」と始まっています。以前の口語訳聖書では「それから」と言うところが「それからすぐに」となっております。「それから」と言うのは時間的にも「すぐに、直ちに」という意味と言えます。けれどもこの言葉は、単なる時間的な事柄のみを語っているのではないでしょう。主イエスに注がれた神の霊が、同じ神の霊が直ちに主イエスを荒れ野へ送り出したのです。主イエスが洗礼を受けられた出来事と荒れ野へ送り出された出来事は同じ神様の霊、聖霊による出来事であった。主イエスが荒れ野へ送り出されたことは、神様の導きのもとに聖霊によって送られた。何故、神様の霊、聖霊が主イエスを荒れ野へと送り出したのでしょうか。主イエスが洗礼を受けられた時、天から「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」との声がしました。主イエスは神様の愛する子、神様の心に適う方である。けれども神は聖霊によって愛する者を荒れ野へと送り出すのです。更にこの「送り出す」と言われている言葉は「投げ出す」「追い出す」という強制する、無理強いする意味があります。神の霊は愛する主イエスを強いて荒れ野へと追放した。荒れ野へと投げ出されたのです。父なる神が聖霊によって、主イエスを荒れ野へ追い出した。その目的は、サタンに誘惑を受けられるためでありました。サタンに誘惑を受けられるために荒れ野へ行かれたのです。父なる神の愛する主イエスへの愛とはこのような愛でした。愛する者を荒れ野へと追い出した。主イエスを愛する子と呼ぶ故に、愛する者を荒れ野へ投げ出すのが父なる神の愛なのです。主イエスが洗礼をお受けになったとき、主はご自分が救い主の業をなさることの重大さが明確になったのです。救い主としての生涯を全うするためにサタンに誘惑を受けるということが大事でありました。主はある一定の時だけサタンから誘惑を受けれたのではなく、そのご生涯を通して誘惑をお受けになったのです。

「荒れ野」
主イエスは聖霊によって荒れ野に投げ出され誘惑を受けられます。ここでの「荒れ野」とは人が住まない場所です。渇いた砂地や大きな石が転がっている岩場、植物さえ育たない場所です。そこは命がない空間です。そして、そのような場所はさびしい荒れ果てた地、人が生きることができない場所です。死の陰の谷を思わせられ場所です。そのような場所に投げ出されるというのはどのようなことをでしょうか。荒れ野は生きる保証が何もない場所、死の陰を思わせられる場所である。主イエスはそのような荒れ野に追い出されたのです。私たちも自分自身の歩みを振り返り、そのような荒れ野に投げ出された経験は誰もがあるのではないでしょうか。今まさしくそうである方もおられるでしょう。荒れ野とは誰もいない場所です。自分自身のあり方を問われる場所ではないでしょうか。荒れ野においては何もありません、自分が頼れるものは何もありません。荒れ野は何もないがゆえに飢えをもたらします。自分が何に飢えているかを知ることで、自分自身を知ることになります。全てのものが失われた際に私たちは何により頼むのでしょうか。
イスラエルの民の指導者であったモーセは民を率いて出エジプトをしました。その際、荒れる海を目の当たりにし、その中を神の御業により渡りきり、救い出されました。そして荒れ野へと踏み込んだのです。そこには解放と自由とがありました。それまで自分たちを支配するものからの解放と自由がありました。けれども、その場所は直ちに神様への疑いとつぶやきの場所へ変わります。私たちは一つの荒れ野を通り過ぎ、自由と解放の地に来たと思っていたら、すぐまた荒れ野の中にいるということがあります。あるいは自分自身の手で今立たされている場所を荒れ野にしてしまうことも度々です。人間の思いとは大変に弱いもので、自分を中心に生きているものです。イスラエルの民にとって荒れ野はただ神様の恵みによって生きる場所であり、神の導きによる雲と火の柱の導き、マナの養い、水の癒しと神様の言葉が与えられておりました。けれども、弱さのゆえにその場所で目に見える形での神、偶像を造り出すというもっと深い主なる神への裏切りの行為が明らかになりました。そのような場所こそ荒れ野であります。主イエスはそのような荒れ野へと追い出されました。イスラエルの民が荒れ野で飢えたように、主イエスも荒れ野で誘惑を受け、荒れ野で飢えを覚えられたのです。

「四十日間」
主イエスは洗礼によって聖霊を注がれ、愛する子どもであり、神の御心に適う人であった。聖霊によって荒れ野へと追い出され四十日間とどまりました。この四十という数字は、苦難と試練のときを表す象徴的な数字として理解できます。苦難と試練とは、時間を伴います。その時間から逃れることは出来ないものです。後から振り返ると短く思える時間も、その中にいるときは出口の見えない、容易に進まない時であり、そのような時こそ苦難と試練であります。主イエスが四十日間荒れ野におられた。それは出口なき苦難のときを過ごされたということです。出口なき試練とは、主が誘惑を受けられたということです。

「誘惑」
この「誘惑」という言葉も「試す、試練を受ける」という意味に取ることが出来る言葉です。サタンから試練を受けられたのです。神様の愛する子主イエスが試練を受けられたのです。けれども、それは霊の導きに中によるものであったのです。聖霊に満たされた主イエスが、その聖霊の導きの中で、サタンからの誘惑をお受けになった。サタンは主イエスを誘惑し、救い主としての働きを挫折させようと働きかけましたが、それも実は聖霊の導きの中で起ったことなのであります。誘惑の内容についてはこのマルコによる福音書では詳細はありません。主イエスは聖霊に満たされてその誘惑と戦い、打ち勝たれたのです。それは、誘惑を受けられた「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあることによって分かります。誘惑を受けられた時に、主は野獣と一緒にいたとあります。野獣とは人とは馴まない獣であり、人に脅威と恐れを与えます。不安を呼び起こし、命を奪うものが野獣です。そのような野獣と主イエスは一緒にいたのです。けれども、ここで主イエスは天使が仕えていたので守られていたということです。

「一緒に」
主イエスの誘惑の場には野獣がおり、天使たちが仕えていたとあります。野獣たちが主の傍らにおり、仲間であったということです。人間である主イエスと一緒に、野獣と天使がいるというのは本来ならばあり得ないことです。「野獣」や「天使」とが登場してくるのは、創造のはじめにエデンの園ですべての動物と人間が共存し平和に暮らしていた人間の罪の前の楽園ということであります。人間が神の前に罪を犯す前の状態に回復することが象徴されている意味があります。人間と野獣とが一緒にいるというのは起こりません。けれども、主イエスは野獣と一緒におられたのです。主イエスにおいて、荒れ野が回復されているということです。人間の罪により失われた世界、神なき世界が主イエスにより回復されているということです。イザヤ書11章6節にはこのようにあります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」
とあります。ここでは狼と子羊が、また豹と子山羊が共にいる。子牛と若獅子とが共に育ち、小さい子どもが導くというように、人と野獣とが共に生きているということが記されております。主イエスの荒れ野における状況はこのようなものでした。野獣と共にいる状態が、主イエスにおいて実現している。人間の力では起こりえないことが主イエスにおいて起きたということです。主イエスの荒の野における野獣との生活は、このイザヤ書の言葉の実現でありましょう。主は野獣と一緒におられ、天使が主にお仕えしていた。天使がここで仕えたというのは、文字通りサーヴィスであります。主イエスの食卓のサーヴィスをであります。天使が四十日間、主を養った。養われ、野獣と一緒にいたのです。人と野獣とが共に生きている。荒れ野における、野獣と天使が主イエスと共にいる世界、パラダイス、楽園であります。人間が罪の故に失った世界が、主イエスにおいて取り戻されました。神なき世界であった荒れ野が、主イエスと共いることによって、神と出会うことのできる世界とされました。主イエスこそ、父なる神から聖霊を受けられ方です。
主イエスがこの世に到来されたことは、この神なき世界である荒れ野に救い主として来られたと言うことです。人間の罪によって、人間と関係が壊されたこの世界に主イエスが救い主として到来によって、その世界を回復され命のある世界へとされたということを記しています。ユダヤ人たちは、救い主が到来する時には、人間たちと獣たちの間にはもはや敵意は存在しない日を夢見ておりました。主イエスがおられるところにこそ、本来の人間の姿を回復される場所があります。主イエスは「神様の愛する子、神様の心に適う方」であります。そのお方が神様の霊によって荒れ野へ追い出され誘惑を受けられ、そして十字架へと向かわれるのです。十字架へと向かわれる主イエスは荒れ野を歩まれ、誰より誘惑を受けられたのです。その誘惑は荒れ野におられるときだけでなく、主が十字架を出来事を目の前にしているとき、主はゲッセマネでも誘惑に会われました。主がゲッセマネの園で祈られたことも誘惑であります。誘惑を受けられたけれども、人間とは違い、主イエスは罪を犯さないお方です。罪を犯さない方というのは、人間と同じ誘惑に会われ、人間の弱さを知っておられるということです。主は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」とこの祈りと御言葉もって主は誘惑に勝利されました。祈りをもって十字架の道へと立ち向かわれました。それは、何よりも私たちの人間のためであります。サタンの誘惑に会い、自分は神から見捨てられた、自分は荒れ野としか思えない場所を歩んでいる。そのような人間のために、主イエスが代わりに歩んで下さった。そのために人間の世界に来られました。そして主はその誘惑に勝利をされたのです。十字架の死から復活されるとは、人間の罪に勝利をされたということです。主イエスが人間の罪を克服して下さっているのです。人間が神を見失う場所、私たちの罪が明らかになる場所において、その罪に勝利して下さっているのです。

勝利と共に
私たちが地上を歩む限り様々な誘惑から逃れることは出来ないでしょう。それは私たちが試練から逃れることができないと言うことです。全ての準備が整ったと思い一歩を踏み出したら、瞬く間に荒れ野へと追い出される者であります。信仰の恵みに生きるがゆえに出会う誘惑もたくさんあります。色々な試練に出会うのが私たちの歩みではないでしょうか。一つ一つの誘惑、そして私たちの生涯そのものがサタンの誘惑との戦いなのではないでしょうか。私共この誘惑と一人で闘うことは出来ません。神様の前において人間の側に誘惑に打ち勝つ力はないのです。主が荒れ野で誘惑に遭われた。それはささいなことでも神様への信頼が動揺してしまう弱い私たちのためであります。私たちの信仰の戦いは、この主イエス・キリストにおける神様の戦いによって支えられています。主イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに、主は誘惑を勝利されたのです。主がサタンの誘惑をはっきりと退けることを通して、こらから始まる神の国、神の支配のあり方が示されていくのです。そこで主イエスが選び取られた道は、石をパンに変えるような人間の知識や技術によってではなく、また、高いところから飛び降りる不安や恐れを乗り越える人間の勇気や志によってでもなく、この世の主に仕えることを通してこの世を支配する道によってでもなく、ただ主なる神の言葉とを信じ従う道が示されております。
神様は御子と一緒にすべてのものを私たちのために備え、与えて下さりました。神は人間のために、御自分の愛する独り子をこの地上にお遣わしになり、神は愛する御子をさえ惜しまず十字架の死へと渡して下さる。この父なる神様の愛から、私たちを引き離すことができるものはもはや私たちが出会う誘惑でもないのです。この愛に支えられて、私たちは試みと戦っていくのです。主は私たちの代わりに試練に臨んで下さり、もう既に勝利されています。私たちはこの方に、全てを委ねて、このお方を信じ歩んで参りたいと思います。

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