「そんな人は知らない」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記第4章8-9節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章66-72節
・ 讃美歌: 229、294、531
イエスに従ったペトロ
本日からアドベント、待降節に入ります。主イエス・キリストの ご降誕を祝うクリスマスに備える時です。クリスマスの飾りつ けもなされ、教会は一気にクリスマスモードに入っています。礼拝 において今私たちは、マルコによる福音書を連続して読んでい まして、主イエスが逮捕され、有罪の判決を受け、十字架につけ られて殺される、その受難の場面を読み進めています。本日ま で、その続きを読むことにしました。本日をもって14章が終り ます。来週からはアドベントを覚えての箇所を読み、そして15 章は年が明けてからまた読み進めようと思っています。
主イエスの受難の話の中で、四つの福音書が共通して語っているの が、本日の場面、主イエスの一番弟子であったペトロが、主イエスの ことを知らないと言った、いわゆる「ペトロの否認」の出来事です。 主イエスが捕えられた時、ペトロを始めとする弟子たちは皆、蜘蛛の 子を散らすように逃げ去ってしまいました。一緒に捕えられた人は一 人もいなかったのです。しかしペトロは、主イエスが連行され、ユダ ヤ人の議会の人々によって尋問を受ける大祭司の屋敷まで、遠くから そっとついて行き、人々にまぎれてその中庭に入ったのです。そのこ とは既に54節に語られていました。そこを読んでみます。「ペトロ は遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役た ちと一緒に座って、火にあたっていた」。ここに「イエスに従い」と あります。弟子として主イエスに従う、というのと同じ言葉が用いら れています。しかし果たしてこれは「従った」と言えるようなことで しょうか。ペトロは確かに、主イエスのことを気にかけています。他 の弟子たちが完全に姿を消してしまったのに比べれば、彼はまだ主イ エスのことを思い、心配しており、あるいは、逃げてしまったことを 後ろめたく思っているのです。しかし、遠く離れてそっとついて行く この姿は、弟子として主イエスに従っているとはとうてい言えないも のでしょう。このペトロの姿こそ私たちの姿なのかもしれません。私 たち信仰者は、主イエスを信じ、主イエスに従っていこうとしている わけですが、私たちに出来ていることはせいぜい、「遠く離れてつい て行く」ぐらいのものなのではないでしょうか。ペトロは大祭司の中 庭に入り、下役たちと一緒に座って火に当っていました。つまり、人 々の間に紛れ込んで、目立たないように、自分がイエスの弟子だと悟 られないように、イエスなんていう人とは関係ないふりをしていたの です。それもまた私たちの日常の姿かもしれません。世間の人々の間 に紛れ込んで、他の人々と何も変らないふりをして、主イエスを信じ ている者であることを隠して生きている、ということがあると思いま す。「隠れ切支丹」という程ではないにしても、自分の信仰をできる だけ隠しておいて、遠くからそっと、誰にも気付かれずに主イエスに 従いたい、という思いが私たちの中にはあるのではないでしょうか。 この礼拝の場においても、出来るだけ後ろの方に座りたがるとか、柱 の陰に隠れたがるとか、本来は赤ちゃん連れの方々のための部屋であ る親子礼拝室に入りたがるというのは、そういう思いの現れではない でしょうか。
焚火の光に照らされたペトロの顔
ところで54節にペトロが「火にあたっていた」とありますが、 この「火」という言葉は原文では「光」です。「光にあたってい た」と書かれているのです。これは含蓄のある表現です。ペトロ は焚火に当って暖を取っていたのです。その焚火の光が彼を 照らしている様をマルコは描いているのです。焚火の光に照ら されたペトロの顔はどんな顔だったのでしょうか。彼はこれまで、 主イエスというまことの光の元で、その光に照らされていました。 しかし今、彼はそのまことの光から遠く離れており、焚火の光が 彼の顔を照らしています。その顔は、闇に支配された暗い顔だ ったことでしょう。焚火の光は、彼を捉え、覆っている闇をより 際立たせているのです。
そしてそれだけではありません。この焚火の光に照らされて いたために、彼は見咎められたのです。66、7節「ペトロが下の 中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが 火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あ なたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』」。ペトロが火に当た っていたのは、その方が怪しまれないからです。中庭に入りなが ら、人々と一緒に火に当らず、一人で暗闇の中にいたらかえって 不審に思われるのです。そのように、人々の間に紛れようとして 火に当っていた、その火の光が彼の顔を照らし出し、彼が何 者であるかが暴露されていくのです。
えっ、何のこと?
女中の言葉の中に「ナザレのイエス」とありますが、原文はも っとぎこちない言い方です。直訳すれば「あなたもあのナザレの人 と一緒だった。イエスとかいう」となります。そこから感じられ ることは、この女中の最初の言葉は、ペトロはイエスの弟子の一 人だと断定しているわけではなくて、「確かあんたもあの人と一 緒にいたんじゃない」というような軽い口調だったということで す。彼女は、ペトロを捕まえてつき出してやろうなどとは考えて いなかったのでしょう。ところがこの軽い問いがペトロを動揺さ せます。彼は「あなたが何のことを言っているのか、わたしには 分からないし、見当もつかない」と言います。これも原文におい ては、ペトロの動揺が伺えるような、しどろもどろな言い方にな っています。敢えて直訳すれば「分からない、見当がつかない、 あなたが何を言ってるのか」という感じです。ペトロは答えをは ぐらかしています。「あなたもイエスと一緒だった」と言われて、 「そうだ」とも「違う」とも答えず、「あなたが何を言ってい るのか分からない」と答えたのです。もっとこなれた訳し方をす れば、「えっ、何のこと?」という感じでしょうか。そのようにし らばっくれているのです。都合の悪いことを聞かれてしらばっく れることは私たちもよくします。しかしここで彼がしたのは、主イ エスとの関係の否定です。主イエスのことを知らないと言うこ とがここから始まっているのです。
誓うペトロ
彼はその場を逃れるように出口の方に行きました。すると 「鶏が鳴いた」とあります。この言葉がない写本もあるので、 これはペトロが三度目に主イエスを知らないと言った時に鳴い た鶏の声を、主イエスが予告なさったように「二度目」とする ために後から加えられたのかもしれません。ペトロの態度にかえ って疑いを深めたあの女中は出て行こうとするペトロを追って 来て、今度は周りにいる人々に「この人は、あの人たちの仲間 です」と言いました。ペトロはそれを再び打ち消しました。そ の言葉は記されていませんが、今度は、「あの人たちの仲間だ」 ということを明確に打ち消したのです。つまり主イエスとの関 係を否定したのです。しかし彼が慌てて否定すればする程、彼の ガリラヤ訛りが目立ってしまいます。今度は居合わせた人々が「確 かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言った のです。するとペトロは71節「呪いの言葉さえ口にしながら、 『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」。 「あなたがたの言っているそんな人は知らない」、というのは激 しい否定の言葉です。しかも彼はそれを誓って言ったのです。 誓うというのは、神様にかけて自分の言葉は真実であると言う ことです。彼は神を引き合いに出して、イエスなど知らないと 宣言したのです。こうしてペトロは三度、主イエスを知らないと言 ってしまいました。
主イエスを抹殺したペトロ
ペトロがしたことは、自分の身を守るためについ嘘をついて しまった、ということに止まるものではありません。彼は、主イエ スと自分との関係を、三度、つまり徹底的に、否定してしまった のです。そして相手との関係を否定するということは、相手を殺 すことと等しいのです。そのことを、本日共に読まれた旧約聖書 の箇所、創世記第4章8、9節が語っています。ここはいわゆるカ インとアベルの物語です。カインは弟アベルに恨みを抱き、殺し ました。そのカインに主なる神様が「お前の弟アベルはどこにい るのか」と問うたのに対して彼は「知りません。わたしは弟の 番人でしょうか」と答えたのです。「知りません」、それはペトロ の「そんな人は知らない」という言葉と通じるものです。弟の ことなど知らない、自分とは関係ない、と言っているカインは、 弟を殺しているのです。ペトロも「イエスなんて知らない、関係 ない」と言ったことによって、主イエスを自分の世界から抹殺し ているのです。
せめてもの誠意は不信仰に行きつく
ペトロのが三度、主イエスを知らないと言った、その経過を 見てみると、一度目から二度目、三度目へと、次第にはっきりと した強い否定になっていることが分かります。最初は、「えっ、 何のこと」としらばっくれただけだったのが、次にははっきりとし た否定になり、最後には神かけての誓いになっていくのです。ペ トロは最初から、イエスを知らないと言ってイエスとの関係を 否定しようと思っていたわけではないでしょう。むしろ最初に見 たように、遠くからそっと主イエスの後について行き、事の成 り行きを見届けようとしていたのです。主イエスのことを心配し ていたのです。しかしあの女中に「あんたもあの人と一緒にいた んじゃないの」と言われた時、「えっ、何のこと」とごまかして しまった。その時ペトロはおそらく、自分が主イエスを知らない と言った、主イエスとの関係を否定した、という意識はなかった のではないでしょうか。しかし一旦そのようにごまかし始めると、 後はもう石が坂をころげ落ちるように、行き着く所まで行か ないと止まらないのです。ちょっとしたごまかしが、気がついたら 「そんな人は知らない」という神かけての誓いになってしまった のです。
このことから私たちが知らなければならないのは、人々の間 に紛れて、遠くからそっと、誰にも気づかれずに主イエスについ て行こうとする歩みは、結局主イエスと自分との関係の全否定 に行きつく、ということです。ペトロは、せめて遠くからなりと も主イエスについて行こうとしました。私たちはそこに、ペトロの せめてもの誠意を見ます。そして私たちもそのように、せめても の誠意をもって主イエスに従って行こうとするのです。けれど もそのペトロの行きついた先は、「そんな人は知らない」という 誓いでした。「せめてもの誠意を」という信仰は結局は不信仰に 行き着く、そのことをこのペトロの姿は教えているのです。
主イエスの前に立ち、関係を明確にするのでなければ
そうするとここから導き出される教えは、信仰においては、「せめ てもの誠意」では駄目で、完全な信仰でなければならない、というこ となのでしょうか。そういうことではないでしょう。この話が教えて いるのは、主イエスを信じ、従って行く信仰において、人々の間に紛 れて、遠くから、誰にも気づかれずにそっとついて行く、ということ は出来ない、ということです。人々の間に紛れ込むために当たってい た焚火の光がペトロの顔を照らし出して、彼が主イエスと一緒にいた 者であることが知られていったように、信仰の歩みにおいて私たち は、誰かの陰に身を隠してしまうことは出来ないのです。それは丁 度、十二年間病気で苦しんでいた女性が、主イエスの服の裾にでも触 れれば癒されるのではと願って群衆に紛れて後ろからそっと触れたと いう、この福音書の5章にある話と通じるものです。あの話において 主イエスは振り向いて「わたしの服に触れたのは誰か」とおっしゃい ました。彼女は主イエスの前に進み出てひれ伏し、全てをお話ししな ければなりませんでした。しかしそのことを通して彼女は「あなたの 信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という主イエスのみ言 葉を頂いたのです。それと同じように、私たちは、大勢の人々に紛れ て、匿名で主イエスの救いにあずかることはできないのです。あの女 性は、自分は正面から主イエスの前で出ることができるような者では ない、せめて服の裾にでも触ることができれば、と思いました。それ は私たちが「せめてもの誠意を」と思うのと同じです。しかしそのよ うな信仰は、そのままでは済まないのです。どこかで、主イエスの前 にちゃんと立たなければならない時が来るのです。あるいはペトロの ように「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」という問いに答 えなければならない時が来るのです。その時に、主イエスの前にきち んと立ち、主イエスとの関係を明確にしようとしないならば、主イエ スとの関係を完全に否定してしまうことにならざるを得ない、それこ そがこの話から私たちが受け止めるべきメッセージなのです。
ペトロの涙
ペトロが三度目に「そんな人は知らない」と激しく誓った時、 鶏が二度目に鳴きました。ペトロははっと我に帰り、「鶏が二度 鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とお っしゃった主イエスの言葉を思い出して、「いきなり泣き出した」 とあります。ここはいろいろに訳せる所で、口語訳聖書では「そ して思いかえして泣きつづけた」となっていました。こちらの方 がこの場面の描写としては相応しいような気がします。いずれ にしてもペトロは、鶏の声によって、自分が三度主イエスを知ら ないと言ってしまったこと、主イエスとの関係を徹底的に否定 してしまったことに気づかされたのです。それで彼は泣いたのです。
ペトロのこの涙には、とりかえしのつかないことをしてしまった後 悔の思い、自分の弱さ、ふがいなさへの嘆き、挫折の悲しみなどが凝 縮されています。しかしこの涙にはもう一つの要素があるのです。彼 が泣き出したのは、鶏の声によって、主イエスの30節のお言葉を思 い出したためでした。あの時自分は、「たとえ、御一緒に死なねばな らなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して言いませ ん」と断言したのに、それから数時間後に結局全て主イエスが言って おられた通りになってしまった、それを知って彼は泣いたのです。そ れは今も言ったように後悔や嘆きや挫折の涙ですが、同時にそこに は、主イエスが、この自分のことを、勇ましいことを偉そうに言って いても、いざとなると逃げ出してしまい、遠くからそっとついて行く ことしかできず、そして何気ない問いに動揺して結局は主イエスとの 関係を否定してしまう、そういう弱くなさけない裏切り者、罪人であ る自分の本当の姿を、ありのままに見つめておられた、そのことへの 深い驚きと感動があると言うことができるでしょう。彼はこの時、主 イエスが自分のことをどれだけ深く知っていて下さったのかに気づか されたのです。自分のことは自分が一番よく知っていると思っていた けれども、主イエスの方がよほど深く正しくありのままに、自分のこ とを知っておられたことを知らされたのです。主イエスが自分のこと をそのように深く知っておられた、それはつまり愛して下さっていた ということです。その主イエスを、彼は知らないと言ってしまったの です。それは主イエスの自分に対する愛を拒み、主イエスを愛するこ とを拒み、関わり合うことを拒んだということです。カインがアベル を殺しておいて「知らない」と言ったように、彼もまた主イエスを殺 してしまった、そのことに気づいて、彼は泣いたのです。
ペトロの涙は主イエスの十字架と復活の中にある
ペトロのこの涙に救いはあるのでしょうか。「そんな人は知らな い」と主イエスとの関係を否定してしまったペトロは、とりかえしの つかないことをしてしまったのです。彼がどんなに後悔して泣いて も、失われた関係が回復されることはありません。後悔して泣けば救 いが得られるわけではないのです。しかしこの場面は、主イエス・キ リストの受難、十字架の死と復活の中に置かれています。本日の箇所 の前の所には、主イエスが大祭司の下で尋問を受け、「お前はほむべ き方の子、メシアなのか」という問いに対してはっきりと「そうで す」とお答えになったことが語られていました。主イエスがこのよう にご自分を神の子であるメシア、救い主だと宣言なさったことによ って、死刑が確定したのです。そしてこの後15章に入ると、ピラト のもとでの裁判を経ての十字架の死の場面となります。主イエスはそ こでも黙ってご自分から十字架の死への道を進んで行かれるのです。 つまり主イエスは、神の子であるご自分が十字架にかかって死ぬこと によって、救い主としてのみ業を果たそうとしておられるのです。神 の子である救い主が、私たち人間の全ての罪を背負って、身代わりに なって死ぬために、十字架の死へと歩んでおられるのです。ペトロの 否認は、この主イエスの歩みの中に置かれています。ペトロの涙は、 この主イエスの十字架の苦しみと死とによって包まれているのです。 そこに、そこにのみ、ペトロの救いがあります。主イエスが30節で ペトロの否認を予告なさったのも、主イエスを知らないと言ってしま うペトロ、主イエスとの関係を断ち切ってしまうペトロのことを、主 イエスがなおみ手の中に包み込んでおられることをペトロに知らせる ためです。ペトロのことを、本人よりも深く知っておられる主イエス は、強がりを言いながら結局知らないと言ってしまう彼の弱さをも、 裏切りの罪をも、全て背負って十字架にかかって死んで下さったので す。そして主イエスは父なる神によって、死者の中から復活なさいま した。それは主イエスの十字架の死によって、人間の罪が贖われ、赦 されたことを父なる神が示して下さったということです。神の赦しの 恵みが、私たちの罪と、罪のよって滅びをもたらす死の力とを打ち破 って下さったのです。この神の救いを担って復活なさった主イエス が、三度主イエスを知らないと言ってしまったペトロをもう一度招い て下さり、主イエスと共に生きる者として下さったのです。つまりペ トロが「知らない」と言って否定してしまった関係を、主イエスが新 たに築いて下さり、彼を、主イエスを知っている者、愛している者、 主イエスのみ名を宣べ伝える者として立てて下さったのです。そこに こそペトロの救いがあります。ペトロは後悔して泣いたから救われた のではありません。主イエスの十字架と復活によってこそ、ペトロの 涙は救いの喜びへと変えられたのです。
主イエスの恵みのみ手の中で
私たちも、人生の様々な場面で、ペトロと同じように信仰を試され ます。そこにおいては、遠くからそっと、人々に紛れて、というわけ にはいかないのです。私たちはその試練の中で、自分の弱さと罪、主 イエスに従い通すことができない挫折を味わいます。ペトロは「呪い の言葉さえ口にしながら」「そんな人は知らない」と言ったとありま す。この呪いの言葉とは、普通は、「自分が言ったことがもし間違 っていたら神に呪われてもよい」という誓いの言葉のことだと説明さ れます。しかしある説教者は、ペトロはここで自分を呪い、主イエス を呪ったのではないか、と言っています。自分を呪う、それは主イエ スの弟子となった自分、主イエスについて来てしまった自分を呪うこ とです。弟子になんかならなければよかった、そうすればこんな苦し い目にあわないですんだのに、ということです。それは主イエスを呪 うことにつながります。イエスが自分に声を掛けたから弟子になって しまった、イエスなんかと出会わなければ今頃もっと普通に、平和に 暮らしていられたのに、みんなイエスが悪いんだ、という思いです。 ペトロはこの時そういう思いで、「イエスなんか知らない」と叫んだ のではないか。私たちもまた、信仰の試練に直面する時にそのように 神を呪い、主イエスを呪い、信仰者になった自分を呪い、共に生きて いる人を呪ってしまうことがあります。しかしそのような私たちをも 主イエスは、十字架と復活による救いの恵みのみ手の中に捉えて下さ っているのです。その主イエスの恵みのみ手に気づかされる時、私た ちは自分の罪にくずおれて泣くしかありません。しかし主イエスの恵 みのみ手の中で泣くことができる私たちは幸いなのです。その涙は、 絶望ではなく、赦されて新しく生きる希望をもたらすのです。