「ぶどう園と農夫」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第118編1-29節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章1―12節
・ 讃美歌:301、442、525
論争の中でのたとえ話
本日ご一緒に読むマルコによる福音書第12章1~12節には、主イエスがお語りになった一つのたとえ話が記されています。主イエスはよくたとえ話を用いて人々をお教えになった、と私たちは一般的に思っています。しかし実はマルコによる福音書には、たとえ話はそんなに沢山は出てきません。4章に「種蒔きのたとえ」を中心としていくつかのたとえ話がまとめられていますが、そこと本日の箇所が、マルコの語る数少ないたとえ話です。そして本日の箇所のたとえ話は4章におけるたとえ話とは性格が違います。4章のたとえ話は「神の国とはこのようなものだ」ということを教えるためのものでした。「神の国」とは神様のご支配ということであり、そこにこそ救いがあるのですから、これらのたとえ話は、神様による救いにあずかるとはどういうことかを語っているのです。しかしこの12章のたとえ話は、人々を救いに導くためではなくて、論争の中で語られたものです。最後の12節に「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。「当てつける」というのはあまり良い言い方ではありません。原文を直訳するとここは、「自分たちに対してこのたとえを話されたと気づいたので」となります。主イエスがこのたとえ話を話した相手は誰でしょうか。それは、先週読んだ11章27節以下で、主イエスのもとに来て、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うた、エルサレム神殿の祭司長、律法学者、長老たちです。先週も申しましたが、ここから12章の終わりにかけては、この人たちと主イエスの間での、いくつかのことについての論争が語られていくのです。先週の箇所から始まっている論争の中で、本日のたとえ話は語られたのです。
ぶどう園はイスラエルの民
このたとえ話は論争的な性格を持っている、そのことを確認した上で内容を見ていきたいと思います。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」、これがこのたとえ話の設定です。「ぶどう園を作った」とだけあるのではなくて、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」と細かく語られています。当時のぶどう園は、ぶどうの実そのものを出荷するためのものではなくて、ぶどう酒を造るための所です。「搾り場」とはそのための施設ですし、垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちからぶどう園を守るための施設です。「ある人」と言われているこのぶどう園の主人、持ち主は、それらのものを全て整えて、つまり設備投資のすんだぶどう園を農夫たちに貸したのです。このようなぶどう園の話を聞くと、イスラエルの人々ならすぐに思い起こす旧約聖書の箇所があります。それはイザヤ書の第5章1~7節です。そこを読んでみます。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)」。これは旧約聖書におけるぶどう園のたとえ話です。7節に語られているように、このぶどう園はイスラエルの家であり、それを作り整えたのは主なる神様であり、ぶどうの木はユダの人々のことを指しているのです。主なる神様はイスラエルの民を、ご自分のふどう園として植え、手入れし、設備を整え、おいしいぶどうが実り、良いぶどう酒が取れるように、あらゆることをして下さったのです。主なる神様のイスラエルに対する愛、恵みがそのようにたとえられているのです。それは具体的には、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、ご自分の民とし、ご自分が彼らの神となるという特別の関係、契約を結んで下さり、彼らを約束の地に導き入れ、そこに住わせて下さったということです。イスラエルの民は主なる神様のそのような恵みを受けて養われ、育てられてきたのです。ところが、その民が実らせたのは、神様が期待しておられた良いぶどうではなくて、酸っぱいぶどうだった。それはやはり7節にあるように、正しい裁きの代りに流血、正義の代りに叫喚が民の中に満ちている、ということです。そのようにイスラエルの民は、神様の恵みを無にしており、それに正しく応えていない、ということがこのたとえにおいて指摘されているのです。
農夫たちは民の指導者
主イエスがお語りになった本日のたとえ話は、このイザヤ書のたとえを土台にしています。ここでも、ぶどう園を作ったある人とは主なる神様のことであり、ぶどう園はイスラエルの民のことです。しかしイザヤ書のたとえとは違うところもあります。それは、主人がこのぶどう園を農夫たちに貸して旅に出た、ということです。主人からこのぶどう園を委ねられた農夫たちの存在、それがこのたとえ話のポイントです。その農夫たちとは、イスラエルの民の指導者として立てられている、祭司長、律法学者、長老たちのことなのです。
さて2節には「収穫の時になったので」とあります。これは単にその季節になったということではありません。新しくぶどう園を作った場合、実際に収穫がなされ、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには何年かの時が必要なのです。「収穫の時になったので」というのは、その時が過ぎて、いよいよ実際にこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、ということです。つまり主人は、この農夫たちに十分な時間を与えているのです。彼らがきちんと仕事をしてさえいれば、収穫があがり、彼らの生活がこのぶどう園によって支えられ、所有者である主人にその取り分を支払うことができる、そういう時になって、主人は自分の取り分を受け取るために僕を遣わしました。ところが農夫たちはその僕を袋だたきにし、手ぶらで追い返したのです。主人は再び別の僕を送りましたが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱しました。三人目の僕は殺されてしまいました。そのほかにも多くの僕たちを送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺されたとあります。農夫たちはこのように、主人にその正当な取り分を支払おうとしなかったのです。この、主人のもとから遣わされた多くの僕たちは、預言者たちのことを指しています。神様はイスラエルの民に、ご自分のみ言葉、み心を伝え、悔い改めを求めるために、多くの預言者を遣わされたのです。その多くは民から迫害を受け、殺されました。イスラエルの人々、特にその指導者たちは、神様から遣わされた預言者たちを受け入れなかったのです。最近では、洗礼者ヨハネにおいてそのことが起りました。先週の箇所で主イエスは彼らにその事実を突き付けておられます。あなたがたはヨハネの洗礼を神からのものとして受け入れず、彼を見殺しにした、それは主人からの僕を殴り、侮辱し、殺した農夫たちと同じではないか…。
愛する息子を遣わす
けれども事はそれだけで終わりません。6節にこうあります。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」。主人は最後に自分の愛する息子を農夫たちのもとに送ったのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って。しかし農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と相談して、その息子を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったのです。主人のこの「愛する息子」とは、言うまでもなく主イエス・キリストのことです。1章11節に、主イエスがヨハネから洗礼を受けた時に、天から「あなたはわたしの愛する子」という声があったことが語られていますが、「愛する息子」というのはそれと同じ言葉です。つまり主イエスは、神様から最後に遣わされた息子なのです。ところが農夫たちはこの息子を殺してしまう、それがまさに今、祭司長、律法学者、長老たちがしようとしていることです。彼らは、主イエスを亡き者にしようとして論争を仕掛け、その言葉尻を捕えて訴える口実を得ようとしているのです。ですからこのたとえは、彼らが今まさに何をしようとしているのかを語っているのです。それゆえに彼らは、これが自分たちに対して語られた話だとはっきり悟り、ますます主イエスに対する憎しみ、敵意を深めていったのです。
ぶどう園は私たちの人生
さてこれが、祭司長、律法学者、長老たちと主イエスとの論争におけるこのたとえ話の意味です。そのことは読めばだいたい理解できるでしょう。しかし私たちはさらにそこから進んで、このたとえが私たちに語りかけていることを聞き取っていかなければなりません。私たちは祭司長でも律法学者でもユダヤ人の長老でもないし、民の指導者ではないから、このたとえは私たちとは関係がない、と言えるでしょうか。この農夫たちが預けられたぶどう園、それは私たちの人生であると言うこともできるのです。このぶどう園は全て主人が作り整えたものであったように、私たちの命、人生は、神様が造り、預けて下さったものです。自分の命を自分で作り出した人はいないし、人生の基本的条件、つまりどんな体を持っているか、男であるか女であるか、どんな能力、賜物を持っているか、何時の時代に、どのような家庭に生まれるか…といったことを自分で決めて生まれてきた人は一人もいません。それらは全て神様が備え、与えて下さったものです。私たちは、神様から預けられた命を、神様から与えられた基本的条件の下で生きている、それが私たちの人生であり、私たちは神様から預けられたぶどう園である人生において、少しでも良い実を実らせようと努力しているのです。私たちがこのぶどう園で何がしかの実りを生むことができるとしたら、それは基本的には神様が備えて下さった条件と賜物とによるものです。私たちの努力ということも勿論ありますが、努力が実を結ぶための条件を整えて下さったのは神様なのです。
神の取り分
私たちの人生というふどう園において、神様は、ご自分の取り分を要求なさいます。私たちは、命を与え、人生というぶどう園を預けて下さった神様に支払わなければならないものがあるのです。それは地主が小作人から年貢を取り立てるようなことではありません。このたとえ話においても、主人は農夫たちを搾取して自分の利益をあげようとしているのではありません。むしろ彼は農夫たちのためにこのぶどう園を作り、必要な設備投資をして、農夫たちが安心して働き、収穫をあげ、利益をあげて生活することができるように配慮しているのです。その主人が求めている取り分とは、農夫たちが、このぶどう園は主人のものであり、主人が作り整えてくれたものであることを認め、感謝して、主人との間に良い交わりを持って生きることです。主人のそういう思いは、彼が、何度拒否されても繰り返し僕たちを遣わし、そしてついには愛する子までも遣わしたことに示されています。これだけ何度も拒否され、僕を何人も殺されているところに大事な息子を送るなどということはあり得ないことです。それはこの主人が、敵対している彼らをなおも愛しており、彼らと良い交わりを回復したいと心から願っているということです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という言葉には、彼らに対する、おめでたいとも言える程の信頼があります。それは、小作人を搾取する地主の姿ではなくて、自分のもとで働いている人々との間に恵みと赦しと信頼の関係を打ち立てようとしている人の姿なのです。神様は私たちに、そのような思いをもって語りかけておられます。「あなたに命を与え、人生を導いているのはこの私だ。そのことを認め、私こそあなたの人生の主であることを受け入れて、私と良い交わりをもって生きなさい」と言っておられるのです。この神様の愛と恵みをきちんと受け止め、それに応えていくことこそ、神様が私たちに求めておられる「取り分」なのです。
主イエスを十字架につけた思い
ところがこの農夫たちはその正当な取り分を主人に返すことを拒みました。そして僕たちを殺し、息子をも殺しました。それは、小作人が地主の搾取に対抗して年貢を納めることを拒否したということではなくて、自分のためにこのぶどう園を作り与えて下さった方に対する恩を忘れ、このぶどう園が本来主人のものであることを認めようとしなかった、ということです。彼らは、自分に対する主人の愛を受け止めず、主人との正しい関係を拒絶したのです。それどころか彼らは7節にあるように、跡取りである息子を殺してこのぶどう園を自分たちのものにしようとしているのです。私たちもそれと同じことをしてはいないでしょうか。自分の命が、人生が、神様によって与えられ、整えられ、導かれていることを認めず、神様の恵みを無視して、神様と良い関係に生きることを拒み、そして自分の人生は自分のものだと主張して、自分が主人になって生きようとしている、それが私たちなのではないでしょうか。主イエス・キリストは、祭司長、律法学者、長老たちの、主イエスを受け入れず、自分たちが主人であろうとする思いによって十字架につけられ、殺されたのです。私たちが、自分に与えられているふどう園である命と人生を自分のものにしてしまい、神様こそがそれを与えて下さっている主人であることを認めようとしないなら、それはまさに主イエスを十字架の死へと追いやった思いなのです。
主人の怒り、裁き
9節には「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」とあります。農夫たちは、主人の愛する息子をも殺して、主人の恵み、愛による語りかけを徹底的に拒否しました。もはや関係を回復する道は閉ざされました。主人は「戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」。このことは、祭司長、律法学者、長老たちに関しては、紀元70年のローマ帝国によるエルサレムの陥落、破壊において、そして2世紀前半のローマへの反乱の結果、ユダヤ人の指導者たちは殺され、ユダヤ人はエルサレムを追われ、各地に散らされてしまったことによって実現しました。イスラエルの地はその後長く、他の民族のものとなったのです。それでは私たちはどうなのでしょうか。私たちも、この祭司長、律法学者、長老たちと同じように、自分に預けられているぶどう園である人生を自分のものにしてしまっており、それを作り与えて下さった神様の恩を忘れて、自分が主人となって生きている者です。そのように神様に敵対している私たちも、神様の独り子主イエスを十字架につけて殺しているのです。そうであるならば、私たちも、神様との関係を回復する道を閉ざされ、神様の怒りによって滅ぼされるしかないのではないでしょうか。
家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった
そのことを見つめていく時に、主イエスがこのたとえ話につけ加えられた10節以下のみ言葉が光を放って来るのです。ぶどう園と農夫のたとえ話自体は9節で終っています。9節から即12節に行っても話はつながるのです。しかしそこに10、11節が加えられていることに大きな意味があります。そこに語られているのは、旧約聖書、詩編第118編22、23節の引用です。この詩編118編の全体が先程朗読されました。この詩の全体を味わうことによって感じられることは、この詩は神様の救いの恵みを感謝し、ほめたたえている歌であるということです。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉が最初にあります。「慈しみはとこしえに」は何度も繰り返されています。「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」「激しく攻められて倒れそうになったわたしを、主は助けてくださった」「主はわたしを厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった」と、神様の救いの恵みが繰り返し語られています。特に今読んだ18節には、自分の罪が深く意識されており、その罪に対して主は厳しい懲らしめをお与えになったけれども、しかし私を滅ぼしてしまわれるのではなくて救って下さったことが語られています。そのように神様が、人間の罪にもかかわらず救いを与えて下さる、その恵みが歌われていく中に、ここに引用されている「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」という言葉があるのです。家を建てる者、建築の専門家が、これは使いものにならないと退け、捨てた石が、隅の親石、これは建物全体を支える土台の石とも、あるいはアーチの頂点に置かれて全体を安定させる石とも言われますが、いずれにせよ一番大事な石になった。神様の救いとはそのようなものであり、人間の目には不思議な、驚くべき仕方で与えられる、ということをこの言葉は語っています。主イエスがこの詩編の言葉をここで引用なさったのは、あのたとえ話における愛する息子、つまり主イエスご自身が、農夫たちによって殺されてぶどう園の外にほうり出される、つまり十字架につけられて殺される、そのことを通して、神様の救いが実現していくことを示すためです。主イエスは、祭司長、律法学者、長老たちに拒否され、捨てられて十字架にかけられ、死なれました。私たちもまた、彼らと同じ罪を犯している者です。しかしまさにその人間の罪による主イエスの十字架の死によって、神様は私たちのための救いの道を開いて下さいました。主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、本当なら私たちが受けなければならない滅びを、代って引き受けて下さったのです。そこに、私たちの罪に対する神様の赦しの恵みが実現しています。そして父なる神様は主イエスを死者の中から復活させて下さり、主イエスを隅の親石として、新しいイスラエルを、新しい神の民である教会を築いて下さったのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは、主イエスが隅の親石である教会の一員とされて、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命にあずかって生きることができるのです。そのようにして私たちは、私たちに命を与え、人生というぶどう園を整え、与えて下さっている神様との、良い関係に生きる者とされます。10、11節の詩編の引用は、そういう神様の不思議な、驚くべき救いのみ業を指し示しているのです。ですからあのたとえ話の9節における裁き、滅びは、私たちには起りません。主イエスがそれを代って担って下さったのです。それゆえに私たちがこのたとえ話から聞き取るべきことは、私たちに命を与え、いろいろな実りを生むことができるように人生を整え導いて下さる神様が、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という驚くべき信頼と、独り子の命をも与えて下さる限りない愛と忍耐とをもって私たちに語りかけ、良い交わりを結ぼうとして下さっている、ということです。この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、神様が備え与えて下さったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んでいくことができるのです。