「実のないいちじく」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第5章1-7節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第11章12-25節
・ 讃美歌:294、157、532
呪いの奇跡
主イエス・キリストが、そのご生涯の最後に、エルサレムに来られ たことを先週の礼拝において私たちは読みました。そこから、十字架 の死へと向かう主イエスの最後の一週間、いわゆる受難週の歩みが始 まったのです。先週の水曜日から、教会の暦でレント(受難節)に入 りました。4月20日のイースター(復活祭)に向けて、私たちの救 いのために十字架にかかって下さった主イエス・キリストの苦しみと 死とを覚えつつ歩んでいこうとしています。礼拝において主イエスの 最後の一週間のことを読み進めつつこの時を歩むことができるのは意 味深いことです。
さてエルサレムに来られた主イエスは、夕方になると町を出て、夜 をベタニアで過ごされたことが11節に語られていました。そして翌 朝再びエルサレムの町に入って行かれたのです。それが本日の箇所で すが、その時主イエスは空腹を覚えたと12節にあります。そこに葉 の茂ったいちじくの木があるのを見て、実がなっていないかと近寄ら れたが、葉のほかは何もなかった。それで主イエスはその木に向か って「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と おっしゃったのです。本日の箇所の後半、20節に翌日の朝のことが 語られています。主イエスの一行が同じ所を通られた時、そのいちじ くの木は根元から枯れていたのです。
ここにも、主イエスがなさった一つの奇跡が語られています。しか しこの奇跡は、主イエスの他の奇跡とはかなり違ったものです。これ まで私たちが見てきた奇跡は、病気を癒したり、悪霊を追い出した り、死んだ者を復活させたり、あるいは嵐を静めたりというものでし た。それは、人間の命や生活を脅かし、破壊し、苦しみを与えている 力を打ち破って人を守り、救って下さる、そういう積極的な奇跡でし た。それに対してこの奇跡は、言ってみれば消極的、破壊的な奇跡で す。この出来事を見たペトロが21節で「先生、御覧ください。あな たが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言っています。ペト ロは主イエスがこのいちじくの木を「呪った」と言っているのです。 つまりこれは「呪いの奇跡」、主イエスが何かを呪い、それを滅ぼし た、という出来事です。しかもこのいちじくの木は、何か人間に悪さ をしたわけではありません。ただ、実がなかっただけです。しかも1 3節にはっきり語られているように、この時は「いちじくの季節では なかった」のです。その季節でもないのに実を求めてもないのは当然 で、それは木が悪いのではない。それなのにこの木は呪われ、滅ぼさ れてしまったのです。ですからこの話は、お腹が空いていたのに実が なかったので主イエスがいちじくの木に八つ当たりをしたような印象 すら受けます。誰でも腹が空くとイライラするもので、主イエスもそ うだったのだろうか、あるいは、主イエスは苦しみと死を目前にして 気持ちが荒んでしまっていたのだろうか、などとも考えたくなる話で す。けれどもこの話をそのように捉えてしまったら、マルコが何故わ ざわざこの話を福音書に書き記したのかが説明できません。マルコ は、主イエスこそ神の子、救い主であられるという信仰によってこの 福音書を書いています。そのことを読む人にも分からせ、同じ信仰に 立つ人がさらに生まれることを願って書いているのです。このいちじ くの話も、そのために書き記されています。そのマルコの思いを読み 取っていかなければ、ここを正しく理解することは出来ないのです。
サンドイッチ構造
それではいったいこのいちじくの木の話は何を語っているのでし ょうか。それを考えるための手がかりは、この部分の話の構造にあり ます。主イエスがいちじくの木を呪われたことが14節までに語ら れ、その木が枯れたことは20節に語られています。その間に、別の 話が入って来ているのです。そういうサンドイッチ構造がここにはあ ります。そしてマルコはそういう語り方をしばしばしています。典型 的なのは第5章21節以下の、会堂長ヤイロの娘の話と、十二年間出 血の止まらない病気で苦しんでいた女性の話です。ヤイロの娘の話に 挟み込まれる仕方でこの女性の話が語られています。こういうサンド イッチ構造には意味があるのです。それは、サンドイッチのパンの部 分、外側の枠となっている話と、中身、内側に挟み込まれている話と が、内容的に密接に結びついている、ということです。つまりこれら の二つの話を別々にではなくて、両方で一つの話として読んで欲し い、という著者の思いがこの構造に込められているのです。ですか ら、本日のこのいちじくの木の話も、それだけで読むのでなく、15- 19節とのつながりにおいて読む必要があります。それによって、 この不思議な話の意味も分かってくるのです。
15 -19節に語られているのは、主イエスがエルサレムの神殿の 境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や 鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した、ということです。これもま た、主イエスのいつものお姿、イメージとはかなり違う、かなり暴力 的な、乱暴な、また怒りを込めたお姿です。いちじくの木を呪い、枯 らしてしまうという奇跡と通じるお姿が、このいわゆる「宮清め」に おける主イエスのお姿にはあります。この宮清めにおける主イエスの 怒りを理解することによって、いちじくの木に対する呪いの意味をも 知ることができるでしょう。
神殿で商売している人々
先週読んだ11節によれば、エルサレムに来られた主イエスは真 っ先に神殿にお入りになりました。それは有名な神殿を見てみようと いうことではありません。父なる神様から遣わされた独り子であり、 救い主である主イエスがエルサレムの神殿に入るのはむしろ当然のこ とです。神殿は、神様を礼拝する場です。神様がそこでこそ人々と出 会って下さり、人々はそこでこそ礼拝をすることができる場です。主 イエスは、本来この神殿の主、礼拝の主なのです。主イエスの前に跪 く礼拝こそがここでなされるべきなのです。主イエスは、この神殿の 主として、人々によるまことの礼拝を求めるためにここに来られたの です。しかし神殿に来られた主イエスがご覧になったのは、売り買い している人々であり、両替人や鳩を売る者たちの店でした。私たちは ここを読むと、お祭りの時に神社の境内に沢山の出店や屋台が並んで いるような光景を思い浮かべます。しかしこれはそれとは全く違うこ とです。両替人や鳩を売る者は何のためにそこにいたのかを正しく知 らなければなりません。旧約聖書の時代以来、神殿における礼拝は、 動物の犠牲をささげることがその中心でした。牛や羊や山羊などを殺 して、焼いてささげるのです。そのような捧げものを携えて神様の前 に出ることが礼拝でした。しかし、遠くから巡礼として礼拝に来る人 たちにとっては、それらの動物を自分の家から連れて旅をしてくるの は大変なことです。しかも神様に犠牲としてささげる動物は傷のない のでなければならないので、はるばる旅をして連れて来ても、途中 で傷がつくようなことがあったら捧げることが出来なくなってしまい ます。それで、神殿には、礼拝において捧げることができる傷のな い動物を売る店が開かれて、はるばる旅をして連れて来なくても、こ こでお金を払って動物を買うことができるようになったのです。また 「鳩」というのは、羊や山羊などの大きな動物を捧げることが出来な い貧しい人々が、それに代って捧げることを認められていたもので す。そういう貧しい人々の方が圧倒的に多かったでしょうから、神殿 に礼拝に来るほとんどの人はこの鳩を買い求めてそれを捧げていたの だと思います。その鳩を売る者たちが神殿の境内にいたのです。ま た、神殿に献金することも神様への大事な義務とされていましたが、 その献金には、当時一般に流通していたローマの貨幣ではなくて、古 いユダヤの貨幣を使わなければなりませんでした。ですから礼拝に来 た人々は、普通のお金を献金用の特別なお金に両替しなければならな かったのです。それをしていたのが「両替人」です。ですからここに 語られているのは、私たちがよく目にするお祭りの屋台や土産物屋と は全く違う、人々が礼拝をきちんと守るためにそこにいる人々なので す。勿論鳩を売る者も両替人も、それを商売としてやっており、利益 をあげていたのでしょうから、これは言ってみれば「礼拝ビジネス」 です。彼らは人々の礼拝のための便宜を図ることによって自らも利益 を得ていたのです。また彼らと「売り買いしていた人々」とは、お祭 りでたこ焼きを食べている人や土産物をあさっている人々ではなく て、神様の掟に従って礼拝をしようとしている人々だったのです。
強盗の巣
そのように礼拝をしようとしている人々や、礼拝のための便宜をは かる仕事をしていた人々を、主イエスは追い出し、その台や腰掛けを ひっくり返したのです。そして主イエスは人々にこうお語りになりま した。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の 人々の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそ れを強盗の巣にしてしまった」。この神殿は今や祈りの家ではなく強 盗の巣になってしまっている、と主イエスはおっしゃったのです。繰 り返し申しますが、礼拝が行われなくなっていたわけではありませ ん。毎日沢山の動物が犠牲としてささげられ、多くの献金がなされて いたのです。ですから形の上ではまことに正しい、立派な礼拝がなさ れていたのです。しかし主イエスはそれを「強盗の巣」と呼ばれたの です。それは形だけで心が込められていない、というだけのことでは ありません。「強盗」という激しい言葉はそれ以上のことを語ってい ます。そこで主イエスが見つめておられるのは、人間の貪欲の罪で す。礼拝が、貪欲、貪りの場になってしまっている、と主は言われる のです。それは、鳩を売る者や両替人が礼拝をビジネスにして金儲け をしている、というだけのことではありません。人々が純粋な気持ち で礼拝をしようとしているのを、これら一部の者たちが利用してい る、というのではなくて、ここで行なわれている礼拝の全体が、礼拝 している者たち皆が、貪りの罪に陥っている、と主は言っておられる のです。主イエスは何をもってそう言っておられるのでしょうか。
すべての国の人の祈りの家
この神殿は、クリスマスの物語に登場するあのヘロデ大王が長い年 月をかけて改修工事を施した大変壮麗なものでした。ここに「神殿の 境内」とあるのは、その改修において設けられた「異邦人の庭」と呼 ばれる部分のことです。神殿は、中心である聖所を囲む幾つかの庭か ら成っています。その庭が礼拝の場所であるわけですが、一番外側に あるのがこの「異邦人の庭」です。異邦人、つまりユダヤ人以外の人 々もここまでは入ることができました。異邦人たちはここで主なる神 様を礼拝したのです。その内側に今度は「婦人の庭」がありました。 そこはユダヤ人の女性が入ることができ、礼拝をする場所です。さら に内側に「男子の庭」があり、ユダヤ人男子のみが入ることができた のです。そして中心である聖所には祭司しか入ることができないので す。そのようにこの神殿は、礼拝する場所が何重にも区切られてお り、そして今問題となっている「異邦人の庭」は、異邦人が主を礼拝 し、祈るための場所です。そこに両替人や鳩を売る者たちの店があ り、売り買いする人々の声や動物たちの鳴き声が満ちていたのです。 さらに16節には、そこを通って物を運ぶ者もいたとあります。異邦 人の庭は物を運ぶ道として利用されていたのです。異邦人が礼拝を し、祈るための場所が、そのような場所になっており、人々の喧噪に よって満たされてしまっている、その様子を御覧になって主イエス は、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきで ある』と書いてあるではないか」とおっしゃったのです。これはイザ ヤ書56章7節の言葉です。「すべての国の人」とは、異邦人たちの ことです。この箇所は主なる神様が、異邦人もご自分のもとに来て礼 拝し、祈ることを赦し、待っておられることを語っているのです。 「わたしの家」つまり神殿はそのように「すべての国の人の祈りの 家」でなければならないし、そこでなされる真実の礼拝に神様は全て の人々を招いておられるのです。しかるにこの異邦人の庭の有様は何 か、そこはさらに内側の庭に入って礼拝するユダヤ人たちが、自分た ちの礼拝のために鳩を買い、両替をする場になってしまっている。こ こまでしか入ることが出来ない異邦人のためにここを礼拝の場、祈り の場として整えようとする思いはどこにも見当たらない。神に選ばれ た民であると自負しているあなたがたユダヤ人は、自分が正しい礼拝 をすることしか考えておらず、そのために、異邦人の礼拝と祈りを妨 げ、奪うようなことを平気でしている。主イエスはそこに、自分のこ としか考えない貪欲の罪を見ておられるのです。自分たちよりも立場 の弱い人々の礼拝や祈りを妨げ、奪っているあなたがたの礼拝は強盗 の礼拝であり、あなたがたはこの神殿を強盗の巣にしてしまってい る、と主イエスは言っておられるのです。つまり問題は、神殿の境内 で商売がなされているのはけしからん、というようなことではありま せん。ここに集まっている者たちが、どのような思いで礼拝をしてい るかが問われているのです。ユダヤ人たちは、律法に基づく正しい捧 げものをして礼拝をすることによって、自分が神様をちゃんと礼拝し ている正しい者であることを確認し、それによって平安と慰めを得て いました。そのように自分の正しさを確認することで平安や慰めを得 ようとする礼拝をささげていく中で彼らは、その礼拝に共に集ってい る他の人々、特にいろいろな弱さや苦しみをかかえて神様の救いを 求めている人々のことが目に入らなくなっていたのです。そういう ことは私たちにも起るのではないでしょうか。要するに、自分の正し さ、自分の平安を求め、それに満足して帰るためだけに礼拝をしてい るところに私たちの貪欲があるのです。その貪欲に支配されると私た ちは、他の人のことが目に入らなくなり、他の人の礼拝を妨げても、 つまりその人が神様と出会い、その救いにあずかることを妨げ、つま ずかせても何も感じなくなるのです。そのような礼拝を主イエスは、 「強盗の巣」とお呼びになったのです。
真実の礼拝は神の民を生む
私たちの礼拝が貪欲に支配された強盗の巣にならないためには何が 必要なのでしょうか。真実の礼拝は、主なる神様が私たちを選び、召 し集め、救いを与えて一つの民として導いて下さる、その神様の選び と召しと導きに私たちが応えて従っていくところにこそ成り立ちま す。私たちはその真実の礼拝において確かに神様による救いの恵みを 受け、慰めと平安を与えられますが、それと同時にそこで私たちは神 様に聞き従う神の民となるのです。この「神様に聞き従う神の民とな る」ということを抜きにして、自分の平安や慰めだけを求めて礼拝し ていると、その礼拝は外面的には正しいものであっても、貪欲に支配 された強盗の巣になってしまうのです。
それでは「神様に聞き従う神の民となる」ためには何が必要なので しょうか。それは神様が自分と共に選び、共に礼拝する者として召し 集めておられる他の人々にしっかり目を向けることです。それらの人 々と共に神様の前に立ち、共に生きる者となることです。神様が選 び、共に礼拝する者として召し集めて下さっている神の民には様々な 人々がいます。自分が以前からよく知っており、気心の知れている、 要するに好きな人だけでなく、自分とは違う考えの人、気の合わない 人、嫌いな人もいます。また、神様が新しく召し集めて下さって共に 礼拝を守っている人、よく知らない人、異質に感じる人もいるので す。しかし神様がその人たちをも選び、召し集めて共に礼拝する民と しておられるのですから、私たちはそのみ心に従ってその人々を迎え 入れ、共に礼拝を守り、共に生きる神の民となっていくのです。神の 民に誰が連なるのかは、私たちが自分の好みで決めることではなく て、神様がお決めになることですから、私たちはそのみ心に従って、 神様が召し集めて下さった人々を受け入れるのです。そういう思いで 守られる礼拝こそが真実の礼拝であり、そうなることによって私たち の礼拝は、私たちの貪欲に支配された強盗の巣ではなくなり、「すべ ての民の祈りの家」となるのです。つまり真実の礼拝がささげられる ところには必ず、共に礼拝する人々との交わりが生まれ、神様に聞き 従う神の民がそこに築かれていくのです。
主イエスの怒りと呪いに込められた思い
主イエスは、神の民の都であるエルサレムに来て、その神殿に、そ こに集って礼拝をしている人々に、このように神様の選びと召しと導 きに従う神の民の礼拝をお求めになりました。しかしそこにあったの は、貪欲に支配された、自分が平安と慰めを得ることしか考えていな い、神に聞き従って神の民となることを求めていない、強盗の巣のよ うな、偽りの礼拝でした。その偽りの礼拝に対して、主イエスは怒り を爆発させたのです。激しい怒りをもってそのような礼拝を破壊しよ うとなさったのです。それが「宮清め」であり、そこにおける主イエ スの、そして神様の思いが、あのいちじくの木の話に象徴的に表され ているのです。主イエスがいちじくの木に実をお求めになった、それ は主なる神様がイスラエルの民に真実な礼拝を求めておられることを 表しています。しかし民は神様が求めておられる実を実らせていなか ったのです。神様の期待に応えることができていないのです。それと 同じことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザ ヤ書第5章1~7節の「ぶどう畑の歌」と呼ばれている部分です。そ の7節にこうありました。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/ 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を 待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を 待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」これこそが、ここ での主イエスの怒り、呪いに込められた思いなのです。
言い訳する私たち
神様は私達に真実の礼拝を求めておられます。私たちとの間に、主 なる神とその民という関係を築こうとしておられるのです。その神様 の求めに対して、「まだ季節ではないから」というのは私たちがよく 言う言い訳です。まだその時期ではない、もう少し待ってください、 もう少し自分の生活や心に余裕ができてから、もう少しちゃんと理解 できてから…そのように言って私たちはいつも逃げようとします。し かし神様が真実の礼拝をお求めになる、つまり私たちとの関係を築こ うとされることに、季節や時期は関係ないのです。神様は「今」、私 たちに真実の礼拝を求めておられるのです。
主イエスの十字架の死によって
主イエスの期待する実を実らせることのできなかったいちじくは、 主イエスに呪われて枯れてしまいました。そこに、神様の選びと召し にもかかわらず神の民としての礼拝に生きようとしない者への神様の 怒りと裁きが示されています。そして私たちはまさに、その怒りと裁 きによってこのいちじくの木のように呪われ、滅ぼされてしまうしか ない者です。しかしその神様の怒りと裁きを私たちに代って背負い、 引き受けて下さるために、主イエス・キリストはこのエルサレムに来 られ、十字架の死への道を歩んで下さったのです。神の民としての礼 拝に生きるのでなく、貪欲に支配され、強盗の巣になってしまってい る私たちの罪を主イエスはご自分の身に背負って下さり、二人の強盗 たちと共に十字架にかかって死んで下さったのです。あのいちじくの 木のように呪われ、枯れてしまったのは、神様の独り子主イエス・キ リストご自身だったのです。この主イエスの十字架の死によって、私 たちは今や、赦されて新しく生きることができます。神様は私たちを この主イエス・キリストの救いによって、新しい神の民として選び、 召し集めて下さっているのです。この選びと召しに応えて、神様に聞 き従う民となり、神様が与えて下さった兄弟姉妹と共に、神様を礼拝 していきたいのです。そのような礼拝がささげられることによってこ の群れは、「すべての国の人の祈りの家」となることができるのです。