主日礼拝

神が結び合わせた夫婦

「神が結び合わせた夫婦」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第2章18-25節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章1-12節  
・ 讃美歌:113、278、431

イエスの新たな歩み  
 新しい年、主の2014年を迎えました。その最初の主の日である本日から、マルコによる福音書の第10章に入ります。その第1節に、「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。ここから、主イエスの新しい歩みが始まったのです。主イエスが立ち去った「そこ」とはどこでしょうか。9章の33節には、主イエスの一行がカファルナウムに来たと語られていました。聖書の後ろの付録の地図の中の「新約時代のパレスチナ」を見ていただきたいのですが、カファルナウムというのは、ガリラヤ湖の北の岸にある町です。この町が、主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点でした。主イエスはその町を去り、ガリラヤ地方を去って、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」のです。ユダヤ地方とは、この地図の下の方、エルサレムを中心とする地域です。またヨルダン川の向こう側というのはこの地図ではペレアと呼ばれている地域のことでしょう。主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤを去り、南へと下って行ったのです。最終的な目的地はエルサレムです。そこで主イエスは捕えられ、十字架につけられるのです。そのことを主イエスは既に二度にわたって予告しておられます。8章31節と9章31節です。8章31節の方を読んでみます。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。このことの実現に向けての新たな歩みが始められたことを10章1節は語っているのです。

ファリサイ派の問い  
 ここに「ヨルダン川の向こう側」即ちペレアのことが一緒に出てくるのは何故でしょうか。当時ペレアは、ガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンテパスが支配していました。エルサレムを中心とするユダヤは、ローマ帝国が直接治めており、その総督がポンティオ・ピラトだったわけですが、ガリラヤとペレアは、ローマの監督の下で、ヘロデが治めていたのです。本日の箇所に語られていることも、このペレアで、つまりヘロデの支配下で起ったと考えることに意味があります。というのは、本日の箇所の主題は、2節に「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いが記されているように、離婚、離縁のことなのですが、この問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。その事情はこの福音書の第6章14節以下に語られていました。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。彼は6章18節にあるように「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。そのために彼は捕えられ、ついには首を切られてしまいました。ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が主イエスのもとに来て、先ほどの質問をした。それは2節の終りにあるように「イエスを試そうとした」のです。「試そうとした」というのは、単に主イエスの律法についての知識をテストしようとしたということではなくて、ヘロデの支配下で敢えてこのことを問うことによって彼らは、主イエスを危機に陥れようとしているのです。主イエスがもしも、妻を離縁することはいけない、と答えるなら、ヨハネと同じ運命をたどることが考えられます。もしも逆に、場合によっては離縁してもよいのだ、と教えるなら、イエスはヨハネとは違って自分の身を守るためにヘロデを批判することを避けた、ということになるのです。どちらにころんでも、イエスを陥れ、あわよくば殺してしまうことができる、彼らはそういう思いでこの問いを投げかけてきたのです。

聖書はどう言っているか  
 そのような悪意ある、為にする問いに対して主イエスは、3節にあるように「モーセはあなたたちに何と命じたか」と逆に問い返されました。「モーセは何と命じたか」とは、モーセを通して与えられた神様の掟である律法にはどのようにあるか、ということです。私たちの言葉で言えば、聖書に何と書いてあるか、ということになります。彼らが問うているのは、本心はともかく、形式的には、神様に従う正しい生き方とはどういうものか、です。そのように問うならば先ず、聖書を自分できちんと読みなさい、そこに何が書いてあるかを自分で判断しなさい、と主イエスはお答えになったのです。これは私たちもよく聞いておくべき大事な教えだと思います。私たちもしばしば、信仰のこと、神様のみ心のことで疑問を持ちます。ファリサイ派の人々のように、主イエスを陥れようとして問うようなことはないにしても、ある疑いや反発の思いを込めて「これはどうなんだ」という問いを、信じている人に、あるいは牧師に投げかけることがあるのです。そういう時の私たちの思いは、自分を納得させてみろ、それができたら信じてやる、というようなものです。それはファリサイ派の人々が主イエスを試そうとしたのと通じる思いではないでしょうか。そのような問いに対して主イエスは、「聖書があるではないか。神様のみ心、信仰の事柄は聖書に書いてある。あなたは聖書をどう読み、どう受け止めているのか」と問い返されるのです。それは決して、牧師や教会員に質問をしてはいけない、ということではありません。疑問に思ったことはどんどん質問したらよいのです。しかし覚えておかなければならないのは、自分自身が聖書のみ言葉と真剣に向き合うということがなければ、信仰は身に着かないし、本物とはなっていかないということです。

聖書を知っていても、読めていない  
 「モーセはあなたたちに何と命じたか」という主イエスのお言葉は、自分で聖書を読めば分かるはずだ、というだけのことではありません。そこにはさらに深い含蓄があります。ファリサイ派というのはもともと聖書をよく学んでいた人々です。聖書のどこに何が書いてあるか、彼らは隅から隅まで知っているのです。彼らは知らないで質問しているのではありません。その証拠に、主イエスの問いに対して彼らは4節で即座に、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。それは旧約聖書申命記第24章1節に教えられていることです。このようにあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。彼らはこのように聖書をよく知っているのです。さらに彼らは、この聖書の教えの解釈について様々に議論していました。ちなみに、今日の私たちから見ると、離縁状さえ書けば夫は妻を離縁できる、というこの規定は女性に対するとんでもない人権侵害に見えます。当時は圧倒的に男性、夫の立場が強い社会だったということからして、基本的には確かにその通りです。ただこの規定において「離縁状」の意味することは、この人はもう夫のある身ではない、ということを証明するものです。離縁状を持っていれば、他の男性と結婚しても姦淫の罪にはならないのです。ですからこれはある意味で、離縁された女性の立場を守るためのものでもありました。また、ファリサイ派や律法学者たちが議論していたのは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とある、その「恥ずべきこと」に当たるのはどのような事柄か、ということでした。ある律法学者は、それは妻が姦淫、不倫を犯したということのみを意味するのであって、それ以外の勝手な理由で夫が妻を離縁することは認められない、と教えていました。しかし中にはもっとゆるやかに、要するに夫が妻を嫌になったら、別の女を好きになったら、それが妻の「恥ずべきこと」に当たるので離縁することができる、というとんでもない解釈をする者もいたのです。そのように彼らファリサイ派や律法学者たちは、聖書が離婚について語っているこの言葉をよく知っており、その解釈をめぐって盛んに議論していたのです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」という答えは、彼らの間でなされていたそのような議論を思い起こさせるものです。主イエスはその答えを引き出すためにあのように問い返されたのです。そのことによって主イエスは、このような議論をしているあなたがたは、聖書のどこに何が書いてあるかをよく知っているかもしれないが、聖書が読めてはいない、そこから本当に学ぶべきことを全く学べていない、ということを示そうとしておられるのです。

結婚における主のみ心  
 彼らが読めていないこと、学べていないこととは何でしょうか。それは彼らが、離縁についてのこの教えを、離縁することは律法に適っているか、どういう場合なら離縁することができるか、という表面的なこととしてのみ捉えており、結婚や夫婦についての神様の基本的なみ心を見つめることができていないということです。離婚のことを考えるためには先ず、結婚のことを、そこにおける神様のみ心を、聖書に基づいてきちんと考えなければなりません。いやただ考えるだけでなく、自分の結婚生活をそれに即して受け止め直していかなければならないのです。そのために主イエスがここで指摘しておられるのが、本日の旧約聖書の箇所、創世記第2章18節以下です。本日のマルコ福音書の7、8節に「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」とあります。これは創世記2章24節の言葉です。ここに、結婚、夫婦についての聖書の教えの根本が語られているのです。そしてその教えの前提となっているのが、マルコにおいては6節の「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」という言葉です。これを受けて、「それゆえ、人は…」と続いていくわけです。ここだけを読むと、人間は男と女として造られているから、動物の雄と雌がつがいになって子孫を遺すのと同じように結婚がなされる、とも取れるかもしれませんが、そうではありません。「神は人を男と女とにお造りになった」という言葉は、創世記2章18節以下に語られていること全体を受けています。その部分をきちんと読まなければこの言葉の意味を正確に知ることはできないのです。そこで、創世記2章18節以下をご一緒に見つめていきたいと思います。

男と女  
 この箇所は、人間が男と女という性別を持った者として造られていることに、神様のどのようなみ心があるのかを語っています。その根本が18節のみ言葉です。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。このみ心によって女が造られ、人は男と女として生きる者となったのです。そのみ心とは、人間は独りで生きるべきものではない、自分に合う助ける者と共に、交わりの内に生きるべきものだ、ということです。そのために人間は男と女として生きているのです。つまり、人間が男と女であり、結婚して夫婦となるのは、動物が雄と雌であることによって種の保存がなされるのとは根本的に意味が違うのです。動物の雄と雌は子孫を遺すためにありますが、人間の男と女は、子供を生むことではなくて、互いの交わり、共に生きることこそが目的なのです。子供はそこに神様の祝福として与えられるのです。「彼に合う助ける者」という言葉もそのことを示しています。これは苦心の訳です。前の口語訳聖書では「ふさわしい助け手」となっていました。女性が男性の「ふさわしい助け手」として造られたというと、男性が主で女性は従、補助者であって、また男性にふさわしい者であることに女性の価値がある、という感じがします。しかしここで言われているのはそういうことでありません。それを明確にするために、「ふさわしい」が「合う」に変えられたのです。この言葉は「向かい合う」という意味です。つまり対等の者として、お互いに相手を見つめ、顔と顔とを向かい合わせながら共に生きる相手、ということです。どちらかが主で、もう一方はそれにふさわしい付属物ということではありません。人間は、自分と向かい合って、共に、助け合いながら生きる相手、パートナーと共に生きるべきものだ、という神様のみ心によって、人間は男と女として造られ、一人の男と一人の女が結婚して夫婦となり家庭を築き、そこに子供が与えられていく、ということが人間の基本的な生き方とされているのです。

神様の恵み、祝福  
 しかもこの創世記2章には、そのように向かい合って共に生きる相手が、神様の恵みによって与えられたことが語られています。神様は先ず野の獣や空の鳥を造って人、即ち男性のもとに連れて来ました。しかしそれら動物たちの中には、本当に向かい合って共に生きるパートナーは見つかりませんでした。それで神様は男を眠らせ、そのあばら骨の一部を取って女を造ったのです。アダムのあばら骨というこの話は、女が男の一部から造られたものであり、つまり男と女は本質的に同じもの、同等のものであることを示しています。そのようにして造られた女を見て男は、「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と叫びました。自分が向かい合って共に助け合いつつ生きる相手、真実のパートナーがついに見つかった、という感動の叫びです。結婚の相手を与えられるというのは、神様のそのような恵みなのです。そういうことの全体を受けて、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と語られているのです。結婚とは、夫婦とは、このように、一人の男と一人の女とが、神様の恵みと導きによって出会い、互いに向かい合って助け合いつつ共に生きる交わりに入ることです。マルコ福音書の10章8節に「だから二人はもはや別々ではなく、一体である」とあるのは、そのような交わりのことを言っているのです。その交わりには文字通り体において一体となることも含まれています。心においても体においても、向かい合って相手を見つめつつ一体となって歩んでいく、それが結婚、夫婦という関係において神様が与えて下さっている祝福、恵みなのです。

神が結び合わせてくださった夫婦  
 そして9節には「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とあります。今見てきたような、共に生きる相手、パートナーは、私たちが自分で捜し出して獲得するものではありません。神様がそのような相手を与えて下さり、二人を結び合わせて下さるのです。夫婦というのは、そのように神の結び合わせて下さったものです。結婚式において、この9節の言葉が、結婚の宣言において読まれます。神様と列席の人々の前で結婚の誓いをした二人が、この時から夫婦であることを牧師が宣言する、そこにおいて、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と告げられるのです。主イエスのこのお言葉をどう理解するか、ということで私たちの間にはまたしても議論が生じます。このお言葉によって主イエスは離婚を禁じておられるのか否か、という議論です。カトリック教会ではこの言葉を、結婚を洗礼や聖餐と同じように聖礼典、サクラメントと捉える根拠としており、夫婦は文字通り神によって結び合わされたのだからその取り消し、離婚はあり得ないと教えています。プロテスタント教会は、これは聖礼典の制定に当たる言葉ではないと考えています。しかしこのお言葉から、離婚してもいいのかいけないのかという議論に陥るのは、ファリサイ派の人々と同じように、聖書が読めていない、本当に学ぶべきことが学べていない、ということになるでしょう。私たちがここから先ず聞くべきなのは、夫婦は神が結び合わせて下さったものだ、ということです。それは夫婦についての一般論ではなくて、自分の結婚をそのように受け止めるということです。自分の結婚は、自分が好きになったから結婚したとか、自分がこの人を選んだというのではない、あるいは、仲人さんや紹介所から紹介されて結婚したとか、成り行きで結婚したというのでもない、いきさつはどうであれ、神様がこの人を、自分が向かい合って共に生きるべき相手として与えて下さった、神様が、あなたはこの人と共に生涯を歩みなさいとお命じになった、そのように受け止めることが私たちに求められているのです。夫婦として共に生き、家庭を築くことは、この神様のみ心、ご命令に従うことなしには出来ないでしょう。なぜなら私たちは、本当に相手と向き合って共に助け合いながら生きることがなかなか出来ない者だからです。共に暮らしていても、お互いが向き合うことをやめてしまい、そっぽを向いてしまうことも多々あります。また、深く向き合っていけばいくほど、お互いの違いが、お互いの罪や欠けが目についてきます。そのためにお互いに傷つけ合ってしまうことも起こります。だからもう向き合うことはやめて、適当に違う方を見ながらやっていく方が平和だ、ということにもなるのです。そのように向かい合って生きることを放棄してしまうことの延長上に離婚が起るのです。ですから私たちは、離婚について考える前に先ず、結婚において神様が自分たちを結び合わせ、この人と向かい合って共に生きることを命じておられることを真剣に受け止め、神が結び合わせて下さったものを人が、私たちが自分の思いで離してしまってはならない、という覚悟を持って相手と向かい合う努力をしていくべきなのです。そのような努力によってこそ、もはや別々でなく一体であると本当に言うことのできる関係が育てられていくのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉は、離婚の是非を語っているというよりも、私たちがどのような思い、あるいは覚悟をもって、結婚の相手と共に生きるべきであるかを教えているのです。本日の箇所の11、12節の、妻を離縁して他の女を妻にする者は云々というみ言葉も同じように受け取るべきでしょう。ここも、離婚して再婚することを罪であるとして禁じていると言うよりも、今神様によって与えられている結婚、夫婦の関係を本当に大切にして生きることを教えているのです。今与えられている夫婦関係を大切にできなければ、他の人に乗り換えてそれで幸せになれる、などということはないのです。  
 このことは、神様を信じているクリスチャンどうしの夫婦においてのみ成り立つことではありません。教会で結婚式をして、神様の前で誓った夫婦のみの話でもありません。夫婦の間で自分だけが信仰者であるという場合も、また結婚した後で信仰を持った人でも、結婚式が神式や人前結婚であったとしても、私たちの人生は私たちが意識する前から神様のみ手の中に導かれているのですから、要は、自分の結婚を、具体的には自分のこの夫を、この妻を、神様が結び合わせて下さった相手として、神様が、あなたはこの人と向かい合って共に生きなさいと命じておられるその神様のみ心を、信仰において受け止めることです。どのようないきさつで結婚し、どのような結婚式をしたか、は関係ないのです。

人間の頑固さ、罪のゆえに  
 主イエスは5節で、離縁をめぐる律法の教えについて「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。聖書には確かに離縁についての教えがあります。つまり離婚が絶対的に禁じられているのではありません。それは、人間の心が頑固だから、神様に背き逆らう罪に捕えられてしまっているからです。向かい合って共に生きていく努力を誠実にしていっても、それぞれが持っている頑固さ、罪や弱さのゆえに、どうしても共に生きることができなくなることもあります。互いに反目し合いながら形だけ夫婦であるという不健全な状態によって、お互いの罪がますます大きくなり、傷つけ合うことがエスカレートしてしまうということも起ります。そのような場合に、より大きな罪や不幸を避けるために、離婚という選択肢もある、離婚した方がよいという場合もある、それが私たちプロテスタント教会の聖書の読み方です。ですからそれは、離婚が許されているか否かというような単純な、表面的な問題ではないのです。  
 そしてもう一つ最後に、この離婚についての教え、いやむしろ結婚、夫婦とは何かという教えが、最初に申しましたように、主イエスのエルサレムへの歩み、つまり十字架の苦しみと死とに向けての歩みが新たに始められたことが語られているこの場面にあることに注目したいと思います。夫婦が互いに向かい合い、共に生きていくところには、今も申しましたように、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うようなことが起るのです。主イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向かい合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは夫婦の関係においてのみでなく、私たちの人間関係の全てに通じることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きている私たちは、この2014年、主イエス・キリストの十字架による赦しを常にいただきながら、隣人としっかりと向かい合い、良い関係を築いていきたいのです。

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