主日礼拝

恵みを覚えて生きる

「恵みを覚えて生きる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第5章20-25節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第8章1-21節  
・ 讃美歌:13、145、453

 五千人の給食と四千人の給食  
 本日ご一緒に読むマルコによる福音書第8章の初めには、主イエス・キリストが、七つのパンと少しの魚で四千人の人々を満腹にして余りが出たという奇跡が語られています。これと同じような話が、6章30節以下にもありました。そこでは、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々が養われ、残りを集めたら十二の籠にいっぱいになった、と語られていました。こちらの話を「五千人の給食」、本日の箇所の話を「四千人の給食」と呼びたいと思います。「給食」という言葉は学校給食みたいであまりイメージが合わないのですが、便宜的にそう呼んでいきたいと思います。  
 この二つの話はよく似通っており、対になっているのだということを先週も申しました。主イエスのもとに大勢の群衆が集まって来て、この人々の食事をどうにかしなければ、という問題がもちあがる。弟子たちは、こんなに大勢で、しかもここは人里離れた所だから、みんなの食事を用意するなどとうてい無理だと言う。すると主イエスは、今ここにどれだけの食べ物があるか、と問われる。弟子たちが「これこれです」と答えると、主イエスは人々を座らせ、そこにあるパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちに配らせる。すると全員が満腹し、余りまで出た、という共通するパターンでどちらの話も語られているのです。それゆえに昔から、これらはもともとは一つの出来事で、それが違った仕方で伝えられてきたのではないか、とも考えられてきました。しかしマルコ福音書がこのように二つの独立した出来事としてこれらを語っていることには意味があると思います。そのことを先ず考えておきたいと思います。  
 この二つの出来事は行われた地域が違います。五千人の給食はガリラヤ地方で行われました。つまりユダヤ人たちの間で行われたのです。それに対して本日の四千人の給食の話は、同じようにガリラヤ湖畔でのことですが、前回読んだ7章31節における主イエスの歩まれた道を考え合わせると、ガリラヤ湖の南東の地域、デカポリス地方での出来事であると考えられます。そのことは、8章の10節に「それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた」とあることからも確認できます。ダルマヌタはガリラヤ湖の西の岸辺の町だったと考えられるのです。ですから主イエスらは、南東のデカポリス地方の岸から西のダルマヌタへと舟で湖を渡ったのでしょう。本日の箇所の場面がそのようにデカポリス地方だとすれば、この四千人の給食の奇跡は異邦人たちの間でなされたということになります。五千人の給食はユダヤ人の間で、四千人の給食は異邦人の間でなされた、そこに、この二つの出来事が対になっていることの一つの意味があるのです。このことは、それぞれの奇跡において出た余りについての記述とも関係しています。五千人の給食においては、余ったパンを集めたら十二の籠にいっぱいになりました。それは十二人の弟子たちの数に対応しており、そこにはイスラエル、つまりユダヤ人、の十二の部族が意識されています。つまり五千人の給食の奇跡は、主イエスがご自分のもとに神の民イスラエルを新しく集め、養って下さるということを表していたのです。そのことが先に語られた上で、本日の四千人の給食は、主イエスのその恵みが、さらに異邦人にも及んでいくことを示していると言えます。既に7章24節以下で、シリア・フェニキアの異邦人の女性が、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」という、主イエスをも感心させた謙遜と信頼とによって恵みにあずかりました。また前回の7章31節以下で癒された、耳が聞こえず口が利けなかった人も、デカポリス地方の異邦人だったと思われます。そのような異邦人へのいくつかの救いのみ業を受けて、この四千人の給食が語られているのです。そこにおいて用いられたパンの数は七つであり、残ったパン屑の籠も七つでした。七は聖書における完全数で、世界の全ての人々を象徴しています。新しいイスラエルをご自分のもとに集め、養って下さる主イエスの恵みは、世界中の全ての人々にまで及んでいく、そのことがこの話において、七という数字によって示されているのです。

 パンがない!  
 さてこの奇跡が行われた後、主イエスと弟子たちの一行は舟に乗って先ほどのダルマヌタへ、つまりガリラヤ、ユダヤ人の地へと戻って来ました。するとそこにファリサイ派の人々が来て、主イエスに議論をしかけたと11節にあります。そのことについては後で触れることにして、その先の13節を見ると「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」とあります。その向こう岸とはどこかというと、22節に「一行はベトサイダに着いた」とあります。ベトサイダはガリラヤ湖の北の岸にある町です。ですからこのたびは、西から北へとガリラヤ湖を渡ったわけですが、その舟の上でのことが14節以下に語られているのです。14節に「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」とあります。主イエスも入れて十三人が乗り込んでいる舟に、パンが一つしかなかったのです。私たちは忘れがちかもしれませんが、主イエスも食事をなさいました。食事を摂らなければお腹が空いて力が出ない、という普通の人間として生きておられたのです。そして主イエスの周りには十二人の弟子たちがおり、いつも行動を共にしていました。その一行の毎日の食事を確保するのはなかなか大変だったでしょう。例えばこのように舟に乗って移動する時には、必要な食料を積み込んで出発しなければならないのです。そういうことは誰の役割だったのか、当番を決めて交代でしていたのか、それは分かりませんが、とにかくこの時、この舟にはパンが一つしかなかったのです。これでは食料が決定的に足りない、さあ困った、どうしよう、と弟子たちは慌てたのです。すると主イエスは弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」とおっしゃいました。私はここに主イエスのユーモアを感じます。弟子たちは、「パンがない、どうしよう」と深刻な顔をしている。あるいは、「今日はお前がパンを用意する当番ではないか。どうしてちゃんと自分の責任を果たさないのか」「いや私はそんなことは聞いていない」などという言い争いが始まっていたのかもしれません。主イエスはそういう弟子たちを見ながら、「そうか、パンがないのか。それは困ったな。しかしいくら腹が空いたからといって、どんなパンでもいいというわけではないぞ。パンはよく吟味しなきゃいかん。ファリサイ派やヘロデのパン種の入ってるやつはだめだぞ。ありゃあとても食えん」…と言ったかどうかはともかく、主イエスはここで、パンを忘れて来たことで心が一杯になり、落ち込み、ひょっとしたら喧嘩をしていた弟子たちに、「くよくよするな、そんなことは大した問題ではない。もっと大事な、深刻な問題があるのだ」とおっしゃったのです。

 み言葉を自分勝手に聞いてしまう私たち  
 ところが弟子たちには主イエスのこのユーモアが理解できません。16節に「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」とあります。先生は私たちがパンを忘れてきたものだから、それでこんなことを言っておられるんだ、私たちのことを怒っておられるんだ、と彼らは受け止めたのです。皆さんも不思議に思われるのではないでしょうか。どうして主イエスのこのお言葉が、「自分たちがパンを持っていないからだ」と受け取れるのだろうか、主イエスはそんなことを全く言っておられないのに、と思うのです。しかし考えてみると、これと同じことを私たちはしばしばしているのではないでしょうか。聖書が語っていること、あるいは礼拝の説教で語られたこととは全然違うことを自分勝手に聞き取ってしまい、聖書は、神様は、あるいは牧師はこう言っていると思い込んでしまう、ということがよくあるように思います。それは私たちが聖書の言葉や説教を、自分の思っていることに引き寄せて受け止め、要するに先入観をもって聞いてしまうということです。例えば、クリスチャンとは品行方正な立派な人でなければならない、信仰をもって生きるためにはそういう人にならなければいけないのだ、と思っている人は、聖書も説教もそういうことを語っているように受け止めてしまうということがあります。しかしそれは勝手な思い込みです。聖書のどこに、品行方正な立派な人にならなければ救われないなどと書いてあるでしょうか。聖書が語っているのはむしろ罪の赦しであり、罪人が神様の恵みによって救われる、ということです。それなのに、神様は罪人は愛して下さらない、立派な人にならなければ救われない、と自分で勝手に思い込んでしまって、「どうせ私のような罪人は神様に愛されていないんだ」と自分で勝手に僻んでいる人が時々いるのです。あるいは、教会における奉仕というのは、体を動かしてあれこれの仕事をすることだけではないのであって、むしろそれらの働きをしている人たちのために祈ることがあらゆる奉仕を支える一番大切な奉仕であり、それは誰にでも出来ることなのですが、そういうことをいくら言っても、「私のような年寄りは何の役にも立たなくて…」とか「自分は何も出来なくなったからもう教会に連なっていても仕方がない、迷惑をかけるだけだ」などと言う人がいます。いったい聖書のどこに、神様は年を取ったり病気になったりして活発に動くことができなくなった人を足手まといに思っておられるとか、そんな人はいらないと思っている、なんていうことが書いてあるのでしょうか。説教においていつそんなことが語られたのでしょうか。私たちは、そのような自分の勝手な思い込み、先入観によって聖書の言葉を読み、説教を聞いてしまうことがあるのです。そういうことが起るのは、この時の弟子たちがそうだったように、自分の思いや悩みによって心が一杯になってしまっているからです。彼らは今、自分たちがパンを忘れて来たということで心が一杯になっています。何か失敗をしてしまった時に私たちもそのことで頭が一杯になってしまうことがあります。その時には、後悔の思いと共に、でもこういう事情があったんだ、仕方がなかったんだ、という弁解、言い訳の思いも心の中で渦巻いています。しかし後悔にせよ弁解にせよ、自分の思いで心が一杯になってしまうと、そこには主イエスの言葉、神様のみ言葉がまっすぐに入って来なくなり、自分の思っていること、感じていることに引き寄せた聞き方しかできなくなるのです。この時の弟子たちも、主イエスは自分たちの失敗を怒っておられるに違いない、と思い込んでいたために、全くそんなことを言っていないお言葉もそのように聞こえてしまったのでしょう。

 目が見えず、耳が聞こえない  
 主イエスはそのような弟子たちに対して、今度こそ少し厳しい言葉をかけられます。17、18節です。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。「お前たちはいつまでパンを忘れたことにこだわっているのか。私がそんなことを問題にしていないことが分からないのか」ということです。そして主イエスは、彼らの心がかたくなになっている、目があっても見えなくなっており、耳があっても聞こえなくなっている、と言っておられます。当然見えるはずのことが、聞こえるはずのことが、見えなくなり、聞こえなくなっているとおっしゃるのです。そこには、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エレミヤ書第5章20節以下が意識されています。エレミヤ書のこの箇所は、天地を造り、季節を定め、時に応じて雨を与えて作物を育てて下さる主なる神様を忘れ、心がかたくなになり背いているユダの人々のことを、目があっても見えず、耳があっても聞こえない民、と呼んでいます。弟子たちもそれと同じように、自分の思いによって心が一杯になり、本当に見るべきものを見失い、本当に聞くべきことを聞くことができなくなっているのです。その「自分の思い」というのは、必ずしも自分の都合だけを考えている利己的な思いというわけではありません。弟子たちはこの時、主イエスに申し訳ないという思いで心が一杯になっていたのです。しかし彼らが主観的にはどんなに主イエスのためを思っていたとしても、彼らは自分の思いに捕われていたのであって、本当に見つめるべきことを見てはいなかったし、主イエスが彼らに聞かせようとしておられるみ言葉を聞いてはいなかったのです。

 本当に見つめるべきこと、聞くべきこと  
 それでは、本当に見つめるべきこと、主イエスが彼らに聞かせようとしておられたみ言葉とは何でしょうか。主イエスは18節の終わりで、「覚えていないのか」と言っておられます。つまり、あなたがたは既に見聞きして知っているはずのことを忘れてしまっている、と言っておられるのです。その忘れてしまっていることを思い出させるために、主イエスは19、20節で彼らに問いかけておられます。「『わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』『七つです』」。つまり主イエスは弟子たちに、五千人の給食と四千人の給食の出来事を思い出させておられるのです。これらの出来事は彼らに何を示し、教えたのでしょうか。それは先程申しましたように、主イエス・キリストがご自分のもとに神の民イスラエルを新しく呼び集めて下さり、その民に必要な糧を与えて養って下さるということであり、その恵みがユダヤ人のみに留まるのでなく、異邦人にも、世界の全ての民にも及んでいく、ということです。弟子たちは主イエスにおいて実現している神様のそういう大きな恵みをその目で見、体験してきたはずなのです。それなのに彼らは今、自分たちのささやかな失敗のことで頭が一杯になり、主イエスがそれを怒っておられるに違いないと思い込み、そのためにお互いを責め合っていたのかもしれません。示されたはずの神様の大きな恵みを見失っているのです。しかし主イエスは、そんなことで腹を立てたり人を裁いたりなさる方ではありません。五千人の給食、四千人の給食の出来事が示しているように、主イエスは空腹な私たちを恵みによって養って下さる方であり、その恵みを、それに相応しくないと思われている者にまで広げ、及ぼして下さる方なのです。主イエスにおいて実現している神様のこの大いなる恵みこそ、本当に見つめるべきこと、主イエスが彼らに聞かせようとしておられるみ言葉が語っていることなのです。本当に目が見えるというのは、この神様の恵みを見つめることであり、本当に耳が聞こえるとは、この恵みを告げるみ言葉を聞いていることなのです。

 ファリサイ派とヘロデのパン種  
 ここで、主イエスが「よく気をつけなさい」と戒められた「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」のことを考えたいと思います。パン種とはいわゆるイースト菌のことであり、ごく少量だがパン生地全体を発酵させ、ふくらませるものです。それ自体はごく小さいが全体に影響を及ぼす、特に悪い影響を及ぼすもののことを言うときによくこのたとえが用いられます。ではファリサイ派のパン種とはどのような影響を及ぼすものなのか。そのことが11?13節に出てくるファリサイ派の人々の姿によって示されています。彼らは主イエスのところに来て、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」のです。「天からのしるしを求める」とは、主イエスの働きが天からの、つまり神様からのものであることの証拠を求めたということです。具体的には、我々をあっと言わせるような奇跡をして見せろ、そうしたら神から遣わされた者と認めてやる、ということです。つまり彼らは、主イエスが神からの者であるかどうかを自分たちで判定しようとしているのです。「イエスを試そうとして」という言葉にそれが現れています。試す、つまりテストしようとしているのです。主イエスをテストして、合格か不合格を決めようというのです。そこに彼らのとんでもない傲慢があります。神様のことを人間がテストして合格か不合格を決めるなど、とんでもない思い上がりです。しかしこれも考えてみると、私たちがいつもしていることではないでしょうか。私たちは神様のことを、主イエスのことを、いつもテストしているのではないでしょうか。神様の恵みが自分の思いや願いに適った仕方で与えられていれば信じ続ける、それは神様が自分にとって合格点を取っている、ということです。しかしその恵みが自分の期待や願いとは違ったものになると、こんなはずではなかった、こんなことなら神を信じていても仕方がない、そもそも神なんていなかったのだ、と思ってしまう。つまり神様に「不合格」と宣言するのです。主イエスを試すとはまさにそういうことです。そのような思いを生むのがファリサイ派のパン種です。ですから私たち自身がしばしば、ファリサイ派のパン種で膨らんだパンになってしまっているのです。  
 ヘロデのパン種とはどういうものでしょうか。ヘロデは当時のガリラヤの領主であり、政治的な権力者です。しかしそのヘロデも、ローマ帝国に認めてもらうことによってのみ自分の権力を維持することができたのです。ヘロデのパン種とは、政治的な権力を握ろうとして、そのためにより上位の権力に媚びへつらい、その言いなりになっていくような生き方のことだと言えるでしょう。この二つのパン種には共通していることがあります。それはどちらも、主なる神様の恵みや慈しみを見つめておらず、そこに信頼を置いていないということです。ファリサイ派のパン種は神様をテストしようとする思いを生む、と申しましたが、ファリサイ派は、神様が自分に対して恵み深くあられることを信じていないのです。だからその恵みをテストして確かめようとするのです。神様が恵み深い方であられることを知らないから、律法を守って立派な生活をしなければ救われないと思っているのです。また権力に取り入って自分も権力を握ろうとする生き方は、この世の権力を超えた本当の力、神様のご支配を知らないところに生まれるのです。だから地上の権力に依り頼み、それを恐れて生きることになるのです。つまりこの二つのパン種に共通しているのは、主イエスによってなされた五千人の給食、四千人の給食の奇跡において示されている神様の大いなる恵みのみ心という、本当に見つめるべきことを見つめておらず、そのことを告げるみ言葉を聞いていないということなのです。

 恵みを覚えて生きる  
 しかし主なる神様は私たちのために、五千人の給食、四千人の給食の奇跡を超える、み子イエス・キリストの十字架の死と復活という恵みの出来事を実現して下さいました。ご自分の独り子を私たちの救い主として遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がその主イエスを復活させて下さったことによって、私たちは今や罪を赦され、神の子とされて新しく生きることができるのです。神様のみ言葉によってこの恵みのみ業を示されることによって、私たちはファリサイ派のパン種からもヘロデのパン種からも解放されます。神様が、罪人である私たちをも愛して下さり、新しい神の民として呼び集めて下さり、必要なものを与えて養って下さる、その恵みに信頼して生きる者とされるのです。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と主イエスはおっしゃいました。彼らが求めているような、主イエスをテストするためのしるしは決して与えられません。しかしその代わりに私たちは、神様のみ言葉を与えられており、私たちのために十字架の苦しみと死を背負い、そして復活して今も生きておられる主イエス・キリストを示されています。み言葉によって与えられる主イエスとの出会いと交わりによって、私たちは主の恵みを覚えて生きることができるのです。

関連記事

TOP