主日礼拝

耳を開いて下さる主イエス

「耳を開いて下さる主イエス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第35章1-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章31-37節  
・ 讃美歌:11、169、512

旅の経路の不思議
 本日はマルコによる福音書第7章31節以下からみ言葉に聞くのですが、最初の31節に「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。先週読んだ24節以下のところに、主イエスがティルスの地方へ行かれたことが語られていました。31節はそのティルスの地方を去った後の主イエスの歩んだ道を示しています。先週も、聖書の後ろの付録の中の「新約時代のパレスチナ」という地図を見ていただきましたが、ティルスというのは、地中海の沿岸をずっと北へ上って行った所です。そこを去った主イエスは、「シドンを経て」とあります。シドンはティルスよりさらに北の、この地図の一番上のところにあります。ですからティルスからさらに北に行かれたのです。このシドンを経て「デカポリス地方を通り抜け」とあります。デカポリス地方というのは、ガリラヤ湖の南東に広がる地域です。「シドンを経てデカポリス地方を通り抜き」というのは地図の上でつながりません。そして最後は「ガリラヤ湖へやって来られた」となっています。この31節の記述は、ティルスからガリラヤ湖への経路としてはまことに不自然です。聖書の注解書を書いている学者たちの中には、著者マルコはパレスチナの地理をよく知らなかったのでこんなおかしな書き方をしたのだ、と語っている人もいます。しかし説教者たちの中には、このような経路に意味があると考えている人もいます。先週のティルスも、そしてシドンもデカポリスも、みんなユダヤ人の地ではなくて異邦人の地、外国です。主イエスはティルスの地方、シドン、デカポリスと外国をぐるっと回ってガリラヤ湖へと帰って来られたのです。この旅は伝道のためではありません。これらの地で福音を宣べ伝えたとは語られていないのです。24節に「だれにも知られたくないと思っておられたが」とあったように、この旅はむしろ、ユダヤ人たちに妨げられることなく、弟子たちとの交わりを深めるためだったのではないか、ということを先週も申しました。主イエスはこの旅において弟子たちと親しく語り合い、その中で彼らに大事なことを教えようとしておられたのではないでしょうか。大事なことというのは、主イエスがこれから苦しみを受け、十字架につけられて殺される、そのことを通して、父なる神様による救いのみ業が実現していくのだ、ということです。福音書の記事において主イエスがご自分の逮捕と死を予告なさったのは8章31節以下ですが、この旅において弟子たちとの交わりを深めることの中で、そのための準備がなされていったのではないでしょうか。この旅の経路にはそういう意味が込められていると考えることができるのです。
デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖へ来られた主イエスのもとに、人々は「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れて来ました。このことは、5章1?20節に語られていた、主イエスがガリラヤ湖を渡って行ったゲラサ人の地方で、悪霊に取り付かれて正常な生活ができなくなり、自分の身を傷つけながら墓場に住んでいた人を癒した、という出来事と関係があるかもしれません。ゲラサ人の地方というのはまさにデカポリス地方のことです。あの時癒された人は、5章20節にあるように、主イエスが自分にして下さったことをことごとく、デカポリス地方の人々に言い広めた、つまり主イエスのことを伝道して回ったのです。彼の伝道によって主イエスのことを聞いていた人々が、主イエスが再びデカポリス地方を通っていかれるのを伝え聞いて、この耳が聞こえず舌の回らない人を連れて主イエスの後を追い、ガリラヤ湖までやって来たのかもしれません。そのように考えると、31節の旅の経路はやはり意味あるものとなるのです。

朝飯前ではない癒し  
さて本日の箇所は、「耳が聞こえず舌の回らない人」が主イエスによって癒されたという話ですが、「舌の回らない」という言葉は、もともとは「言葉に困難がある」という意味です。彼が癒されたことを語っている35節にも「舌のもつれが解け」とありますから、この人ははっきりと分かるように言葉をしゃべることが出来なかったのでしょう。それは耳が聞こえなかったからです。耳が聞こえないと、たとえ声を出す機能には問題がなくても、しゃべることができないのです。つまり人間は、聞くことができなければしゃべることもできないのです。そういう人が主イエスのもとに連れて来られました。人々は、その人の上に手を置いてくださるようにと願ったのです。主イエスが手を置いて下されば彼の障碍は治ると思ったからです。主イエスはこれまでに、様々な病気や障碍を、その人に触れるだけで、あるいは全く触れることもなしに言葉だけで癒して来られました。死んでしまった娘をさえ復活させたぐらいですから、耳の聞こえないこの人を聞こえるようにするぐらい朝飯前のことのようにも思えます。しかし主イエスの癒しの業はそんなに簡単にはなされませんでした。主イエスは先ず、「この人だけを群衆の中から連れ出し」たとあります。彼を群衆のいない所に連れ出したのです。ここには、主イエスの奇跡は、多くの人々をあっと驚かせて、自分の力や権威を示すためになされるのではない、ということが示されています。主イエスはむしろご自分のなさる奇跡をできるだけ人々の目から隠そうとしておられるのです。それは、癒しの業を、癒される人との一対一の関係の中でなさろうとしておられるということです。主イエスとの真実の出会いの中でこそ癒しは行われるのであって、それなしに病気や障碍のみが癒されてもあまり意味はないのです。この人を群衆の中から連れ出したことにはそういうみ心が見えてきます。そしてその後行われた癒しの業からは、もう一つのことが見えてくるように思います。それは、主イエスにとっても、この人を癒すことは大変なことであり、相当の集中を必要とすることだった、ということです。主イエスは「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」と33、34節にあります。主が癒しのみ業においてこのようにいろいろな動作をなさったのは珍しいことです。それは、この癒しの業の困難さを描いており、これが決して朝飯前の簡単なことではなかったことを示していると言えるでしょう。主が彼を群衆の中から連れ出したのは、そういう困難な癒しの業に集中するためでもあったのです。

執り成しの祈りへの集中  
 主イエスがここで集中しておられることは何でしょうか。この難しい障碍を取り除くための複雑な呪文を正確に唱えるために集中しておられたのでしょうか。そうではありません。ここに「天を仰いで」とあります。それと同じ言葉は6章41節にもありました。そこには主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹ささせた奇跡が語られていますが、41節に「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」とあります。「天を仰ぐ」は祈りの姿勢です。つまり主イエスは本日の箇所でも、祈りに集中しておられるのです。この癒しの業は、他のみ業も皆そうですが、主イエスの魔術的な力によってなされるのではありません。主イエスと父なる神様との、祈りにおける密接な交わりの中でこそ行われるのです。主イエスはここで父なる神様との祈りに集中するために、天を仰いだのです。そして「深く息をつき」ともあります。この言葉は聖書の他の箇所では「うめく」とか「苦しみもだえる」と訳されています。ローマの信徒への手紙第8章22、23節にこうあります。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。被造物がうめいており、私たちも心の中でうめきながら待ち望んでいる、その「うめく」がこの「深く息をつく」と同じ言葉なのです。またコリントの信徒への手紙二の5章2節には、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」とあります。この「苦しみもだえています」も「深く息をつく」と同じ言葉です。その先の4節にも「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが」とあります。つまりこの「深く息をつく、苦しみもだえる、うめく」は、罪と死の力に支配されている現実の中で、心の内でうめき苦しみつつ、そこからの救い、解放を待ち望んでいる、という様子を表す言葉なのです。主イエスは天を仰いで祈り、そのようなうめきの声を、耳が聞こえず舌の回らないこの人と共に、この人に代って、父なる神様に向かってあげて下さったのです。そのことは先ほどのローマの信徒への手紙8章の続きの26節で、神の霊、聖霊が、どう祈ったらよいのか分からない私たちのために、言葉に表せない「うめき」をもって執り成して下さる、と語られていることを思い起こさせます。主イエスは、苦しみの中にある者のうめきをご自分の身に引き受け、それをご自分の祈りにおいて父なる神様に執り成して下さるのです。このような主イエスの執り成しの祈りへの集中の中で、癒しのみ業が行われていくのです。

耳を塞がれている私たち  
 この人の苦しみは、耳が聞こえず、そのために口が利けないことでした。それは、罪の力に捕えられ、支配されていることによる苦しみを象徴的に表していると言うことができます。罪の力が彼の耳を塞ぎ、聞こえなくしているのです。そのために口を利くこともできないのです。主イエスはご自分の指を彼の両耳に差し入れました。「耳の穴をかっぽじって」と言いますが、まさに主イエスは彼の耳の穴をほじって、塞がれている耳を開通させようとしておられるのです。主は祈りにおいてうめきつつ、彼の耳を塞いでいる罪の力と戦い、彼を「聞く」ことのできる者としようとしておられるのです。  
 罪の力によって耳を塞がれてしまっているのはこの人だけでしょうか。私たちの耳は開いているでしょうか。聞くべき言葉を聞くことが出来ているでしょうか。罪によって耳を塞がれ、主イエス・キリストを通して神様が語って下さっている恵みのみ言葉、私たちを本当に生かす命の言葉を聞くことができなくなっているのではないでしょうか。本当に聞くべき恵みの言葉、命の言葉を聞くことができていないために、私たちの語る言葉も、はっきりしないものとなっているのではないでしょうか。聞くことができなければしゃべることもできないのです。本当に私たちを生かす言葉を聞くことができなければ、人を生かす言葉を語ることはできないのです。私たちは実にしばしば、言葉によって人を傷付けてしまい、また自分も傷付いてしまいます。言葉は、神様が私たちに与えて下さったすばらしい賜物であり、それによって私たちは互いに交わりを持ち、人を愛し、慰め、支え合って生きることができるのですが、ところがそのはずなのに、私たちの語る言葉には毒が盛られていて、むしろ人を傷付け、殺す凶器になってしまうということを私たちは体験しています。どうしてそういうことが起るのか。それは、私たちの心に憎しみや嫉妬や意地悪な思いがあるからですが、そういう思いが私たちの心にあるのは、私たちが本当に良い言葉、自分を生かす言葉、自分と共に人をも生かす神様の恵みのみ言葉を本当に聞くことができていないからです。そしてその恵みのみ言葉を聞くことができないのは、私たちがみ言葉に耳を塞いでしまっているからです。神様のみ言葉は、私たちを真実に生かす命の言葉、恵みの言葉ですが、しかし同時にそれは私たちの罪を指摘し、悔い改めを求める言葉でもあります。神様のみ言葉によって私たちは自分の罪を示され、悔い改めることを、つまり神様の方に方向転換して赦しを願うことを求められるのです。この福音書の1書15節に語られていたように、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃって伝道をお始めになりました。悔い改めて主イエスによる救いを信じることによってこそ、神様のみ言葉は私たちを真実に生かす命の言葉となるのです。つまり神様のみ言葉は私たちを心地よく甘やかす言葉ではありません。むしろ耳障りな、私たちの心を鋭く刺し貫く言葉なのです。だから私たちは、それに耳を塞ごうとします。耳に心地よい、自分の思いにフィットする、要するに自分が変わらなくてもよいような言葉だけを聞こうとします。それこそが、罪によって耳を塞がれているということです。自分にとって心地よい言葉だけを聞こうとしている耳は塞がれており、本当に聞くべきことを聞くことができず、それゆえに本当に語るべきことを語ることもできないのです。この人の姿は、罪に捕えられてみ言葉に耳を塞ぎ、それゆえに語るべき言葉を語ることができなくなっている私たちの姿を象徴していると言えるでしょう。  
 主イエスは私たちの塞がれた耳を開くために、うめきをもって執り成して下さり、「エッファタ」と語りかけて下さいます。それは「開け」という意味であると書かれています。しかしもっと正確にその意味を捉えるなら、「開かれてあれ、解放されてあれ」ということなのです。それは、単に耳が開かれて聞こえるようになれというだけのことではなくて、私たちの耳を塞いでいる罪の力、神様のみ言葉に耳を閉ざし、自分に心地よい言葉しか聞こうとしない私たちの思いが打ち砕かれ、み言葉に対して開かれた者となる、耳を塞いでいる罪の力から解放される、ということです。主イエスは「エッファタ」という言葉によってそのことを告げ、実現して下さるのです。主イエスのこのお言葉によってこの人は「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」のです。

主イエスこそメシア  
 主イエスのこの癒しのみ業は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章の預言の成就です。ここには、神様から救い主、メシアによる救いが実現する時に起ることが語られています。その5、6節に「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」とあります。この中の、「聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」ということがまさにここで実現したのです。つまり主イエス・キリストこそ、イザヤが預言した救い主メシアであることが、本日のこの出来事によって示されているのです。この35章5節には「聞こえない人の耳が開く」ことと並んで、「見えない人の目が開き」ということが語られています。それに当る主イエスのみ業は、マルコ福音書の8章22節以下に語られています。本日の箇所と8章22節以下とはいろいろな点で共通しています。どちらにおいても主イエスは癒される人を外に連れ出しておられますし、どちらの癒しでも「唾」が用いられています。そしてこの二つの話はマルコ福音書にのみ語られているのです。つまりこの二つの話は対になっています。そして対になっていると言えば、先ほど触れた6章30節以下の五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させた話と、この後の8章1節以下の七つのパンで四千人を満腹させた話も対になっています。そのように見ていくと、6章30節以下の五千人を満腹にした話から始まる部分の最後に本日の耳の聞こえない人の癒しの話があり、8章1節以下の四千人を満腹にした話から始まる部分の最後に8章22節以下の目の見えない人の癒しの話がある、という構造が見えてきます。つまり6章30節から本日の箇所、7章の終わりまでの部分と、8章1節から30節までの部分が対になっているのです。そう思って読むと、7章1節以下でファリサイ派の人々が来て主イエスを批判した話と、8章11節以下でファリサイ派の人々が議論をしかけた話も対になっていると言うことができます。このように似たような話が並べられている二つの部分が対になっており、それぞれの部分の最後に、耳の聞こえない人の癒しと目の見えない人の癒しの話、つまりイザヤ書35章の預言の成就が語られているのです。つまりこの対になった二つの部分の共通の結論が、主イエスこそイザヤが預言した救い主、メシアである、ということなのです。そのことは、これら二つの部分それぞれの最後に、主イエスに対する信仰の告白が語られていることからも分かります。第一の部分においては、本日の箇所の37節に、この癒しを見た人々が驚いて語った言葉があります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。この言葉は主イエスによる癒しのみ業の素晴らしさをほめたたえ、まさにイザヤの預言の実現だと語っているわけです。この素朴な告白の言葉は、第二の部分の最後では、8章27節以下のあのペトロの「あなたは、メシアです」という告白へと深まっていくのです。

十字架の苦しみと死とによって  
 いささか複雑なことを申しましたが、要するに本日の箇所と8章29節のペトロの「あなたは、メシアです」という信仰告白は密接に結びついているのだということです。そしてこのペトロの告白の後の8章31節以下に、先程も触れたあの主イエスの受難予告がなされていくのです。6章30節以下と8章1節以下という対になった部分の結論として、主イエスこそ見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開いて下さる、イザヤの預言した救い主であることが示され、それを受けて「あなたこそメシアです」という信仰の告白がなされます。その告白がなされたところで、主イエスがこれから十字架にかかって苦しみと死とを受けて下さることによって、そのメシア、救い主としてのお働きを実現して下さることが明確に語られ始める、マルコ福音書はそういうストーリーを展開しているのです。

耳を開かれ、良い言葉を語る者へと   
 このストーリーによってマルコ福音書が語ろうとしているのは、神様の独り子であられる主イエスが、罪人である私たちのためにこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受け、それによって罪を赦し、私たちの救い主、メシアとしてのみ業を成し遂げて下さった、ということです。このことこそ、聖書が私たちに告げている神様の恵みのみ言葉です。私たちは、このみ言葉を自分に語りかけられている神様のみ言葉として聞き取る耳を開かれていきたいのです。自分に心地よい言葉、つまり罪を指摘することなく、悔い改めを求めることもない、単なる人生訓のような言葉だけを聞こうとしている私たちの耳は塞がれてしまっています。本当に聞くべき言葉を聞くことができていないのです。そのために私たちは、本当に語るべき良い言葉を語ることができず、毒に満ちた言葉ばかりを語ってしまうのです。そのように、耳が聞こえず、それゆえに話すこともできないでいる私たちですが、主イエスが耳を開いて下さり、主イエスの十字架の苦しみと死とによって神様が私たちの罪を赦して下さったことを告げるみ言葉を私たちの心に響かせて下さるなら、また聖霊が今もうめきをもって私たちと神様との間を執り成して下さっている、そのうめきを聞き取る耳を開いて下さるなら、私たちも、本当に語るべき言葉を語ることができるようになります。それは、主イエスの救いの恵みのすばらしさをほめたたえ、主イエスこそまことの神であり私の救い主ですと信仰を告白し、神様の救いの恵みに感謝し、それを喜ぶ言葉です。そのような言葉を語っていく時にこそ、私たちの言葉は他の人をも生かすことができる本当に良い言葉となっていくのです。

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