主日礼拝

権威ある者

「権威ある者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第119編105節―112節
・ 新約聖書: マルコによる福音書第1章21-28節
・ 讃美歌:8、136、447

一行はカファルナウムに着いた
 本日ご一緒に読むマルコによる福音書第1章21節以下の冒頭に「一行はカファルナウムに着いた」とあります。「一行」とは、主イエスと弟子たちの一行です。先週読んだ20節までのところに、四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子となったことが語られていました。彼らはガリラヤ湖の漁師でしたが、主イエスの呼びかけによってすぐに、網や舟や、また父親までもそこに残して、主イエスに従って行ったのです。こうして主イエスの「一行」が生まれたのです。
 彼らがカファルナウムに着いた、とあります。カファルナウムはガリラヤ湖の北の岸辺の町で、主イエスの最初の弟子となったシモンとアンデレの家がそこにありました。主イエスの一行はその家に滞在したのです。29節がそのことを語っています。カファルナウムのこの家が、主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点となりました。しかし主イエスはこの家に人々を集めてそこで伝道をしようとしたのではありません。「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあります。安息日に会堂で教えることによって伝道が開始されたのです。

そしてすぐに
 ところで、ここの原文には「そしてすぐに」という言葉があります。以前の口語訳聖書では「そして安息日にすぐ」とそれが訳に現されていました。この「すぐに」という言葉は、前にも申しましたが、マルコが頻繁に使う、特徴的な言葉です。マルコは「すぐに」「すぐに」と話の先を急いでいるのです。ここでは、カファルナウムに入ってすぐの安息日に、ということになります。四人の漁師を弟子として連れてカファルナウムに入り、いろいろ準備をして体制を整えてからというのではなくて、すぐに伝道を始めたのです。それは、時が既に満ち、神の国が近づいているからです。主イエスがカファルナウムの会堂でお語りになったことは何だったかをマルコは述べていません。しかしそれは既に15節に語られていたのです。主イエスがガリラヤで神の福音を宣べ伝えてお語りになったのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。カファルナウムの会堂でもそのことをお語りになったに違いありません。主イエスは、「時はもう満ちている、神の国は近づいている」と語ったのです。だから、ぐずぐずしていてはならない、のんびり構えている時間はないのです。満ちている時に相応しく行動しなければなりません。神の国、つまり神様のご支配をちゃんと受け止めて、それに応答しなければなりません。それが、「悔い改めて福音を信じる」ことです。そのことを一刻も早く人々に伝えようとしておられる主イエスのお姿が、この「すぐに」という言葉によって描き出されているのです。

安息日に会堂で
 けれども、だからカファルナウムに着いたその日からシモンの家の前で人々に語り始めた、というのではありませんでした。「すぐに」と同時に示されているのは、「安息日に会堂で」ということです。会堂というのは、「シナゴーグ」という言葉で、ユダヤ人たちが集会をする場所が今日もそう呼ばれています。それはもともとは場所を意味する言葉ではなく、「集まり」という意味でした。ユダヤ人たちは、安息日にはどこかに集まって、聖書を共に学んでいました。その聖書は私たちで言えば旧約聖書であり、中でも特に「律法」と呼ばれる部分ですが、それについての教えを律法学者たちから聞くという形の集会をしていたのです。エルサレムの神殿が破壊され失われてからは、このシナゴーグにおいて律法を学ぶ集会がユダヤ人たちにとって唯一の、主なる神様を礼拝する場となりました。そのようにしてシナゴーグはユダヤ教の会堂となったのです。ユダヤ人たちが神殿を失い、また故郷から追放されて世界の各地に散らされていっても、なお自分たちの信仰と伝統を守り続けることができたのは、この会堂における安息日の礼拝が行われていたおかげなのです。またこの安息日に会堂で行われていたユダヤ人たちの礼拝が、キリスト教会の日曜日の礼拝の起源ともなったのです。主イエスはこの安息日の会堂における礼拝に出席して、そこで教えを語られたのです。それは、そこなら沢山の人が集まるから多くの人に伝えるのに便利だ、ということではなくて、主イエスの教えは、イスラエルの民の礼拝において語られるべき主なる神様のみ言葉だ、ということです。普段の日に街角に立って語ったとしたらそれは、イエスという個人の思想を語っているに過ぎず、人間の教えでしかありません。安息日に会堂で、礼拝の中で語られることによってこそ、それは神の言葉、神からの教えとして語られ、また聞かれるのです。

権威ある者として
 このようにしてカファルナウムの人々は、安息日に会堂で語られた主イエスの教えを聞きました。22節には、「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。主イエスの教えを聞いた人々はびっくりしたのです。それまでこんな教えは聞いたことがない、と思ったのです。それは主イエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。それはどういうことなのでしょうか。律法学者たちはどのような教えを語っていたのでしょうか。彼らは文字通り律法の学者です。律法について詳しく学び、専門的な知識を持っています。その知識を土台として人々に、律法を守って生きるためにこのように生活しなさい、と教えていたのです。律法には様々な細かい規定がありますから、日々の生活の中で、このことは律法ではどう教えられていただろうか、と迷うことが出てきます。そのような時に、律法はこう教えているからこうしなさい、と教えてくれるのが律法学者です。また時代の移り変わりの中で、昔はなかった問題が生じてきて、律法にはその問題に直接的にはあてはまる掟が見当たらないようなことも起ります。そのような時に、その問題にはこの律法をこのように解釈して応用すればよい、というふうに律法の解釈と応用を教えてくれるのも律法学者です。つまり律法学者の教えは常に律法の条文を前提としており、それをどう解釈し、応用するか、という教えなのです。その解釈や応用が広く人々を納得させ、なるほどと思わせるものであれば、権威ある優れた学者、ということになります。ユダヤ人たちはそのような律法学者たちの教えをいつも聞いていました。それと比較すると、主イエスの教えは型破れだったのです。律法学者たちは決して言わないようなことを主イエスは教えたのです。その主イエスのことを彼らは「権威ある者として教えている」と感じました。それは律法学者たちの教えに権威がない、ということではありません。今申しましたように、律法にしっかり根ざし、その正しい解釈が語られているなら、彼らの教えも権威あるものとなるのです。しかしその権威は彼ら自身の権威ではありません。律法の権威、神様のみ言葉の権威なのです。それを解釈し応用することによって彼らの教えも権威あるものとなります。逆に言えば、律法の条文の裏付けなしに何かを語ったとしたら、その教えには何の権威もないのです。それに対して主イエスが「権威ある者として教えている」というのは、ご自身が権威を持っておられる方として教えている、ということです。つまり主イエスの教えは、律法にこう教えられているから、聖書のどこにこう語られているから、という根拠を必要としていないのです。先ほどの15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」はまさにそういう教えです。これは律法の解釈ではありません。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言しておられるのです。そしてその宣言に基づいて、「悔い改めて福音を信じなさい」という勧めを語っているのです。この勧めは、律法にこういう掟がある、聖書にこう書いてある、だからこうしなさい、という教えではありません。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた」という、神様の救いのみ業における新しい事態をもたらした本人として、その新しい事態に即した新しい生き方を人々に求めたのです。つまり一言で言えば、神の独り子としての権威を持っている方としてお語りになったのです。そのことが、人々を驚かせた、こんな教えはこれまで聞いたことがない、と思わせたのです。

信仰は驚きから
 この驚きこそ、信仰の始まりです。信仰は、神様のみ言葉に驚くことから始まるのです。律法学者のような教えからは驚きは生まれません。彼らは、聖書の言葉を、律法を、解釈し、その応用を教えています。こういう時にはこうしなさい、ああいう問題についてはこのように考えなさい、という勧めを語っています。それは具体的で分かりやすい話かもしれません。聞いてすぐにそれを実行していけるような、少なくとも努力していけるような教え、つまり倫理的、道徳的な教えです。しかしそこには驚きはありません。倫理、道徳の教えというのは、基本的に私たちが既に知っていることです。だからすぐに「そうだな」と思えるのです。そこにはびっくりすることは語られません。驚く、びっくりするというのは、それまで全く知らなかった、聞いたことのなかった、人間の常識にない、つまり倫理道徳の教えには出て来ないようなことが示されるということです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの教えはまさにそのようなものでした。「時は満ちた、神の国は近づいた」というのは、自分が既に知っていること、分かっていること、理解していることを超えた新しいことが、今や神様によって引き起こされようとしている、ということです。だからびっくりなのです。「ああそうね、よく分かる」と言えるような話ではないのです。そして「悔い改めて福音を信じなさい」。これは、聞く者に悔い改めを迫る言葉です。悔い改め、つまりそれまで歩んで来た道の方向転換を求めているのです。神様から顔を背けて、他の方向を見つめて歩んでいる者が、神様の方へと向き変わり、神様に従って歩む者となる、そういう決断を求めているのです。それは同時に「福音を信じなさい」という勧めでもあります。福音とは、神様による救いを告げる良い知らせです。それを信じる、つまり神様による救いの恵みを受け入れ、それにあずかることへと招いているのです。悔い改めるとは、自分で反省して悪い所を良くすることではなくて、福音を信じて神様の救いにあずかることです。聞く者にそういう決断を求め、またそこへと招くみ言葉を主イエスは語ったのです。それは「分かる」とか「分からない」という話ではなくて、あなたはどうするのか、悔い改めて福音を信じるのか、それともそれを拒み、あくまでも自分の思いによって生きていくのか、という決断を求めているのです。「権威ある者として」というのはそういうことです。つまりそれは、「ああなかなかいい教えだね、堂々としているね」というようなことではなくて、人の心に波風を立て、あなたは今のままでよいのか、変わらなければならないのではないか、という問いの前に立たせ、そして、あなたは変わることができる、新しくなることができる、という招きを告げるのです。律法学者たちの、倫理道徳の教えにはそういう権威はありません。主イエスの教えのみが持つこの権威に驚くことから、倫理、道徳とは違う、信仰が始まるのです。

汚れた霊に取りつかれた男の叫び
 しかし、この驚きは信仰の始まりとなると同時に、つまずきの始まり、敵対への始まりともなります。主イエスがカファルナウムの会堂で教えを語られた、この安息日の礼拝において、直ちにそれがあらわになりました。そのことが23節以下に語られています。23節の冒頭に「そのとき」とありますが、これは例の「そしてすぐに」という、21節にもあった言葉です。主イエスが権威ある者としてお語りになり、人々が驚いた、しかしすぐに、それと同時に、一人の男が叫び出したのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。これはこの会堂にいた、汚れた霊に取りつかれた男の叫びです。彼は「かまわないでくれ」と叫びました。口語訳聖書ではここは「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」となっていました。緊迫感のない訳ですが、こちらの方が原文に忠実です。「お前は我々と何の関係もないだろう」ということです。係わりになりたくない、というのです。ですから「かまわないでくれ」というこの訳は意訳ですが適切です。かまって欲しくない、ほっといてくれ、と彼は語っているのです。主イエスが、権威ある者としてお語りになる時、驚きと共にこういう反応が生じます。あなたはこのままでよいのか、と問われ、悔い改めを求められ、それを通して救いへの招きが語られる時、「かまわないでくれ、ほっといてくれ」という思いが、つまり主イエスの権威ある言葉に反発し、敵対する思いが、私たちの中にも生じるのです。

悪霊との戦い
 ところで彼は、口語訳に示されているように「我々と」と言っています。新共同訳においても「我々を滅ぼしに来たのか」となっています。どうして「我々」という複数で語るのでしょうか。それは、これがこの人自身の言葉と言うよりも、彼に取りついている汚れた霊、悪霊の言葉だからです。だから、主イエスは25節で「黙れ、この人から出て行け」と、この人をではなくて、彼に取りついている悪霊をお叱りになったのです。この人に取りついている複数の悪霊たちと主イエスとの戦いがここでなされているのです。
 悪霊は、人間に取りつき、様々な病気、特に心の病を引き起こすものと考えられていました。病気になると、普段とは人が変わったように、別人のようになってしまうという体験から、肉体が悪霊に乗っ取られて、悪霊の言葉を語るようになっているのだ、と考えられたのでしょう。また複数の悪霊が取りついているというのは、心がいくつにも分裂してしまっており、統合が失われている、という状態でしょう。今日は医学が進んで、心の病をそのように悪霊の仕業と考えることはなくなりました。病気の人を、悪霊の手先のように排斥するのでなく、適切な治療をするようになったのはとてもよいことです。心の病に対する対処という点においてはそうであるわけですが、しかしだからといってこの悪霊を昔の人の無知の産物として否定してしまうことは軽卒です。私たちの心を支配し、主イエスに対して、「かまわないでくれ、ほっといてくれ」と敵意をもって叫ぶように仕向ける悪霊は、病気とは関係なく、今も、私たちの間で力を奮っています。その悪霊に取りつかれる時、私たちは、主イエスを信じ従うことができなくなるだけではなくて、要するに神様のみ心よりも自分の思い、考え、願いを第一とするようになり、それに反対し、妨げる者を敵と見なして対立するようになるのです。つまり悪霊がもたらす主イエスに対する敵意は、隣人に対する敵意をも生み、人間どうしがお互いに傷付け合う悲惨な対立がそこに生じていくのです。個人の人間関係においてもそれが起るし、さらには国民全体が、あるいは民族のレベルでそういう敵意に捉えられてしまうことも起ります。国と国との戦争や、民族対立が生じ、そこにおいてむごたらしい虐殺や迫害が行われていくのです。一人一人はおとなしい善良な人間が、そのような敵意に捕えられると、残虐な悪魔になってしまうことがある、そういうことは日本人においても起りました。悪霊にとりつかれてしまったような時期があったわけです。いや、今はそうではないと言えるでしょうか。私たちは、悪霊の力や働きを決してあなどってはなりません。科学が進歩すればそういうものは消えてなくなる、などということは全くないのです。むしろ今この社会において、悪霊がどのような力を奮っており、それに取りつかれることによって何が起っているのかをしっかり見極めていく必要があるのです。

悪霊から解放して下さる主イエス
 主イエスはこの悪霊と対決し、悪霊を叱りとばし、「この人から出て行け」とお命じになったのです。すると悪霊は出て行きました。つまり主イエスは悪霊に勝利し、それに取りつかれている人をその支配から解放して下さったのです。主イエスのこの戦いは、悪霊に取りつかれた人を敵として、その人を滅ぼすための戦いではなくて、その人に取りついている悪霊を滅ぼすための、悪霊との戦いです。主イエスの権威ある教えはそのために語られたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、神様が悪霊の力を打ち破って下さり、神様のご支配を確立なさる時がいよいよ来た、ということです。悪霊の支配はもう終わるのだ、ということです。そして「悔い改めて福音を信じなさい」という勧めは、神様のご支配による救いが実現しようとしているのだから、その神様の方に全身を向けて、そのご支配を受け入れ、救いにあずかりなさい、という招きです。この招きに応えることによって私たちは、私たちを神様に敵対させ、隣人に対しても敵意を抱かせている悪霊の支配から解放され、神様に従って新しく生きる者とされるのです。神様は、悪霊に支配されている私たちを裁いて滅ぼそうとしておられるのではなくて、悪霊を滅ぼして私たちを解放し、救いにあずからせようとしておられるのです。主イエスの権威ある教えを私たちはそのように聞かなければなりません。つまり主イエスは私たちに対する裁きを告げておられるのではなくて、神様による救いを、福音を告げておられるのです。しかしそれに対してもし私たちが、「かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか」と思ってしまうとしたら、それは私たちが悪霊に取りつかれてしまっているのです。悪霊の言葉を自分の言葉と勘違いしているのです。だから、悪霊から解放しようとしておられる主イエスが、自分を滅ぼしに来た敵に見えてしまうのです。

権威ある新しい教え
 主イエスの悪霊との戦いは、ここで終わったのではありません。それは主イエスの十字架の死にまで至る戦いでした。神様の独り子、ご自身がまことの神であられる主イエスが、人間となってこの世を歩んで下さり、悪霊に支配され、神様に敵対する罪に陥っている私たちのために戦って下さり、その戦いにおいて私たちの全ての罪を背負い引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によってこそ、私たちを支配している悪霊は滅ぼされ、私たちの解放が、即ち罪の赦しが実現したのです。主イエスの神の子としての権威は、つまり神様の恵みの勝利は、この十字架の死において、そして父なる神様がその主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことにおいて、あらわになりました。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちを罪の支配から解放し、神の子として生きる新しい命を与えて下さった、この出来事によってこそ、主イエスの神の独り子としての権威が示されています。この主イエスのご生涯の全体を驚きをもって見つめることから私たちの信仰は始まります。そこには、私たちの知らなかった、倫理道徳の教えによっては決して得られない、私たちを悔い改めさせ、神様の救いの恵みにあずからせる「権威ある新しい教え」があるのです。

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