夕礼拝

喜び踊って食べて祝う

「喜び踊って食べて祝う」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:箴言第8章1-36節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第11章16-19節
・ 讃美歌:220、271、81

 本日の聖書の箇所の冒頭16節に、「今の時代を何にたとえたらよいか」というイエス様の言葉が記されています。イエス様が「今の時代」と言われておりますがかれは、単に政治的、社会的な状況や現象を見て、判断されて、それを批評しようとされているわけではありません。イエス様は、今の時代はこのようなもの似ているとかたられ、この時代の人々の信仰的な姿勢に対して、嘆きにも聞こえる表現で語っておられます。

 イエス様は、17節で、今の時代は、「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」と言われております。そのこの時代の人々に似ている子どもたちの呼びかけの言葉は、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」ということでした。これはいったい何のことかとわたしたちは思いますが、これはどうも当時子供たちが遊びの中で歌っていた歌のようです。どのような遊びかというと、結婚式ごっこと葬式ごっこです。「笛を吹く」というのは、結婚のお祝いごっこにおいて笛を吹くことであり、「葬式の歌をうたう」とは、葬式ごっこで葬送のための歌を歌うことです。ここでイエス様は、この子どもたちが、ただ結婚式ごっこや葬式ごっこが行われていたということをお語りになりたいわけではありません。ここで子供たちは、お互いに文句を言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」、それは、結婚式ごっこをしてみんなで歌ったり踊ったりしようとしたのに、相手がそれに乗ってくれない、一緒に楽しく遊んでくれないということです。「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」、それは、葬式ごっこをして嘆きの歌を歌っているのに、それに合わせて嘆き悲しむまねをしてくれない、葬式ごっこを成り立たせてくれない、ということです。つまりお互いにこうやって遊びたいという思いがあるのだが、相手がそれに乗ってくれないと文句を言っている、そういう歌なのです。今の時代は、このように相手が自分の思いを受け入れてくれないと文句を言い合っている子供たちの姿に似ているとイエス様は言われたのです。

 つまり今の時代は、一方では婚礼ごっこを求め、他方では葬式ごっこを求めて一致することができない子供たちのようであると、イエス様は見つめておられたのです。人々の間で、お互いの思いが合わず、対立が起り、一つになれない、それが今の時代の姿だというのです。このイエス様の見方は、人間どうしの思いが一致せず、仲良く出来ないという現実があるというのではなく、もう少し深い意味が在るのです。この婚礼ごっこと葬式ごっこという対照的な遊びの組み合わせは、深い意味を持っています。それは、次の18、19節とのこの箇所の繋がりを見る時にわかります。そこには「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」とあります。ここには、洗礼者ヨハネとイエス様との違いが描き出されています。ヨハネは、「食べも飲みもしない」、つまり、荒れ野に住んで、いなごと野蜜を食べ、非常に禁欲的な生活をしていました。それに対してイエス様は、「飲み食いしている」、イエス様はカファルナウムの町の、ペトロの家を根拠地としておられました。そして9章10節にあるように、弟子となった徴税人マタイの家で、大勢の徴税人や罪人たちと一緒に食事をなさった、宴会の席に着かれたのです。そのように、ヨハネとイエス様とでは、生活のあり方が全く違いました。そしてここに語られているのは、このように対照的な生活をしているヨハネとイエス様、そのいずれに対しても、人々は違った批判をして、そのいずれの教えをも受け止めようとしないということです。ヨハネが禁欲的な厳格な生活をしていると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、イエス様が飲み食いしていると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と言う。そのように、あちらに対してはああ言い、こちらに対してはこう言うという仕方で、結局ヨハネの語りかけもイエス様の語りかけも受け入れようとしないのです。つまり、自分のしたい遊びを相手がしてくれないと文句を言い合っている子供のように、お互いに思いがすれ違い、一致できない人間たちが、そのすれ違い対立する思いの中で、しかし一致していること、それは神様からの救いのみ手を拒み、イエス様を受け入れないということなのです。それこそが、イエス様が今の時代の姿として見つめておられることです。つまり、洗礼者ヨハネについて、「あなたがたが認めようとすればわかることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と言われたけれども、しかし人々はそれを認めようとしない、「耳のある者は聞きなさい」と言われたけれども、誰も聞く耳を持たない、そういう時代の現実をイエス様は見つめておられるのです。

 洗礼者ヨハネの教えは、葬式の歌になぞらえられています。ヨハネは、人々に厳しく悔い改めを求めました。自分たちの先祖はアブラハムだ、我々は神様に選ばれた民なのだ、などということは何の役にも立たない、悔い改めに相応しい実を結ぶことがなければ、その木は容赦なく切り倒され、火で焼き滅ぼされるのだ、と語ったのです。その教えは人々に、葬式の歌に合わせて悲しみ嘆くように、自分の罪を嘆き悲しみ、悔いることを求めているのです。それに対してイエス様の教え、み業は、婚礼の祝いになぞらえられています。そこに流れる基本的なしらべは喜びです。イエス様も、ヨハネと同様に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められましたが、ヨハネが「悔い改めよ」ということに集中していったのに対して、イエス様は、「天の国は近づいた」ということを、み言葉とみ業によって示していかれたのです。イエス様が示された天の国、神様のご支配は、神様の深い恵みと憐れみのご支配です。人々の苦しみを憐れまれ、それを取り去り、癒して下さる神様の恵みがイエス様のみ業によって示され、罪を犯して神様から遠く離れてしまっている者をも赦し、ご自分のもとに招いて、共に歩んで下さる恵みが、徴税人や罪人たちを招いて食事の席に着かれるお姿に示されているのです。イエス様の教えとみ業には、そのような神様の愛と憐れみと恵みが表されています。それゆえにそれは人々に喜びと祝いをもたらすのです。イエス様を救い主として信じ受け入れる時に私たちは何よりもまずこの喜びと祝いに生きる者とされるのです。イエス様と共に生きることは、花婿を迎えた婚宴の席にいるようなものです。そのことは9章14節以下の、断食についての問答にも語られていました。イエス様と共にある間、それは婚礼の客として祝宴に連なっているようなものなのです。

 洗礼者ヨハネの教えとイエス様の教えとでは、このような違いがあります。しかしそれは決して、ヨハネが間違っていてイエス様が正しいということではありません。ヨハネはイエス様のもたらしてくださる喜び踊る祝宴の道に至るまでの準備をしました。つまりイエス様の喜びの教えの前提には、ヨハネの説いた悔い改めがあるということです。自らの罪を思い、嘆き悲しみ、悔い改める、そのことが、イエス様による罪の赦しの恵みへの道備えとなっているのです。自分の罪を認め、悔い改めることなしには、赦しの恵みにあずかることはできません。ヨハネの歌う葬式の歌に合わせて共に悲しむことなしには、イエス様の吹く婚礼の祝いの笛に合わせて踊ることはできないのです。「今の時代」の人々は、何だかんだと理屈をつけて拒絶し、受け入れようとしておりませんでした。ヨハネが悔い改めを説くと、「いつも『悔い改めよ』ばかりいっている。そして、普通の人間の暮らしをしないで、格好も変で、虫や道端でとれるものを食べている。頭がおかしい。たぶん悪霊に取り憑かれている。悪霊に取り付かれていてわたしたちの間にいることができないから、荒野で一人でいるに違いない」と言い、イエス様が罪人をも招いて喜びに生きる道を示されると、今度は、「呑んだり食べたりして自分の腹を満たすために、悪人とも罪人とも付き合っている腹黒いやつだ」と言う。ああ言えばこう言うという感じで、神様からの語りかけに全く耳を貸そうとしないのです。そういうことはじつはわたしたちの間でも起こります。聖書の教え、教会の教えが少しでも自分の意にそぐわないと、私たちは何だかんだと理由をつけて、それを受け入れようとしないのです。耳を塞いでしまうのです。イエス様が「今の時代」について言われたことは、そのまま私たちにも当てはまると言わなければならないでしょう。

 イエス様は最後に、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。突然「知恵」という言葉が出てきて、私たちはとまどいます。一体誰の知恵のことを言っているのだろうか、と。しかし旧約聖書において、この「知恵」は、ただの知識という概念ではなく、知恵それ自体が命を持ち、人々に語りかけ、何事かを実現していく力を持った存在として描かれていくことがあります。本日共に読まれた、箴言第8章がその代表的な所です。その1節には、「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」とあります。人格的に「知恵」が描かれ、「知恵」自身が、呼びかけ、声をあげる存在とされています。4節以下がその知恵の呼びかけの言葉です。「人よ、あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる」。知恵が、自らを「わたし」と呼んで、人間たちに語りかけていくのです。12節にも「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」とあります。このようにここには、独立した人格として人々に語りかけることができる者である知恵が描かれています。この知恵は、後に、神様の独り子であるイエス様と結びつけられていきます。この知恵とは独り子イエス様のことだと考えられていったのです。本日の箇所における「知恵」も、イエス様のことだと考えてよいでしょう。イエス様こそまことの知恵であり、その正しさは、その働き、つまりイエス様のみ業やみ言葉によって証明されるのです。そのみ業やみ言葉とは、11章5節に語られていたことです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。そしてこの後の14節で、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。5節で語られた「このわたしのみ業を見て、これらの救いのよき知らせを聞き取り、知りなさい。」とイエス様はわたしたちに証ししてくださっているのです。

 何だかんだと理屈をつけてイエス様を受け入れようとしないわたしたちに対して、「わたしのこれらの働きを見なさい、そして救いのよき知らせを聞きなさい、私こそ父なる神から遣わされた救い主であると信じなさい」と信仰の決断を求められておられます。私たちがイエス様のみ業、お働きとして見つめることを許されているのは、先ほどの5節のことのみではありません。私たちは更に、イエス様が私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、その死に勝利して復活して下さったこと、そしてわたしたちに永遠の生命を差し出してくださったことが知らされています。そこには、私たち知恵では考える事のできない、まことの知恵、私たちに悔い改めを与え、罪の赦しの恵みの中で喜びをもって生きる新しい命を与える神の知恵があるのです。今はどのような時代か、これからどのような時代になっていくのか、まことに不確かな、不安な時代を私たちは今生きています、そして自分を含めるこの時代の人々は、自分のことばかりを考え、自分にあわない言葉はすぐに否定し、自分にあった言葉だけを受け入れようとします。そのようなわたしたちが、今なすべきことは、ただまことの知恵であられ、真実な言葉、救いの喜びを伝えてくださる、イエス様の言葉を受け入れることです。このイエス様の語りかけ、呼びかけを毎週受け、信仰の決断をもって、イエス様が吹いて下さる喜びの笛の音に合わせて踊りつつ歩みたい。そして、本日は、悔い改めた罪人たちが招かれる喜びの祝宴である聖餐もこの後にあります。信じて、悔い改めて、イエス様の喜びの笛の音に導かれて、この時代を生きるわたしたちはどこへ導かれていくのか。わたしたちは神様と共にある喜びの食卓に導かれているのです。この世での歩み、地上での生命が終えても、終わりの日に、復活させられ、永遠の生命を頂き、神様の御顔をあおぎ、イエス様と共に食卓につき、喜び、踊り、食べて、飲んで、永遠に愛する方と共に、愛する人々ともに、主に感謝しながら生きるのです。そのような終わりにわたしたちは導かれているのです。

 今、喜びの笛の音が聞こえてこないでしょうか。イエス様の喜びの笛の音は、キリスト者の間で鳴っており、毎週の礼拝において、盛大に響いております。どうかわたしたちがその喜びの踊りの列にくわわることできますように。そして終わりの日の食卓に共に着くことができますように。

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