「天の国と律法」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-37節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章13-16節
・ 讃美歌 220、504
イエス様がこの世を歩まれた時に、律法学者であったり律法を守ることに熱心なファリサイ派の人々であったりを、批判されておられる場面は聖書において度々でてきます。律法学者やファリサイ派は、当時の民衆に向かって「律法を順守することがと大事である」と説いていました。また彼らは律法を学び、その戒め通りに生活するためにはどのようなことをしていいのか、なにをしたらだめなのかをはっきりとさせようともしていました。特に、日常の清めに関してはやたら細かく規定していました。外出から帰って来た時や食事の前に、なにかよって汚れたと思われる場合必ず手を洗わなくていけないというルールを作ってまじめに守っていました。イエス様の弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見て、ファリサイ派が批判してくるシーンも聖書の中に出てきます。そのような律法学者やファリサイ派をイエス様が批判したと、わたしたちが聞くと、わたしたちは「ああイエス様は、そのようなかたっ苦しい律法を守らなくていいようにしてくださるためにこの世に来られたんだ」と考えやすいのではないかと思います。そのようにわたしたちが考えてしまう原因となっているのは、イエス様が律法学者たちを批判しているからということと、律法を守るという行いで救われるのではなくて、イエス様が十字架の死によって救われると信じる信仰が大事であるとよく聞くからではないかと思います。それは、信仰義認というキリスト教の大事な考えです。人の良き行いや、人が律法を守ることで人は救われるのではなくて、もともと罪があるために善い行いも律法を守ることもできないわたしたちが、ただイエス様の犠牲の死によって、罪が贖われ、神様との関係が回復され義とされ、ただその恵みの救いを信じ、神様を信じて生きるものが救われるということが信仰義認ということです。この教えをわたしたちは、時に極端に考えてしまい、赦されたけど未だ罪人であるわたしたちは律法を守るということはできないし、律法を守ろうとしていたものは救われないと言われているから、律法は不必要なんじゃないかと思ってしまいがちになると思うのです。 そのような考えと、イエス様の律法学者やファリサイ派への批判をしているということを聞くと、「もう律法というもの自体がいらないもので、イエス様はそのような不必要な律法を終わらせるためにこられたんだ」と考えてしまうのも仕方ないように思えます。当時、弟子たちや群集たちは、わたしたちとは少し違った感覚で、律法に対してネガティブな感情を持っていました。彼らは律法学者やファリサイ派の手を洗わなくてはいけないとか、清めの杯の外側までしっかりと綺麗にしなくてはいけないとか、そのような細かい律法の規定に縛られていました。それ故に実際の所は、律法に対してうんざりしていたのではないかと思います。ですから、「イエス様がそのような律法は捨てなさい」といってくださることを期待していたのではないかと思います。山上において、聞いたこともないような、新しい教え、八つの幸いの話を聞いたので、「ああこの方は、古い律法なんかではなくて、新しい掟を教えてくださっている」と思った人もいたと思います。 しかし、イエス様はその弟子たちや群集たちに向かって17節に書いてあるとおり、「わたしたちは律法を廃止するためにきたのではない」と言われました。これは、彼らに向けてのメッセージでもありますが、わたしたちに向けてのイエス様のメッセージでもあります。洗礼を受けイエス様を信じて従っている、もしくはイエス様を信じたいと思っており、イエス様の元に集まっているわたしたちに向けてもイエス様はこの言葉を語られておられます。「決して律法は不必要なものではない、これを廃止してはならない」とイエス様はわたしたちにも言われています。従ってわたしたちが心の中でも律法なんてものはいらないと思っていたらそれは間違いとなるでしょう。そうではなくて律法は、神様を信じて神様の救いに与った者とっては、必要不可欠なものといえるでしょう。 イエス様は18節で、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言われています。これは神様がモーセに託した律法は、この世界が消え失せるまで、どんな小さな掟もなくなることはないとイエス様が言われているということです。この律法というのは、人が考えて作った法律ではありません。旧約聖書の出エジプト記及び申命記に書かれているように、神様がモーセを通して、イスラエルの民に与えた掟です。人が考え始めたものではありません。律法は旧約聖書に書いてありますが、細かくは613に及ぶ戒めがあるとされています。この神様の律法を守るということはまことにきびしいことです。神様の律法であるからそれが尊いということだけでなく、律法というのは、一部分だけでなく、全体を守らなくてはいけないものだからです。ヤコブの手紙の2:10には「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」と書かれています。19節でイエス様が「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」と言っておられるのは、最も小さな掟を守るというのは、全体のうちのどの部分も欠けるべきではないからということです。では律法のほんとうの意味とはなにか、この神様のくださった律法の目的とはいったいなんなのかということがわたしたちは、気になってくると思います。その律法の精神というか、律法の目的がなんであるかということを気になっていた人はイエス様の時代に多くいました。あの律法学者たちもそれを知りたいと考えていました。ある時イエス様がひとりの律法学者に「律法の中で最も大切な掟はなんですか」と問われることがありました。これは、その律法学者が、律法で一番大切な掟を教えて欲しいと思っていると同時に、その律法において最も重要な法の精神を守って、律法の全部をちゃんと守りたいという心の現れでもありました。その律法の最重要の部分を守らなければ、どの小さな部分もちゃんと守れていないということになってしまうからです。この問に対してイエス様は、最も大切なのは、「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして主である神様を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」であると言われました。イエス様この律法学者の問いに答えながら、律法がどういうものであるかということを答えられました。イエス様はこのことを通して「神様を愛すること」「隣人を愛すること」というのが律法の真髄であるということを律法学者に教える同時に、わたしたちにも、教えてくださっています。この二つの要素から、外れている神様の律法は無いはずです。むしろこれと関係のない、律法があるのならばそれは、神様が与えて下さった律法ではないといえるでしょう。「神様を愛すること」と言われているのは、それは神様に体も心を向けて、神様に従い、神様を心から愛するということです。言い換えれば神様との関係をしっかりと守るということです。また同様に隣人との関係を、愛を持って結んでいくということです。どのような小さな律法もこの二つの掟と関係していますから、どれほど小さな掟であっても、守らなくていいということはないのです。守らないということすなわち、それは「神様との関係」を大事にしなくていいということになります。ですからイエス様は、「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 」と言われました。最も小さな掟を守らなくていいというのは、どこかの点では、神様との関係をまもらなくていい、隣人を愛さなくていいと教えているということです。言い換えれば、小さな掟を守らなくていいと教えるということは、何かしらの条件下では、神様との関係を無視して生きなさい、隣人を愛さなくて隣人も顧みないで、自分だけのために生きなさないと教えているということです。なぜ小さな掟でもだめなのかといえば、最初にヤコブの手紙から引用したように、小さな掟を蔑ろにしているということは、律法全体を守っていないということと同じであると言えるからです。 ですから洗礼を受け信仰者となったわたしたちも、これからイエス様を信じて歩もうとしている人も、自分は律法から解き放たれて、律法を捨てて、気にしないで生きていくことできるようにするのがイエス様の働きではないということがわかります。もし、律法を捨てるということになるのならば、それは、神様との関係を無視して生きる、隣人との関係を無視して生きるということになります。イエス様を信じる者になったということは、イエス様によって、自分の罪によって切れていた神様との関係を再び結んでくださったことを信じ受け入れて、その神様との関係の中で生きていくということです。律法を無視するというのは、そのイエス様の結んで下さった神様とのつながりを顧みないで、自分勝手に生きていくということになります。信仰者にとって、律法、特に律法の要約でもある十戒は、神様との関係をどのように保っていくのが良いのかということを教えてくれる、信仰の道標となるものです。ですから、わたしたちにとって、律法すなわち十戒というものは、大事なものであるのです。教会は、十戒を、使徒信条、主の祈りに並んで大事な文書として守ってきているのです。 しかし、ではそのような戒めの守り方が、つまり「どのようにして律法を守っていけばいいのか」ということがわたしたちの気になる所です。そこでヒントになるのが、20節で書かれています「律法学者やファリサイ派の人々の義」ということです。義というのは、正しさということです。彼らの正しさというのは、律法を守ることでした。神様は彼らの律法の守り方よりも勝っていなければ、天の国、すなわち神様の国、言い換えると神様の支配に与ることはできないと言われています。律法学者やファリサイ派の人々の律法の守り方というのは、言わば、イエス様の言われた最も重要な二つの掟を無視している律法の守り方です。言葉を換えると、神様との関係や隣人の関係などを無視しながら、律法を守るということです。それはすなわち、律法の本質を捉えず、ただの掟のようにして守っていたということです。わたしたちが、十戒をただの守らなくてはいけない掟と捉えてしまうと、自分が、神様に関係しているということを忘れがちになってしまいます。律法学者やファリサイ派の人々はまさに、そのような状態でした。律法を守るということに熱心で、命を懸けるほどであったけれども、いつの間にか、心から神様を愛して共に生きるとか、心から隣人を愛して生きるということを忘れて、律法を守っていたのです。それはただ、形式的に、形だけで律法を守っていたということです。そのように自分が律法を守ることに必死になってしまい、神様も見ていないで、隣人も見ていない時には、神様との生きた関係が自分では感じることができず、律法も無意味に思えてくるか、逆に律法を守ることだけが大切になり、律法を守ることができていない隣人を裁くことが始まったりするのです。この律法の守り方をしていると、実際は隣人を愛することができなくなっていて、神様との関係も見失ってしまっている状態になってしまうのです。従って、律法学者やファリサイ派の律法の守り方というのは、時にわたしたちも陥ってしまうようなものであり、それは、最も重要である律法の真髄を無視して、表面上で律法を守るということです。このような、神様との関係や隣人との関係を忘れていて、ただ律法に書かれている掟を守っているだけの正しさというのが、律法学者やファリサイ派の人々の義と言われているところのものです。 ではイエス様が20節で言われているその律法学者やファリサイ派の人々の義に勝る義とはなんなのかということが気になるところであります。単純に考えると、律法学者やファリサイ派は、心がこもっていない律法の守り方をしていたから、逆に心を込めて、その本質を捉えて、律法を守ればいいのではないかとわたしたちは考えると思います。しかし、それはある意味あたっていますが、大事な事が欠けている答えであるといえるでしょう。その考え方で欠けている部分は、わたしたちはそもそも、その存在のレベルや本質的なレベルで、律法が目指しているところの、神様を愛し、隣人を愛することが、できないものであるということです。それは言い換えると、自分で、自分を義とできない、つまり神様を愛し、隣人を愛することができるような正しい者へと自分の努力や力によっては換えることはできないということです。わたしたちはわたしたちが律法のことを心がけたり、神様の方を向くように鍛錬や修行をしたりしても、自分の力でそれを成すことができないのです。 自分自身が罪人であり、律法守ることできないということを告白することの大事さ語っているイエス様のたとえが、ルカによる福音書18:9-14節に出てきます。それはファリサイ派と徴税人が出てくるたとえです。この二人は神様にお祈りをするために神殿にやってきました。ファリサイ派の人は自分がどれだけ律法をちゃんと守っていることを誇りながら、「隣にいる徴税人のような罪深行いをしないものであることを神様に感謝します。」と心の中で祈りました。それに対して、徴税人は、目を天に向けることせず、つまり、ひれ伏して、神様に対して「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言いました。イエス様は、「神様から義しいとされたのは、徴税人の方であって、ファリサイ派の人でなかった」と言われました。徴税人という仕事は、この時代では、多くのユダヤ人の同胞の恨みを買うような仕事でした。その時代のイスラエルを支配していたローマ帝国の犬となり、同胞から税金を取るという仕事でした。さらに、決まっている税をよりも多くとって私服を肥やす徴税人も多かったとされていました。そのように、見るからに自分の同胞である兄弟の財を奪い、苦しめていた徴税人たちは、ユダヤ人の中で生きながら、罪人であると言われていました。ユダヤ人の人々からすれば、徴税人は義とされるというのは、おかしな話です。しかし、神様が義としたというのは、この徴税人の悪い行為ではありません。ここで、この徴税人が義とされたのは、「自分は律法を守る資格もない、そんなことができない罪人です」と神様に向かってまっすぐ、告白し、「神様に憐れんでください」と祈り求めていたことです。彼は、神様に対して、憐れみを乞うています。つまり、神様との関係を求めていたということです。それに対して、ファリサイ派の人は、隣人と自分を比べることと、律法を守っている自分ばかりに目がいっており、神様の方に感心がむかってはおりません。彼にとって重要な事は神様との関係ではなくて、律法を守ることが重要となっていたということです。彼らは、律法を守るという自分の行為で、自分を義としていました。これが彼らの義です。この時、この徴税人の義は、ファリサイ派の人の義に優っていたでしょう。それは、神様が認めた義であったからです。この徴税人は、律法を守るという自分の行為によって自分を正しくするということを求めずに、ただ自分はそのような律法を守ることもできない罪人ですと認め、ただ「神様に憐れみ」を求めたということです。わたしたちも、この徴税人と変わることがない罪人です。神様は、このように罪人であることを認め、悔い改めて、憐れみを求めるもの、神様との関係を求めるものを義とされるのです。 律法を本当は守ることのできない罪人のわたしたちを、義とするために、イエス様が犠牲となりました。命懸けで、命を本当に捨てて、血を流されることで、わたしたちが、義とされる条件がすべて整いました。人を義とするために、父なる神様が自分の愛する子を捧げて、わたしたち憐れまれたのです。だから、この神様が差し出された憐れみと義を求め、この御子の十字架の犠牲の業を信じ、その義を受け止める時、わたしたちは義とされるのです。それが、ファリサイ派や律法学者の人に勝る義です。 ではその神様の義を信じ、受け止めれば、自分は神様から義と認められるのだから、もうなにもしなくていいのか、さらにいえば律法を守らなくていいのかと言えば、そうではないのです。イエス様は17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言われています。イエス様は律法を完成するために来られたと言っています。この「完成」という言葉は「目的を成就すること」ということです。これは律法がもともと不完全で、イエス様がきて、完璧なものにするということではありません。これはイエス様が律法の本来の目的を成就させるために来たということです。律法の本来の目的とは、人に神様との愛の関係を築かせること、また隣人との愛の関係を築かせることです。しかし、罪人である人が、この愛の関係を築かせようとする律法に出会った時に、どうなったかというと、律法学者やファリサイ派の人々にあらわされていたように、この律法を用いて愛の関係を築くどころか、愛の関係を忘れさせたり、または愛の関係を壊すようなことのために用いられてしまったりしたのです。ですから、罪人であるわたしたちは、自分の罪故に、律法を神様との関係を壊すようにしか、用いることができなかったのです。つまり、律法自体が不完全であって目的を成就できないのではなく、律法を守るものが、罪人であり、不完全であるから、律法が成就なかったのです。しかし、イエス様の十字架の死と復活の業によって、その罪人であるわたしたちを変えてくださりました。イエス様を信じて、洗礼を受けた者は、イエス様の十字架の死につながり、古い罪人である自分を十字架にかけ死なせ、イエス様の復活にあずかり、自分たちも新しい者に変えられます。罪人から聖なる者に変えられていくということです。わたしたち人が、完全に聖なるものと成った時に、律法はその目的を成就するでしょう。わたしたちが完全に聖なるものと成った時は、神様を愛し、隣人を愛することができるようになるということです。しかし、わたしたちはこの世に生きている間は、完全な聖なる者になることはできません。洗礼を受ける時にわたしたちは、同時に賜物として聖霊をうけます。言い換えると、洗礼を受ける時に聖霊なる神様がわたしたちの内側に来てくださるということです。この聖霊なる神様が、今、わたしたちを日々新たに造り替えてくださります。それは、この律法を守ることができるように、つまり、神様と人とを愛することができるよう変えていってくださっているということです。ですから、わたしたちは今、罪人でもありますが、聖なる者と神様から認められていて、かつ聖なる者として少しずつ変えられていることです。わたしたちは、その聖霊なる神様の働きに頼りながら、こんどは、律法の目的である神様と人との関係しっかりと守ることができるようになるのです。その時、わたしたちの律法は神様と関係と隣人との愛の関係を成就するための道標となります。わたしたちは、聖なる者に完全にはなっていませんが、聖なる者として神様に認められたものです。ですから、その神様がわたしたちを義と認めて下さるという、驚くべき御業に感謝しながら、今度は聖なる者にふさわしく行きたいというわたしたちは願うようになるのです。その時、律法はわたしたちにとって苦しいものではなく、神様に感謝を表すための、感謝の応答のための喜びの戒めとなります。それが律法の本来の姿であります。それが律法の成就した姿です。わたしたちは、今から救われたものとして、義とされたものとして、聖なる者とされたものとして、律法を喜んで守って参りたいと思います。