夕礼拝

今という時のあるうちに

「今という時のあるうちに」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; エレミヤ書、第8章4節-13節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 54節-59節
・ 讃美歌21; 240、573

 
1 (群衆の心理)

ルカによる福音書の12章は、比較的長い章であります。その第1節には数え切れないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになったと伝えられています。しかし主イエスは直接群衆に向かってではなく、まず弟子たちに向かって話し始められました。その後、13節からは、主イエスに訴えでた群衆の一人に答える形で、ある金持ちについて語られます。22節からは再び弟子たちに向かって話し始められ、それが53節まで続いているのです。そういう意味では、12章のこれまでの部分は、ほとんどが、弟子たちに向けて語られた言葉であったということになります。これだけたくさんの群衆にその周りを囲まれていながら、主イエスのお言葉は大部分が弟子たちに向けて語られていたのです。 もちろんこれまでの話も、弟子たちの周りを囲んでいる群衆たちにも向けられてはいたでしょう。しかし、第一に弟子たちに向けて語られていたこれまでのお言葉を、弟子たちはどこかひとごとのように聞いていたところがあったかもしれない。弟子たちが「信仰の薄い者たちよ」と呼ばれ、「主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる」と警告されているのを聞いて、「いやあ、イエスさまのお弟子さんたちは大変なんだなあ」、くらいに思っていたかもしれない。どこか周りを取り囲みながら、見物人気取りで、主イエスのお話を聞いていたかもしれない。そういう時は気楽でいいものです。主イエスのお言葉は、まともに受け止めるなら、ずしんと来る。今までの自分のままでいいことには決してならない。自分の生き方、これまでのあり方を深く問われ、変わらせる力を持っています。いろいろな葛藤も生まれる。信仰の道に入ったがゆえに生まれてくる悩みもある。話を聞いている分には面白いが、自分もこのお言葉が語り込んでいくところの対象にはなりたくない。そんな気持ちが群衆の中にもあったのではないでしょうか。

2 (時のしるしを見ようとしない偽善者)

主イエスの御言葉からある距離を持って、遠くから眺めるような感じでお付き合いしてみよう、そんな心積もりでいた群衆に向かっても、しかし主は御言葉を語り込んで来られました。「偽善者よ」(56節)!「あなたがたは偽善者だ」、と主は群衆たちに向かっておっしゃったのです。群衆たちは突然、偽善者たちよ、と呼ばれてさぞかし驚いたに違いない。「偽善者」という言葉は、実はここで初めて出てきたわけではありません。この章の一番初めに、群衆たちが集まってきたその時に、主イエスがまず弟子たちに話し始められた。その時に主はこうお語りになったのです。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」(1節)。うわべでは神を敬っていても、心の中では自分が一番大事になっている。神の掟を守れない人を軽蔑し、心の中で裁いている。神の前で自分の真実の姿をさらけ出さずにすませると高を括り、神の前で清い自分を取り繕おうとしている。それがファリサイ派の人々の姿です。この人たちは内と外に分裂を抱えたままの不幸な存在である、そう主はおっしゃった。しかも、弟子たちに、そのパン種に気をつけなさいとおっしゃったのですから、弟子たちもファリサイ派の人々と同じように、神の前にいい子を取り繕うような偽善を、いつ抱え込んでしまうか分からない。そういう危うさがあったわけです。それと同じ言葉が、今度は群衆たちに向かって飛んできたわけです。「偽善者よ」!ということは、ファリサイ派であろうが、弟子たちであろうが、そしてこの群衆たちであろうが、誰であろうと、偽善の罪から自由な者はいない、ということです。私たち皆が偽善者だ、そう言ってもよいのです。
 では群衆たちはどういう意味で偽善者だというのでしょう。「あなたがたは雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」(55節)。当たり前のことですが、当時は天気予報などありません。人々は日々の生活の中での経験から、こういう空模様になると、こういう現象が後に続いてやってくる、そういう天候の法則のようなものをわきまえ知るようになっていました。この地方で西に雲が出るということは、地中海の湿気をたくさん含んだ雨雲が湧きあがってきている、ということでした。だから西雲が出ると、決まってにわか雨に降られることになると知っていたのです。「西から雲が出たぞ。それじゃ、今日は雨具を持っていこう」、とか「じゃ、今日は早めに帰ろう」、とかそういうことになった。南風は砂漠のある乾燥した暑い地域の空気を運んできます。だから南風が吹く時には決まって暑くなる、ということが見通せたのです。それで「今日は薄着で出かけよう」、とか「飲み物を持っていこう」とかいうことになったでしょう。こうして天候からある兆しを見て取って、それによってその日の生活の予定を立て、これから起こることに備え、対応しながら日常の生活を送ることができたのです。それは当時の人たちにとってみれば、わきまえていることが当たり前で、自然なこと、当然のこと、いわば常識であったのです。けれどもそこで主は問われるのです。そこまで的確に判断ができるのに、なぜ肝心な「今の時」を見分けることができないのか。ここで使われている「時」というのは、どこを切り取ってきても、同じ重さ、同じ質の時間ではありません。他の時とは違う、神と人間との出会いと交わりに関わる時間です。それは決して他の時間と同じ重さ、同じ質ではない。今来られているこのお方、主イエスを前にして、まさに今私たちのこのお方に対する姿勢、態度が鋭く問われずにはおれない、そういう特別な重さと質を持った時間です。そういう特別な時が、今このお方が来てくださったことによって始まっている。明らかに始まっている。「空模様を見分け、これから何がやって来るのかを見越して、ちゃんと備えができるあなたがたでありながら、どうして決定的な今という時をわきまえることができないのか」、それが主の問いであります。

3 (偽善の中身)

クリスマスを迎えようとする、待降節の時を、私たちは歩んでいます。クリスマスのことをよく「X’マス」と書き表します。この「X」はキリストのことを指しているわけですけれども、しかし一方で中身が何か分からないものを「X」で書き表すことも、数学などでは馴染み深いことです。私たちはこの「X」の中身が何であるのか、本当に知らないままで、クリスマスを祝っているということがあるのではないでしょうか。キリストは確かに来られ、今もこの世に関わり続けてくださっています。そして再び来られることを約束されている。教会の伝道の働きの中に、このキリストのご意志と約束が現れている。けれどもそのしるしは、心の内と外を使い分ける偽善者には見えないのです。いや、偽善者はわざとそれを見ようとしないのです。そのしるしを真剣に認めるならば、自分が変わらないわけには行かないからです。私たちはこのことを決してひとごとのように聞いてはならないと思います。むしろ私たちの中にこそ、表面では神を敬いながら、心の奥は決して神に明け渡さないで、自分の領分として守ろうとしている頑なさがないか、よくよく思い見なければなりません。
「偽善者よ」。こう呼ばれて、群衆たちはどんな思いになったでしょう。偽善者であるとは、自分の内と外との間に食い違いがある、分裂があるということです。それにも関わらず、うわべは取り繕って、善良で親切で、信仰深い自分を人には見せている。そうやって人を欺き、裏切っている。いや、なによりも神を裏切っている。「空や地の模様」と訳されている、この「模様」という言葉は、もともと「顔」という意味の言葉です。空や地の表情を読み取って、それに対応する術は心得ていながら、なぜ神の顔の前で知らん振りを押し通せるかのように振舞っているのか。神の御顔がいつも私たちの歩む道行きに伴っておられることを見ようとしないのか。私たちはいつもこの神の御顔のすぐ前を歩いている。その時、表面上は適当に取り繕っておいて、内面は「神様なんて知らない。自分は自分の人生を歩むのだ」、と決め込んでいることが本当にできるのか。そう問われて、私たちはうろたえざるを得ません。
預言者エレミヤは背きの民イスラエルを、この神からの問いかけに直面させました。「どうして、この民イスラエルは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。耳を傾けて聞いてみたが/正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者もない。馬が戦場に突進するように/それぞれ自分の道を去って行く。空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」(8:5-7)。「偽善者よ」と言われると、そんなことない、と私たちは言い返したくなってしまう。腹を立てさえするでしょう。私たちは誰も、本当のことは認めたくないのです。本当の姿を暴かれたくない。自分の醜い現実に直面したくない。そこでうまく取り繕って済ませている。しかしそれがあなたの現実だ。主の定めが、今キリストによって目の前に差し出されているのに、それを敢えて知ろうとしない。そこにあなたの偽善がある。あなたは「偽善者」。それがあなたの真実の姿だ、主はそうおっしゃる。腹立たしいし、認めたくないことだけれども、事実なのです。

  4 (隣人との仲直り-今という時のあるうちに)

これだけ空や地の模様を正しく見極めることを心得ていながら、なぜ今という時のしるしを正しくわきまえることができないのか。主はそうお語りになったすぐ後で、私たちがどのような道を今歩んでいるのかをお示しになりました。私たちの毎日の歩み、それは自分を訴える人と一緒に役人のところへと向かっていく道行きのようなものだ、というのです。今、建築設計の偽装問題が世間を賑わせております。証人喚問や参考人質疑ではほとんどの人が責任を擦り付け合っています。いろいろな人が訴えられ、申し開きを要求されている。しかしこれもまた、神の前では他人事ですませられない話です。私たちは誰でも、一緒に歩いている人から、神の前に訴えられかねない中を歩いているのです。明らかに、借金したお金を返さないことで訴えられ、役人の所に連れて行かれる場面が描かれています。そこでなすべきことは何か。役人のところに到着する前に、今自分を訴えて、役人のところに連れて行こうとしているこの隣人と早く仲直りをすることなのです。和解をすることなのです。私たちは誰でも、こうしてお互いのことについて告訴状を持ちながら、一緒に歩いているところがあるかもしれません。誰もが互いに、隣人に対して負い目を持って歩んでいます。共に生きる人に対して果たすべき責任を果たしていない、そのことを持ち出され、訴えられたらどうするのか。
 ぐずぐずしているわけにもいかないのです。時は迫っている。手遅れにならないうちに心を改めなければなりません。一度、裁判の手続きが開始されたのなら、後戻りできないのです。その隣人は私たちを裁判官の前に引きずっていき、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。そして1レプトンという一番小さな額のコイン、ある翻訳によれば日本の5円程度のお金に至るまで、すべて返し終わらなければ、そこから出てくることはできなくなるのです。主イエスが再び来られる時とは、この最後の裁きが始まる時です。その時になったら、もう後戻りはできない裁判が開始されるのです。私たちはどうかすると、なんでも赦していただける、このまま終わりの日に至ってもなんとかなると高を括っているところがあるかもしれません。けれども残されているのは「今」という時しかないのだ、と主はおっしゃるのです。「今という時のあるうちに」、私たちは自分を訴える人と仲直りをしなければならない。

5 (道行きに伴ってくださる裁判官)

 「今の時を見分ける」、今がどんな時なのかをわきまえ、それに応じた行動をとる、求められているのはそのことですが、しかし私たちに本当にこの時のしるしを見極めることなどできるのでしょうか。何が正しいかを自分で判断することなど本当にできるのでしょうか。むしろ神の時を見分けることを拒む頑なさを、自分たちだけではどうにもできなかったからこそ、主イエスは十字架の死にまで至ってしまったのではないでしょうか。自分だけでは進んで心を開いて、神にすべてを明け渡すことなどできない。何よりも神の前で見せかけの自分で誤魔化そうとしているのが私たちなのです。だからこそ、隣り人との関係もうまくいかないのです。隣人と仲直りがなかなかできない。それはとりもなおさず、神との関係が健やかにされていないからなのです。この神との関係を真実なものとするために、その独り子が、私たちに代わって十字架にお架かりになり、私たちが受けるべき裁きを代わってその身に負ってくださいました。そうだとしたら、ここに出てくる私たちと道行きを共にする人とは、主イエスご自身のことでもあるのではないでしょうか。もちろんこの主イエスは、終わりの日に来られる裁き主、私たちを裁く裁判官でもあります。けれども同時に、この裁判官は私たちを看守に引き渡して、私たちが返しきれない負債を抱えたままで滅びの牢屋にぶちこまれることを何とか避けたいと躍起になり、いつも心を砕いてくださっている、そういう裁判官なのです。その思いがあまりに熱く燃えるあまりに、ご自身が裁きの座から降りてきて、私たちの身代わりとなって十字架に磔にされたほど、私たちを愛してやまないお方なのです。この愛に溢れるお方が、今も私たちの道行きに伴っていてくださり、「神と和解させていただきなさい。神との間に和解を得ている自分自身を受け入れなさい。お願いだから受け入れてほしい。私はあなたを終わりの日に裁いて滅びに定めたくはないのだから」。そう一生懸命説得しようと、付き添って歩いてきてくださっている。時のしるしも見定めることをせずに、神にも隣人にも頑なに心を閉ざしている私たちが、そのままで裁きの日、滅びの日にまで至るのを、この裁判官は黙って見過ごしにしてはおれないのです。まさに私たちの主は、「苦しむ裁き主」なのです。  私たちのことをこれほどまでに愛してくださる主によって神との間に和解を得ることができるならば、それによって隣人との関係もまた、「仲直りするように努める」歩みとなっていくはずです。神との関係と、隣人との関係は結び合っているからです。この世にはいろいろな常識があります。わきまえておかなくてはならない事柄があります。マナーというものがあります。それらは突き詰めるなら、一緒にいる他者を重んじるということに尽きるでしょう。そしてこのことは、どんな他者よりも先に、一番近く、今日も私たちと歩みを共にしてくださっている神の独り子、主イエスというお方を重んじることから始まるのです。そしてこのお方によって重んじていただいている自分自身を新しく受け止めます。そして自分に注がれた主の愛に感謝して、主イエスと一つ思いで隣り人との関係も築いていく者となるのです。これこそが、来るべき御国をわきまえて今を生きることです。時を見分けて今を生きることなのです。私たちは何よりも、御国の常識に生きる者でありたい。御国を待ち望みつつ、礼拝に生きる。そこで道行きを共にしてくださる主の語りかけに心を開く。そして神との間に和解を与えられた者として、共に生きる隣人との和解にも生きる者とされる。それこそが実は、神の子とされた私たちにとって、あたりまえの生、最も自然な生き方、御国の常識をわきまえた歩みなのです。

祈り 
主イエス・キリストの父なる神様、あなたがこの世に来てくださったにもかかわらず、この時のしるしを見分けようとしない、鈍く頑なな私共です。しかし終わりの日の裁き主であるあなたが、この私共を放ってほけずに、私共のすぐ傍らにまで走りよってきてくださり、今日という一日を生きる私共の歩みにも伴っていてくださいます。どうかそのあなたが与えてくださった十字架による罪の赦しに真実に生きることができますように。それゆえに今という時のあるうちに、あなたとの真実の和解に与って生きる者とならせてください。それゆえに、隣人との和解にも生きる心を、私共の内に形づくってください。あなたとの和解に招かれているがゆえに、来るべき裁きの時が、滅びの牢屋に投げ込まれる時ではなく、私たちの救いが完成される、待ち望むべき時、待望の時であることに、この待降節に思いを新たにすることができますように。 和解の主なるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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