「ヨセフとマリアとお腹の子」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章13-17節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章18-25節
・ 讃美歌:90、231
イエス様が誕生する前の大スキャンダル
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と、淡々と今日の御言葉は始まります。マタイによる福音書は、1節から17節で、イエス様の誕生までの系図を書いていまして、やっと今日の18節からでイエス様の誕生をわくわくしながら読むことができるのかなと思いきや、18節から19節で、とんでもないスキャンダラスな事件が書かれています。その事件はというと、婚約関係にあったカップルの間に、子どもが与えられということです。このカップルというのが、ヨセフとマリアです。結婚前に子どもが与えられた、ということは結婚前にそういうことをした。ではそれが問題で、スキャンダラスな事なのかというと、そうではなくて、夫となる予定のヨセフはマリアと関係をもっていないのに、マリアが妊娠しているというのが、問題だったのです。
ヨセフの前で、マリアの妊娠が明らかになった後
ヨセフは、マリアが妊娠していると知りました。ヨセフは、自分がそのような関係を持っていないのに、彼女が、妊娠したということは、彼女は誰が別の人と関係をもったとしか考えられなかったでしょう。その事情を、婚約相手のマリアに聞いてみると、マリアはとんでもないことを言うのです。「わたしは、誰とも関係をしていない。」マリアはヨセフにそう告げるのです。わたしたちがヨセフだったとするならば、この言葉を聞いてどうおもうでしょうか。すぐさま、それは「嘘でしょ」と思うでしょう。実際、彼女のお腹は大きくなっているのだから、誰かと関係をもって妊娠したのだろう。彼女は、それを隠すためにそのようなことを言っているのだろうと考えると思います。さらにマリアはそれだけではありません。この子は「聖霊の力が働いて身ごもった」、「この子はいと高き方の子」「イエスと名付けなさいと言われた」「この子は神の子なのだ」ということを天使から聞いたのだというのです。わたしがヨセフならば、マリアいったいどうしてしまったんだ。なにか、辛いことがありすぎて、パニックになってこんなことをいっているのだろうかと、勘ぐるとおもいます。
この当時の律法、ユダヤ人の法では、結婚をしていても、婚約中でも、姦淫の罪、つまり結婚、婚約関係にある女性が結婚、婚約相手ではない男性と関係を持てば、石打ちの刑、つまり死刑とされていました。だから、「マリアは、死刑を免れたい一心で、このようなとんでもない嘘をついている」とヨセフが考える可能性はあると思います。ヨセフが、この妊娠の出来事を、告発し、表沙汰にすれば、マリアは死刑確定です。しかし、ヨセフはそれをしませんでした。19節に「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。ここをさっと読むと、彼は、「夫ヨセフは正しい人」であったので、マリアとの婚約関係を解除することで、彼女の命を救おうと考えた。「ヨセフは素晴らしいなー」とわたしたちは、そう読むと思います。確かに、彼は愛する彼女の命を奪うようなことをしたくなかったのは事実でしょう。しかし、この決断には、彼の弱さが見え隠れしています。
ヨセフの3つの選択
この時、ヨセフには、3つの選択肢があったと考えられます。
一つは、姦淫の罪を犯していると告発し、マリアを石打ちの刑にし、死刑にすること。2つ目は、彼が最初に決心することでありますが、妊娠していることを公にせず、離縁すること。そして、3つ目は、そのまま彼女の妊娠を黙認して結婚する方法です。彼は、1つ目の選択肢は、愛するマリアを殺してしまうので、選びませんでした。そうすると、2と3の選択肢が残ります。2と3を比べてみると、実はマリアにとっての1番の選択は、3番目だと思います。なぜならば、3番目ならば、マリアもヨセフも、離縁して孤独になる必要がないし、表面上ですが、マリアにとっては、自分の言葉が信じてもらえたと思えるからです。実際、彼は2番目を選択しました。彼が、2番目を選択したということは、彼女の言葉を信じていないということの現れでした。彼は、3番目の選択肢を選べなかったのには、彼女の言葉を信じていないということもありますが、さらにその三番目の選択があまりにも、自分にとってとても辛い選択だったからです。3番目の選択では、マリアは殺されることはありません。そして、さらに、二人は離れなくていい。しかし、ヨセフは、彼女のことを信用出来ないまま暮らすことになります。お腹の子を見る度に、マリアに裏切られたのではないかという疑いが呼び起こされる。そしてその疑いによってフラストレーションがたまり、いつも怒りを覚えてしまうだろう。マリアは、自分のことを信用してくれているけれども、自分は彼女を信用出来ない。そして生まれてくる子を受け入れられないし、おそらくその子を見る度に、疑いと怒りが出てくる。そのような、生き地獄には耐えられないと、彼は思ったのだと思います。彼女の言葉、彼女に与えられた神様の言葉を信じることのできない、彼は、2番目の離縁の決心をしました。
ヨセフの孤独
離縁を決心したということは、彼はマリアとの関係を捨てる決心をしたということです。離縁すれば、今後彼女と暮らすことはないだろうし、顔を合わせることもなくなる。ヨセフは、この人こそが、わたしの妻となる人だと確信して婚約した。神様がわたしたち二人を選んで結びつけてくださったと信じていた。家族から離れて、彼女と人生を歩み出す準備をしていた。そのヨセフは、この決心したときに、急に孤独を感じたでしょう。結婚するというのは、親を離れて、生きるということです。創世記2章にその原型が書かれています。彼は、親と離れる決心をしていた。マリアと生きる決心をして約束をしていた。しかし、その結婚の約束を止めにするということは、彼女とも一緒に生きることを止めにすることです。彼は、この離縁の決心をした、まさにその時、孤独を感じたでしょう。
マリアを愛していたから、石打ちの刑にはしたくない。しかし、このまま、黙認してマリアと結婚すれば、自分は、マリアを疑い続けるし、このお腹の子が生まれてきても、誰の子かわからないこの子を見る度に、マリアに裏切られたのではないかという疑いが呼び起こされる、そしてその疑いによってフラストレーションがたまり、いつも怒りを覚えてしまうだろう。そのような怒りと苦しみの中にいては、夫婦関係を続けていくことはできないだろう。だから、どちらにもならないように、離縁しよう。マリアにはお腹の子どもがいるから、孤独にはならないだろう。自分は、この孤独を背負って生きよう。
それは、「わたしが彼女の言葉を信じることのできないせいだ」と彼がそこまで、この時考えていたかは、この聖書の記述からわたしたちが、確認することはできませんが、彼が、このような決心至った原因は、その彼女の言葉を信じることができなかったのは間違いありません。マリアの言葉は、あまりにも、人智を超えているというか、常識では理解できないことを言っています。このようなこと言われても、誰が受け入れられのかと思うでしょう。しかし、その言葉を受け入れた人がいます。それは、目の前のマリアです。マリアはこの言葉を信じていました。これはほんとなのだと、本気で、ヨセフに語ったと思います。ヨセフには、理解できないことだけど、彼女のことを信じたいという気持ちがどこかにはあったと思います。ですから、彼は、彼女を告発しなかった。でも信じきることができないから、3番目の選択はできないので、折衷案のような、離縁という方法を取ったのです。
マリアの言葉を信じたいけど
マリアの言葉を信じたいけど、信じることができないヨセフの現実があります。マリアは、「誰とも関係を持っていない。お腹の子は、神様の聖霊によって授けられた。そう神様の言葉を伝える天使がわたしに教えてくれた」と説明してきた。
ヨセフは婚約までしていた彼女の言葉を信じたかった。けど、彼女のお腹の膨らみを見て、そのことを信じることができなかった。わたしではない誰かと関係をもったから、お腹が膨らんでいるのだろう。どうして、人間がそのような行為をしないで、妊娠をするだろうか。現実的に考えれば、彼女が妊娠するのは、誰かと関係を持ったからだ。そしてそれは、わたしはではない。いったいそのお腹の子は誰の子なのだろうか?わたしは裏切られたのか?彼女は誰とも関係をもっていないという。一体何なんだ?わけがわからない。とそうなったと思います。そして、このお腹の子は、「神の子」であると言われたというのです。
マリアはパニックなって、おかしなことを言い出したのかと思っても不思議ではありません。彼女は、天使に告げられて、神様の言葉を聞いたと言っていた。ヨセフ、まずそれを、信じることができませんでした。
ヨセフが求めていたのは、彼女が聞いた神様の言葉、そしてその言葉を信じる心
この時、だれよりも、神様の言葉を信じたかったのはヨセフであるでしょう。彼は、マリアに告げられた、神様の言葉を信じることができれば、彼女と歩む道が開かれるのですから。しかし、彼は、神様の言葉も、マリアの言葉も、信じることができなかった。お腹が大きくなっているという事実、現実を前にして、自分は憶測してしまうし、疑ってしまう。そういう疑いの心、信じることのできない心を捨てたくても、捨てられない、表に出てきてしまう、信じることができない。だから、彼は、自分も、マリアも、お腹の子も傷つかない方法、離縁という自分が孤独になる方法を選んだのです。
でも、彼の中では、マリアの言葉を信じたかったという、気持ちはあったでしょう。そして、マリアに告げられた神様の言葉を信じたいという気持ちはあったでしょう。しかし、信じることができない。そのような、葛藤に彼は苦しんでいたのです。離縁の決断をした後だって苦しんでいたと思います。
苦しみの中で告げられた御言葉
苦しみの中で、語られた神様の言葉、これこそ、彼の求めていた言葉でありました。マリアが聞いたという、神様の御言葉を彼は聞くこととなりました。ヨセフは、このお腹の子は、他のどこかの男性の子なのではないかと疑っていた。なぜ彼が疑ってしまったのかというと、その原因は、「聖霊によって身ごもったというマリアの言葉」を信じることができなかったからです。マリアを信じることができなかった。さらに、突っ込んで言えば、神様の言葉を信じることができなったと言えるでしょう。マリアを通して語られた神様の言葉を彼は受け止めることができなかった。それは、マリアのことを信じることができないという彼の弱さであり、罪でしょう。わたしたちが、もしヨセフと同じ状況に置かれるとしたら、マリアのその言葉を信じることが出来るでしょうか。おそらく、できないと思います。こんな風に考えるのは当たり前だろうと思う人の方が多いと思います。だから、このヨセフの信じることのできない弱さを、わたしたちも同じように持っていると言えるとおもいます。わたしたちも、他者を心から信じることができないという弱さを持っています。それは、他者が嘘を付くかもしれないという現実があるから、仕方ないことでしょう。ヨセフもそうでした。マリアが嘘ついて、裏切っているかもしれないというその疑いがあるので、信じることができなかったのです。
その疑ってしまう自分の弱さのなかで、ヨセフは、もがいていました。孤独を感じました。どの選択肢を選んでも、幸せにはなれないという行き詰まりの中にいました。
そんな中で、彼は神様から言葉を頂きました。その言葉は人を介さず、天使を通して直接に彼に与えられました。
神様は、ヨセフの弱さをご存知だったので、人を介さずに、御自分の言葉を直接伝えようとされたのです。ヨセフは、この世で一番愛する人の言葉を信じることができなかった。その苦しみと孤独を神様はご存知でありました。だから、神様は天使に託して、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」という言葉を彼に与えました。これこそ、彼の待ち望んだ言葉でした。彼は、マリアが聞いた、天使を通しての神様の言葉を、自分も聞いた。そして、マリアが語っていた、「聖霊によって子どもが与えられた」という言葉を、自分も聞いた。彼女が神様の言葉を聞いたということを疑っていた。しかし今、神様は、自分に直接語りかけて下さった。この時彼は、本当に神様が存在されるということを信じるものになったと同時に、マリアのことも信じるものとなりました。
「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とあります。「迎え入れる」とは家に迎え入れること、すなわち結婚するということです。恐れないでマリアと結婚しなさいと、神様はヨセフにおっしゃいました。彼は、なぜ恐れていたのかといえば、お腹の子が誰かの子と疑っていたからです。お腹の子が誰の子かわからない限り、彼はその子見る度に、愛する妻の裏切りばかりを疑うことになってしまうからです。あの第三の選択をすることは、彼にとっては苦しみでしょう。しかし、今、マリアのお腹の子は、聖霊によって宿った子であると神様がおっしゃってくださった。マリアは、誰とも関係をしていないということが、神様によって証しされた。それで、彼は、マリアと結婚することに恐れなくても良くなったのです。
ヨセフはさらに、神様から「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われます。「イエスと名づけなさい」ということは、マリアにも語られていたことでした。この言葉により、彼はマリアと同じ「子どもに名を付ける」という使命を与えられました。名前をつけるということは、このお腹の子を、自分の子と認めるということです。神様は、ヨセフに、マリアと結婚して、マリアを受け入れなさいと言われるのと同時に、このお腹の子も恐れず受け入れなさいということ言われたのです。
彼はこのお腹の子が、神様の子、神の子であるということをマリアが言っていたことを知っています。天使はマリアに「いと高き方の子と呼ばれる」「だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げています。彼は、かつては、その言葉を疑っていましたが、今そのマリアの言葉を受け入れられるでしょう。ヨセフが、ここで生まれてくる子が「神の子」であるとわかる時、おそらく彼は身構えてしまって、生まれてくる子に恐れ、近づくこともできないでしょう。そうならないように、神様は、マリアにも、ヨセフにも、「この子に名前を付けて」あなたたちの子としなさいと言われたのです。ここには、とても大きな神様の思いが込められていると思います。「名前を付けてあなたたちの子としなさい」と言われている言葉の裏には、神様の苦しみがあります。このことは、御自分の愛する子を手放し、人間の夫婦に与えるということなのです。愛する子を、他人に任せるということだけでも、胸が痛くなりますが、神様はさらにこの子が、すべての人々のために、十字架にかかって死ぬために、いまこの夫婦の子、人の子とならせたのです。それほどまでの、悲しみがありましょうか。ただ単に、マリアとヨセフにだけ与えられたのではなく、選ばれたすべての人々のために死ぬのです。それは、「この子は自分の民を罪から救うからである。」という神様の言葉に表されています。ヨセフとマリアの二人だけのためではなく、神様が愛されている民とされているすべてのものたちのためです。その者たちの罪を救うために、神様は愛する子を手放されたのです。その子は、すべての者の罪のために、苦しみ、十字架に掛かり、肉を割かれ、血を流され、その罪を担って死に、わたしたちを罪の中から救ってくださるのです。「イエスと名づけなさい」という言葉には、それほどまでも、神様のわたしたちに向けられた、深い愛が示されています。
ですが、この時点で、ヨセフもマリアも、この子が十字架に掛かって、すべての人の罪を贖うために死ぬということは、考えていなかったでしょう。
ヨセフは、神様の言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。彼は、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。
この子がマリアのお腹の中に来てから、ヨセフは愛する人も、神様も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださりました。そして、ヨハネは、その神様を信じる信仰に従って、受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、受け入れられることのできなかったお腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。
この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいたわたしたちが光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、わたしたちの間、内側に入ってきてくださったのです。その光によって、わたしたちは、新たにされるのです。その希望の光が、わたしたちの間、内側に来てくださって、いつまでも共にいてくださる。インマヌエル、「神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。
ヨセフが、自分の罪により、信じることのできない苦しさ、孤独の中にいた。しかし、そこにイエス様が近づいてきてくださり、共にいて下さり、彼の罪を背負ってくださったので、彼は信じるものとなり、孤独なものではなくて、マリアとイエス様と共に生きる、愛する妻と愛する神様と共に生きるものとなったのです。
そのイエス様は、わたしたちの間にも、わたしたちの内側に来てくださります。そしてずっと共にいてくださいます。
今日は、アドヴェントの一週目、今私達は、そのインマヌエルの希望の光を待ち望んでいます。