夕礼拝

旧約から新約へ

「旧約から新約へ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章1-17節  
・ 讃美歌:208、355

このイエス・キリストの系図は、わたしたちとまったく無関係なものではありません。この系図は、わたしたちの歴史と歩みとに関係しています。わたしたちの罪の歴史と、救いの歴史も、イスラエルの民と同様にこの系図に表されています。この系図の最後にイエス様が登場します。イエス様は、救いの約束の成就のため、イスラエルの人々の罪とその歴史を背負うために、そして異邦人の罪をも背負い救って下さるために、この系図の最後に登場されます。系図の中で現れるすべての罪の歴史を独りで背負うかの如くに、この系図一番先、最後に表れてくださっています。 イエス様は、イスラエルの民だけでなく、わたしたちの罪と救いの歴史をも背負うために、異邦人である、わたしたちをも、この系図の中に組み込んでくださっています。 本日から、マタイによる福音書に入りました。先ほど、今日与えられた御言葉を共に聞きました。マタイによる福音書の最初のイエス・キリストの系図は、カタカナが1ページにわたって羅列されており、声を出して、朗読するものにとっては噛まないように注意するのに必死な箇所です。聞く方はカタカナばかりだし、知らない人物の名前もたくさん出てくるので何がなんだか聞いていてもわからないということになると思います。聞いている途中で、集中力が切れてしまい、誰が誰の子であったのかということが、わからなくなることもあると思います。 また、わたしたちが「さぁ今日から新約聖書を読み始めよう」と決意して読み始める時に、この初めの系図のところは、さっと目を通して直ぐに、18節まで飛んでしまうとうことが多くあると思います。そして18節のイエス・キリストの誕生からゆっくり読み始めた、という人が多いと思います。わたしもそうでした。この箇所だけでなく、民数記の民族や数字の羅列や、旧約聖書に出てくる人物の羅列の所は、適当に飛ばして読んでしまうことをしていました。今回、マタイによる福音書を始めるにあたって、この系図もあまり意味なく、イエス様が生まれるまで家系、そのつながりを書いているんだな、じゃあここを飛ばして、18節から説教をしようかなと、最初は考えていました。しかし、ゆっくりとこの箇所を読んでみると、どうもそうではない。この系図を用いて、神様はわたしたちにはっきりとお伝えになりたいことがあるということが見えてきました。ですから、わたしたちは今日、一見ただの人物の羅列のようにも見えるこの系図を見つめ、神様の御言葉を聞いていきたいと思います。 まず、なぜ新約聖書の冒頭に系図が書かれているのかということを考えていきたいと思います。この新約聖書は、1ページずつ順番に書かれていって、作られたのではありません。新約聖書は、複数の書や手紙が集められ、まとめられた形で、一つになっています。その書や手紙は、それぞれ違う時代に書かれています。新約聖書のの順番はというと、書かれた時代順に並べられているというわけではありません。福音書が四つ新約聖書の最初に並べられていますが、この四つの福音書よりも早く書かれた手紙が、福音書よりもうしろに位置していることもあります。そして、マタイによる福音書が福音書の中で、一番早く書かれたのかというと、そうではなくて、聖書学の研究では、マルコによる福音書が一番早く書かれたものだとされています。では、なぜこのマタイによる福音書が新約聖書の冒頭に、置かれたのかと考えると、それは、この系図がマタイの最初に冒頭に書かれていたからでしょう。 この系図に出てくる人物の多くは、旧約聖書の時代を生きた人たちです。実際に旧約聖書に登場するする人も多くいます。新約聖書を一つにまとめた人たちも、そして、このマタイによる福音書を書いたマタイも、冒頭に、この系図を描き出すことによって、「旧約から新約への」つながりを意識していると言えるでしょう。むしろ、積極的に結びつけるために、冒頭にこの系図を置いたのでしょう。 では続けて、この系図自体を見て行きましょう。 この系図は、1節にあるように、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。端的に言えば、イエス様が「アブラハムの子ダビデの子」であることをこの系図は明らかにしていると言えます。まずこの系図は、イエス様がダビデの子孫であるということを、証明するために、書かれてあるといっても良いでしょう。イエス様がダビデの子孫であるということによって指し示したいことは、イエス様が「ダビデ家という由緒ある王家の家系につながっていること」を示したいのではありません。決して、この系図は、イエス様が由緒ある王の家系の方であるという権威付けをするために、書かれたのではありません。ではなぜ、ダビデの子であることをこの系図が物語ろうとしているのかというと、それは旧約聖書の預言と約束に関係しています。ダビデの家系から、メシアが生まれることを、旧約聖書は預言しています。ダビデの子から、救いを成し遂げるまことの王が生まれることを、神様は預言者を通して約束をされました。この約束とメシアの到来という預言の成就としてのイエス様を、強調するためにこの系図が、この福音書の冒頭に置かれたのでしょう。ですから、マタイは、イエス様の家柄が素晴らしいのだと語ろうとしているのではなくて、旧約聖書以来の、神様の救いの約束を、見つめており、その成就として、イエス様がおられることを語っているのです。 イエス様がダビデの家系から生まれるメシアであることを書きたかった。しかし、そうであるならば、この系図は、ダビデからで良かったのではないかという、疑問が出てくると思います。または、イザヤ書11章では、「エッサイの株から」つまり、ダビデのお父さんであるエッサイの子孫から、救い主が生まれるとありますから。エッサイからこの系図を書けば良いのではないかとわたしたちは考えると思います。しかし、マタイはアブラハムからこの系図を書き始めています。なぜ、マタイは、アブラハムから始まる系図を書いたのでしょうか。 この系図が、アブラハムから始まっていることが示すのは、実際の神様の救いの歴史とイエス様がつながっているということです。アブラハムは、神の民イスラエルの最初の先祖です。そして、イスラエルの民と神様との関係は、アブラハムからとの契約によって始まります。神様は、アブラハムと永遠の契約を結ばれました。それは、神様がイスラエルの民の神となり、イスラエルの人々は神様の民となるという契約です。 この系図がアブラハムから始まるのは、主なる神様とその民イスラエルの関わりの歴史、神様がイスラエル民族の神となり、その民族が神の民として応答するという歴史を受け継ぎ、その関係を完成させる方として主イエス・キリストがお生まれになったことを語るためなのです。この神様と民の関係は、どうだったかというと、一言で言うと、良いものではありませんでした。何度も何度も、民であるイスラエルは神様を裏切るような行為をします。契約において、何者をも神としてはならないと戒めが与えられているのに、他の神々を拝むということをしていますし、してはならないということを、何度もして、契約違反を繰り返しています。その度に、神様は怒られることもあり、悲しまれることもあり、しかし、民が悔い改めるのを、忍耐をもって待って下さり、最後にゆるしてくださる。しかし、また民は裏切る。ということを繰り返す歴史でした。このどうしようもない民と父なる神様との関係を、本当に完成させる方として、イエス様が立てられました。イスラエルの民が裏切りを繰り返すのは、その民が神様から離れるという、生まれた時から持っている罪のためです。その罪を取り除くことなしには、民は神様の本当の民とはなれない。神様との良き関係になれないのです。その罪を取り除くために、犠牲となり、その罪を肩代わりし、その罪を、死をもって精算するために、イエス様がこの世にきてくださったのです。神様はイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神様の民となるというその契約の成就させるために、神様と民との関係を正しいものとするために、イエス様がこられたのであるということを表すために、ここで「アブラハムの子孫」であることを、この系図に書いたのです。 17節では、その一連のイスラエルの歴史の流れをまとめてこのように書いています。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」とあります。アブラハムからダビデまでが、一区切りです。そしてダビデからイエス様へとつながるのではなくて、ダビデの時代からイエス様に至るまでに、バビロンへと移住させられた時代という一つの区切りがここで加えられています。いわゆるバビロン捕囚がもう一つの区切りとなっています。 このバビロン捕囚がなぜ起こったのかというと、歴史的には、ユダ王国(北イスラエルと南ユダに分かれている)が新バビロニア帝国によって襲われ、滅ぼされたからです。滅ばされて、南ユダの国の多くの人々がバビロニアに連れて行かれました。そうしてイスラエルの民は国の滅亡を経験し、また大事にしていた神様を礼拝する神殿も壊され、国も神殿もうしなってしまったという苦しみを経験しました。なぜバビロンアに襲われたのかということを、聖書は、ただ単にバビロニアが領土を広げたかったからだとは書いておりません。聖書は、イスラエルの民が、主なる神様の民であるのに、自分たちの主を忘れ、他の神々、異教の神々を礼拝し、偶像を拝むということをして、主なる神様を裏切ってしまったからだと書いています。そのような罪に対する神様の怒りによって、イスラエルの民は喪失を経験させられたと聖書は書きます。 ダビデからバビロンへの移住までの歴史は、イスラエルの民の罪が積み重なり、ついに神の怒りによる滅亡に至った歴史でした。このように主なる神様とその民イスラエルの歴史は、民の罪が明らかになる歴史でありました。 わたしたちも、このイスラエルの歴史に現れるような、偶像を作ってしまう罪とは無関係ではありません。わたしたちも、イスラエルの民と同様に、苦しくなったり、すべてがどうでも良くなったりする時に、神様を忘れ、自分に心地良い偶像を作り出します。仕事や、勉強、人間関係で行き詰まった時に、わたしたちはその行き詰まりの苦しさを、忘れるために、何かに熱中します。(テスト勉強の時の部屋の掃除や漫画の例)そのようなとき、本当は、解決を神様に求めなくてはいけないの、その場しのぎで偶像に飛びついてしまうのです。そのような時、神様はイスラエルの民と同様に、わたしたちにも悲しみを感じられておられます。神様を忘れてしまう民というのは、決してイスラエルの民だけではなく、わたしたちも同じその民なのです。わたしたちの罪とイスラエルの民の罪を比べてみても、そこに差はありませんし、全く同じものです。ですから、その時代にわたしたちが生きていたわけではありませんが、罪という現実を見るならば、わたしたちもバビロン捕囚で語られるイスラエルの民の中にいたと言っても過言ではないのです。 この系図では、バビロン捕囚から14代目に、イエス様がお生まれになります。イエス様がわたしたちに与えられるということには、主なる神様が、民の裏切りや偶像を崇拝する罪にもかかわらず、ご自分の民として選び、決して見捨てることなく、その罪を赦して、救いの約束を果たして下さる、という恵みが示されています。イエス様の誕生は、神様のこの罪の赦しの恵みの実現です。民が罪によって神様を裏切り、関係を断ち切ってしまっても、神様の方は、いったん結んだご自分の民との関係を決してあきらめてはしまわれないで、ご自分の独り子を遣わして、その関係をもう一度回復してくださる。その神様の恵みが、既にこの系図において語られているのです。 罪の面でも同様ですが、救いの約束の面でもわたしたちはイスラエルに民と同様です。わたしたちが自分の罪によって、神様のことを忘れ、神様から離れたけれども、神様はそのわたしたちをお見捨てにならないで、救ってくださるということは、わたしたちにも言われています。それは、わたしたちの犯してきたすべての罪の歴史、これから犯すわたしたちのすべての罪も、「イエス様がその裁きを十字架で肩代わりして」くださるために、この世に来てくださったのです。 ですが、わたしたち日本に住むものたちは、ユダヤ人ではありません。わたしたちは、選ばれたイスラエルの民ではなくて、異邦人であるという現実があります。「じゃあ、やっぱり、わたしたちはイスラエルの民とは罪は一緒だけど、この系図とは関係のない異邦人なので、イエス様の救いにはあずかれないじゃないか」とそう思ってしまうと思います。しかし、実は、この系図中には、ユダヤではない人も書かれています。それは、この男性ばかりが書かれている系図の中に、例外的に登場する4人の女性です。それは3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻の4人です。ルツは、イスラエルの出身ではなく、モアブ人です。ラハブはカナン人の町、エリコの遊女だった人です。タマルはアラム人でありました。また、ダビデの部下だったウリヤはヘト人で、その妻のバト・シェバも同じくヘト人だったと推測できます。そのような異邦人の四人の女性たちが、イエス様の系図で位置を与えられているというのは、実はとても不自然なのです。旧約聖書に書かれている、ユダヤ人の女性には、名前を上げても。この系図に出てきてもよいくらいの、素晴らしい女性たちが描かれています。それはアブラハムの妻サラであったり、イサクの妻リベカであったり、ヤコブの妻ラケルというユダヤ人の中でも重要なアブラハム、イサク、ヤコブの妻たちです。その婦人たちは旧約聖書の物語にも登場するのですが、この系図には書かれません。この婦人たちはこの系図で、位置を与えられていないのに、異邦人の婦人たちが、この系図で位置が与えられているのは、意識されていることがあると思います。それは、異邦人もこの系図に関わっているということ。そして、異邦人も、イエス様の救いの広さの中に入れられていることを示すためでしょう。そのイエス様の救いの広さの中に、異邦人が入っているのであれば、わたしたちも入れられているでしょう。罪人であるということだけでなく、神様はわたしたちも、この救いの系図の中にいれてくださっています。 しかし、この異邦人の女性たちは、救いの広さを示すためにだけ、この系図に組み込まれているかといえば、どうやらそれだけではなさそうです。 「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありますこの箇所のウリヤの妻とは、バト・シェバのことです。このバト・シェバとダビデの妻となりましたが、出会いは良いものではありませんでした。ダビデが、自分の部下であるウリヤの妻であったこのバト・シェバに恋に落ちてしまい、ウリヤをわざと、危ない戦地に行かせ、戦死させて彼女を自分の妻にしてしまいました。ここの出来事には、十戒に書いている、殺してはならないと、他人の家を貪ってはならないという掟を破る、ダビデの罪が現れています。この系図において、あえてバト・シェバと書かず、ダビデの妻とかかず、「ウリヤの妻」と書くことによって、この系図はダビデの罪を見つめているのです。 この異邦人の女性たちの名が記されているのは、異邦人がただ救いに入れられているということだけではなくて、そこに描かれている罪が見つめられ、指摘されています。 この系図は、救いと約束の成就を表すためだけの系図ではなく、イスラエルの民も異邦人も共に加わっている、ドロドロとした罪の歴史が一つにつながっている系図とも言えるでしょう。 この系図を読むものは、ここに出てくる人と人との間に生まれる罪の歴史が語られるとときに、自分の罪の歴史を重ね合わせますと読むことになるでしょう。イスラエルの罪の歴史、それを知って、重ね合わせたわたしたちの歴史、わたしたちの罪、そういったものが絡みあいながら、この系図は進んでいきます。しかし、この系図の一番下に、神様の独り子、救い主イエス・キリストが書かれます。そのようなわたしたちの罪の歴史の連鎖を、その身に受ける者としてイエス様がここで系図に登場されます。イエス様は、この世に生まれ、イスラエルの罪、そしてわたしたちの罪を引き受け、それを担って主イエスはこの世を歩まれました。そして十字架の死によって、わたしたち罪人のための贖いを成し遂げて下さいました。 今イエス様が、わたしたちの歴史と繋がり、救い主として、わたしたちの系図の最後に登場してくださいました。その時、イエス様はわたしたちの罪を担ってくださいます。そして、その死のさばきを代わりに負ってくださいます。その時、わたしたちの歴史は、ドロドロしていた罪の歴史から解放されます。そしてわたしたちの歴史は、死で終わる暗い歴史ではなくなります。イエス様が、わたしたちの系図の最後に現れてくださることで、わたしたちは罪から解き放たれて、死の歴史から、イエス様とともに永遠に生き続ける輝かしい歴史となります。 イエス様がわたしたちの救い主となってくださいます。この方がわたしたちの罪を肩代わりして滅びの罰を背負ってくださります。この方は、わたしたちを許し、見捨てることなく、生命を与え、この世の終わりまでいつも共にいてくださります。 わたしたちの系図に本当に、イエス様が表れてくださるときそれは、終わりの時です。 希望をもって、主が再びこられる日を待ち望みましょう。

関連記事

TOP