「あなたがたの父」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第26章7―13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第23章1―12節
・ 讃美歌:300、467
受難週に群衆と弟子たちに
本日はマタイによる福音書第23章1節から12節の御言葉に聞きたいと思います。本日より、第23章に入りますが、23章から25章にかけては、主イエスの教えがまとめて語られています。主イエスの御言葉と言って良いと思いますが、特に23章以下は、主イエスの律法学者やファリサイ派に対する鋭い批判が語られております。けれども、本日の箇所では直接、律法学者やファリサイ派に対して批判しているのではなく、主イエスは群衆と弟子たちにお語りになっています。主イエスはこう語られました。1節から2節をお読みします。「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。』」(1~2節)「それから」という言葉から本日の箇所は始まっております。主イエスはエルサレムへ入城され、十字架への道を歩まれております。この「それから」という言葉によって、マタイによる福音書は明確にこれから、主イエスが述べられる言葉が十字架につけられるまでの、受難週の緊迫した一連の論争の流れの中で語られた言葉であるということを示しています。そして、「イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」ということによって、主イエスが誰に向かって語られたのかということを明らかにしています。群衆や弟子とは、直接にはユダヤ教の指導者たちとは違って、主イエスを十字架につけたわけではありません。その群衆や弟子たちに主イエス・キリストは律法学者やファリサイ派との違いを対比しています。
律法を行い、守りなさい
ここで、主イエスはまず「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。」と言われました。この言葉は律法学者、ファリサイ派に対する批判の言葉ではありません。ここで、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の言うことを行い、守ることを勧めます。そして、その理由は彼ら、律法学者やファリサイ派の人々が「モーセの座に着いている」からだと言われます。モーセとは古代イスラエルの指導者であり、シナイ山で神から二枚の石の板に刻まれた律法、十戒を与えられた人物でした。このモーセの座に着いているということは、律法の立場に立っているということです。律法は神様からのお言葉です。彼らが、その律法の立場で語っていること、律法を尊重し、行い、守るのはイスラエルとして当然のことなのです。主イエスもまた、律法、神の言葉を尊重されます。マタイによる福音書はこのことを明らかにしています。主イエスはマタイによる福音書第5章17節でこのように語っておられます。「私が来たのは律法学者や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われます。主イエスはまさに、このように律法を大切に、尊重しております。主イエスのこのような基本姿勢から、律法学者、ファリサイ派への徹底的な批判がなされるようになるのです。律法は神の言葉と申しましたが、もう少し言い換えてみますと、神様のご意志ということになります。その神の言葉、神のご意志を大切にするということは、決して口では言っても実際には何も本気になって実行しないということがあってはなりません。表向き、建前ばかりで、本音はそれとは違うということではならないのです。当時の律法学者やファリサイ派が律法を大切にするということを説いているのは大いに重んじなくてはならないけれども、それがただの建前でしかなくて、本当になっていない現状では、律法を本当に重んじている、尊重しているとは言えないということです。
行いは見倣ってはならない
そして、主イエスは3節以下で更に厳しく批判されます。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」とあります。この主イエスのお言葉は、まさにそのような、言うだけで実行しない、有言不実行と態度を批判されております。律法学者、ファリサイ派の言うことは、モーセの座に着いてなされる言葉として尊重しなくてはならないが、その行動はその言うところを実行しているわけではないので、決して見倣ってはならないと、主イエスは言われるのです。主イエスはこのような律法学者やファリサイ派の言うだけで、実行しない、有言不実行の態度を次々と具体的に指摘されます。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(4節)律法学者、ファリサイ派がモーセの座に着いて語られる言葉は実行を求める言葉です。彼らはそれを語ることによって大きな重荷を人々に背負わせます。けれども、それを一緒に担う、努力して背負うことによって、彼らを励まし、その重荷を少しでも軽くするためには、指一本貸そうともしないのです。
人に見せるために
そして、律法学者やファリサイ派の目的について、主イエスは指摘されます。「そのすることは、すべての人に見せるためである。」そして、また具体的な態度ですが、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」(5節)と言われます。聖句の入った小箱というのは、旧約聖書の申命記の第6章4節以下の次の言葉によっています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子ども達に繰り返し教え、家に帰っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」ここで、自分の手に結び、覚えとして額に付けるのがフラクテリー(口語訳では経札)と言われる聖句の入った小箱なのです。その中には細長い羊皮紙の小片が入っており、律法の中心部分である出エジプト記第13章1-10節、13章11節から16節、申命記6章4節から9節、13節から21節がヘブライ語で記されています。 また、衣服の房を長くするというのは、やはり旧約聖書の民数記15章38節以下の、「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の房の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こし守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」という言葉に基づいています。ユダヤ人たちはこれに従って、房のついたショールを身に着けて祈ります。先ほどの、聖句の入った小箱、この房は聖書の言葉にもあるように、主の御心、御言葉を忘れないためのものですが、このように絶えず心を神に向けるはずのものが、実は神様ではなく、人間に向けられているということです。人が自分のことをどう思うだろうかといったことを計算してなされているとすれば、それはまったくの偽善という他はありません。神様に向かっているような振りをして、その実は人に向かっており、自分に向かっているのですから、「そのすることは、すべての人に見せるためである」と主イエスは言われるのです。外に現れていることと、心に願っていることが正反対なのです。主イエスは律法学者、ファリサイ派の偽善を批判しているのです。
キリストお一人
更に続けて「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(6~10節) 律法学者、ファリサイ派の人々にとっては「ラビ」、「先生」と呼ばれることが無上の光栄でした。「ラビ」という言葉は元々、わたしにとって偉大な方、わたしよりも大きな方、わたしの主人、わたしの先生、それぐらいの意味があったのです。律法学者やファリサイ派は日々、学び、人々を指導していました。そのような彼らの生活の態度とは、その生活全体はそのような言わば上昇志向に貫かれていました。宴会では上座、ユダヤ教の会堂、シナゴーグでは上席、広場、当時の社交場では挨拶をされ、無視されないで一目おかれることを喜びとし、ラビ、先生と呼ばれたいと望むのです。そのような他人よりも上に行こうとする上昇志向がここでは徹底的には批判されます。主イエスは弟子たちや、群衆の人々は決してそうであってはならないと戒められています。先生と呼ばれるな、まことの先生はただ一人、神から遣わされたキリストだけだから、後は皆平等に兄弟であって、上下はないのであり、まことの父は天におられる神お一人だけだから、地上の者を本当の意味では、父と呼んではならないとまで戒められます。
仕える者
そして、主イエスは勧められます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われます。律法学者、ファリサイ派は上からの視点で、一切の行動をします。上昇志向、上へ上へと限りなく昇ろうとしますが、その上から人々を見ていこうとします。従って、低い者は軽んじられます。低い者にはそのようなことではまだまだ、だめだとばかりにもっともっと重い重荷が課せられます。その反面、彼らは重荷に対して何一つ手助けしょうとしないであり、人からどのように思われるのかということだけを気にして、神のことは真剣には問題にしていません。主イエスの立場は違います。主イエスの立場は、僕の立場、仕える方としての立場に立って、そこから一切を見ています。主イエスは「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者となりなさい。」と言われました。この言葉の背後には、神の子が人となり、しかも、もっとも貧しく、低い僕となられた主イエスご自身のお姿があります。しもべとなって、最も低い所に立って、そこから見ておられるのが主イエスの視点です。だから、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。そのひとり子をしもべとしてお遣わしになった神がなさるというのです。 当時、律法というのは、ファリサイ派の理解では、三百以上あると言われていました。何々をしてはならない、何々をしなくてはならないという三百以上の戒めがありました。そのような戒めでがんじがらめになっていた人々は、到底それを実行できないことで良心の責めに苦しめられていました。上からの視点というのは、ただ責め、裁くことだけしかできません。 重荷を担い、背負いきれない重荷を負わされた者を、僕となって下からその重荷を背負って下さった方が主イエスです。主イエス・キリストが十字架において、その重荷を全て背負って下さった。これが主イエスの福音です。マタイによる福音書は、主イエスが十字架へと歩まれる中で主イエスの御言葉を記します。主イエスが十字架へといよいよ進んでおられます。そのような状況の中で、本日の箇所は主イエスの厳しいお言葉が記されています。 私たちが何か物事を語る場合に、どのような内容の事を語るのかということが大切なことであります。そして、それと同時に、それをどのような視点の下で語るのかということも、また大切な事柄であると思います。それは、主イエスご自身が十字架においてかかれられるという、しもべとなられた、愛のお姿です。主イエスの語られる御言葉は、裁きの言葉ではなく、赦しの言葉、福音そのものなのです。