夕礼拝

からし種一粒ほどの信仰

「からし種一粒ほどの信仰」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第41章8―13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第17章14-20節
・ 讃美歌 : 436、343

栄光の主イエスと出会う
 本日はマタイによる福音書第17章14節から20節をご一緒にお読みしたいと思います。本日の箇所は「一同が群衆のところへ行くと」と始まります。この「一同」という言葉は「彼ら」という意味があります。その「彼ら」とは第17章以下で登場してくる、主イエスと3人の弟子たちのことを指しております。17章1節以下では、主イエスはペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて高い山に登られました。主イエスの弟子は12人いるのですが、主イエスは3人の弟子のみを山へ連れて行かれました。つまり、他の弟子たちは山の麓で待っていたということです。「一同が群衆のところへ行くと」というのは山から下りてきた主イエスと弟子たちが、その待っていた群衆のところに来たのです。主イエスと3人の弟子たちとが山上で経験したことは、第17章の1節以下において記されています。小見出しに「イエスの姿が変わる」という話があります。主イエスによって、連れられた3人の弟子が山上で経験したことは、主イエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなるということでした。それは主イエスの栄光に輝くお姿に出会ったということです。主イエスの本当のお姿、本質を示されたということです。そのような主イエスに出会ったということは3人の弟子たちは神の恵みの出来事を経験したということです。それは弟子たちにとって「すばらしい」経験でした。

主よ、憐れんでください
 本日の箇所はその続きと言いますか、その間に山の麓に残された弟子たちのところで起きた出来事であり、主イエスが戻って来た時の出来事であります。群衆が集まってきていました。その群衆の一人が主イエスに近寄り、ひざまずき、願い求めました。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」と主イエスに願い出たのです。この息子が「てんかん」という病気で苦しんでいるとありますが、今日の医学での「てんかん」という病気そのものであるのかどうかはわかりません。ひきつけを起して倒れる、という症状から「てんかん」と推測されていたのです。そして、聖書はこの症状を単なる病気の症状と言うのではなく、悪霊にとりつかれたことによって起っていると見ています。つまり原因が、体の内部にあるのではなくて、外から入ってきて人間にとりつき、狂わせてしまう力にあるのだということです。悪霊は、この子供を度々火の中や水の中に倒れさせ、危険な所で倒れさせて命を脅かしているのです。この父親は、悪霊にとりつかれている息子を何とかして助けたいと願い主イエスの元に息子を連れて来ました。しかし、その時、主イエスは三人の弟子たちを連れて高い山に登っておられ、不在でありました。それなので、父親は残っていた弟子たちに、息子から悪霊を追い出して欲しいと願ったのです。しかし、弟子たちには「治すことができませんでした。」弟子たちも、主イエスの弟子として試みたのでしょう。けれども、悪霊を追い出すことはできなかったというのです。
 主イエスの弟子たちというのは、マタイによる福音書第10章にありますように、主イエスによって弟子を選ばれ、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けられたとあります。弟子たちは主イエスによって授けられた力によって、悪霊を追い出すことが出来たはずです。しかし、実際には悪霊は出ていかなかったのです。悪霊を追い出すことは出来なかったということです。弟子たちの試みは失敗したということです。弟子たちは癒すことが出来ず、弟子としての深い挫折、絶望を味わったと思います。主イエスによって、力を与えられはずなのに、自分は与えられた力を発揮することが出来ず、悪霊に打ち勝つことができないのです。悪霊を目の前にして、自分の力の無力さを知らされました。また、癒しを求め、期待している人の前で、無力さを露にされました。主イエスと三人が山に登っておられる間に、山の麓ではこのような出来事が起きていたのです。 主イエスが引き受けてくださり
 そして、その山上から、地上へと降りて来ました。そこで起きていることは、悪霊が支配し、人を狂わせ、脅かしているという現実でした。それは、またこの世の現実の姿でもあります。主イエスの恵み場から一歩、この地上の歩みへと出ますとそこには、悪霊が支配し、人々を惑わせ、人間を苦しめる力が支配をしているのです。主イエスはこの現実の姿をご覧になりました。大変厳しい主イエスのお言葉であります。主イエスはこの父親の言葉を聞いて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われました。主イエスの厳しい、そして深い嘆きの言葉であります。この主イエスのお言葉は悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちに対してのみ言われているのでしょうか。これは弟子たちだけのことではないと思います。主イエスは弟子たちをも含めた全ての者が生きているこの時代、人間とその社会をとり囲み、支配している力に対して、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」と言われているのです。私たちとは時々、このような発言を聞きます。「現代は信仰を持って生きるのが難しい時代である。」また「伝道がしにくい、困難な時代である」「主イエスの御言葉は通じにくい」と言います。そうであれば、二千年前の、主イエスがおられた時代であれば、神様を信じやすい時代だったのでしょうか。神様を信じやすい時代なのがあるのでしょうか。主イエスの時代も、私たちの生きるこの時代にも、神様のご支配は隠されております。神様のご支配が見えず、悪霊の強い力が人々の現実を捉え、支配しているのです。そのような中で神様のご支配を信じて悪霊の力と戦っていくことはまことに困難なことであります。主イエスの弟子たちさえもそのような悪霊の力に負けてしまうという現実があったのです。主イエスの時代も、私たちの生きる今の同じような時代なのであります。主イエスの栄光の姿とお会いする場から一歩降りる、山の麓の現実とは、いつもこのような力が支配しているのです。私たちは主イエスの言われる「信仰のない、よこしまな時代」を信仰者として生きるのです。主イエスは弟子たちのこと、またこの時代全体のことを嘆かれました。そして続けて言われました。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」この主イエスのもお言葉も大変厳しいものです。しかし、続けて「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われました。そして主イエスが悪霊をお叱りになり、悪霊は出て行きました。そして、子供は癒されたのです。主イエスが悪霊をお叱りになると、悪霊は出て行ったということは、

絶望の中で
 主イエスが悪霊に勝利をされたということです。打ち勝たられたのです。主イエスが、すべての悪霊の力をその身に引き受けて下さったということです。敵対する力、罪の力をすべて、引き受けて下さいました。それが主イエスの十字架の出来事であります。そして、その支配から、苦しむ子どもを解放したのです。罪の力から解放して下さったのです。主イエスが苦しみを背負われ、ご自分の身に引き受けられたということです。そのことによって、救って下さったのです。主イエスの弟子たちは悪霊に打ち勝つことが出来ませんでした。失敗をし、挫折をしました。しかし、主イエスは違いました。苦しみ、失敗、挫折を主イエスが担われたのです。ここで、悪霊の力を追い出すことが出来なかった弟子たちはひそかで、主イエスのところに行きました。そして「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねました。「ひそかに」というのですから、弟子たちは悪霊を追い出すことが出来ず、苦しんで、傷ついていたのでしょう。人々の前で、弟子としての、信仰者としての力を発揮できなかった、恥かしい、悔しいという思いがあったのです。弟子たちは人前に顔を出せないような思いに捉えられていたのです。

不可能を可能へ
 私たちもまた、一週間の生活を振り返りますと、うまくいったこと、良かったこと、感謝すべきこともあります。同じように、この世の現実の中での歩みにおいて、様々な挫折も抱えています。信仰者としての挫折があると思います。罪の力、悪霊ともいえるような力に敗北してしまったという経験です。信仰者としてのよい証を立てられずに、むしろ神様の栄えを汚すようなことをしてしまったという苦い思いです。そのような思いを抱えてこの場に集っているのではないでしょうか。私たちも弟子たちと同様に主イエスに「なぜ私は悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と問うのです。また、主イエスの厳しいお言葉です。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」。ここで主イエスは「信仰が薄いからだ」とおっしゃいます。そして「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も動く」と言われているのです。粉ように小さなからし種、その一粒ほどの信仰があれば、不可能も可能になる。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、それほどにも信仰がなかったからだということになる、つまり問題は弟子たちの、そして私たちの信仰にあるということです。

信仰が薄い者よ
 この「信仰が薄い」という表現はマタイによる福音書第8章26節において使われております。この場面で弟子たちはガリラヤ湖の嵐によって舟が沈みそうになってあわてふためいていました。主イエスはそのような弟子たちに、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たち」と言われたとありました。また、14章31節には、主イエスに願ってガリラヤ湖の水の上を歩いたペトロが、風を見て怖くなり、沈みそうになった、そのペトロをつかまえて下さった主イエスが、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたとあります。
 主イエスが「信仰が薄い」と言われたのは、主イエスが共にいて下さり、守り支えていて下さることを見失ってしまうことです。共にいて下さる主イエスから目を逸らしてしまうこということです。そして、この世の現実に働く罪の力、悪霊の力、主イエスに敵対する力を見てしまうことです。それが「信仰が薄い」ということなのです。この世の力、主イエスに敵対する力に目を逸らしてしまった。それゆえに弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったのです。ここで問題とされているのは、信仰の量、質ということではありません。からし種一粒ほどの信仰もなかったということなのです。あとどれくらい足りなかったという話ではないのです。からし種一粒とは、最も小さいもののたとえです。どんなに小さくても、信仰があれば、不可能が可能になると言われているのです。その信仰とは、共にいて下さる主イエスを見つめることです。様々なこの世の力、神様の恵みに敵対する力が支配し、私たちを翻弄しています。そのような中で、私たちが共にいて下さる主イエスを信じているか、どうか、信頼しているかどうかということです。信仰はあるかないかでしかないのです。私たちは私たちの力ではこの世を、そして私たちの人生を翻弄している悪の力、神様に敵対する力に打ち勝つことはできません。必要なのは、本当に力になるのは、大きな信仰ではありません。主イエスの前において、からし種一粒ほどの小さな信仰です。主イエスに委ねる、という小さな、私たちの貧しい、弱い信仰です。主イエスが共にいてくださるという約束を信じ「信仰の薄い者よ」と言いつつ私たちを支え、守り、助けて下さる信頼しつつ生きることです。小さな信仰こそが、山を移すほどの力を発揮するのです。信仰は不可能なことを成し遂げるのです。このことは驚くべきことであります。あるチャレンジを受けるということでもあります。私たちは、消えてしまいそうな小さな信仰で満足するようなことがあってはなりません。私たちは、神様に対して大いなることを期待しつつ、神を信じ、信頼して生きたいと思います。

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