「良い麦と毒麦」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 創世記 第18章16-33節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第13章24-30節
・ 讃美歌 : 240、255
クリスマスの時
本日は共にマタイによる福音書第13章24節から30節をお読みします。小見出しに「毒麦のたとえ」とありますが、この第13章というのは主イエスのたとえ話が集められている箇所です。本日は12月25日です。主イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋でこの世にお生まれになったことを覚える日です。主イエス・キリストは私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれました。またクリスマスは主イエス・キリストがこの世を裁くためにもう一度来られ、天の国、神様のご支配が完成することを待ち望む時でもあります。救いの完成である、主イエスの再臨を待ち望みつつ、覚えるときでもあります。
天の国のたとえ
24節には「天の国は次のようにたとえられる」とあります。主イエスはたとえ話によって「天の国」について語ろうとしておられるのです。「天の国」「天国」というのは、死んでから行く「あの世」のことではありません。マタイによる福音書において「天」というのは、「神様」のことを言い換えている言葉です。本日の24節以下は「種を蒔く人のたとえ」に続くたとえが語られています。それは「毒麦のたとえ」と呼ばれるものです。ある人が畑に種を蒔いたというたとえです。その種は「良い麦」の種でした。ところが人々が眠っている夜の間に、敵が来て、同じ畑に毒麦の種をも蒔いてしまったのです。それで、一つの畑に良い麦と毒麦とが共に芽生え育つということになってしまいました。
本日のたとえは、「種を蒔く人のたとえ」の続きです。神様がご自分の畑に種を蒔き、それが芽生え育っていく、私たちはその神様の畑に育つ麦なのです。神様がご自分の畑に私たちを蒔き、手入れをし、育てて下さっているのです。 私たち神様によって命を与えられ、この世を生きております。私たちは、神様が蒔いて下さった良い麦ということが言えます。その私たちが、造り主なる神様を忘れてしまうこと、神様ではなく自分が主人、神になって生きようとすることがあります。自分の主張を通そうとすることによって大事な隣人との関係を壊してしまうことがあります。自分の心無い言葉によって傷つけ合ってしまう、また信仰から離れてしまうということが起こります。罪によって私たちは、毒麦のようになってしまっているのです。神様は、その私たちを待っていてくださいます。私たちが、神様の方を向き、悔い改めて神様のもとに立ち返り、もとの良い麦となることを、神様は深い御心を持って、待っておられるのです。
良い麦か
本日の主イエスの譬え話しは毒麦も一緒に育っている、と語っているのです。そうなりますとこのたとえは、人間には神様によって蒔かれた良い麦である者と、敵、悪魔によって蒔かれた毒麦である者との二種類があり、人間はどちらかに分類されるということではありません。自分は良い麦だろうか、毒麦だろうかと心配するのではありません。主イエスによって示された神様の忍耐と慈しみを信じることができるのです。自分はどちらだろうかと考えるならば、私たちは毒麦でしかない者です。神様は、その毒麦である私たちを、ご自分の畑、御自分のところに招いて下さいました。神様は大いなる忍耐と慈しみをもって、私たちを良い麦へと変えようとしていて下さるのです。もう一つ見つめるべきことがあります。畑に毒麦があることは、他の良い麦にとっては良いことではないのです。迷惑になるのです。しかし神様はそれでも、毒麦を畑に植えたままにしておき、共に育てて下さるのです。そこには神様の大いなる忍耐と慈しみがありますが、それと同時に神様は、良い麦たちにも、忍耐を求めておられるのです。隣に毒麦が生えていて、それによって被る迷惑を、忍耐するようにと言っておられるのです。
神の忍耐
神様は忍耐の思いにより、私たちは、良い麦とされてきたのです。自分の周りに、毒麦のような人がいると思う時に、裁きは神様に委ねて良いのです。
敵が蒔いていった毒麦も一緒に芽を出し、育ってきている、そういう神の畑の現実が指摘されています。このたとえではそこに「僕たち」が登場します。この畑の持ち主であり、良い種を蒔いた人である主人に仕える者たちです。彼らは「では、行って抜き集めておきましょうか」と言います。敵の蒔いた毒麦を、今のうちに抜き集め、畑を本来の良い麦だけの畑にしよう、ということです。この僕たちを、教会の指導者たちに限定する必要はないのです。要するにこの僕たちというのは、良い麦と毒麦が混在しているようなことはいけないと思っている人たちです。自分こそが何とかしなければならない、と思う人々です。毒麦は早めに抜き取って、良い麦だけの、本当に神様が種を蒔いた、つまり神様が選び、招いて信仰を与えた、その人々だけの純粋な群れにしなければならない、と思った人々です。
刈り入れの時まで
この僕たちの提案に対して、畑の主人、神様はこうお答えになりました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」。この主人の言葉が、このたとえ話の中心です。僕たちは「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』また27節では「では、行って抜き集めておきましょうか』と言いました。しかし、主人は、「今毒麦を抜き集めて畑を良い麦だけにしてしまうことはするな」と言いました。つまり今は、良い麦も毒麦も一緒に育つままにしておけ、というのです。ということは、主人は、つまり神様は、ご自分の畑に毒麦が育っていくことをお許しになったのです。神様の畑に、毒麦は存在してはならない、とは神様はお考えになっていないのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておけ」と言われています。良い麦と毒麦が共に存在することを許されているのは、「刈り入れまで」の間のことなのです。刈り入れの時には、毒麦は全て集められて火で焼かれ、良い麦の束は倉に入れられる、つまり良い麦と毒麦との区別がはっきりとつけられるのです。この刈り入れは、この世の終わりに行われる神様による裁き、最後の審判です。裁きの日にはこのように、良い麦は良い麦として救いにあずかり、毒麦は焼き滅ぼされるのです。ですから、神様は決して、私たちが良い麦でも毒麦でもどちらでもよい、と言っておられるのではありません。神様の救いにあずかることができるのは、やはり良い麦だけなのです。つまり神様は、良い麦と毒麦とを、つまり救われる者と滅びる者とをお分けになる、しかしその両者を分けることは、終わりの日の裁きの時に行われるのです。それまでは、この両方の者が共に存在することをお許しになる、ということです。
本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として、創世記18章16節以下を選びました。ここは、アブラハムが神様を値切ったところとしてよく知られています。悪徳の町ソドムとゴモラを神様が滅ぼそうとされる、その時アブラハムは神様に、「その町に五十人の正しい者がいても、その人々を悪い者たちと一緒に滅ぼされるのですか」と言いました。神様は、「正しい者が五十人いるなら、町全体を赦そう」と言われます。アブラハムはその五十人という数を値切っていくのです。そしてついに、十人の正しい人がいれば、町全体を赦すという約束を神様から取り付けます。十人の正しい人を守るために、他の何千という滅ぼされるべき悪人をも赦して下さる、それが神様のみ心です。その御心が、この毒麦のたとえにも表されているのです。
神の御心
29節にはこうあります。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」ということです。今は両方ともそのままにしておくのは、毒麦を抜こうとして間違えて良い麦を抜いてしまうことが絶対に起こらないためなのです。ここから私たちはいろいろなことを考えることができます。良い麦と毒麦の区別とは難しいのです。これは毒麦だと思って抜いたものが、実は良い麦だったりすることがあるのです。このことは、今私たちが、私たちが自分の思いや感覚で、「この人は毒麦だ」と決めてしまうことです。私たちには良い麦と毒麦の区別を、私たちは出来ません。抜くべきでないものを抜いてしまうことがあるのです。つまり私たちが、自分は良い麦であって、この人は毒麦だ、と思うことです。それは実は神様から見ると良い麦であるということがあるのです。だから私たちは、自分でそれを決めてしまってはならないのです。裁きは、私たちがすることではありません。する必要はないのです。神様がなさることであり、神様しかできないことなのです。その神様の裁きに委ねるということです。それが、「刈り入れまでそのままに」ということの意味なのです。神様が、ご自分の畑に育つ麦の一本一本を本当に大切に思っておられます。神様は良い麦の一本でも間違えて抜いてしまうことがあってはならないと思っているのです。そのために、沢山の毒麦も一緒に育てていこうとしておられるのです。そこには、一本の麦、一人の人間に対する神様の御心が示されております。クリスマス、私たち一人ひとりの心の中に主イエスが来られることを覚えるときです。主イエスはこの一本を守るために、敢えて毒麦をも生かされるのです。主人の言葉である「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」には神様の深い御心、一人の人を愛し貫く神の御心が込められています。