「天の父の御心」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第6編1-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章21-23節
・ 讃美歌 : 16、436
15節との関連で
本日は、マタイによる福音書第7章21-23節を共にお読みしたいと思います。本日の箇所はお読みになると、厳しいことが書かれていると思われると思います。主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」とおっしゃいます。イエス・キリストに向かって「主よ」と言う、イエスこそ主であると告白をし、主イエスを崇めるということが教会の信じている、信仰です。しかし、ここでは、そのようにイエスを「主よ」と言っている者が皆、「天の国に入るわけではない。」とあります。つまり救いにはあずかれるわけではない、と言われています。救いにあずかれない場合があるというのです。23節の言葉ではこうあります。最後の審判の時に主イエスから「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と言われてしまうことがあるのです。イエスのことを「主よ」と言い、主イエスを信じる信仰者であるつもりでいても、主イエスからは「あなたたちのことは全然知らない。」と関係ないと、言われてしまう、つまり信仰者ではないと言われてしまうということです。「主よ、主よ」と呼ぶことが悪いということではなく「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主イエスはおっしゃっております。ただ天の父の御心を行なわれなければ、そのように口先だけでは何もならない、ということであります。ここで言われている、非難は偽預言者に対するものであると言われております。前回の7章の5節のところではこうあります。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」主イエスは偽善者に警戒しなさいと言われております。預言者とは、神様の御言葉を預かり、神様の御言葉を伝える者です。信仰者の指導者であり、導き手である預言者の偽者に警戒をしなさいと主イエスは教えます。偽者の預言者に導かれていった、間違った道を歩んでしまいます。23節の言葉で言えば、最後の審判の時に主イエスから「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われてしまうことがあるのです。そうするとこれは、私たちの方では、自分は主イエスを信じる信仰者であるつもりでいても、主イエスからは、おまえたちとは関係ない、と言われてしまう、つまりおまえたちは偽者の信仰者であると断定されてしまうということです。偽者になってしまうのは指導者だけではなく、信仰者一人一人が、偽者になってしまう危険があるのです。私たちは、自分自身に対して、このことを問いかける必要があるでしょう。
世の終わりの時に
21節の言葉からすれば、「主よ、主よ」と言っているだけではだめで、「天の父の御心を行う」ことが大事だということです。そうすると、天の父なる神様の御心を行うことこそが、本物の印であるということになります。私たちはこの21節を読むと、これは、言葉だけではだめで行いを伴わなければならないということだ、と理解しがちです。「主よ、主よ」と口で言うだけで、実際に御心を行うことがなければ意味がない、それは偽者だ、と主イエスは言っておられるのだと思うのです。そこから、信仰が本物であるとは、言葉だけではなく、行いが伴うことだ、という理解が生まれます。しかし、主イエスが言っておられることは果たしてそういうことでしょうか。次の22節以下に語られていることは、そういう理解とは矛盾するのです。そこには、「かの日」つまり世の終りの日に、結局主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまう、つまり偽者と断定されてしまう人々のことが語られています。その人々は主イエスにこう言うのです。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」。つまりこの人々は、数々の立派な業、行いを、しかも「御名によって」つまり主イエス・キリストの名によって行ってきたのです。「主よ、主よ」と言うだけで何も行動しなかったのではありません。預言し、つまり御言葉を語り、悪霊を追い出し、奇跡をすらも行ったのです。私たちの中の誰よりも、この人たちはすばらしい行いをし、力ある業をしたと言えるのです。ところが彼らは主イエスから、「おまえたちは私と関係がない」と言われてしまう、偽者だと言われてしまう。ですから、本物と偽者とを区別する鍵は、行いがあるかどうか、ということではないのです。勿論、行いはなくてもよい、ということではありません。問題はその行いが、「わたしの天の父の御心を行う」ことになっているかです。彼らがしてきたことは、立派な、力ある業でした。人を助け、救うような業でもありました。しかし、「天の父の御心を行う」ことにはなっていなかったのです。ですから問題は、「言葉だけではなくて行いだ」ではないのです。どういう行いをするか、その行いが本当に父なる神様の御心を行うことになっているか、が問われているのです。
父の御心
15節以下において語られてきた、偽預言者を警戒しなければならない、というのもこのためです。彼らは羊の皮をかぶって来る。それは、本物の預言者との見分けがつきにくいということです。一見すると本物に見えるのです。もしもその預言者が、言葉だけで何も行いを伴わないなら、そんなものは偽者だとすぐ見抜くことができます。あるいは明らかに悪いことをしているなら、そんな者についていく人はいないのです。ところが、偽預言者はそんなことはしないのです。むしろ彼らは「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行う」のです。だから本物との区別が難しいのです。よい行いが伴っているかどうか、ということだけで判断しようとすると、本物と偽者とを正しく区別することができないのです。本物と偽者とを見分ける鍵はそこにあるのではなくて、「天の父なる神様の御心を行っているかどうか」にこそあるのです。
山上の説教の中で
それでは、天の父なる神様のみ心を行うとはどういうことでしょうか。そこで思い起すのは、今私たちは、主イエスが語られた「山上の説教」の結びの部分を読んでいる、ということです。これまでに語られ、教えられてきたことのしめくくりとして、この教えは語られているのです。「天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができる」。この教えは5章20節の言葉を思い起こさせます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。ここにも、天の国に入るためには何が必要かが語られていました。それは、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」に生きることです。そしてその「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とはどういうものであるかが、5章21節以下の、山上の説教の中心部分において語られてきました。そこに様々な仕方で語られてきたことの中心となっていたのは、「あなたがたの天の父」という言葉でした。主イエス・キリストの父であられる神様が、あなたがたの天の父となって下さり、あなたがたを子として愛し、養い、はぐくんで下さる。その天の父の子として、天の父の愛を信じ、その養いと導きに身を委ねて生きなさいというのが、山上の説教の中心的なメッセージなのです。この天の父の愛の下で生きること、それこそが、「天の父の御心を行う」ことであります。「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言う人々は、確かに立派な行い、よい業を沢山してきた、しかし彼らはそれをすべて、自分の業績、自分の財産にしているのです。そしてその自分の富、豊かさによって天の国に入ろうとしているのです。そのような者たちが見ているのは神様ではなく、もはや自分自身でしかありません。神様の愛や恵みではなく、自分の豊かさなのです。そのような者に対して主イエスは「あなたたちのことは全然知らない。」と言われるのです。自分の良い業、自分の財産により頼んでいる者は、主イエス・キリストとは何の関係もない、その救いとは何の関係のないものなのです。その救いとは無関係な者なのです。山上の説教の冒頭の言葉、5章3節の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という御言葉をも思い出します。「心の貧しい人」とは、自らの中に何の富も持っていない人、誇るべき何物をも持たない人、ただひたすら、神様の愛と憐れみによりすがるしかない人です。主イエスによってもたらされる天の国、神様の救いは、そのような人々にこそ与えられるのです。
御心を問う
『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。と言うのです。つまり、天の国とは天の父の御心を行なう者だけが入るということです。天の国に入るというのは、ずっと将来のことに留まりません。この地上の命を終えた後のことではないのです。神様は父であられるということは、そのことこそが神様が私たちの命の根源であるということです。神様は今ここで私たちの命が絶たれても、永遠につなぎとめて下さるような、憐れみの父だということであります。この神様の御心は一体どこに見えてくるのでしょうか、私たちは時として日常の歩みの中で、神様の御心が問えないときがあります。神様なぜでしょうか。とどこでどのように神様は御心を明らかにしてくださるか分からないからではないでしょうか。日々、神様の御心は重んじていきたいと思うとき、それをどのように聞き取ることができるのでしょうか。このことは私たちにとって切実な問いかけであります。
「天の父の御心を行う」、それはこの山上の説教において教えられてきたみ言葉に従って天の父なる神様の子として生きることです。天の父なる神様のもとで、その子として生きるところに与えられる実りとはどのようなものでしょうか。この教えを語られた主イエスご自身が、まさにそのように歩まれました。主イエスは私たちの罪を背負って十字架の死への道を歩んで下さり、自分を十字架につける者たちのためにもとりなし祈って下さったのです。それは主イエスが、ご自分をお遣わしになった天の父なる神様の御心を行い通されたということです。私たちはこの主イエスに従っていくのです。
自分の行い、力、業績によって歩み、天の父の御心を行なわないのであれば、他者との比較によって生きてしまいます。自分の業や力を人の業や力と見比べて、自分を誇っていこうとするのです。自分の誇り、自分の思いを満たすためだけに行なうのであれば、そこでの対象は神ではなく自分自身です。
主イエスの愛
コリントの信徒への手紙一第13章の1節から3節において、こうあります。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」他人のために全財産を使い果たしても、他人のために命をささげたとしても、愛がなければ無に等しいとあります。ここに書かれている、全財産を使い果たす、死ぬことは普通できないことです。愛の行為であります。しかし、そのような行為であっても愛がなければ無に等しいというのです。これが人間の姿です。人間の愛の現実です。しかし、主イエス・キリストの示された愛は違うのです。人間の愛よりももっと深く、広い愛を示されました。十字架において示された限りのない愛を確信し、信じることです。私たちは神様の御心が見えず、神様が見えなくなってしまうときがあります。主イエスは十字架において、「わが神、わが神、なぜ私のことを知らないといわれるのですか。」と叫ばれました。天の父なる神様に向かって、「あなたはなぜわたしのことを知らないと言われるのですか。」と主イエスご自身が問われたのです。真の預言者である主イエスが預言者として、神の名によって語られたお方が、偽預言者として裁かれたのです。主イエスは私たちの立つべきところに立って下さったのです。主イエスが私たちのために、神によって突き放され、その悲しみの奥底に立って下さったのです。この主イエスを十字架につけられた中において、人間が神様の御心を見失う中でも、この神こそが私たちの父であられるということを分かる場所を示して下さったのです。この神を信じ、キリストと固く結び付けられる愛によって生きる。天の父の御心を行うとはこのことであります。