夕礼拝

和解しなさい

「和解しなさい」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第18章25-32節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章21-26節
・ 讃美歌 : 529、343

律法の完成者
 本日は共に マタイによる福音書第5章21-26節から御言葉に耳を傾けたいと思います。本日の箇所の少し前の17節から主イエスは律法について語っております。本日の箇所と結びついていますのでお読みします。17節の主イエスのお言葉です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。また20節ではこうあります。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟であり、戒めです。主イエスはご自分をその律法を完成させるためにこの世に来た、と言っておられます。律法の完成者である主イエスを信じ、主イエスに従っていく信仰者は主イエスによって完成された律法を行っていくのです。また、一方で律法学者やファリサイ派の人々とは旧約聖書の律法の専門家でした。日夜、律法を学び人々に教えていたのです。しかし主イエスを信じる者は、主イエスによって完成された律法を行って生きるがゆえに、律法学者やファリサイ派以上の義、正しさに生きるのです。それでは主イエスは旧約聖書の律法をどのように完成させたのでしょうか。律法を完成させるとはどのようなことなのでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とはどのようなものなのでしょうか。5章17節から48節までがそのことを語っています。本日の21節以下にも主イエスによって完成された律法とはどのようなものなのか、ということが語られていきます。

しかしわたしは言っておく
 21節と22節の途中までをお読みします。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」「しかし、わたしは言っておく」とあります。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は、旧約聖書の律法の言葉です。「殺してはならない」は律法の中心である十戒の第六の戒めです。「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉そのものは十戒の内容にはありませんが、律法にはそのような内容が込められております。つまり、この「昔の人に命じられていること」と言うのは旧約聖書の律法の教えなのです。そのことを示した上で主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」とご自身の教えを語っていかれます。主イエスは律法を完成するお方です。律法を完成されるお方の教えが、「しかし、わたしは言っておく」と語られていくのです。律法を完成するとは、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きるとはどういうことなのかということが、この主イエスの「しかし、わたしは言っておく」と言う言葉の続きに語られていきます。このような語り方はこの後5章の終わりまで繰り返されています。律法の教えは「~と命じられている。しかしわたしは言っておく」という形で引用されては、律法を完成する主イエスの教えが語られていくのです。そのような意味で、この5章21節から48節までは一つのまとまった部分なのです。そしてこの主イエスのお言葉、「しかしわたしは言っておく」とは大変驚くべきことであります。当時のイスラエルの社会において律法は神の言葉であり、神そのもののように重んじられなければならないものでした。主イエス御自身も、律法は1点1画おろそかにしてはならない、と言われたのであります。どのような理由があるにせよ、律法を批評したり、それに代わるものを持ち出すということは到底許されることではありませんでした。けれども今主イエスは「しかし、わたしは言っておく。」と語り始められたのです。

人を殺すな
 本日の箇所は「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」と始まります。この「殺すな」という律法の教えが挙げられています。「殺すな」「人を殺してはならない」ということです。『人を殺した者は裁きを受ける』というこの言葉は、誰も何の抵抗もなく受け入れることができるものであります。「殺してはならない」とは、十戒にある戒めであり、また聖書を読んだことのない方であっても、人を殺してはいけないことを知っている当たり前のことです。 けれども、残念なことに私たちの社会では今この誰もが知っているこの当たり前のことが崩れてしまっています。ゲームでもするかにように、また自分の鬱憤晴らしに他者の命を平気で奪うということが毎日のように起きております。「人を殺してはならない、人の命は尊重しなければならない」という一番基本的な道徳律が、もはや力を持っていないのです。しかしこのことは、実は今に始まったことではありません。「殺すな」という戒めがあっても、殺人はずっと行われ続けてきたのです。「殺すな」という戒めも、「人を殺した者は裁きを受ける」という刑法の罰則規定も、殺人をなくす力を持ってはいなかったのです。だからこそ主イエスはこの律法の戒めを完成しようとなさるのです。私たちの最も常識的な教え、当たり前の道徳律、戒めを主イエスはまず取り上げられたのです。主イエスはこの教えをどのように「完成」なさるのでしょうか。この律法の教えを完成させるために、何を語られたのでしょうか。

兄弟に
 22節をお読みします。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とても厳しいことを主イエスは語られました。兄弟に対して腹を立て、ばか者、愚か者と言う人は、そのことで兄弟を殺すのと変わらないというのです。人を殺す者だけが裁きを受けるだけではなく、兄弟に対して腹を立てる者、ばか者、愚か者と言う者たちも裁きを受けるのだ、と主イエスは言われました。私たちにとって人を殺さないことはそんなに難しいことではないかもしれません。しかし、腹を立てない、怒らないことはとてもできることではありません。それが律法なら誰もが絶望してしまうのではないでしょうか。「兄弟に腹を立てる」ことは心の中で怒りや憎しみの思いを持つことです。「ばか」というのは、兄弟に腹を立てるそのような思いを、心の中で抱いているだけでなく、言葉として表すことです。「ばか」と言うことと「愚か者」と言うこととは日本語ではあまり違わないように思えますが、「愚か者」と訳されている言葉はより深刻です。この言葉はしばしば、神様との関係において愚かである、神様との関係が適切でないという意味で使われます。つまり「愚か者」とは「神様に背いている、呪われるべき者だ」と言うことなのです。そのように、ここで並べられている三つのことは、兄弟に対する怒りや憎しみにおいて次第に深く強くなっていると言うことができます。そしてそれにつれて、その者に与えられる裁きもまた深まっていくのです。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける、それは言わば地方裁判所の裁きです。「ばか」と言う者は最高法院に引き渡される、それはエルサレムにあった上級裁判所です。そして「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、それは、神様の裁きを受け、罰せられるということです。そのように、憎しみ、怒りの深まりと共に、与えられる裁き、罰も深まっていくのです。そしてこのことを主イエスは、「殺すな」という戒めを完成するご自分の教えとして語っておられるのです。つまり主イエスは、「殺すな」という戒めを、兄弟に対して腹を立てる、その怒りや憎しみに対する戒めによって完成しようとしておられるのです。兄弟に腹を立てること、悪口を言ったり、呪ったりすることは、人を殺すことと同じだ、ということです。「殺すな」というのが、旧約聖書以来の律法ですが、主イエスは、人に腹を立てること、悪口を言うこともそこに含めて、それを禁止なさったのです。それが主イエスによる律法の完成であり、主イエスを信じる者たちは、律法学者やファリサイ派の人々にまさるこのような義に生きるのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法に書かれていることを守ることに熱心でした。律法に「殺すな」とあったら、人を殺さないことによってそれを守ろうとしていました。しかし主イエスはご自分の弟子たち、信仰者たちに、それ以上のことを求められたのです。23、24節ではこうあります。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」ここでは二つのことが教えられています。一つ目は祭壇に供え物を献げようとする時に、兄弟が自分に反感を持っていることを思い出したなら、まずその兄弟と仲直りし、それから供え物を献げなさいという教えです。この二つの教えは、「仲直りせよ」「和解せよ」と言っています。自分に反感を持っている人、自分を訴えようとする思いを持っている人と、和解しなさいという教えです。

祭壇に供え物を献げる
 23節の最初は「だから祭壇に供え物を献げる」と始まります。「祭壇に供え物を献げる」とは神様を礼拝することです。大事な礼拝の前に主イエスが求めておられることは、人に対して腹を立てないということであると同時に、人と和解すること、仲直りすることでもあるのです。「殺すな」という教えも、「腹を立てるな」という教えも、共に「○○するな」という何かを禁止する「戒め」ですしかし主イエスの教えは、消極的な戒めではなく、もっと積極的に「和解せよ」という命令なのです。主イエスは、「殺すな」という戒めの「殺す」という言葉の意味を「腹を立てる」ことにまで広げ、従ってより厳しい、より広範囲な禁止命令を下す、という仕方で律法を完成しようとしておられるのではないのです。主イエスによる律法の完成は、「~してはならない」という禁止の命令を、「~せよ」という積極的な命令へと転換することによってなされているのですここについて言えば、「殺すな」という禁止を「和解せよ」という命令に転換させておられるのです。その転換を導きだすために、腹を立てること、怒りの思いも人を殺すことと同じだ、ということが語られているのです。人を殺すことは、人に対する敵意、怒り、憎しみの思いから生じます。「和解しなさい、仲直りしなさい」と主イエスは語っておられます。それは、自分に反感を持っている兄弟と、あるいは自分を訴えようとしている人と、つまり人間どうしの間の和解です。しかし、あなたを訴える人と和解しないでいるとどうなるか、25節の後半から「さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」と言っております。祭壇に供え物をしようとして、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、という教えも、兄弟と和解することを神様への礼拝に先立ってなすべきこととしているわけですが、それは、このことが神様を正しく礼拝するために必要だからです。つまり、神様との関係を正しく保つために、兄弟との和解が必要だと言っているのです。そのように、人との和解はただ人との関係をよくすることではなくて、神様との関係を整えることでもあるのです。主イエスは、そのような和解を私たちに教え、求めておられるのです。

和解をする
 この「和解」という字は元々「交換をする」という意味があります。言葉の成り立ちを言うならば、他のものと変える、というのです。和解とは今までの自分と変わったものになるということです。敵意が友情に変わる、という意味になるのです。主イエスは人間の罪を、御自分の身に引き受け、十字架にかかって死んで下さいました。人間の反感、敵意、罪によって、主イエスは殺されたのです。私たちの罪を怒り、それを審き、私たちを滅ぼす力と権利と正しさを持っておられる神様が、このことによって私たちに和解の手を差し伸べて下さったのです。私たちはこの恵みによって神様との和解を与えられています。それが、主イエス・キリストによる救いなのです。主イエスはその救いにあずかっている私たちに、兄弟と和解しなさいとお命じになります。それは、私たちを途方にくれさせるような、絶望させるような課題です。主イエスが私たちとの和解のために、私たちの反感や敵意を受けとめて十字架にかかって死んで下さった、その与えられた恵みに応えて、私たちも自分に反感、敵意を持つ兄弟との和解に生きようということです。それは、そうしなければ救われないという掟や戒めではなくて、むしろ私たちは主イエスによって、そのように生きることができる者とされている、そういう自由を与えられている、ということです。主イエスが律法を完成するというのは、そのようなことなのです。「~してはならない」という禁止から「~しなさい」という積極的な命令への転換ということを先程申しました。しかしそれだけでは、律法を完成することにはなりません。主イエスは「兄弟と和解しなさい」という命令を、ただ命令として与えるだけではなくて、まずご自分が実践されたのです。御自分の命を捨てて、私たちと和解して下さったのです。私たちはこの主イエスの十字架の恵みの出来事を信じ、その恵みの中で生かされることによって、自分から積極的に、兄弟と和解していく者となることができるのです。そこに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる私たちの義が実現していくのです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。その「殺すな」という律法の完成は兄弟と和解をすることです。私たちはそのことを、誰よりも主イエス・キリストが与えて下さった和解の恵みの中に見出すことができます。主イエスは、私たちの神様へ背き、敵意、罪をご自分の身に受け止め、それによって傷つき、死んで下さいました。正しい方、罪のない方である主イエスが、そのように苦しみと死とを引き受けることによって和解を実現して下さったのです。主イエス・キリストは、正しい者でありながら、罪人から苦しみを受け、殺される、そのことを通して、罪人である私たちとの和解の道を開いて下さいました。

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