夕礼拝

神の証し

「神の証し」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章14節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第5章6-12節  
・ 讃美歌:464、479

「神の証し」、神様は証をされています。
(1) 誰に向かって証をされているのか。
 それはわたしたちです。
(2) どうやって神様が証をされたのか。
 それは、愛する独り子イエス様を通して証しされました。
(3) 神様は御子を通して、どのように証しされたのか。
 神様は愛する独り子を手放し、その子を十字架にかけ、わたしたちに証ししてくださいました。
(4) それをわたしたちはどのようにして知ることが出来るのか。
 それは聖霊なる神様によって知ることができます。
(5) 聖霊なる神様がどのようにして知らさてくださっているのか。
 聖霊なる神様は、聖書に働き、説教にもおいても働き、洗礼と聖餐にも働き、教会に働き、今を生きるわたしたちに、神様の証し、御子の生涯の出来事を、現実のこと、真実のことであると知らせて下さいます。
(6) では一体、神様は御子を通して、なにを証しされているのか。
 それは、その御子の血の犠牲を通してわたしたちに永遠の生命を差し出されていること、そしてその永遠の生命が御子であられるイエス様の内にあるということです。

 神様は今もわたしたちに証ししてくださっています。その神様の証は、神様の愛する子イエス様を通して証しされました。それは今日共に聞きました、ヨハネの手紙一の5章9節後半「神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」でヨハネも神様がイエス様を通して、わたしたちに証しをしてくださっていると語っています。証しとは一体、なんでしょうか。「証し」とは、「確かであるというしるし。証拠。証明。」ということです。裁判の時に、証人が立てられて、事件に関係する事実を法廷で語ることがあります。あの証人が語ること、それが証しです。言葉を変えれば証言となります。神様が証言をしてくださっている。「ほうほう、神様はわたしたちに証言してくださっている。では一体なにを証言してくださっているのか?何を目的として、なんのためにわたしたちに証言してくださっているのか?」とわたしたちは疑問に思います。その問の答えに探求するために、まず神様がどのようにして、証ししてくださったのかを共に考えてみたいと思います。

 ヨハネは、この手紙の5章9節で「神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」と言っています。御子についてなさった証しというのは、神様が神様の独り子であるイエス様を通して証言されたと言い換えても良いでしょう。それは、神様が法廷の証人として、たたれたとして、「わたしの子どもであるイエスが証拠だ」言っているということです。
どのようにして、わたしたちに神様は証ししてくださっているのかという問いに対しては、神様はイエス様をこの世に送り、この方がなさったことを通して、わたしたちに、証言をしてくださっていますという答えになります。では神様がイエス様になさったこととは、神様がイエス様に表した証拠とは一体何なのでしょうか。それは、今日与えられた御言葉の最初、6節にそのヒントがあります。6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」イエス様は、「水と血を通って来られ」ましたと、ここではヨハネが証しています。実はこの水と血に神様の証しが表れています。
 まず、イエス様が水においてこられたこととはなにかというと、それはイエス様が洗礼の際に水を注がれたことを意味しています。ヨハネによる福音書1章31節以下には、洗礼者ヨハネが、わたしはイエス様に水で洗礼を授けに来たという文章が繰り返されています。ヨハネによる福音書1章32節には、次のように書かれています。
 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が“聖霊”によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである
 水と聖霊、そして証しという言葉が、ここにでて出てきます。ヨハネによる福音書のこの洗礼の箇所で、神様がわたしたちに伝えたいのは、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けたという事実ではなくて、人として肉体をとって地上に来られたイエスという方が、天から来られた神の御子であるという出来事のほうです。また、マタイによる福音書のイエス様の洗礼のシーンでは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様が、直接イエス様は神様の子であるということを証ししておられます。従って、「水」が示すのは、この洗礼をイエス様が受けたということでなく、「イエス様が神の子である」ということを指し示しています。
  それでは、「水と血」とはどういうことでしょうか。これは何を指し示しているのでしょうか。ヨハネはこの手紙の5章6節であえて「水だけじゃなくて、水と血だ。」と注意を促しています。この水と血は、ヨハネによる福音書19章34節と関係します。そこでは、イエス様の地上の生涯の最後、つまりイエス様の死の場面を描き出しされています。十字架につけられた神の御子は、苦難の果てに「渇く」そして「成し遂げられた」と言われて十字架にかけられながら息を引き取りました。十字架上で死んだイエス様をそこから引き下ろす際に、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺しました。すると、「すぐに血と水とが流れ出た」と19章34節は記されています。
 明らかにヨハネの手紙は、ヨハネによる福音書のこの記述を念頭に置いて、イエス様は、「水だけではなく、水と血とによって来られたのです」と述べています。
この水と血には、イエス様の十字架の死、そこで流された血と水のことを、示しています。この血と水は、わたしたちの救いのしるしです。わたしたちは現在罪を持っているために、わたしたちは神様との関係を失ってしまいました。わたしたちは神様との関係を失ったために、わたしたちはいつかは必ず死ぬ存在となってしまいました。この聖書の初めに書かれている、創世記では、神様とともに、関係をもって生きることのできたアダムとエヴァは、最初は死ぬものではなかったと書いています。しかし神様の言葉でなく、自分が神様のようになれるよという蛇の誘惑の言葉に従ってしまった。それは、自分を神様のようにしてしまうこと、神様よりも自分を優先して、神様からそっぽを向いて、自分を中心にして生きていこうとしてしまうことが始まった。そこから、神様とわたしたちの関係は壊れてしまいました。その関係がなくなったために、わたしたちは永遠の生きるものではなく、罪のために、死ぬものとなったのです。今のわたしたちも、その罪とは無関係ではなく、それぞれ自分の中に罪があります。ですからわたしたちも、ひとりひとり神様との関係は、失ってしまっていたのです。
しかし、そのわたしたちが失ってしまった神様との関係を回復するために、イエス様が十字架にかかり血と水を流して、わたしたちの代わりに、その罪による死を肩代わりして、死んでくださいました。その犠牲によって、わたしたちは罪の死の支配かにあり罪の奴隷となっていた、わたしたちを、そのイエス様の尊い血、神の子の血の犠牲と代価で、わたしたちを罪の奴隷であったわたしたちを、神さまのもの、神様の子として、引き取ってくださいました。
そのすべてを、象徴しているのが水と血です。
その水と血が示すイエス様の犠牲の死を通して、神様はわたしたちに証ししてくださっています。その水と血は、人を一切の冒涜からきよめ、一切の罪から解き放ち、人に憐れみ深く、好意を寄せて下さり、愛して下さり、「あなたはわたしのものである」と言って、御自分のこどもの一人としてくださるという、神様の御心を示しているのです。父なる神様が、愛する子を犠牲にして、そのことをわたしたちに証ししてくださいました。

 ヨハネは、このことを知り信じるのは、自分の頭や理性や経験ではだめで、神の霊の働き、聖霊の働きかけに頼って、はじめて可能となると語ります。人となって地上を生きたイエス様の姿は、多くのその時代を生きる証人たちによって伝えられています。その人々が「イエス様という人が実際にいた」という証しをしていました。そのことが聖書で、何人もの人よって証言されています。
その神様と見た人を出会わせ、その証言の言葉を背後で与えていらっしゃるのが聖霊なる神様です。つまりイエス様がまことの人としてこの世を生きられたことは、聖霊によって証言されているといえるでしょう。
 しかし、それだけでは、十字架の出来事は、ただの人、一人の犯罪人の死を証言することと変わりがありません。ヨハネによる福音書にあるように神ご自身が、聖霊を注いで、この方こそ、神の子であるとの証言を同時にしてくださっている。だから、8節は「証しするのは、三者で、霊と水と血です」と書きます。この三者が一致して、御子イエス・キリストが、人であるともに神であると告げるのです。わたしたちは日常、人の証し、証言を受け入れます。信じて受け入れます。あそこのラーメン屋が美味しいよと言われば、その言葉を信じて行ってみたくなります。いきなり、それは嘘だと疑うことはあまりないと思います。その人があまりに信用できない、いつも嘘ばかりつく人であれば、疑うことはあると思います。神様は嘘をつくことをなさらない、誠実な方で、真実しか語ることをされない方です。ですから、ヨハネは9節で語るように神様の証言は「人の証言に勝っている」と信じているのです。従って、本当は、神様の証し、神様が聖霊を通してなさる証言、それはイエス様は神さまの愛する子であり神様のみこころにかなう方であること、人のために神の子が犠牲となったという神様の証言は、わたしたちは、本当は、受け入れるのに容易なはずなのです。
しかし、証しされた出来事は、わたしたちにとっては2千年前の出来事です。そんなことは古くて、確かめられないようなことは信じられないと思うのが一般的な感覚だと思います。
どうしてそのようなことが、知ることができるの、理解することができるのか、さらに信じることができるのかとわたしたちは疑問に思います。このことを、わたしたちは今、目で見るように、知ることができない。そのような昔のことだと片付けてしまいがちです。確かに、実際目で確認したり、触ったりしたりすることはできません。しかし、この出来事が、この聖書を通して語られ、その出来事を聞くことはできます。その出来事を礼拝の説教や聖書を読み、聴き続けていると、その事が、自分に語られていることなのだ、自分と関係していることなのだと気付かされていきます。その時、わたしたちは、現実にその出来事と関係していることになります。
自分がその出来事と関係していると知ったときに、神様と出会ったときに、信じるということがはじまります。
そのイエス様の出来事が真実である、また今、現代を生きるわたしたちに、それが真実であると証ししてくださり、信じるまで至らせるのが、聖霊なる神様の働きです。この聖書も、テモテの手紙二3章6節に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、」とあるように、神の霊、聖霊なる神様が働き、書かれています。今語られる説教も、聖霊なる神様の働きになしには、語られません。聖霊なる神様が働かない説教であるならば、それは説教でなく、ただの人の言葉にすぎません。人の言葉に聖霊なる神様が働いてくださって、神様の言葉してくださっています。そのようにして、この偉大な出来事を、今わたしたちの分かる形にして、伝えてくださっているのです。今、水と血が証しする、イエス様が十字架にかかってくださった出来事、神の子が肉体をとって人になって来てくださった出来事、これらの過去の出来事を、今を生きるわたしたちと結びつけ、わたしたちのためにイエス様が十字架にかかり、わたしたちに父なる神様の愛を伝えるためにきてくださったんだということを、現在の出来事としてくださるのが聖霊なる神様の働きです。それが、6節の「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。」ということです。
聖霊なる神様は証しされるだけではありません。わたしたちの心に、水と血というこの証しを封印し、堅く、堅固にしてくださるのであり、イエス様の死のもたらす結果をわれわれのとこらまで及ばせてくださるのは、聖霊なる神様の働きです。それだけではなく、聖霊なる神様の力によってこそ、わらしたちの罪の贖いのために流された血が、わたしたちの魂の中に染み通ってくるのです。聖霊なる神様の働きの中心は、イエス様の血によって、われわれの罪によってけがれた良心のけがれをきよめ、イエス様によってもたらされたきよめがわたしたちの内にあって働きをなすようにすることです。
 従って、どのようにして神様がわたしたちに証をしてくださっているかを、一言でまとめると、このようになります。神様が、ご自身の証ししたいことを、イエス様において示し、聖霊なる神様がその事柄をわたしたちにわかるように証しして下さっているということです。

 では一体、神様は御子を通して、なにを証しされているのかという問いに戻りたいと思います。それは、率直にヨハネは今日の御言葉で答えています。5章11節「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」神様が、御子の血の犠牲を通してわたしたちに永遠の生命を差し出されていること、そしてその永遠の生命は御子の内にあることとヨハネは言い切っています。
 今日の午前の礼拝は召天者記念礼拝でした。この礼拝に集った親しい家族や友人を神さまのもとに送った方、またすでに地上の生涯を終えた、愛する人々を覚えつつこの礼拝に出席されている方、ようやく悲しみが癒えて、故人を偲ぶことができるようになった方、そのような方々が出席されていました。わたしたちはただ故人を懐かしく思い起こすとともに、わたしたちに与えられた永遠の命の希望を新たにされて、わたしたちが直面する死は、それで終わりではないことを確信致しました。
ヨハネは永遠の生命が与えられていると言っています。永遠の生命とはなんでしょうか。永遠の命とは、永遠に長く生きることではありません。永遠の命とは、神の御子イエス・キリストを信じて、イエス様の命に与ることです。

 聖書は、わたしたち人間は、罪の結果死ぬようになったと記します。人間は、動物とまったく同じように死ぬのです。コヘレトの言葉3章19節には、「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ」と書かれています。つまり、人間も動物も生物体として、何ら大差はない、「人間は動物に何らまさるところはない」と書いています。やがてわたしたちも死にます。すべての人に死は訪れます。わたしたちは死を前にするとすべてが無意味に感じられます。死の時は、わたしたちがすべてを失う時です。何をどれだけ持っているかは何の意味も無くなってしまいます。
 しかし、コヘレトの言葉がこう語るのは、そういう人間を諦めの思いで見ているからではありません。一見すると虚無的な響きが満ちているコヘレトの言葉は、もしそのような人間が神を信じ、信頼する時、まったく新しい時が始まることを暗示しています。12章1節には、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と勧めます。さらに12章13節では、「すべてに耳を傾けて得た結論『神を畏れ、その戒めを守れ』」とあります。
 つまり、動物とまったく同じように時が来れば死ぬ人間は、もし神を畏れる、神を信じる生き方へと導かれるならば、動物として生物としての時間とは異なる時、永遠の時を経験するのです。
わたしたちは必ず死にます。動物と同じように死にます。しかし、信仰者にとって、死は、それですべてが終わり、塵に戻る出来事ではなくて、永遠の命へと至る約束の内にやってきます。わたしたちは、イエス様の命に結ばれる時、すでにイエス様の復活の勝利によって、死の力は打ち破られたゆえに、永遠の命が約束されていることを、死に至る時の経過においても死の瞬間にも確信することができるのです。

 「この永遠の生命をあなたに与えたのです」と神様は今、この礼拝わたしたちに証ししてくださっています。そこには父なる神様からのわたしたちに対する愛のメッセージも同時に込められています。そこには、どんな罪深いわたしたちであっても神様は愛して下さり、御自分の子としてくださろうとまで考えくださっていること。御自分の独り子を手放して十字架にお掛けになられるほど、わたしたちを愛しくださっていること。わたしたちが、神様の方を見ていなかった時から、神様の方から関係を回復してくださったほど、わたしたちを愛してくださったこと。さらに、イエス様の内にある永遠の生命にわたしたちも与ることをゆるして、そして差し出されたほどわたしたちを愛されていること。この大きな恵みに応えることもできない、小さなわたしたちを、無価値なガラクタとは言わず、「わたしの目にあなたは値高く、貴い」と言ってくださっています。
「永遠の生命」を与えること、そのために「御子に血と水を流させたこと」は、わたしたちを愛してくださっているという神様のメッセージなのです。
神様はそのメッセージ永遠の生命が本当であるということを証しするために、イエス様を十字架にお掛けになりました。十字架にお掛けになったイエス様が死に、そして復活させられました。ここに永遠の生命が示されています。イエス様は死んで終わったのでなく、死に勝利されて、復活された。そしてもはや死ぬことなく、今も生き続けてくださっています。これが永遠の生命が御子の内にあるという神様の証しです。
永遠の生命はイエス様を通して与えられます。わたしたちがこの永遠の生命に与るため、わたしたちはイエス様と結ばれること、イエス様との交わりを持つことが必要です。イエス様とつながり交わりを持つためには、このイエス様のなされたこと、神様が証ししてくださったことを信じることが必要です。神様のメッセージがすべて込められている、イエス様の出来事を聞く、このことから、イエス様との関係が始まります。ここから、イエス様を見つめ、証しされている神様と向き合って生きていく人生が始まります。神様と本当に向き合うには、自分を見つめるだけの人生を捨てることが必要です。自分を見つめることを捨て、神様を見つめあいながら歩む人生これが、神様との関係にあるということです。
この関係に入った人には、イエス様の内にある永遠の生命にも与ることが約束されているのです。
手紙の序文である一章に書かれてある、聞き、見て、触った命の言を証ししたヨハネ、その命であられるイエス様との交わりへと導こうとしていたヨハネの証しは、永遠の生命を御子通して与えると証しされた、神様の証しにもとづいていたのです。この手紙も、聖霊なる神様が働いてくださって書かれ、今この手紙を聞くわたしたちにも働いてくださっています。この聖霊なる神様によって証しされた、御子イエス様の出来事は、今を生きるわたしたちにも証しされています。この御子の出来事は神様のなさった証しです。この神様の愛の証を信じて、神様との見つめ合う関係に入り、神様が御子においてなさった血と水の犠牲の業に、また永遠の生命を与えて下さる大きな愛に感謝し、神様と共にこの信仰の道を歩みだしましょう。

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