「激励」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: 箴言 第4章10-27節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章12-17節
・ 讃美歌:352、536
前回の夕礼拝の説教で、神様に備えられて、今もわたしたちが守ることを求められている古くて新しい掟は、「互いに愛し合いなさい」という掟であるということを、わたしたちは聞きました。わたしたちは、今もその「互いに愛し合う」、もう一つの言い方でいうならば、「兄弟姉妹を愛する」ことを神様に求められています。兄弟姉妹を愛する人は、光の中にいる。すなわち、神様との交わりの中にいる、その人は命の言を頂いている人、永遠の生命に生きる人です。神様の交わりの中にいる人は、兄弟を愛する人である。今このように、神様の言葉である説教を聞いて、祈りや讃美によって神様に応えることをしているわたしたちは、今神様と関係を持っています。これが交わりです。ですから今わたしたちは神様との交わりに入れられています。今そのわたしたちに神様は「互いに愛し合う」ことを求めておられます。 しかし「隣人を愛したい」「兄弟姉妹を愛したい」と思っていても、兄弟姉妹を愛せない、愛するどころか、隣人をゆるすこともできないということがある。そのようなとき、わたしたちは、まだまだ、自分は罪深い。わたしは弱い。わたしは人を愛することなんてできないのではないか、と思ってしまいます。 そのように、どうもわたしたちは「掟」と向き合ったとき、自分の罪や弱さばかりに気付き、意気消沈してしまいます。しかし、そのような、わたしたちに対して、今日の御言葉を通して、神様は励まし、「激励」を与えてくださっています。 どのような励ましか気になるところですが、まず、だれにその励ましを向けているかを見ていきましょう。 ヨハネの手紙一の2章は「わたしの子たちよ」という呼びかけのことばで始まっています。この第一の手紙を読みまして、ほかの手紙とは大変違った感じがします。それは、なにかこう、膝を突き合わして話していると言いますか、非常にこう、親しい関係でものを言っているような感じです。今の2章の1節には「わたしの子たちよ」とありますが、7節を見ますと「愛する者たちよ」12節には「子たちよ」18節に「子供たちよ」それから28節にも「さて、子たちよ」3章の13節には「だから兄弟たち」4章には「愛する者たち」このように、非常に呼びかけの言葉が多いです。 そのように呼びかけの多いこの手紙の中でも今日与えられた御言葉の箇所では、12~14節において3つの異なった呼びかけをしています。それは、「子たち」、「父たち」、「若者たち」の3つです。では、実際、ヨハネは、子たちと呼ばれるグループと、父たちと呼ばれるグループ、若者たちと呼ばれるグループを分けてここで、語りかけているのかといいますと、実はそうではなくて、これは2章7節で呼びかけている「愛する者たち」全員に語りかけています。グループに分けて語っているのではありません。つまり、この3つの呼びかけは、それぞれ3つの信仰者のグループの違いを表すためではなく、一人の信仰者もしくは、信仰者全体を3つの異なった視点から見て、呼びかけているということです。どういうことかといいますと、年齢的に、おじいちゃんのグループに入りそうな人でも、「子」や「若者」に含まれていますし、幼い信仰者であっても、その子に対してもヨハネは「父たち」と呼びかけているということです。この子、父、若者というこの3つ区別は、実際の年齢に則した区別ではありません。そして、またこれは信仰歴の長さで分けて言っているのでもありません。では、これは「父」というのは長老で、「若者」は執事、「子」は礼拝に来るすべての人というように、何か役割の違いで分けているのかというそうでもありません。これは、3つの呼びかけ方をしていますが、実際には一つのグループ、神様との交わりの中にある人たち全員に呼びかけています。ですから、今、この礼拝に参加しているわたしたちもその対象に含まれています。 ではなぜ、ヨハネはこのように3つの異なる呼びかけをしているのでしょうか。それはわたしたちのそれぞれの状況に対しての励ましの言葉をかけたいからです。「子たち」と呼びかけている時に、ヨハネが書いていることは、12節の「イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。」と14節の「あなたがたが御父を知っているからである。」ということです。わたしたちが子どものようであるということは、良い面で純粋、純真、まっすぐであるという事が言えると思います。神様の言葉をまっすぐに素直に聞き、受け入れることができる姿というのも、この「子ども」という言葉によって表されています。しかし、わたしたちは罪が一切なくなったわけではないので、子どもであるけれども、子どもらしさにも罪が触れると、わたしたちは恐れ疑い始めます。何を恐れるかというかというと、幼さ故の無知を恐れ始めます。神様の言葉以外のことを知らないということを恐れに感じ始めます。恐れは疑いを産みます。わたしの聞いている言葉は本当に神様の言葉だろうか。いや神様の言葉という以前に、神様は本当に神様なのか。この神様以外もしらないといけないのではないか、他の神様と比べてみて、神様を探そう。こうなった時、人は神様がわからなくなっています。どの方が神様であるかをわからなくなっています。人は罪によってこのようになってしまいます。しかし、そこでヨハネはわたしたちに「あなたがたが御父を知っている」からこの手紙を書いているのだといってます。わたしたちは、この聖書を通して、礼拝の説教を通して、主イエス・キリストを通して、父なる神様を知っています。どのような方であるかが、聖書、説教、主イエス・キリストを通して知らされています。見えない方であるけれども、わたしたちを愛してくださっている神様がいる、存在すると聖書は語っています。主イエス・キリストは父なる神様がわたしを遣わしているといい、わたしを見るものは父をも見ているというように、その全存在で父なる神様を示してくださいました。そして、この今語っている説教は神様の語りかけです。父なる神様が今私たちに伝えたいことを語ってくださっています。そのよう神様を知ることができたわたしたちは、再び純粋に、純真な心で、神様の言葉を聞き従うことできる。時に疑いや恐れで、神様から離れることがあるけれども、ここで父なる神様がここ共にいてくださって語ってくださること知っていれば、わたしたちは立ち帰ることができる。だから父を知っているあなたは、大丈夫だと、純真に神様の掟に従うことができるといっています。 父で語られていることは「父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。」 同じように父たちにも言えます。父たちという言葉でわたしたちは、こどもよりも物事を知っているということをイメージに持つことができると思います。信仰の歩みの中で、言えば信仰歴の長い方で、信仰生活の酸いも甘いも知っているそのようなひとのことを思い浮かべるかもしれません。しかしこの父というのは、信仰経験の長い人だけに語っているのではありません。信仰歴が一年に満たない人にも言っています。父ということも、良い面で言えば、よく知っていること、またリーダーシップをとったり、子に対して教え諭したりすることができることなどがあげることができます。しかし、良く知っている父も罪に触れると、その知識や力で持って、権威的で、上からものを言って下を押さえつけてしまうようになってしまいます。わたしたちも、なにか物事を経験したり、その経験を熟練したりしていくと、それを誇りまた、その経験をもって経験の少ない人を、軽んじたりすることがあります。上の立場になると、わたしたちはその上という権威で下にいる人を押さえつけてしまうことがあります。言い換えると、わたしたちは、なにかの主人になったときに、その主人に仕える人々のことを軽んじて、奴隷のように扱ってしまうということです。わたしたちは経験を積んで、リーダーシップを取ることができるようになるのは父としての良い面です。しかし時にそのリーダーシップを、傲慢に、自分のために用いてしまうということがあります。しかし、ヨハネはここで、「あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っている」からといっています。初めから存在なさる方というのは、主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストはこの世界が創造されるまえから、存在しておられた方です。また初めから存在なさっているということは、造られる存在ではありません。受け身の意味での「造られた」方ではなく、この世界や生命あるものを「造る」方です。わたしたちは造られる者です。それを被造物と言います。わたしたちは被造物です。創造する方と、被造物の間には、大きな隔たりがあります。創造される方の方が上です。わたしたちの主とわたしたちが告白するように、主イエス・キリストはわたしたちの主人です。わたしたちは主人に仕えるものです。神様に仕えるものです。 父よと呼びかけられるわたしたちは、このように、誰が本当の主人であるかを知っています。ですから、わたしたちは自分の下に部下や後輩がいるけれども、自分がすべてを支配する主人とはなりません。なぜなら、自分の上に主イエス・キリストがわたしたちの主人としておられることを知っているからです。わたしたちの主人は、僕たちのために、命を捨てて、体はって、守ってくださる主人です。ただ力で強引に「従え」と支配する方ではなく、わたしたちを愛してくださり、呼びかけてくださり、共につながって、導く形で支配してくださる方です。 『そのような「初めから存在される」主人をあなたがたは知っているから』とヨハネはわたしたちに言います。知っているので、あなたがた互いに愛し合うということができる!だからわたしは書いたのだ。とここで宣言をしています。 若者たちよと二回呼びかけているなかで、「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」という言葉がその二回の呼びかけの中に、含まれています。含まれていないのは「あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、」という部分です。わたしたちは、若者は力強く、元気に満ち溢れているという良い印象を持ちます。ここで使われている若者は、「若すぎてダメだ」という悪い意味で使われていません。むしろ、この言葉が使われていた時の、若者のイメージは、都市国家の武装舞台を構成している男盛りの人たちというイメージです。若者たちがオリンピックの競技で勝利を目指す、このようなときに使われます。このように勇ましい姿を連想して、若者といっています。しかし、年齢と共に体力が低下してくる私たちは、「若者といわれても、もうそんなに勇ましくがんばれないよ」と思ってしまうのが現実だと思います。それでは、ヨハネの言う「悪に対する勝利」ということは、若者だけなのか、年を取ると悪には勝てないのかということになってしまいます。ですから、ここでは年齢的に若く元気が満ち溢れている人にだけヨハネが語ったのではなく、全年齢の人に語っています。では全年齢の信仰者がなぜ、あなたは若くて強いといわれるのか、それは14節の「神の言葉があなたがたの内にいつもあり」とあるように、神様の言葉が私たちの内にあるからです。御言葉が内にあるというのは、御言葉であられる主イエス・キリストが私たちの内にいてくださるからです。わたしたちの体は聖霊の宿る宮だと聖書は語ります。今日はペンテコステですが、わたしたちは主イエス・キリストが天に昇られたあとに約束の聖霊をその身に与えられました。聖霊は神様の霊で、主イエス・キリストその方です。その聖霊が常にわたしたちを導き、支え、わからないことをわかるようにしてくださいます。そのように聖霊なる神様がわたしたちの内に住んでくださるので、わたしたちは迷うときにも導かれ、負けそうになっている時も守られ、力がないときに力が与えられます。そのことをわたしたちは信じています。信仰の強さ故にキリスト者は隠喩的に「若者」と呼ばれます。しかしイザヤ書には「年若きひとは疲れ、弱り、戦士はよろけ、倒れる。しかし主を待ち望む者はつねに新たな力を得る」と書かれています。そんな若者のような強さをもった、キリスト者でも、時によろめきます。ですが救いの御言葉を内に持っているものは、必ず主イエス・キリストがわたしを助けて下さるという希望をもって、新たな力を得て、何度も立ち上がることができます。 ヨハネはわたしたちが、すでに子どものように純真で御言葉に従い、父のように主人イエス・キリストを知っていて、御言葉に生きる若者のように力強いのだと宣言をしています。「互いに愛し合う」ということに自身のないわたしたちに向かって、あなたは子であり、父であり、若者ように力強いから大丈夫だ。あなたはその掟を守ることができると激励を与えています。 しかし驚くことに15節でわたしたちに、「世も世にあるものも、愛してはいけません。」とヨハネは言います。兄弟姉妹を愛しなさいと言うけれども、世や世にあるものを愛してはいけないという。これは矛盾しているのではないか。さっきまで、「愛せ」といっていたのに急に「愛するな」とは一体なんなのか。ここで世と言われているのは、単純にこの世界のことではありません。この世界の闇の部分です。神様の光照らされていない暗い世のことを行っています。ですから、世からでるものというのは、闇から出るものです。闇から出るものは、光の子であるわたしたちをその闇に引っ張ろうとします。 その闇の世から出るものの中に、目の欲というものがあります。これを初期のキリスト者は、見せ物や劇場、異教の儀式や呪術などであると考えていました。なんなのかを見てみたいという危険な好奇心、それによって知りたがることを目の欲といっていたそうです。でもこの目の欲はそれだけではありません。この目の欲は、実際に神様を見えなくします。わたしたちは、なにか仕事や勉強などの大事なことを目の前にした時に、逃げたくなります。その時に色々な目の欲に惹かれることがあると思います。それは、テレビであったり、インターネットであったり、漫画であったりと色々とあります。それらの存在が悪いというわけではなく、わたしたちは重大なことや課題を前にすると、それらの存在に目を向けて大事なことを忘れようとします。わたしたちは本当は、課題や仕事に向きあわなくてはならないのですが、目の欲を満たして、本当に大事なものを見なくなってしまいます。同様に目の欲は、本当に大切である方を見えなくします。目の欲はわたしたちの神様から逃げたいという気持ちの時に大きくなります。ですから、ヨハネはここで、目の欲となる世のものを一番に愛するのであれば、それは神様を忘れる、神様が見えなくなる、神様を認識できなる。それはつまり闇の中にいることである。だから世を愛することをやめなさいと言っています。生活のおごり、これは元の言葉では見栄を張るために嘘をつくということです。見栄を張るということ、これはつまり、他人の目ばかりを気にするということです。世の人から、よくみられたい、劣っているとは思われたくない。隣人の自分についての評価がいつも気になる。だから自分の服装や、持ち物がきになる。人に評価される、良い服やアクセサリーを求める。人に尊敬されるような、特別な経験をしたい。そのような、思いにとらわれている時のわたしたちの目は、神様に向いていません。他人の目線や他人の評価、また評価をあげるための世のものにしか目は向いていません。 であるから、「世を愛する者は、御父への愛はその人のうちにはありません」とヨハネ言っています。世のものは、それは、神に対して心を閉ざし、自分の法、つまり、自分の欲を自らの行動の最高の規範(ルール)にしてしまうのです。 ヨハネは、それらの闇の世のものにいくら心血を注いで愛しても、17節「それらは過ぎ去っていく」といっています。過ぎ去っていくというのは、滅びるということです。目の欲となる、如何なるものも、良い服も良い飾りも、他人の評価も、必ず滅びます。わたしたちが、いくら世の中で、良く評価されたり、尊敬されたりしようが、それらは必ずいつか滅びます。わたしたちは、歴史に残るほどの名誉や名声は人の記憶の中で永遠に残り続けると思いがちです。ですから、歴史に名を残すほどのビッグな人になりたいと貪欲になります。しかし聖書は人間の歴史はやがて終わりをむかえると語っています。ヨハネは世に変わることのない永遠なるものはないといっています。人から名の誉や名声も、時にはその評価は覆ることあります。聖書は人間の歴史はやがて終わりをむかえると語っています。そのように、名誉や名声は終わりの時に滅びます。 しかし、永遠に滅びないで生き続けるものがある、それは「神のみ心を行う人」であると17節でヨハネは語っています。では神様がわたしたちに求めている御心とはなんなのかが気になります。それは、古くから語られています。今も神様がわたしたちに要求しておられること、それは、闇の世を愛するのではなくて、兄弟姉妹を愛するということです。互いに愛し合うということです。それを神様はわたしたちに求められています。その要求は高すぎて、自分にはできないと、思ってしまうのが、かつてのわたしたちでした。しかし、今日ヨハネは、あなたたちは神様の言葉に従うことのできる純粋な子どもであり、何もしらないのではなく主イエス・キリストを知っている父であり、闇の世の悪に打ち勝つ強い信仰をもった若者であるとわたしたちを励ましてくれています。この励ましを聖書を通して、説教を通して、今神様がわたしたちに与えてくださっています。感謝して、この励ましの言葉をもって、今週も歩みましょう。