「罪を赦す光」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書: 創世記 第1章1-5節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章5-10節
・ 讃美歌:532、451
先週、ヨハネの手紙一1章1節から4節の御言葉を聞きましたが、そこではヨハネはあることを伝えたいと言っていました。それは命の言との交わりについてです。命の言は、今もわたしたちに語られていて、礼拝の説教や聖餐を通して、神様の言葉を聞き、命が養われ、そして今度はわたしたちが神様に向かって讃美や祈り、身を捧げ応答していく。それが命の言と交わりであり、喜びであるということでした。
そして今、わたしたちはヨハネ手紙一の1章の5節から10節の神様の御言葉を聞きました。
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」この今読みました1章の5節のところ、これは断言している言葉遣いです、宣言といってもいいでしょう。「イエス様からお聞きして、そしてあなたがたにお伝えする、私たちのメッセージはこれだ」と、そう言ってここでヨハネは断言をしております。「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたにお伝えする福音は、こうである」そう言って、ヨハネが伝えようとしていることは「神は光であって、神には闇が全くない」ということです。
言葉は簡単です。「神は光である」しかし、「それは何の事か」と考えると、これはそう簡単ではないと思います。
わたしたちは「光」という言葉を聞くとどのように感じるでしょうか。この「神は光である」言い方は象徴的な言い方です。「神は光である」どうして、こういう言い方をしたかというと、ヨハネの生きていた時代に、こういう「光と闇」というような言葉で、いろいろ信仰の問題が言い表されていました。
実はヨハネが生きていた当時教会の中には、だんだん信仰に対する間違った生き方が広がりつつあったのです。ヨハネは、それを防ごうとしていました。その信仰の間違った考え方とはなにかというと、「神様と交わるためには、ある特別な宗教的な知識を持つことが大事だ。そしてその知識を持つことによって神秘的な体験をする。それによって神と一体になる。」そのような考え方が教会の中にだんだん広まっておりました。そのような偏った意見を持つ者達は、「信仰者は神様との交わりがある」といい、「神様との交わりというのは神秘的な、特別な宗教的知識を持って、そしてその知識に従って神秘的な経験をする。そういう神秘的経験を持ってないような者は、本当の信徒ではない」とのそのようなことを言っていたのです。そのようなことを言って、ある特別な、宗教的な体験だけを重んじる。日常生活などは、何したっていいのだ、知識があれば救われるのだといって、勝手なことをしている。それでもって、彼らは「自分たちは神様と深い交わりがある」というようなことを言っていました。そのようなことに対してヨハネは、神様と交わりがあると言いながら、それは闇の内を歩いている。だから、それは「そりゃ偽りだ」と言ったのです。神様と交わりがあるということは、ただ知識上だけのことじゃない。私たち体を持ったこの人間が、神様との交わりを持って生きていく。神様と交わりを持ったということは、闇から光に移されたということです。光の中を歩いていく。「光の中を歩いてる」といいながら、実際は闇の中にうごめいている、そして私たちは神と交わりがあるなんていうのは、それは嘘だ。ということをここで言っているのです。
ではここで光と闇について、もう少し知るために、今日礼拝の中で読まれました、旧約聖書創世記1章の御言葉をもう一度聞いてみましょう。
「1:初めに、神は天地を創造された。2:地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3:神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 4:神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5:光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
神様が天地を創造された時、まだ地は混沌の状態にありました。混沌とはどういう状態かと言いますと、ここに書かれているように、「地には深淵がありそこを闇が覆っていた」。このような状態です。深淵とは、この世界にある場所でたとえるならば、深海のような場所でしょう。深淵とは「底のない」深海のような場所です。ただただ暗く、底がない。一度そこに落ちてしまえば、永久に落ちていってしまう。そのような場所です。またここでは、神の霊が水の面を動いていたとありますが、この元の言葉をみてみますと「霊」という言葉は、「風」とも言い換える事ができ、「神」という言葉は、「ものすごい」という言葉に言い換えることができます。ですから水の面に「ものすごい風」「嵐」が吹いていたと、この箇所を読むことができます。混沌とはそのように、すべてを飲み込むかのような底のない暗闇が広がっている、また嵐が巻き起こって水が荒れ狂っている、そのような状況です。
そこで、神様が「光あれ」とおっしゃって、光を創造されました。そうして光と闇を分けられました。光が創造されると、地はもはや混沌の状況ではなくなりました。ただただ真っ暗だった場所に光が与えられ、真っ暗で形をもっていなかった、世界が輪郭を持ちました。そして吹き荒れていた風はやみ、荒れ狂う水も静かな海のようになりました。このように、光は、すべてのものにはっきりと輪郭を与え、一つの造られたものとして存在をはっきりさせます。またはっきりとさせるだけでなく、その存在を荒れ狂っている状態から平穏な正しい状態へと変える秩序を与えます。これが光です。「神様は光である」というときは、このような意味で使われています。
そして逆に全ての輪郭を失わせて、荒れ狂うようにしていたものが闇です。
わたしたちはそのような状況を想像することができます。もし今この横浜指路教会の会堂の明かりがすべて消え、真っ暗だとしたら。わたしたちは隣の人も、この建物の中のもの、ベンチも講壇も、壁も、天井も、そして自分自身も何一つ見えなくなります。目を開けていても何も見えない、自分も隣の人もわからない、そのような状況になります。ですから、何をしても気づかれません。隣の人を打とうとも、ベンチや壁を壊そうとも、真っ暗ですから、誰が、何をしているかはわからない。殴った本人も、殴られ傷ついた人の状態がどうなっているはわからない。ベンチを壊そうが、壊した人は壊れたベンチがどうなっているかわからない。このように、いくら傷つけようとも、破壊しようとも、何が起こっているか、どの程度のことが起こっているかがわかりません。ですから、その人たちには罪悪感も生まれません。そのような罪を認識することもできない状況、混乱と破壊の状況、これが闇の中にいる状況です。
そこに光がたらされるとどうなるか。初めて隣の人の顔を見て、初めて隣人を認識することができるようになります。そして自分がどのような場所いたのかわかるようになる。そして自分の輪郭がはっきりして、自分を知る。もし光に照らされた人があの闇の中で暴れていた人ならば、その人の手には血がついていて、服には木くずがたくさん付いている。そして傷ついている隣人を見、壊れたベンチを見てその人は自分のしてしまったことを知る。このように光は、わたしたちが何者であるかはっきりと知らせます。
ヨハネの手紙に戻ります。6節「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」
神様との交わりにあるということは、神様の光に照らされているということです。ヨハネを悩ましていた偏った考え方をする人たちは、ある特別な、宗教的な体験だけを重んじる。日常生活などは、何したっていいのだ、知識があれば救われるのだといって、勝手なことをしている。それは、自分で目をつぶって自分で暗闇を作りだし、自分の好き勝手に振舞っているということです。それが闇の中を歩むということです。自ら目をつぶって好き勝手をして神様を見ない、しかし神様との交わりを持っていると主張する。ですからヨハネはその人たちに「それは嘘でしょ、それは真理ではありません」と勧告したのです。 様の光に照らされるのは私たちも同じです。そこで自分の罪を知り、自分が闇の中にいた時のことを知ります。それは神様が私たちの目を開いてくださるということです。
しかしここで、わたしたちはある疑問が生まれます。それは、罪あるわたしたちは、はたして光の中を歩むことができるのかということです。わたしたちは、光に照らされて、そこで己の罪に気付かされます。しかし5節で言われているように、光であられる神様には闇が全くない。ですから、その光の中に、罪あるものがどうして入れようか、いや近づくことすらできないのではないかとわたしたちは思ってしまいます。旧約聖書のイザヤ書六章を見ますと、イザヤが神殿で神様の幻を見たという話が出てきます。たしかに、イザヤがこの栄光を見た時に「私はわざわいだ。私は滅びる。なぜならば、私のこの目が神の栄光を見たからだ」とそう言って非常に恐れています。旧約聖書において、神の栄光を見るということは、それは滅びる、死に価するほどの恐ろしいことだということが、しばしば言われています。
ところが、ヨハネは、ヨハネによる福音書一章で「その栄光を見た。だから私は滅びる」というふうには言っていません。『それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』と言っています。その栄光とは、主イエス・キリストその方です。主イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために、十字架にお架かりになり、その十字架上で血を流されました。その主イエス・キリストの命を代価に私たちの罪は、ゆるされたのです。それは光が、罪あるわたしたちを遠ざけたのではなく、むしろ私たちに近づいてこられ、罪をゆるし、光の中へ入ることを許可し、招いてくださっているということです。 そこでヨハネはこのように7節で言っています。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」旧約聖書で、神様のものとして聖別されるときに、それは血でもってきよめられました。日本人は血が付くと「汚れる」と言いますけれども、ユダヤ人は反対です。血によってきよめる。主イエス・キリストが血を流してくださったことによって私たちはきよめられた。きよめられている「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」とペテロに神様はおっしゃいました。「私たちはきよいものとされている」きよいものとされているということは、神様のものにされたということです。神様のものにされたら、それはただ名目だけではありません。神様のものですから、神様との交わりの中を生きていく。今までは罪にとらえられて罪の奴隷でありました。罪が私たちむかってきて「これは俺のものだ」と言って、奴隷として焼き印をわたしたちに押した。しかし、その奴隷の私たちをきよめて神様はご自分のものにしてくださった。それはキリストの血よってです。血をもって私たちを買い取って、神様のものにしてくださいました。神のものになったのだから、神のものとして生きていくのです。
しかし、八節に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」とあるように、私たちは「神様に罪をゆるされた」といっても、罪が自分の内からなくなったわけではありません。光の中を歩むものであっても罪はあります。それは、わたしたちの経験からもわかります。わたしたちは今もなお罪が残っていますから、時に神様を忘れることや、隣人を傷つけ、自分を誇ろうとすることがあります。でもそれはよく考えてみると、それは「光の中を歩む人」だから、罪に気付くことができるのです。教会に来て神様に出会いその光に照らされるからです、ですから罪に気付かされる、気付くことが出来るのです。これは罪人であることを知ることができるのは恵みです。
しかし、よく考えてみると、先ほどの疑問はまだ解消されていません。やはり自分には罪が残っているので、光の中を歩めないのではないかということです。
9節で「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」とヨハネは言います。
いまだに罪が残っていて、なお罪を犯すわたしたちを、神様はお見捨てにならず、ゆるしてくださいます。「ですから、わたしたちはその罪を神様に告白しましょう」とヨハネはわたしたちに呼びかけます。宗教改革者カルヴァンは、この「あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」という箇所を「神はキリストの犠牲により宥められてわたしたちを赦し、かつわたしたちを矯正し造り変えてくださるのである」とこのように言っております。「矯正し造り変えてくださる」、わたしたちは罪を犯してゆるされて、また罪を犯してゆるされる。その繰り返しを生きています。わたしたちは、神様の憐れみに感謝すると同時に、己の愚かさに苦しくなります。光を歩むにふさわしくないものだと思ってしまいます。しかしそのような愚かなわたしたちを神様は、新たに造り変えてくださることも約束してくださっています。悪さをすれば、「それは違うぞ」といって言葉をもって教え導いてくださいます。わたしたちは、すぐには、清く正しいものにはなれません。御言葉を聞いて、その御言葉に従って行く、完璧にうまく従うということはできませんが、不器用なりに従っていく、そのようにして、日々御言葉に矯正されて、新たにされていきます。そのような子どものようなわたしたちを神様は、光の子どもとしてくださっています。
ですからわたしたちは、光の中を歩めるかどうかを、問うのではなく、光の中に招き、また教え導き入れてくださる神様を信じるのです。神様は罪の奴隷であるわたしたちを買取り、光の子にしてくださいます。そして今も「あなたがたを選んだのはわたしだ、わたしが責任をもって光の子として育てる」といってくださっています。
その主の言葉を聞き漏らさず、今週一週間み言葉に従って、祈りつつ歩みましょう。