「悔い改めの祈り」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:サムエル記上 第7章2-17節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第15章1-7節
・ 讃美歌:140、457
最後の士師サムエル
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。サムエル記は、サムエルという人の生涯を語ることを通して、イスラエルに王が立てられていった時代のことを描いています。王国になる前のイスラエルは緩やかな部族連合体でした。外敵に攻められて危機に陥った時には、その都度神が指導者を遣わして、敵から救って下さっていたのです。それが「士師」と呼ばれている人たちです。「士師記」にその人たちの活躍が記されています。有名なのはギデオン、エフタ、サムソンといった人々です。サムエルは、最後の士師です。サムエルが、この後の第8章以下で、主なる神からの示しによってイスラエルに王を立てたことによって、士師の時代は終り、王国時代が始まるのです。
本日ご一緒に読む第7章には、サムエルの士師としての働きが描かれています。士師の働きには二種類あって、一つには軍を率いて敵と戦うこと、中にはサムソンのように一人で多くの敵を打ち破った人もいますが、そういう軍事的な働きがあります。そういう働きをした人を「大士師」と呼びます。それとは別に、イスラエルの人々の間で、いろいろな問題についての指導をしたり、もめごとの調停をしたりという働き、それらをまとめて「裁きを行う」と言いますが、そういう働きをした人を「小士師」と呼びます。この第7章に描かれているサムエルはその両方の働きをしています。小士師としての働きは最後の15節以下に語られています。毎年イスラエルの町を巡り歩いて民のために裁きを行った、これが小士師としての働きです。しかしこの第7章で主に語られているのは、イスラエルを支配し苦しめていたペリシテ人との戦いを導いた大士師としてのサムエルの姿です。13節に「ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた」とあります。これがまさに大士師としてのサムエルの働きです。このように最後の士師であるサムエルは、大士師と小士師の両方の働きを兼ね備えていた人だったのです。
祈りによる戦い
さてそれではサムエルはどのようにしてイスラエルをペリシテ人の支配から救ったのでしょうか。ギデオンのように少数の軍勢を率いて天才的な戦略によって敵の大軍を打ち破ったのでしょうか。それともサムソンのように一人で怪力を振って敵をなぎ倒したのでしょうか。そのどちらでもありませんでした。この第7章に語られているように、サムエルは軍勢を率いてはいません。武器を取ってすらいません。ペリシテと戦う彼の武器は剣や槍ではなくて、祈りです。5節にこうあります。「サムエルは命じた。『イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。』」。主なる神に祈ることこそが彼の武器でした。サムエルは祈りによって戦ったのです。しかし私たちはこのことを誤解してはなりません。祈りによって戦うと言うと、敵を滅ぼして下さるように神に祈り求める、つまり敵に対する呪いの祈りによって戦う、と考えがちです。しかしサムエルの祈りはそういうものでは全くありませんでした。6節にこうあります。「人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、『わたしたちは主に罪を犯しました』と言った。」サムエルに導かれてイスラエルの人々が共に祈ったことは、敵に対する呪いではなくて、「わたしたちは主に罪を犯しました」ということだったのです。つまり彼らは主なる神の前に自分たちの罪を告白し、悔い改めたのです。「水をくみ上げて主の御前に注ぎ」というのは祈りに伴う象徴的な行為ですが、その意味するところは、心の中の罪を全て主の前に注ぎ出す、ということでしょう。器の水を残りなく注ぎ出すように、自らの罪を隠すことなく、全て、主なる神に告白し、悔い改めて赦しを願ったのです。「その日は断食し」ともあります。「断食」も悔い改めを表す行為です。サムエルは、罪の悔い改めへとイスラエルの民を導き、民の先頭に立って悔い改めの祈りをささげたのです。
罪の悔い改め
イスラエルの民が犯した罪とは何だったのでしょうか。それを悔い改めるとは具体的に何をすることだったのでしょうか。3、4節からそれが分かります。「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。『あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュタロトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。』イスラエルの人々はバアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた」。主なる神とは別の異教の神々、具体的にはバアルとアシュタロトに心引かれ、それらの偶像を自分たちの中に置いて拝んでいたことがイスラエルの罪でした。バアルとアシュタロトというのは豊年満作の神です。バアルが男の神、アシュタロトが女神で、両者の結合によって作物の実りという子どもが生まれる、と考えられていたのです。男と女、雄と雌との性的関係によって子どもが生まれる、ということが農耕の世界に当てはめられて、男女の神々を拝むことによって豊かな実りがもたらされると考えられていたのです。この神々は、豊作をもたらし、人間に豊かさ、富をもたらすものです。つまり人間の願望、欲望に応えてそれを叶える神々です。イスラエルの民は、彼らをエジプトにおける奴隷の苦しみから救い出し、荒れ野の旅を支えてカナンの地へと導き、その地を与えて下さった主なる神を忘れて、カナンの地の人々が拝んでいた神々、自分たちの欲望を叶えてくれる偶像の神に心引かれていったのです。それは、彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さり、その上で彼らと契約を結んで彼らの神となって下さり、また民自身も自分たちはこの神の民として生きると約束した相手である主なる神への裏切りであり約束違反の罪です。イスラエルの民はそういう罪を犯していたことを主の前に告白して、心を尽くして主に立ち帰ったのです。心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕える者となったのです。その悔い改めの祈りを彼らはささげ、具体的な行動としては自分たちの間からバアルとアシュタロトの像を取り除いたのです。サムエルはイスラエルの人々に悔い改めを呼び掛け、その先頭に立って悔い改めの祈りをささげました。この祈りこそがサムエルの武器でした。つまりその戦いは、ペリシテ人との戦いと言うよりも、むしろ自分たちの中にある罪との戦い、信仰の戦いだったのです。
偶像を取り除くための戦い
私たちも、このイスラエルの民と同じ罪にしばしば陥ります。主なる神よりも、自分の願いや欲望を満足させてくれる何かに心を引かれ、それらを神として拝んだり頼ったりしてしまうのです。主なる神はもう信じない、とはっきりと決心することはなくても、自分の思いや願いを満足させることを第一にし、そのための助けとなるものにこそ依り頼むようになっていく。そのことは目に見える偶像を拝むことはなくても起ります。神のみ心に従うよりも自分の思いや願いを満足させることを第一にするなら、その自分の思いや願いが私たちにとって神となっており、偶像となっているのです。ですからサムエルがイスラエルの民に呼び掛け、先頭に立って祈ったあの悔い改めの祈りは私たちにも求められています。自分の中にある罪と戦って、自分が依り頼み、偶像としてしまっているものを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕える者となるための戦いが私たちの信仰においても必要なのです。
信仰における試練
イスラエルの人々はサムエルの呼び掛けに応えて悔い改めました。4節にあったように、「バアルとアシュタロトを取り除き、ただ主にのみ仕えた」のです。このこと自体、神ご自身のお働きなしには起らない大いなる信仰の奇跡と言うべきでしょう。サムエルが悔い改めを求める説教を語った時、神ご自身が人々の心を動かして、自分たちの罪を悟らせ、主に立ち帰る悔い改めを与えて下さったのです。
しかし事はそれでハッピーエンドとはなりませんでした。イスラエルの人々はサムエルの呼び掛けに応えてミツパに集まり、心を合わせて悔い改めの祈りをささげたのですが、そのことを聞いたペリシテの領主たちがイスラエルに攻め上って来たのです。彼らは、イスラエルがミツパに集まっていることを、ペリシテに敵対する軍事行動の準備と受け止めたのです。それで、イスラエルが一丸となって反乱を起す前にその芽をたたきつぶそうとしたわけです。イスラエルの人々はペリシテに敵対するために集まったのではありません。悔い改めの祈りのために、主なる神を礼拝するために集まったのです。そうしたらそれが反乱と見なされて、ペリシテの大軍が攻めて来たのです。
これは彼らにとって、何よりも信仰における大きな試練だったと言えるでしょう。彼らは悔い改めたのです。偶像を取り除き、主なる神に立ち帰ったのです。そのためにミツパに集り、礼拝をしたのです。そうしたらそれが、ペリシテ人たちを刺激して、攻撃を受けることになった。信仰に目覚め、悔い改めて神を信じたとたんにそういう危機が起ったのです。何ということか、と彼らは思ったでしょう。悔い改めて異教の神々を取り除き、主なる神に心を向け、主にのみ仕えるなら、主がペリシテ人の手から救い出してくださる、というサムエルの言葉を信じたのに、むしろ全く逆のことが起ってしまったのです。こんなはずではなかった、あの悔い改めは何だったのか、偶像を捨てて主に立ち帰ったことに何の意味があったのか、それらは全く無駄な、余計なことだったのではないか。主なる神を信じて生きていく中で私たちもそのような思いに陥ることがあります。神を信じて、神に依り頼む者となったけれども、それで人生がうまくいくようになるどころか、かえってますます辛いこと、苦しいことが起って来た。こんなことなら、神を信じても何にもならないではないか、信仰など無駄なことではないか、そう思うことが誰にでもあるのです。信仰は、そういう試練との戦いの連続だと言えます。その試練の中でイスラエルの人々はサムエルに言いました。8節です。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください」。あなたの言った通りにしたらこんなことになった、あなたが責任を取ってください、というイスラエルの人々の思いが感じられます。
罪の贖いのための犠牲
これを受けてサムエルは9節にあるように、「サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのために主に助けを求めて叫んだ」のです。小羊を焼き尽くす献げ物としてささげる、それはイスラエルの民の罪の贖いのための犠牲です。つまりサムエルがしたことはここでも、敵に対する呪いの祈りではなくて、ひたすら、イスラエルの民の罪の赦しを願い求める祈りでした。その祈りを主が聞いて下さったことが9節後半から10節に語られています。「主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた」。悔い改めの祈りをささげ、罪の贖いのための犠牲を献げたイスラエルの民のために、主ご自身が、雷鳴をもってペリシテ軍と戦い、これを敗走させて下さったのです。これは、人間の力に全くよらない、ただ神の力による救いの奇跡です。その意味でこの出来事は、あの葦の海において水が左右に分かれて壁となり、その間に道が与えられてエジプトの軍勢から救われた奇跡や、エリコの城壁が崩れ落ちた奇跡と並ぶものだと言えます。イスラエルは、自らの力によらず、サムエルの祈りと、それに答えて下さった主なる神のみ力によって、ペリシテ人を打ち破ることができたのです。それゆえに13節にあったように、サムエルが生きている間ペリシテ人は二度とイスラエルの国境を侵すことがなかったのです。
悔い改めと罪の赦し
この救いの出来事は私たちに大事なことを教えています。私たちは、信仰とは悔い改めて神に立ち帰ることだと教えられています。自分の中にある偶像を取り除き、主なる神にこそ従い仕える者となることが大切であることを知っています。けれども私たちは、その信仰に生きようとすることにおいて、悔い改めたのだから、神に立ち帰ったのだから、自分には恵みを求める権利があると考えてしまうことがあります。それゆえに、信仰の歩みにおいて苦しみや困難に直面すると、こんなはずではない、これでは信じたことが無駄ではないか、と思ってしまうのです。それがこの話に描かれているイスラエルの民の姿です。しかし、本当に悔い改めるというのはそういうことではないはずです。悔い改めたのだから、見返りに恵みや救いが得られるはずだ、というのは本当の悔い改めではありません。悔い改めとは、「私は主に罪を犯しました」と神のみ前に心を注ぎ出すことです。そしてその罪の赦しをひたすら乞い願うことです。私たちに出来るのは、神の憐れみによる救いを祈り求めることだけであって、それを当然の権利として要求したり、それが与えられないからといって「話が違う」と文句を言ったりすることはできないはずなのです。私たちが主に立ち帰り、主にのみ仕える者となるのは、この主のもとにしか、私たちが生きることができる所はないからです。そこでたとえどんな苦しいことがあるとしても、主なる神のもとにしか私たちの居場所はないし、主なる神に救いを願い求めることによってしか私たちは生きることができないのです。悔い改めるというのは、その主のもとに立ち帰ることです。そこでこそ、主なる神による救いが与えられるのです。この物語はそのことを私たちに教えているのです。
主イエスによる罪の赦し
サムエルは、まだ乳離れしない小羊一匹を焼き尽くす献げ物としてささげることによって民の罪の赦しを祈り求めました。小羊の命がいけにえとして捧げられることによって罪の赦しが与えられるのです。しかし私たちはそのようなことをする必要がありません。なぜなら、私たちのためには、神の独り子主イエス・キリストが、既にご自分を犠牲として献げて下さったからです。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。私たちのための贖いの業はこの主イエスの十字架の死において既になされています。私たちの罪の赦しのための犠牲は既にささげられているのです。だから私たちは悔い改めることができるのです。自分で自分の罪を反省し、処理して清く正しい者にならなければならないなら、私たちは悔い改めることなどできません。しかし神は独り子主イエスの十字架の死によって私たちの罪を既に赦して下さっているのです。私たちが悔い改めて主のもとに立ち帰るための道は、主イエスによって既に確かに開かれているのです。主イエスが私たちを神のもとへと立ち帰らせて下さるのです。
主イエスの肩に背負われて
そのことが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第15章1-7節の、あの「迷い出た一匹の羊」のたとえ話に語られています。百匹の羊の内の一匹が迷い出てしまった、その一匹はそのままではもう死ぬしかありません。羊は群れの中で、羊飼いに守られ、養われなければ生きていけないのです。羊飼いのもとにしか、羊が生きることができる場はないのです。そこに立ち帰ることができなければ死ぬほかありません。しかし羊は自分で立ち帰ることはできません。帰る道を自分で見出して戻って来る力は羊にはないのです。その失われた一匹の羊を、羊飼いが捜しに来てくれる。見つけ出すまで捜し回ってくれる。その羊飼いの恵みによって、迷い出た羊は群れに立ち帰ることができる、いや、羊飼いの肩に背負われて連れ帰ってもらうのです。それが私たちの悔い改めだとこのたとえ話は語っています。この羊飼いは言うまでもなく主イエス・キリストです。主イエスが、神のもとから離れ去り、迷い出て、帰る道も分からず、自分ではどうすることもできずに行き詰まっている私たちを、どこまでも捜し回り、見つけ出して、私たちが生きることができるただ一つの場である神のもとへと連れ帰って下さるのです。そのために十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの肩に背負われて悔い改め、主のみもとに立ち帰る、それが私たちの悔い改めです。ですから、悔い改めたから何か恵みがあるはずだとか、人生が今までよりうまく行くようにならなければ悔い改めた意味がない、などというものではありません。悔い改めて主のみもとに立ち帰ることができたこと自体が大きな恵みなのです。私たちが本当に生きることのできるただ一つの場である主なる神のみもとに帰ることができたのですから。その主のみもとでこそ、人間の力を超えた神の救いが与えられていくのです。
「今」がいつも「今」であるために
12節に、サムエルが主による救いを記念して一つの石を置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って「エベン・エゼル(助けの石)」と名付けたことが語られています。その「今まで」とはどういうことでしょうか。「今までずっと主が助けてくださった」という感謝であるとも言えます。しかしこの「今まで」には、警告の意味が含まれているとも考えられます。つまり、主は「今まで」我々を助けて下さった、しかしこれからもそうだとは限らない、ということです。この物語全体が教えているのはそういうことでしょう。私たちは、神の助け、救いを、当然与えられるべきものとして要求することはできないのです。私たちに求められているのは、主が助けてくださる、と安心することではなくて、悔い改めることです。「わたしたちは主に罪を犯しました」と告白し、偶像を取り除いて主に立ち帰ることです。そのことなしに「主が我々を助けて下さる」ことはないのです。「今まで」の「今」は、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち帰った、その「今」です。そこに、神の救いが、助けが与えられたのです。彼らが悔い改めの祈りを祈り続けていくなら、この「今」はいつまでも「今」であり続け、「今まで、主は我々を助けてくださった」といつまでも語り続けることができます。しかしもしもこの今が今だけで終わってしまって、明日には「昨日」となり、過去のことになってしまうなら、つまり私たちが悔い改めの祈りを祈ることがなくなり、本当に生きることのできるただ一つの場所である主のみもとから再び迷い出てしまうなら、主の救い、助けも過去の事柄となってしまうのです。私たちはこの話からそういう警告をも聞き取らなければなりません。そしてその警告と同時に、先程の迷い出た羊の話をもう一度思い起こしたいのです。主イエス・キリストが、迷い出た私たちを捜しに来て下さっているのです。私たちのために十字架にかかって死んで下さった、その愛をもって私たちを肩に背負い、主のもとへと連れ帰って下さるのです。この主イエスに背負われて、私たちは日々、悔い改めの祈りを祈り続けることができます。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と主イエスはおっしゃいました。私たちが主イエスの肩に背負われて悔い改めの祈りを祈ることを、父なる神は心から喜んでおられるのです。「今まで、主は我々を助けてくださった」、その「今」がいつまでも「今」であり続けることを最も願っておられ、そのことを喜んで下さるのは、主イエスの父である神なのです。