【2026年8月奨励】「国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。」

  • イザヤ書第2章1〜5節
今月の奨励

2026年8月の聖句についての奨励(8月5日 昼の聖書研究祈祷会)
「国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。」(4節)
イザヤ書第2章1〜5節
牧師 藤掛順一

8月の聖句
 8月はこの国に生きる私たちにとって特別な意味を持つ月です。明日6日は広島の原爆記念日、9日は長崎の原爆記念日、そして15日は終戦記念日です。それはもう81年前のことですから、直接その日を体験した人は本当に少なくなっています。しかしだからこそ、私たちはこれらの出来事をしっかりと記憶し続けることが必要だと言えるでしょう。それは、歴史上初めて核兵器が使われ、それによって一般市民に、後々まで残る大きな被害が生じたことを記憶し、核兵器の恐しさを語り続ける、というだけのことではありません。それらの現実に直面して、日本政府がようやく降伏を決断し、太平洋戦争が終ったのがこの8月だったわけです。それによって、満州事変(1931年)から始まった、軍が国の政治を支配する時代は終わりました。それと共に、明治以降の「大日本帝国」が終わり、日本国憲法に基づく「主権在民」の「日本国」へとこの国の歴史は大きく転換しました。その転換の象徴がこの8月です。現在まで続く「戦後民主主義体制」の原点が81年前の8月にある、と言うことができるのです。それについての評価は今様々です。しかしどのように評価するにせよ、80年経ってその体制が今変わろうとしていることは確かでしょう。日本のみならず、第二次大戦後に築かれた国際的な秩序は既に大きく変化しています。その中でいろいろな「きしみ」や対立が生じ、いくつかの地域では実際の戦いが起っています。その影響はこの国ももろに受けているわけで、「自分たちは関係ない」と傍観者でいることはできない状況になっています。諸外国との関係をどのように築き、どのように歩むかを真剣に考えなければならない時となっているのです。そのような中で迎えているこの8月の聖句を、イザヤ書第2章4節としました。できれば、「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない」を掲げたかったのですが、長すぎるので後半だけにしました。本日は前半も含めて、1〜5節の全体を味わいたいと思います。

平和を宣言し、実現して下さる主
 剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す、つまり戦いの道具である武器を生産のための道具に作り変える、破壊のために用いられているエネルギーを生産のためにふりむけていく。そしてもはや他国に向かって剣を上げて戦いをしかけることをしなくなる、それは私たちが「こうなったらいいな」と願っていることです。このみ言葉が全世界の全ての人々において、また全ての国々において実現するなら、本当に平和な世界が築かれるでしょう。しかしイザヤが告げたこのみ言葉は、私たち人間の願望や理想を語っているのではありません。4節の冒頭に「主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される」とあります。「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す」というのは、主なる神が国々の間を裁いて、多くの民のために下す判決なのです。つまりこれは主の宣言の言葉なのです。
 主なる神が平和を宣言なさる、そのことは旧約聖書のあちこちに語られています。詩編85編9節に「主なる神が何を語られるかを聞こう。主は平和を語られる。その民に、忠実な人たちに。彼らが愚かさに戻らないように」とあります。またゼカリヤ書第9章10節には「私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる」とあります。そしてさらに、主がこの宣言の通りに行い、平和を実現して下さるのだ、ということも語られています。詩編第46編9、10節に「来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ/弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる」とありますし、ホセア書第2章20節には「その日には、私は彼らのために/野の獣、空の鳥、地を這うものと契約を結ぶ。また弓と剣と戦いをこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる」とあります。それゆえにイザヤ書第26章12節には「主よ、あなたは私たちに平和を備えてくださいます。あなたは私たちのためにすべての業を成し遂げてくださいました」と語られています。主なる神は、この世界に平和を宣言し、それを実現して下さる方である、と旧約聖書は語っているのです。

多くの民が、主の道を歩もうとして来る
 今月の聖句としたイザヤ書第2章4節も、主なる神による平和の宣言です。しかしそれは、主なる神がある日突然このように宣言して平和を実現して下さる、と語っているのではありません。3節には「多くの民は来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう』と。教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出るからだ」とあります。「多くの民」、つまり主なる神の民だけではなくて他の国の人々が、「主の山」であり「ヤコブの神の家」である主の神殿があるシオン(エルサレム)に、主の教えを求めてやって来る。その人々に対してこの平和の宣言は告げられるのです。彼らが主のもとに来るのは、主なる神こそが真実の「教え」を語って下さるからです。彼らは「主はその道を私たちに示してくださる」と信じ、「私たちはその道を歩もう」と思って、主なる神のもとに来るのです。その人々に対してあの宣言が語られるのです。何もない所に主が突然現れて平和を宣言し、それを実現して下さるのではありません。「主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」という思いをもって主のもとに来た者たちに対して、この宣言は語られるのです。

人間の自己絶対化が戦いを生む
 このように多くの民が主のもとにその教えを求めてやって来ることが2節には、「終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい」と語られています。これはつまり、主なる神こそがまことの神であり、「山々(神々)の頭」であることが明らかになり、世界の人々がこぞって主のもとにやって来る、ということです。このような言葉は、主なる神を信じるユダヤ人の宗教こそが唯一正しい教えであり、他の神々を信じている者はすべからく主なる神を信じる者へと改宗すべきである、というユダヤ人の、さらにはキリスト教徒の自己絶対化を後押ししているように感じられて評判が悪いですが、そういうこととはしっかり区別しなければなりません。これは、主なる神の民であるユダヤ人(イスラエル)こそが、主から与えられた「約束の地」であるパレスチナを支配すべきだとか、あるいはイエス・キリストのもとに主なる神が結集してくださった「新しいイスラエル」であるキリスト教会が、この世界を支配し、指導するべきだ、というようなことを言っているのではありません。「終わりの日に」とあります。つまりここに語られていることは、神によって始まったこの世界が神によって終わる時に、つまり神の救いが完成するその時に、神のみ業によって実現することです。ユダヤ人が、あるいはキリスト教会が、この世界において他の民族や宗教に勝利して全ての人々を従わせるようになる、と語っているのではないし、そのようなことを勧めているのでもありません。そのような思いや行動は、信仰を口実とした人間の自己絶対化の罪であって、それこそがむしろ戦いを生み、悲惨な殺戮を生じさせることを歴史は証明しています。平和はそのようなことによっては決して実現しないのです。

終わりの日の救いの完成を信じる
 しかし私たちは他方で、「終わりの日に」、主がご自身のみ業としてこのことを実現して下さることをこのみ言葉からしっかり受け止めなければなりません。終わりの日には、「主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」のです。つまり主なる神こそが天地をお造りになったまことの神であることがはっきりと示されるのです。そして「国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい/多くの民は来て」、「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と言うようになるのです。このことを信じることこそが、天地を造り今も支配しておられる主なる神を信じる信仰です。その主のご支配を、自分たちがこの世界を支配することと勘違いして、自分たちが主のご支配を実現すると思ってしまうと、自分たちに反対する者は神の敵であり滅ぼされるべき者になってしまって、信仰の名によって人を攻撃する罪に陥ることになります。そのことはよくよく警戒しなければなりません。しかし主なる神が終わりの日にそのご支配を示して下さり、全ての人がそれに服するようになることは、主がはっきりと宣言しておられることです。このことを信じて待ち望み、その希望に生きるのでなければ、つまり終わりの日の救いの完成を信じるのでなければ、それはもう信仰ではなくて、この世の人生を生きるための処世訓に過ぎないものとなります。処世訓は、生きている間だけの話であり、死んだらそれで終わり、なのです。しかし信仰は、天地を創造した主が、世の終わりに、人間の罪と死とに勝利して、ご自分のご支配を完成し、私たちを、全き平和の内に永遠の命を生きる者として下さることに希望を置いて生き、そしてその希望の内に死ぬことを得させるものです。ですから私たちは、「終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい」ということを信じて待ち望みつつ、しかしそれを、「自分(たち)が山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえ、世界の人々がこぞって自分(たち)のもとに来る」ということと勘違いしないようによくよく気をつけつつ歩みたいのです。

終わりの日までは、平和は実現しない
 さて、「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない」という主の平和の宣言は、「主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」という思いをもって主のもとに集って来た者たちに対して主が語って下さるものであり、そのことが実現するのは「終わりの日に」なのだ、ということを見つめてきました。それは逆に言えば、世の終わりの救いの完成の時まで、そのことは実現しない、ということでもあります。私たちが目撃しているこの世界の現実においては、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すどころか、むしろ軍事費がどんどん増えていっています。民生に用いられれば、人々の生活の改善や格差の解消に資するであろう予算や力が、軍備増強に回され、次から次へと新たな兵器が、最新の技術によって開発され、配備されています。どの国も「自国の安全を守るために必要だ」という理由でそうしており、そのために同盟を結んで「集団的自衛権」による安全保障をはかっています。「敵の敵は味方」という論理でできるだけ多くの国を味方として「敵」の攻撃を防ごうとしているのです。そのように敵から身をを守ろうとするところには、「攻撃は最大の防御」という心理が働きます。国を守るために、「国は国に向かって剣を上げる」ことが起るのです。だから全ての戦争は「自衛のため」に起ります。人類は過去にそういうことを繰り返してきました。剣や槍の時代から、核兵器、ミサイル、ドローンの時代になって、戦争がもたらす惨禍は昔とは比べ物にならないくらい大きくなっていますが、人間の罪や弱さは変わっていないので、戦いは無くなりそうにもありません。おそらく世の終わりまで、完全な平和が実現することはないでしょう。私たちは、多くの苦しみ悲しみを体験しつつもなお、人間どうしの対立や戦いが止まず、さらにそれが繰り返されていく、というこの世界の現実の中を生きていくのです。

神の民が先頭に立って
 しかし、私たちはこの現実の中で、ただ忍耐して、主が平和を実現して下さる終わりの日を待ち望むことしかできないのではありません。私たちが今なすべきことがここに示されています。それを語っているのが5節の「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう」というみ言葉です。「ヤコブの家」とは「イスラエルの家」つまり主なる神の民イスラエルのことです。イスラエルの民に向かって、「さあ、主の光の中を歩もう」と呼びかけているのです。主なる神の平和の宣言は、「主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」という思いをもって主のもとに来た諸国民に対して与えられます。そのことは「終わりの日」に起ることです。しかしその終末の前に、まず「ヤコブの家」が、神の民イスラエルが、「主の光の中を歩む」ことが求められ、期待されているのです。神の民である者たちが、世の人々の先頭に立って、主の光の中を歩むことによって、「教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出る」ことが人々に示されていき、イスラエルの民が歩んでいる「主の道」を自分たちも歩もうとして主のもとにやって来る人々が生まれていくのです。それによって、「主の道を歩む」人々が次第に増えていき、主なる神による平和の宣言と実現への備えがなされていくのです。神の民イスラエルは、そのことのために選ばれ、召されています。このことは、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムに主が、「あなたは祝福の基となる」「地上のすべての氏族はあなたによって祝福される」(創世記第12章2、3節)と語りかけたことと繋がります。地上の全ての人々が主による祝福を受けるために、神の民は先に選ばれ、召され、人々の先頭に立って歩むのです。

主の光の中を歩もう
 旧約聖書における神の民イスラエルは、主イエス・キリストの到来と、その十字架と復活による救いによって今や新しくされています。主イエスのもとに集められ、主イエスを信じ、主イエスと一つとされている「キリストの体」である教会が、今や「新しい神の民」、「新しいイスラエル」です。ですから「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう」というみ言葉は、私たち教会に対して語られているみ言葉です。私たちは、世の人々の先頭に立って「主の光の中を歩む」ために召されているのです。「主の光」、それは主なる神がその独り子イエス・キリストによってこの世に与えて下さった光です。主イエスの十字架の死と復活によって神はこの光を灯し、私たちをその光の中で歩む者として選び、呼び集めて下さいました。主イエスの十字架と復活による救いの光を受け、その中を歩み、その光を世の人々に証しし、指し示していくことこそが、新しい神の民である私たち教会の使命です。私たちはそのことによってこそ、平和の実現のために仕えることができるのです。勿論、戦争を止めさせ、あるいは防いで平和を実現するためにいろいろな努力をすることは尊いことです。しかし、自らも罪人である私たちが、人間の罪に打ち勝ってこの世界に平和を実現することはできません。だから私たちの「平和運動」は挫折を繰り返すのです。しかし私たちは、主なる神が、世の終わりに、真実の平和を実現して下さることを信じて待ち望む信仰を与えられています。その信仰によって私たちは、人間の罪による戦いが終わることのないこの世の現実の中で、希望を失うことなく、主イエス・キリストによる救いの光の中を歩み続け、「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない」という平和を追い求めて歩むのです。そのようにして私たちは、終わりの日に平和を宣言し、実現して下さる主に仕えていくのです。

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