説教「使徒の権利」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 申命記第25章1-4節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第9章1-14節
8章と9章
私が主日礼拝を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日から第9章に入ります。8章でパウロは、コリント教会の人たちからの質問に答えて、「偶像に献げた肉」の問題について取り上げていました。4節の「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識が、「偶像に献げた肉」を食べても何の問題もない、という信仰の確信、強さを与えることを、それゆえそれを食べる自由をも与えることを語っていたのです。しかしそれが、8章におけるパウロの結論ではありませんでした。9節でパウロは「ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい」と言っています。「この強さ」は、新共同訳では「この自由な態度」と訳されています。ですからパウロは、信仰の知識が与える強さや自由が、弱い人々の躓きとならないように気をつけなさい、と言っているのです。「弱い人々」とは、「偶像に献げた肉」を食べることになれば、それが偶像に献げられたものであったことを意識せずにはいられず、心を乱され、信仰生活を乱されてしまう人たちのことです。それゆえパウロは13節で自らの結論をこのように述べています。「きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」。自分は「偶像に献げた肉」を食べる自由を持っているけれど、きょうだいを躓かせないために、あえてその自由を用いない、とパウロは言っているのです。それに続くこの9章では、「偶像」や「偶像に献げた肉」という言葉は出てきません。しかしだからといって、8章と関係のないことが語られているわけではありません。むしろ自分に与えられている自由をあえて用いないということが、さらに展開されていると言えます。この箇所では「権利」という言葉が度々出てきますが、ここで語られていることの中心は、パウロが自分に与えられている権利と自由をあえて用いなかった、ということなのです。
自由な者
9章の冒頭でパウロは、「私は自由な者ではないか」と言っています。この言葉にも、直前で語られていたこととのつながりを見ることができます。パウロが「偶像に献げた肉」を食べないと決めたのは、それを食べてはいけないという律法や規則に縛られていたからではありませんでした。パウロはキリストによる救いによって、すでにそのような束縛から解放され、自由な者とされていたのです。「私は自由な者ではないか」という彼の言葉は、このことを見つめています。そしてそれは、私たちも同じです。私たちキリスト者は、これを食べてはいけない、これをしてはいけない、あるいはこれをしなくてはいけないというような束縛から解放され、自由な者とされています。私たちは自分が救われるために、しなくてはいけないことも、してはいけないこともないのです。なぜなら私たちの救いは、神様の一方的な恵みによるものであり、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられているからです。パウロも私たちもキリストの十字架と復活によってあらゆる束縛から解放されて、「自由な者」とされているのです。
使徒
続けてパウロは「使徒ではないか」と言います。使徒言行録が語っているように、パウロはダマスコへ向かう途上で復活のキリストと出会いました。自分が神様に敵対していたことを、つまり自分の罪を突きつけられ、しかしその自分の罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことを知り、キリストの十字架による罪の赦しにあずかりました。そして復活のキリストによって使徒として選ばれ遣わされたのです。パウロにとってキリストによって「自由な者」とされたことと、キリストによって使徒とされたことは一つのことであったのです。
使徒であることの証印
ところがコリント教会の中には、パウロが使徒であることを疑い、批判していた人たちがいました。3節で、パウロは「私を批判する人たちには、こう弁明します」と言っていますが、このパウロを「批判する人たち」というのが、パウロが使徒であることを疑い、批判していた人たちのことでしょう。この批判は、無理のないものであったのかもしれません。というのも「使徒」というのは、基本的に地上を歩まれた主イエスの弟子であり、復活の主イエスによって集められ、遣わされた者を指すからです。しかしパウロは、地上を歩まれた主イエスの弟子であったどころか、かつてキリスト教会を迫害していました。ですからダマスコ途上の出来事を経て、パウロがキリスト者となったことは認めても、使徒であることを認められない人たちがいても不思議ではありません。コリント教会の中にもそのような人たちがいたのでしょう。その人たちに対して、パウロは1節の後半からこのように言っています。「私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなたがたは、私の働きの実ではないか。他の人々にとって私は使徒でなくても、あなたがたには使徒です。主にあるあなたがたが、私が使徒であることの証印なのです」。最初の「私たちの主イエスを見たではないか」というのは、パウロが復活の主イエスに出会ったことを言っています。しかしパウロが復活の主イエスに出会ったかどうかは、コリント教会の人たちに確認できることではありませんでした。だからパウロは、「主にあるあなたがたが、私が使徒であることの証印」であると、つまり証拠であると言います。今、コリント教会の人たちが主にあって生かされているのは、つまり主イエスを信じ、洗礼を受けて、その救いにあずかり、主イエスと一つとされて生かされているのは、パウロによって福音を知らされたからでした。それなのにパウロが使徒であることを否定するのは、自分が知らされた福音を、ひいては今、自分が主にあって生かされていることをも否定することになるのです。主にあって生きているコリント教会の人たちは、パウロの働きの実であり、パウロが使徒であることの証拠です。たとえ他の人々にとってパウロが使徒でなかったとしても、コリント教会の人たちにとってパウロは使徒なのです。このパウロの言葉には彼の深い嘆きが表れています。パウロは、自分が使徒であることを批判している人たちがいることを知っていました。しかしせめて自分の伝道によって誕生したコリント教会の人たちには、そのような批判に耳を傾けないでほしかったのです。
用いるべき権利を用いていない
けれどもコリント教会において、パウロが本当に使徒なのかと疑われ、批判されていたのには、それとは別の理由もあったようです。それは、パウロが使徒であれば当然用いるべき権利を用いていなかったことです。このことが、パウロは本当の使徒ではないことの証拠だと受け取られ、批判の材料にされたのです。8章からの文脈を踏まえて9章を考えると、ここでパウロの言う批判者たちとは、パウロが使徒の権利を用いないことに注目して、使徒であることに疑問を抱き、批判していた人たちであったと思います。パウロは1、2節で、自分が使徒であること、またコリント教会の人たちがその証拠であることを確認した上で、4節以下では、その使徒である自分が、なぜ使徒が本来用いるべき権利を用いないのかを語ろうとしているのです。
使徒の権利
パウロがまず語っているのは、使徒の権利とは、どのようなものなのか、使徒に与えられている権利と自由は、どのようなものなのかということです。4、5節ではこのように語っています。「私たちには、食べたり飲んだりする権利がないのですか。私たちには、他の使徒や主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」。「~ないのですか」と言っていますが、パウロは相手の意見を聞こうとしているのではありません。パウロはこれらの権利を使徒である自分が持っていることを確信しています。この問いかけへの答えは、「そんなことはない」という答えでしかないのです。「食べたり飲んだりする権利」とは、「偶像に献げた肉」と同じように、これを食べてはいけない、あれを飲んではいけないという束縛を受けずに、何でも食べ、何でも飲む権利と自由を、使徒が持っているということです。また「他の使徒や主の兄弟たちやケファ」、つまりペトロは結婚していて、その伝道の働きに妻を同行していたようですが、パウロは使徒である自分にもその権利があることを確認しています。確かにパウロは、「偶像に献げた肉」を決して口にしないと決めました。結婚もしていませんでした。しかしそれはその権利と自由を持っていなかったからではありません。その権利と自由を持っていたにもかかわらず、あえてそれを用いなかったのです。
働きに対して報酬を受ける
6節には、「あるいは、私とバルナバだけには、働かずにいる権利がないのですか」とあります。「働かずにいる」とは、教会から報酬を得ているので、生活のために別の仕事をしなくてよい、という意味です。この使徒が教会から報酬を受ける権利について、6節から12節の前半まで、さらに13、14節でも語られています。その分量からしても、パウロがこの権利をどれだけ重く受けとめていたかが分かります。まず7節で、パウロは当時の社会の実例から、働きに対して報酬を受けるのは当然の権利であることを語ります。兵士になる人はボランティアではなく報酬を得ますし、ぶどう畑を作る人は、報酬としてその実を食べますし、羊の群れを飼う人は、報酬としてその乳からできたものを食べます。これらの社会の実例に加えて、8節では律法もこの権利について語っていると言われ、9節で、「モーセの律法に、『脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない』と書いてあります」と語っています。これは共に読まれた旧約聖書申命記25章4節の御言葉です。この御言葉を引用して、10節でパウロは「神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、私たちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、私たちのためにそう書かれているのです」と言います。それは、申命記25章4節は牛のことを言っているけれど、パウロはその御言葉を人間のことを言っていると解釈した、ということではありません。申命記25章1節から読みましたが、24章5節の前に小見出しがあり、そこに「人道上の規定」とあるように、ここでは人間のために神様の定められた憐れみ深い規定が並べられています。そうであれば25章4節だけが、牛のことを語っているとは考えにくいのです。この規定が、本来、脱穀している牛に、足元にある穀物を食べさせないよう「口籠をはめる」ことはしないで、働くとともに食べることを許す規定であったのは間違いありません。しかしおそらく、すでに申命記においても、「脱穀している牛に、口籠をはめてはならない」という規定は、人間の働きには報酬がともなうことを指し示しています。だからこそパウロはここでこの御言葉を引用して、神様の御心が示されている律法においても、働きに対して報酬を受けるのは当然のこととされている、と語っているのです。さらに10節後半では、「耕す者は当然、望みを持って耕すべきであり、脱穀する者は分け前にあずかる望みを持って脱穀するからです」とあります。どんな働きであれ、働く者は、当然、報酬を得る望みを持って働くのです。同じことが13節でも言われていて、神殿で働く人と祭壇に仕える人が、その働きによって生活の糧を与えられることが語られています。
私たちはこのことに驚かずにはいられないのではないでしょうか。聖書は、あるいはキリスト教は、見返りを求めずに働くことを求めていて、働きに対して報酬を受けることを積極的に語っていないように思っているからです。働きに対して報酬を受けるのは当然だ、などと言うのはキリスト者にふさわしくないと思っているのです。しかしこの箇所は、働きに対して報酬を受けるのは当然だし、その望みを持って働くのは当然だ、と告げています。ここでは使徒の権利について語っていますが、使徒だけが働きに対して報酬を受けるということではなく、誰もがこの社会において働きに対して報酬を受ける権利を持っているのだから、使徒も教会でその権利を持っていると言われているのです。私たちが自分の働き、仕事に対して報酬を受けるのは、決して軽んじてはならない当然の権利なのです。
御言葉を自由に大胆に宣べ伝えるために
11節では、「私たちがあなたがたに霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、行き過ぎでしょうか」と言われ、14節では主イエスの教えが取り上げられて、「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられた」と言われています。使徒、あるいは福音を宣べ伝える人は、教会に連なる人たちに「霊のもの」を蒔きます。その人たちの信仰を導き、養い、支える「霊の糧」、つまりキリストの十字架と復活による救いの良い知らせ、福音を語るのです。だからパウロは、使徒や福音を宣べ伝える人が、その報酬として教会から「肉のもの」、生活の糧を与えられるのは当然であり、主イエスもそのことを命じておられた、と言っています。このようにパウロは、かなりの分量を割いて、社会の実例を取り上げ、律法や主イエスの教えも取り上げて、使徒が、あるいは福音を宣べ伝える人が、教会から報酬を受ける権利を持っていることを主張しているのです。
そのようにパウロがこの権利を主張しているのは、自分が教会から報酬を受けるためでないことは明らかです。結局、パウロはこの権利を用いなかったからです。しかしパウロは、自分自身はこの権利を用いなかったとしても、教会が福音を宣べ伝える人の生活を支えることが大切であることを伝えようとしました。福音を宣べ伝える人が、御言葉を自由に大胆に宣べ伝えるためです。御言葉が自由に大胆に語られることによってこそ、教会に連なる人たちはその御言葉によって本当に養われ、生かされます。福音を宣べ伝える人が、自分の生活の心配をすることなく神様と教会に仕え、福音を語れることは、教会にとって、教会に連なる一人ひとりにとって、とても大切なことなのです。
キリストの福音の計り知れない価値
しかしパウロがこの権利を主張しているのは、それだけが理由ではないでしょう。これほどまでに主張しているのは、当時のローマ社会では、報酬のないものは無価値だと考えられていた、価値がないと考えられていたからです。パウロは自分がこの権利を用いず、教会から報酬を受けないことによって、自分が宣べ伝えている福音が無価値だと思われることを、何としても避けたかったのです。だからこれほどまでに、教会から報酬を受ける権利を主張しました。キリストの福音は、それを宣べ伝えることは、決して無価値なことではないことを、報酬を受けるほかのどんな働きにも決して劣るものではないことを明らかにしようとしたのです。それはパウロが、このキリストの福音によって救われ、生かされていたからにほかなりません。自分を救い、生かしているキリストの福音が決して無価値ではないことを、むしろその大きな価値を伝えようとしているのです。
私たちも、キリストの福音が無価値ではないことを、むしろその大きな価値を伝えていきます。ほかならぬ私たちがこの福音によって救われ、生かされているからです。私たちはキリストの福音の価値を軽んじてはなりません。ほかのものと比べて、福音の価値を小さくしてはならないのです。私たちは胸を張って、臆することなくキリストの福音を誇ります。自分自身や自分の力を誇るのではありません。私たち自身は弱く、欠けのある、罪人に過ぎませんし、私たちには力もありません。しかしキリストの福音には力がある。人を生かす力がある。キリストの十字架と復活による救いこそが、それによって約束されている世の終わりの復活と永遠の命の希望こそが、罪と死の支配のもとで苦しんでいる人たちを、本当に生かすのです。私たち自身には価値はありません。しかし福音には計り知れない価値がある。人を救い、希望を与え、本当に生かす力がある。私たちはこの福音を誇り、この福音を力強く宣べ伝えていくのです。
権利と自由をあえて用いないで
使徒が教会から報酬を受ける権利を主張してきたパウロですが、12節でこのように言っています。「しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます」。パウロは教会から報酬を受ける権利を用いませんでした。コリント教会から報酬を受け取らなかったのです。そのようなことをすれば、使徒の権利を用いないのは、使徒でないことの証拠だ、と批判されることも分かっていたはずです。当時の社会において、偉大な教師と呼ばれるような人たちは、自分では働かず、いわゆるパトロンからの支援を受けるべきだと考えられていました。コリントは商業都市であり経済的繁栄を享受していましたから、コリント教会の中にも経済的に豊かな人たちは少なからずいたはずです。その人たちは、パウロを支援しようと、パウロのパトロンになろうとしたのではないでしょうか。パウロには支援を受ける権利があったし、その人たちもパウロがその権利を用いることを期待したのです。ですからパウロがこの権利を用いなかったのは、コリント教会の財政状況が厳しかったからではないでしょう。そうではなく一部の人たちの支援を受けることで、その人たちの影響を受けることを避けようとしたからだと思います。一部の人たちの影響を強く受けるようになれば、キリストの福音を自由に大胆に語ることができず、むしろ妨げてしまうことになりかねないのです。コリント教会には豊かな人たちもいましたが、そうでない人たちもいました。経済的なことだけでなく、色々な意味で強い人と弱い人がいました。パウロは強い人たちからの支援を受けることで、その人たちの影響力が強くなり、弱い人たちを後回しにすることがないようにしたのです。それは、パウロがきょうだいを躓かせないために、使徒としての当然の権利と自由をあえて用いなかった、ということにほかなりません。その結果パウロは、「すべてのことを耐え忍んでいます」と言うほどに、多くの困難を引き受けることになりました。しかしそれは、嫌々困難を引き受けたということではありません。キリストによって与えられた本当の自由の中で、感謝と喜びを持って、自分の権利をあえて用いることなく、困難を引き受けたのです。
キリストの十字架と復活によって救われた私たちにも、権利と自由が与えられています。権利が与えられていると言われてもピンとこないかましれません。しかしこの「権利」と訳された言葉は「力」とも訳せます。私たちには力と自由が与えられているのです。私たちは何かをしたから、善い行いをしたから救われるのでもないし、何かをしなかったら、善い行いをしなかったから滅ぼされるのでもありません。私たちは神様が独り子イエス・キリストを十字架につけて死に渡し、その死から復活させてくださったことによって救われているからです。ですから私たちは何でもできるし、何をしても良い。逆に何もしなくても良い。私たちにはそのような力と自由が与えられているのです。しかしだからといって、私たちはその力と自由を好き勝手に用いるのではありません。そうではなくキリストの福音を妨げないために、きょうだいを躓かせないために、時には、その力と自由をあえて用いないでいくのです。私たちを救い、生かしているキリストの福音が、まだその福音を知らない多くの方々に届くことを妨げないためです。この「私」を救い、生かしているキリストの福音は、あのきょうだいも、このきょうだいも救い、生かしているからです。だから私たちはキリストによって与えられた本当の自由の中で、福音を妨げるなら、きょうだいを躓かせるなら、自分に与えられている力と自由をあえて用いないで歩んでいきます。感謝と喜びを持ってそのように生きていくのです。そのことを通してこそ私たちは、計り知れない価値があるキリストの福音を、人を救い、希望を与え、本当に生かす力があるキリストの福音を宣べ伝えていくのです。
