【2026年4月奨励】「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」

  • 使徒言行録 第2章32節
今月の奨励

2026年4月2日 受難週祈祷会 奨励 牧師 藤掛順一
「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」(使徒言行録第2章22-32節)

受難週祈祷会で、主イエスの復活を語っているみ言葉を読む
 毎月第一水曜日の午後2時から「昼の聖書研究祈祷会」を行なっており、そこで、その月の聖句についての奨励を私が語っています。本来なら昨日が4月の「昼の聖書研究祈祷会」の日です。しかし今年は、今週がちょうど受難週となりました。毎年受難週には、水、木、金に受難週祈祷会を行っています。また第一水曜日である1日つまり昨日には、東京神学大学の入学式が午前中に行われ、私たちの教会の会員である遊佐柊介さんが入学し、私も川嶋先生もそこに参列しました。午後2時までに帰って来れるかどうか心配でしたので、昨日の祈祷会の奨励は長老にお願いして、4月の聖句についての奨励を本日2日(木)に語ることにしました。そういうわけで、この祈祷会は受難週祈祷会Ⅱと、4月の聖句についての奨励が語られる「昼の聖書研究祈祷会」を兼ねています。
 ところで4月の聖句は、5日に迎えるイースターを覚えて選びました。使徒言行録第2章32節の「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」という聖句です。主イエスの復活を語っているこの聖句を、本日の受難週祈祷会においてご一緒に読み、味わうことになったのは今述べた事情によることです。この聖句は一見、受難週祈祷会で読むには相応しくないように感じられるかもしれません。しかしそんなことは全くありません。私たちはこの受難週に、主イエスが捕えられ、死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されたことを覚え、その苦しみを偲んでいますが、その時に、主イエスが十字架の死から三日目の週の初めの日、日曜日の朝に復活なさったことを忘れているわけではありません。私たちの救いのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストが復活なさったことは、私たちの信仰の中心であり、土台です。主イエスの復活を抜きにして私たちの救いはないし、信仰もありません。私たちは、イースターに復活なさった主イエス・キリストが、私たちの救いのために受けて下さった苦しみと死を、この受難週に覚えているのです。それと同じく、イースターに主イエスの復活を喜び祝う時にも、主イエスの十字架の苦しみと死を忘れているわけではありません。十字架にかかって死んで下さった主イエスが復活なさったのです。ですから、主イエスの十字架の苦しみと死を覚えることと、復活を覚えることは切り離すことができない、一つのことなのです。
 本日ご一緒に読む使徒言行録第2章22節以下は、弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり、教会が誕生したペンテコステ(聖霊降臨日)の日に、聖霊を受けたペトロが弟子たちを代表して語った説教の一部です。24節以下でペトロは、主イエスが復活なさったことを語っています。そして32節では、自分たちは、神が主イエスを復活させて下さったことの証人なのだ、と語っているのです。しかしその前の22節以下でペトロは、主イエスの十字架の死のことを語っています。24節に「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」とある「このイエス」とは、22節以下の、十字架につけられて死んだイエスなのです。このペトロの説教からも、主イエスの復活を語ることは、十字架の死を語ることと切り離せないことが分かるのです。

イエスこそ神から遣わされた方
 ペトロは先ず22節で、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。あなたがた自身がご承知のとおりです」と言っています。ナザレの人イエスは、数々の奇跡と不思議な業としるしをなさいました。ペトロはここで、主イエスのなさった奇跡だけでなく、お語りになったみ言葉をも含めた、主イエスのご生涯の全体を見つめていると言えるでしょう。主イエスのご生涯全体が、この方こそ「神から遣わされた方」、つまり救い主であることを示していたのです。しかもそれは、主イエスがそのように主張した、というのではなくて、神ご自身がお示しになったことです。そして「あなたがた自身がご承知のとおりです」とあるように、今ペトロの話を聞いている人々は皆、「ナザレの人イエス」が彼らの間で行った「奇跡と不思議な業としるし」を見たのです。つまり、「イエスこそ私が遣わした救い主だ」という神の示しを受けたのです。この神の示しをちゃんと受け止めたなら、ナザレの人イエスこそ神がお遣わしになった救い主であることが分かったはずなのです。

あなたがたがイエスを殺した
 しかし、23節の後半には、このイエスを「あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです」と語られています。ペンテコステの日にペトロの話を聞いている「あなたがた」は、50日と少し前に、イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人たちです。主イエスに十字架の死刑の判決を下し、それを執行したのはローマ帝国の総督であるピラトとその部下たちですが、それは祭司長、律法学者たちをはじめとするユダヤ人たちが求めたことでした。つまり神の民ユダヤ人である「あなたがた」が、「律法を知らない者たち」つまり異邦人であるローマ人を用いて、神が遣わして下さった救い主である主イエスを十字架につけて殺したのだ、とペトロは言っているのです。
 ペトロはこのようにユダヤ人たちの罪を厳しく指摘していますが、しかし彼はここで決して、自分のことは棚に上げて人を批判しているわけではありません。ペトロも、そして今そこに共にいる他の弟子たちも、「十字架につけろ」と叫んだわけではありません。しかし彼らは、主イエスが捕えられた時、主イエスを見捨ててみんな逃げ去ってしまったのです。ペトロは人々に気づかれないようにそっと、大祭司の家へと連行された主イエスについて行きましたが、その結果、「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われて、主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったのです。ペトロをはじめとする弟子たちの誰も、神から遣わされた救い主である主イエスに従い通すことはできなかったし、十字架につけられて殺された主イエスをほんの少し支えることすらもできなかったのです。だからペトロにしても他の弟子たちにしても、「神が遣わして下さった救い主をあなたがたが殺した」と言って人を責めることはできません。ペトロは、自分の罪や弱さに目をつぶって、全てをユダヤ人たちのせいにしているのではありません。神が遣わして下さった救い主イエスを、あなたがたは受け入れず、信じようとせず、異邦人を用いてはりつけにして殺してしまった。それはあなたがただけの罪ではない。主イエスの弟子たちも皆、救い主イエスに従い通すことができずに見捨てて逃げ去ってしまったし、私などは三度もその方を「知らない」と言ってしまった。だからあなたがたも、私たちも、神が遣わして下さった救い主を拒み、見捨て、殺してしまった罪人なのだ。私たちは皆、神の恵みを無にしてしまうという、とりかえしのつかない罪を犯したのであって、神によって裁かれ、滅ぼされてしまうしかない者なのだ。ペトロはそのように、自分自身の罪としっかり向き合いつつ語っているのです。

神がイエスを引き渡した
 そのことを見つめる時に、23節の前半に語られていることが大きな意味を持ってきます。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが」というところです。主イエスを遣わし、これこそ私が遣わした救い主だ、とお示しになった神ご自身が、主イエスを「あなたがたに引き渡した」のです。引き渡したというのは、好きなようにさせた、ということです。神は主イエスを、「あなたがたの好きなようにしなさい」とおっしゃって、彼らの手に委ねたのです。その「あなたがた」には、ユダヤ人たちだけでなくペトロら弟子たちも含まれています。ユダヤ人たちは、神から委ねられた主イエスを、一旦は喜んで迎えましたが、最終的には拒んで、異邦人たちの手に渡して、はりつけにして殺しました。他方ペトロら弟子たちは、神が委ねて下さった主イエスを信じて弟子となり、従っていったけれども、いざという時、自分の身に危険が及びそうになった時には、見捨てて逃げ去ったり、「知らない」と言ってしまったのです。そのように神から主イエスを引き渡された者たちは誰もが皆、主イエスを神がお遣わしになった救い主として受け入れ、信じて従っていくことができませんでした。そのために主イエスは十字架にはりつけにされて殺されたのです。

神のご計画、ご意志によって
 しかしペトロはここで、神はそのことを、「お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで」なさったのだ、と語っています。主イエスを彼らの好きなようにさせたら何が起こるのかを、神はあらかじめご存じの上で、彼らに引き渡したのです。それは神のお定めになった計画によることでした。つまり主イエスが律法を知らない異邦人に引き渡されてはりつけにされ、殺されたことは、神にとって想定外の誤算だったのではなくて、ご計画によること、つまり神のご意志によることだったのです。その神のご計画、ご意志とは、神が遣わした救い主イエスを受け入れずに殺してしまうとんでもない罪人たちを、また主イエスの弟子になっても、従い通すことができずに逃げ出したり「知らない」と言ってしまうこれまたどうしようもない罪と弱さに捕えられている者たちを、主イエスの十字架の死によって赦し、救って下さるというご計画でありご意志です。主イエスが私たちの罪を全てご自分の身に負って、罪人である私たちが本来受けるべき十字架の死を代って引き受けて下さったことによって、私たちを赦して神の子として下さるという神の救いのご計画、ご意志が実現したのです。この救いのご計画を実現するために、神は主イエスを「あなたがたに引き渡された」のです。神のこのような驚くべきご計画、ご意志によって、主イエスの十字架の苦しみと死とは起ったのです。

赦しの恵みの中で自分の罪を見つめる
 ここには、主イエスの十字架の苦しみと死を私たちがどのように見つめ、受け止めるべきなのかが示されています。一方でそれは、神がその独り子であり救い主である主イエスを遣わして下さったのに、私たち人間がその主イエスを受け入れず、殺してしまった、つまり神の恵みのみ心を無にしてしまった、あるいは自分を守るためにその主イエスのもとから逃げ去り、「知らない」と言ってしまった、つまり主イエスを裏切ってしまったという私たちの罪の結果です。神の子主イエスの十字架の苦しみと死は私たちのせいであり、私たちにその責任があるのです。「このイエスを、…あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです」の「あなたがた」は、当時のユダヤ人たちだけでなく、ペトロら弟子たちでもあり、そして私たち全ての者でもあるのであって、「自分は関係ない」と言って誰か他の人のせいにすることは誰もできないのです。私たちはそのことをこの受難週にしっかりと見つめなければなりません。
 しかしもう一方で、主イエスの十字架の苦しみと死は、神の救いのご計画によることでした。神は、罪のゆえに滅びるしかない私たちが赦されて神の子とされる、という救いを、主イエスの十字架の苦しみと死によって実現して下さったのです。主イエスの十字架の死は、罪と弱さに支配されてしまっている私たちを救って下さる神の恵みのみ心の実現だったのです。私たちはこのことをも、この受難週にしっかり見つめなければなりません。そうでなければ、「神の子主イエスの十字架の苦しみと死は私たちのせいであり、私たちにその責任がある」ということは私たちにとって絶望でしかありません。そこに神の救いのみ心、ご計画があったことを示されるからこそ、私たちは主イエスの十字架の苦しみと死を、そしてそこに現れている私たちの罪を、直視することができるのです。つまり、赦しの恵みの中でこそ、自分の罪を見つめ、悔い改めることができるのです。これこそが受難週を歩む私たちの信仰のあり方です。受難週に私たちは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚えますが、それは「イエスさまお気の毒に、さぞ苦しかったでしょう」と同情することではありません。あるいは、主イエスは苦しみの中で死に至るまでご自分の道を歩み通されたのだから、この主イエスに倣って私たちも、どんな迫害にあっても、たとえ殺されても、命がけで信念を貫いて生きよう、と決意するのでもありません。受難週に私たちは、「このイエスを、…あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです」という言葉を、自分に向けられた言葉として聞くのです。神に背き、その恵みを無にしている自分の罪のゆえに主イエスが苦しみを受け、死んだこと、主イエスの苦しみは自分のせいであり、自分が主イエスを苦しめ、殺したのだということを覚えるのです。しかしそれと共に、主イエスが十字架の上で、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって、神がこの自分の罪を赦し、救いを与えて下さっていることをも共に覚えるのです。その恵みを体全体で味わい、それにあずかって生きるために、聖餐が備えられています。聖餐にあずかり、主イエスの苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さった神の恵みのみ心を体全体で受けつつ、主イエスを十字架につけて殺した自分の罪を正面から見つめ、それと向き合っていく、それこそが受難週を歩む私たちの信仰なのです。

神はイエスを復活させた
 ペトロは、「このイエスを、…あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです」と言って人間の罪を厳しく指摘しました。それは私たち全ての者に対して語られている言葉です。しかし彼はそれに続いて「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」と言っています。主イエスが復活せずに死に支配されたままであることなどあり得なかった、主イエスが復活したのは当然のことだったのだ、と言っているのです。そのように言うことができるのは、主イエスの十字架の死が、神の恵みのみ心、救いのご計画によることだったことを彼が見つめているからです。滅びるしかない罪人である私たちを救って下さるために主イエスを遣わし、その十字架の苦しみと死とによって私たちの罪の赦しを実現して下さった神は、主イエスを死に支配されたままにしておくことなく、復活させて下さったのです。主イエスの十字架の死は神の救いのご計画によることでしたが、そのご計画はそこで終わりではなくて、主イエスの復活にまで至るものだったをのです。つまり神は主イエスの十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さっただけでなく、その主イエスを復活させることによって、罪を赦され救われた私たちが、復活した主イエスと共に、罪と死の支配から解放された神の子として新しく生きることができるようにして下さったのです。このように神の恵みのご意志、救いのご計画において、主イエスの十字架の苦しみと死とその復活とは結びついており、両者は切り離すことができないのです。主イエスの十字架の死は復活を抜きにしては語ることができないし、主イエスの復活は十字架の死なしには無意味です。それはどちらも、神の救いのご計画によることだからです。

神の救いのご計画の証人
 4月の聖句は32節の、「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。」です。洗礼を受け、教会に連なっている私たちは、神が主イエスを復活させて下さったことの証人として立てられています。でもその復活は、主イエスの十字架の苦しみと死とによって神が実現して下さった救いのご計画の続きであり仕上げです。受難週に私たちは、神が遣わして下さった主イエスを十字架につけて殺してしまった、その自分の罪を見つめます。しかしそれと共に、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さる神のご計画、恵みのみ心が実現したことをも見つめます。そしてイースターに、神が主イエスを復活させて下さったことによって、罪と死の支配から解放された新しい命を与えて下さったことを見つめるのです。聖餐は、主イエスと十字架の死による救いにあずかると共に、復活した主イエスと共に生きていくために備えられています。私たちは、神の救いのみ心が、主イエスの十字架の死と復活によって実現したことを、受難週からイースターへの歩みにおいて、聖餐にあずかりつつ覚え、その救いの恵みの証人となるのです。

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