2026年3月22日(川嶋章弘副牧師)
説教題「召されたときのままで」
イザヤ書 第43章1~7節
コリントの信徒への手紙一 第7章17~24節
今の状況に留まる
私が主日礼拝を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めていて、今は7章を読み進めています。7章でパウロはコリント教会の質問に答える形で、キリスト者の結婚について語っています。これまでの箇所でパウロは、根本的には神様の祝福のもとにある結婚を肯定しつつ、しかし独身の人には独身を勧め、その一方で結婚している人には、夫婦が共にキリスト者の場合も、夫婦の片方だけがキリスト者の場合も離婚してはならないと勧めていました。その中でいつくかの例外にも言及していました。そのため私たちは、パウロの論じていることに一貫性がないようにも思えます。しかしそうではありません。ここでパウロが一貫して語っていることは、キリスト者が今の状況に留まるということです。だから今、独身の人は独身のままで、今、結婚している人は結婚したままでいることを勧めたのです。本日の箇所では、このことがさらに集中的に取り上げられています。ここでは「結婚」という言葉は出てきませんが、この箇所をこれまでの文脈から切り離して読むべきではありません。これまでの文脈の中で、これまで語ってきたことをより一般的に語っているのです。
召されたときのままで
冒頭17節でこのように言われています。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」。「神に召されたときの身分」と訳されていますが、「身分」という言葉は原文にはありません。聖書協会共同訳では「神に召されたときのままの状態」と訳されています。「状態」という言葉も原文にあるわけではありませんが、こちらの訳のほうが「身分」に限定していないので、パウロの語ろうとしていることに近いと言えます。つまりパウロは、キリスト者はそれぞれ神様に召されたときの状態のままで、境遇のままで歩みなさい、と語っているのです。それはこれまでの文脈では、独身の人は独身の状況に、結婚している人は結婚の状況に留まるということでした。しかしここではそれだけに限られません。召されたときの状況、境遇とは社会的身分や地位、仕事、家族との関係、そのようなことすべてが含まれます。そのようなことすべてにおいて、召されたときの状況に留まりなさいと言われているのです。
しかしこのことは、私たちの感覚に合わないところがあるのではないでしょうか。自分が主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリスト者となったからには、心機一転、新しい状況で生き始めるほうが良いように思えるからです。とりわけ日本に生きる私たちは、今の環境では、たとえば今の職場や今の家族関係では信仰生活を送るには色々と妨げがあるから、キリスト者となったからには、今の状況を変えたほうが良い、と思ったとしても不思議ではありません。ではパウロは何故、今の状況に留まりなさい、と言うのでしょうか。
神の召し
その鍵は、ここでパウロがキリスト者となることを、「神に召された」と言っていることにあります。私たちは先ほど申したように、自分が主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、キリスト者となった、あるいはキリスト者となると思っているところがあります。確かにそれは間違いではありません。「私」が主イエスを信じる、「私」が決断して洗礼を受けるということなしに、私たちはキリスト者となることはないからです。しかしそれがすべてではありません。むしろそれに先行していることがあります。それが、神様の召しです。神様が私たちを召してくださったことが、私たちが主イエスを信じ、洗礼を受けることに先行しているのです。神様の召しによって私たちは教会へと導かれ、主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼の志を与えられます。ですから私たちがキリスト者となったのは、根本的には私たちの信仰や決心によるのではなく、神様の召しによるのです。そうであれば、先ほど申した、自分が主イエスを信じ、洗礼を受け、キリスト者となったからには、新しい状況で生き始めるほうが良い、という私たちの感覚は間違っていることが分かります。キリスト者となることが神様の召しによるなら、神様は私たちが置かれている状況、境遇と無関係に私たちを召したのではありません。具体的な状況の中にある私たちを、その具体的な状況も含めて召してくださったのです。そのことが17節前半で、「おのおの主から分け与えられた分に応じ」と言われていることにも示されています。私たちがそれぞれ神様から召されたときの状況というのは、それぞれが「主から分け与えられた分」、つまり神様から与えられた状況だということです。もちろん私たちはキリスト者となる前に、そのように思っていたわけではありません。お互いに好きだから自分たちは結婚したと思っていたし、自分が選んでこの職業についた、この学校に入ったと思っていたし、あるいは仕方なくこの職業についた、この学校に入ったと思っていたのです。しかしそのように思っていたとしても、実は、私たちが神様に召され、キリスト者となったときの状況は、神様から与えられたものであったのです。だからキリスト者となったからといって、自分の置かれている状況を変えようとするのではなく、召されたときの状況に留まりなさい、と言われているのです。
神の召しを見失っている
キリスト者となったからには、新しい状況で生き始めるほうが良いという感覚は、私たちだけでなく、またコリント教会の人たちだけでもなく、初代の多くの教会の人たちが持っていました。だからパウロは、召されたときの状況に留まりなさいと語った後、「これは、すべての教会でわたしが命じていることです」と言っています。それは、裏返せば、すべての教会でこのことを命じなければならない現実があったということでしょう。多くの教会で、キリスト者となったからには、自分の置かれている状況を変えなくてはと思った人たちがいたのです。コリント教会で言えば、これまで見てきたように、キリスト者となったからには、男は女に触れないほうが良いと考えて夫婦の関係を疎かにしたり、あるいはキリスト者でない夫や妻とは離婚したほうが良いと考えたり、ということが起こっていました。これらのことが起こった、その根本には、自分たちがキリスト者となったのは神様の召しによることを見失っていたことがあります。神様の召しによってキリスト者となったことを見失うとき、キリスト者となったときの状況に留まるよりも、自分が置かれている状況を変えようとするのです。
割礼の有無は問題ではない
本日の箇所では、二つの具体的なことが取り上げられています。一つは割礼の問題、もう一つは社会的な身分の問題です。
まず18、19節で割礼のことが取り上げられていて、18節でこのように言われています。「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません」。「割礼」は、ユダヤ人の男性が受けるもので、神の民であることのしるしでした。ですから「割礼を受けている者が召された」とは、ユダヤ人がキリスト者となったということであり、「割礼を受けていない者が召された」とは、ユダヤ人ではない異邦人がキリスト者となったということです。一方で、ユダヤ人がキリスト者となったときに、割礼を受けた自分のからだが気になってしまうことがありました。割礼の跡が気になってしまうのです。当時のユダヤ人の若い人たちの中にも、割礼の跡を人に見られるのは恥ずかしいと思っていた人たちがいたそうです。そうであればキリスト者となったからには、なおさらほかの教会のメンバーの視線、特に異邦人キリスト者の視線が気になったはずです。コリント教会のメンバーの多くは異邦人キリスト者でしたから、その人たちの視線を気にして、割礼の跡を無くせないだろうかと考えたのです。その一方で、それとは正反対に、異邦人がキリスト者となったときに、割礼を受けていない自分のからだが気になってしまうことがありました。割礼を受けることこそ神の民のしるしであり、その割礼を受けていない自分たちは生粋の神の民でないかのように思え、劣等感に駆られて、割礼を受けたほうが良いのではないだろうかと考えたのです。このようにキリスト者となったときに割礼を受けていたユダヤ人キリスト者の中に、割礼の跡を無くそうとした者があり、またキリスト者となったときに割礼を受けていなかった異邦人キリスト者の中に、割礼を受けようとした者がいました。しかしそれは神様に召されたときの状況を変えようとすることです。だからパウロは19節でこのように言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」。割礼を受けているか受けていないかは問題ではない。だからキリスト者となったときに割礼を受けていた者は、割礼の跡を無くしてはならないし、キリスト者になったときに割礼を受けていなかった者は、割礼を受けてはならない。神様に召されたときの状況に留まりなさい、と語ったのです。
神の御心を行う
パウロは「大切なのは神の掟を守ること」と言いました。しかしこのパウロの言葉は矛盾しているように思えます。何故なら、割礼を受けることは、まさに律法に記されている神の掟であるはずだからです。しかしパウロ自身は矛盾があるとは思っていませんでした。ではパウロにとって「神の掟」を守るとは、何を意味しているのでしょうか。それは神の御心を行うことでしょう。そして神の御心とは神様を愛し、隣人を愛することです。神様の召しによって主イエスを信じ、洗礼を受け、救いにあずかったキリスト者にとって、割礼の有無ではなく、神様の御心を行い、神様と隣人を愛することが大切なのです。
召されたときに奴隷であった人も
21節以下では、社会的身分のことが語られていて、21節でこのように言われています。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」。当時の社会には奴隷がいました。商業都市として大いに繁栄したコリントですが、経済的繁栄は貧富の格差を生み、コリントの人口の三分の二が奴隷であったとも言われます。ですから神様に召され、キリスト者となったときに奴隷であった人も少なくありませんでした。そのような人たちの中で自分が奴隷であることに悩む者たちがいました。それは、奴隷という身分がキリスト者にふさわしくないと思ったからだけでなく、奴隷という身分では信仰生活において色々な妨げがあったからです。奴隷には主人がいますが、当然、その主人がキリスト者でないこともありました。奴隷は主人の命令に従わなくてはなりませんから、キリスト者として受け入れにくい、自分の信仰生活を妨げるような命令に従わなくてはならないこともあったでしょう。それこそ神様の御心を行い、神様と隣人を愛したいと思いつつも、それに反するようなことをしなければならないこともあったに違いありません。キリスト者として信仰生活を送ることと、主人の命令に従うことの板挟みになって葛藤しなくてはならなかったのです。そのためにキリスト者となったときに奴隷であった人たちは、自分が奴隷であることを気にしていました。しかしパウロはその人たちに向かって、「そのことを気にしてはいけません」と語っているのです。
21節の後半は解釈が分かれます。新共同訳のように「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と訳されることもありますが、むしろ「自由の身になれるなら、自由になりなさい」と訳されることも少なくありません。つまり正反対の意味に解釈されるのです。その原因は、原文では単に「むしろ用いなさい」と言われているだけで、奴隷の身分であることを用いるのか、それとも自由の身になれることを用いるのかはっきりしないことにあります。私自身は、パウロがしばしば例外に言及することを考えれば、「自由の身になれるなら、自由になりなさい」と訳すほうが良いと思います。しかし新共同訳のように訳すとしても、パウロはこの箇所で奴隷制度を肯定していると批判することは的外れです。どちらで解釈するとしても、パウロがここで語っていることの中心は、神様に召されたときに奴隷であった人は、そのことを気にしてはいけない、ということなのです。
気にしてはいけない
パウロがここで取り上げた二つの問題は、コリント教会の人たちには深刻な問題でした。しかし私たちは割礼のことで悩んだりすることもなければ、奴隷の身分であることに悩んだりすることもありません。だからといってパウロの語っていることが私たちと関係ないのかというと、そうではありません。パウロの言葉で注目したいのは、「そのことを気にしてはいけません」という言葉です。それは、裏返せば、コリント教会の人たちが「気にしていた」ということです。割礼を受けていること、あるいは受けていないことを、奴隷であることを気にしていたのです。
同じように私たちも多くのことを気にしているのではないでしょうか。私たちはそれぞれ、神様が召してくださったときの状況も、そこに至るまでの歩みも違います。かつて受けた割礼の跡が気になった人たちがいたように、私たちも自分の過去が気になることがあります。特に過去の過ち、罪が気になり、何故あんなことをしたのだろうかと苦しみ、その記憶を消したいと思ったりもします。自分の経歴や能力、通っている学校や働いている会社、社会的な地位が気になることもあります。また割礼を受けた人たちが人の視線を気にしたように、私たちもほかの人の視線が気になります。ほかの人が自分をどう見ているのかばかりを気にして、心穏やかでいられなくなるのです。あるいは割礼を受けていなかった人たちが劣等感に駆られたように、私たちも自分とほかの人を比べて劣等感に駆られてしまうことがあります。それだけではありません。私たちもコリントと同じような異教社会にあって、職場や学校や家庭で、キリスト者としての信仰生活を妨げられることがあります。キリスト者として生きることと、上司の命令の板挟みで、あるいは家族や友人や同僚との関係の板挟みで葛藤することがあるのです。コリント教会の人たちが直面していた現実は、具体的な事柄は違ったとしても、私たちが直面している現実なのです。
私たちの多くは、キリスト者となったからといって、自分の状況を変えようとするわけではないかもしれません。その意味では、神様に召されたときの状況に留まっていると言えるのかもしれません。しかし状況を変えようとはしなかったとしても、多くのことが気になって心穏やかでいられないのだとしたら、それは本当の意味で神様に召されたときの状況に留まっているとは言えません。召されたときの状況だけでなく、今、与えられている状況についても同じです。多くのことを気にしつつ、心を乱されながらしぶしぶ現状に留まるのが、今与えられている状況に留まることではありません。だからこそパウロは、多くのことを気にして心穏やかでいられない私たちに、「気にしてはいけない」と語りかけているのです。
キリストの奴隷とされ、自由とされた
けれども「気にしてはいけない」と言われても、それだけで簡単に気にしなくなるわけではありません。いくら「気にしないように」と自分自身に言い聞かせても、気にしてしまうのが私たちだからです。むしろ私たちは本当に目を向けるべきものに目を向けるとき、そのほかのことを気にしなくなるのではないでしょうか。パウロは神様に召され、キリスト者となったときの状況に留まりなさいと語りました。しかしそれは、キリスト者となったときに何の変化もなかったということではありません。むしろ決定的な変化があったのです。22節でこのように言われています。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」。これは「主によって召された奴隷」と、「主によって召された自由な身分の者」の立場の逆転を語っているのではありません。奴隷であれ自由な身分の者であれ、神様によって召された者は、「キリストの奴隷」であり、「主によって自由の身にされた者」だ、と語っているのです。神様に召されキリスト者となった私たちは、キリストの奴隷であると同時に、キリストによって自由とされた者です。私たちがキリストの奴隷であるとは、私たちの主人がキリストであり、私たちはキリストのものとされているということです。キリストのものとされることによって私たちは、ほかのあらゆるものから自由とされています。自分の過去や、経歴や能力、学校や職場、社会的な地位を気にすることから自由とされているのです。私たちは自分がキリストの奴隷となり、キリストのものとされたことに目を向けることによってこそ、すでに決定的に変えられたことに目を向けることによってこそ、ほかのあらゆるものから自由とされて、ほかのことを気にしないで生きることができるのです。
「気にしてはいけない」と言われても、当時、奴隷と自由な身分の差は歴然としていました。私たちにおいても、能力の差はあるし、学歴や職歴の差、社会的な地位や境遇の差はあります。また自分の過去を消せるわけでもありません。しかし私たちは自分自身を、神様に召され、キリストの奴隷、キリストのものとされた自分として受け入れるとき、それらのことから自由になり、気にすることなく歩んでいくことができます。今、与えられている状況に感謝し、その状況に留まって歩んでいくことができるのです。もちろんそれは、これからずっとその状況に留まらなければいけないということではありません。独身の方が結婚することがあり、結婚している方が色々な事情で離婚することもあり、仕事や学校が変わることも、家族との関係が変わることもあります。しかし私たちはそれらのことを、ほかの人の視線を気にしたり、ほかの人と比べて劣等感に駆られたりして行うのではなく、キリストのものとされた自由の中で行うのです。
「ありのままでいい」ではない
このことからもう一つ大切なことが示されます。「気にしてはいけない」というのは、「ありのままでいい」ということではない、ということです。ありのままの私たちというのは、神様に背き、自分勝手に生きている私たちであり、人の視線を気にしてばかり、人と比べてばかりいる私たちです。「気にしてはいけない」とは、「ありのままでいい」ということではなく、すでに自分が、そのようなありのままの自分ではなく、キリストの奴隷とされ、キリストのものとされて、本当の自由を与えられていることにこそ目を向けなさい、ということなのです。
御子の命によって買い取られた
この自由を私たちに与え、私たちをキリストのものとするために、神様はその独り子イエス・キリストを十字架に架けてくださいました。23節で「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」と言われています。神様が私たちを買い取るために払ってくださった身代金こそ御子キリストの命です。神様は御子の十字架の死という途方もない代価を払ってまで、私たちを買い取ってキリストのものとしてくださり、一切のものから自由にしてくださったのです。だから私たちはもう「人の奴隷」とならなくて良い。人の視線を気にしたり、人との優劣を気にしたり、自分の経歴や地位、過去を気にしなくて良いのです。
パウロは24節で「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と言います。「神の前にとどまる」とは、神様と共に生きるということです。まもなく私たちは受難週を迎えます。キリストはまさに私たちをご自分のものとし、私たちに本当の自由を与えるために、十字架で苦しみを受けられ死なれました。私たちは神様に召され、そのキリストの十字架の死による救いにあずかり、キリストのものとされ、あらゆるものから自由とされています。だから私たちはその自由の中で、今、与えられている状況に留まり、今の状況に感謝して、神様の前にとどまり、神様と共に生き、キリストの僕として神様の御心を行い、神様と隣人を愛して生きていくのです。