2026年3月15日
説教題「起きなさい」
詩編 第30編1~13節
使徒言行録 第9章32~43節
ペトロの巡回
使徒言行録9章を読み進めてきて、本日はその終わりを読みます。これまではサウロの回心の出来事とその後のサウロの歩みが語られていました。本日の箇所からは一転して、再びペトロの働きが語られています。その冒頭32節に、「ペトロは方々を巡り歩き」とあります。もちろんそれは、ペトロが物見遊山の旅をしていたということではありません。聖書協会共同訳で、「ペトロはすべての教会を巡回し」と訳されているように、あちこちの教会を巡り歩いていたのです。直前の31節には、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」とありました。これまで見てきたように、ステファノの殉教をきっかけとしてエルサレム教会に対する迫害が起こったにもかかわらず、むしろ教会はエルサレムだけでなく、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に広がっていきました。しかしそれは、それぞれの教会がバラバラに存在していた、ということではありません。エルサレム教会との結びつきの中で、エルサレム教会の肢として、それらの教会は建てられ歩んでいたのです。それは、どの教会も画一的であったということではありません。それぞれの教会には違いもありました。教会が建てられた地域の違いがあり、教会に連なるメンバーの生まれや育ちの違いもありました。しかしそれらの違いを超えて、諸教会は全地方で平和を保ち、つまり一致して、教会を築き上げていったのです。
しかしそれは、決して簡単なことではありません。それぞれに違いありながらも、あるいはそれぞれの違いを活かしながらも、諸教会が一致して歩むためには、諸教会が何によって、どこで一致しているのかを繰り返し確認する必要があります。またそれぞれの教会が問題や困難に直面したとき、その教会だけでは解決できないことも少なくありません。だからエルサレム教会はペトロを諸教会へと派遣しました。もし諸教会の一致の基礎から、つまりキリストの福音から離れてしまっている教会があれば指導するためです。問題を抱えている教会があれば導き、困難の中にある教会があれば支え、励ますためです。誕生したばかりのキリスト教会では、それぞれの教会に必ずしもみ言葉を語る教師がいたわけではなかったでしょう。いわゆる「教会の制度」もまだ整っていませんでした。そのような状況の中で諸教会が一致して、キリストの体である教会を建て上げていくために、エルサレム教会から派遣されたペトロはすべての教会を巡り歩いたのです。
地域の長老会義
このことは誕生したばかりのキリスト教会にだけ当てはまることではありません。確かに私たちの教会は、当時の教会に比べれば整った「教会の制度」を持っています。しかしだからといって、私たちは自分たちの教会だけで歩むことができる、と考えるべきではありません。私たちの教会がキリストの福音から離れてしまうようなことがあったなら、そのことを指摘し、指導してくれる存在が必要です。また私たちが問題に直面すれば、その問題解決のために助言し、困難の中にあれば支え、励ましてくれる存在が必要です。その存在が、「長老制度」の教会においては「中会」(プレスビテリ)と呼ばれる、諸教会の代表からなり、諸教会を束ねる地域の長老会議です。私たちの教会にとっては、「神奈川連合長老会」がその中会的な役割を担っています。だから私たちの教会は、「神奈川連合長老会」の指導を受け、また支えや励ましを受けて歩んでいるのです。そのことによってこそ私たちの教会は、ほかの諸教会と一致して、教会を建て上げていくことができるのです。
病と死に直面する教会
本日の箇所でペトロは、リダとヤッファの教会を訪ねています。32節で「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った」と言われていました。「聖なる者たち」とはキリスト者のことですから、ペトロはエルサレムからリダに住んでいるキリスト者たちのところへ、つまりリダの教会に下って行ったのです。36節以下では、ヤッファでの出来事が語られていますが、その冒頭36節に「ヤッファにタビタと呼ばれる婦人の弟子がいた」とあります。「婦人の弟子」とは女性のキリスト者のことですから、ヤッファにも教会があったことが分かります。ヤッファは地中海沿岸の古い港町で、リダはそのヤッファとエルサレムをつなぐ中継地でした。どちらの教会も、キリストの福音がエルサレムを超えて広がっていく中で誕生した教会です。そしてどちらの教会も、苦難に直面していました。リダの教会では、アイネアが「中風で八年前から床について」いて、ヤッファの教会では、タビタが病気になって亡くなったからです。誕生したばかりの二つの教会は、教会のメンバーの病と死に直面していたのです。そしてそれは、私たちの教会が直面していることでもあります。私たちの教会にも病の中にある方が多くいらっしゃいます。ご高齢による弱りを覚えている方も少なくありません。そして死を迎えようとしている方、死を迎える方があります。私たちの教会も、メンバーの病と老いと死に直面しているのです。だからこそ私たちは、この箇所から誕生したばかりの教会が、どのように病と死に向き合ったかを示されていきたいと思います。そのことを通して私たちの教会は、病や死の現実に対して、見て見ぬ振りをするのでも、腫れ物に触るように避けるのでもなく、しっかり向き合っていきたいのです。
アイネア
リダの教会のメンバーであったアイネアは、「中風で八年前から床について」いました。「中風」というのは、脳卒中による半身不随を指すこともありますが、現代医学における正式な病名ではなく、特定の病気を指す言葉と考えることはできません。聖書協会共同訳では単に「体が麻痺して」と訳されています。いずれにしても、アイネアは八年前から体が麻痺して動けず、床に横たわっているしかなかったのです。体が麻痺する前、彼は、私たちがそうであるように、自分のなすべきことのために動き回り、自分のしたいことのために動き回っていたに違いありません。将来、やりたいこと、挑戦したいこともあったはずです。しかしそれらすべてが奪われました。体が麻痺して、思うように動かなくなったからです。アイネアは深い失意と絶望の中にあったに違いないのです。
救われていても、なお疑い、失望し
しかしここで私たちは少し立ち止まって考えてみる必要があります。アイネアがリダの教会のメンバーであるならば、彼が教会のメンバーになったのは、つまりキリスト者になったのは、体が麻痺して床に横たわるようになる前ではなく、なった後であったはずです。何故ならキリスト教会は誕生してから八年も経っていないからです。そうであればアイネアは、体が麻痺して思うように動かず、床に横たわるしかない中で、主イエス・キリストによる救いを信じ、洗礼を受けて、キリスト者となりました。主イエスの十字架と復活にこそ、深い失意と絶望からの救いがあり解放があると信じたのです。それならアイネアは、その救いの恵みの中で、なお床に横たわるしかなかったとしても、その救いに感謝して、喜んで生きていたのでしょうか。当初は、そのように生きていたのかもしれません。しかし病の力は侮ることができません。すでに救いにあずかっていると信じていても、床に横たわるしかない日々が続く中で、なぜ復活の主イエスは何もしてくださらないのか、なぜ自分を苦しみの中に放っておかれるのかという疑いや失望が徐々に深まっていったのではないでしょうか。そしてそれは、アイネアだけでなく、リダの教会のほかのメンバーにも及んでいたのかもしれません。アイネアの苦しみを目の当たりにして、教会全体が、神様は何もしてくださらない、という疑いと失望の中にあったのではないでしょうか。
圧倒的な病の力にのみ込まれ
このことは、私たちが信仰生活の中で経験することでもあります。私たちの中には、かつて病や怪我によって体を思うように動かせず、何もできなくなってしまう苦しみに直面した方がいらっしゃるでしょう。あるいは、今このときも、思うように心と体が動かない苦しみに直面している方もあるでしょう。そしてこれから、そのような苦しみに直面する方もあるかもしれません。私たちはそのような苦しみに直面する中で、あるいはそのような苦しみに直面している方を目の当たりにする中で、圧倒的な病の力にのみ込まれ、神様は何もしてくださらない、という疑いと失望を徐々に深めてしまいます。目に見えない復活の主イエスが分からなくなり、具体的な苦しみや痛みを伴う病によって絶望してしまいそうになるのです。
今も生きて働かれる復活の主
ペトロは、そのように復活の主イエスが何もしてくださらない、という深い疑いと失望の中にあったアイネアとリダの教会の人たちを訪ねました。そして34節にあるように、アイネアに、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と語りかけました。するとアイネアは、すぐ起き上がったのです。気づかれた方もあるかもしれませんが、かつて主イエスは、地上のご生涯の中で同じように中風の人を癒されました。使徒言行録はルカ福音書の続編ですが、ルカ福音書5章17節以下で、その出来事が語られていて、24節後半からこのように言われています。「そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」。このとき主イエスが中風の人を癒したように、本日の箇所でペトロはアイネアを癒しました。しかしペトロは、自分自身の力でアイネアを癒したのでは決してありません。ルカ福音書が語る中風の人の癒しの出来事と、本日の箇所のアイネアの癒しの出来事はよく似ています。しかし決定的な違いがあります。それは主イエスが、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われたのに対して、ペトロは「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言ったことです。「イエス・キリストがいやしてくださる」。ペトロはそう言いました。アイネアを癒したのはペトロではありません。十字架で死なれ復活され、天に昇られた主イエス・キリストが、アイネアを癒やしてくださったのです。ペトロが主イエスと同じみ業を行ったのではなく、復活の主イエスがペトロを用いてみ業を行ってくださったのです。それは、復活の主イエスが今も生きて働かれ、地上のご生涯においてみ業を行ってくださったのと同じように、今も、み業を行ってくださっているということにほかなりません。アイネアもリダの教会の人たちも病の力に圧倒され、また病が長期間に及ぶ中で、復活の主イエスが生きて働かれていることが分からなくなり、深い疑いと失望の中にありました。しかし復活の主イエスは、ペトロを用いてご自身が今も生きて働かれていることを、み業を行い続けていることを示してくださったのです。
タビタ
一方、地中海沿岸の古い港町ヤッファの教会には、タビタと呼ばれる女性のキリスト者がいました。タビタとはアラム語の名前で、ギリシア語に訳すと「ドルカス」になります。新共同訳では続けて「すなわち『かもしか』」と記されています。しかしこの一文は、原文にはありません。新共同訳はわざわざ「ドルカス」の意味は「かもしか」ですと注釈を入れているのです。ところがギリシア語の「ドルカス」は、「かもしか」ではなく「ガゼル」を指すようです。「かもしか」と「ガゼル」は別の動物で、検索してみると「ガゼル」のほうが「かもしか」よりスラッとしていました。聖書協会共同訳ではこの一文はなく、注付きのものであれば、「ドルカス」に注が付されて、「『ガゼル』の意」と記されています。少し脱線しましたが、ガゼルは短距離なら時速80キロメートルで走るそうです。タビタも軽快に走り回っていたのかもしれません。しかもそれは自分のためにではありません。36節の後半に、「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」とあります。特にタビタは、やもめたちのために走り回っていました。「やもめ」とは夫を無くした未亡人のことです。当時やもめは、社会で最も弱い立場にありました。そのためユダヤ教は、やもめを助けることを大切にしていましたが、キリスト教会もそれを引き継ぎ、やもめを助け、その世話をしていたのです。タビタもそのために精力的に奉仕した一人でした。39節にあるように、やもめたちは泣きながらペトロに、「ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せ」ました。ドルカス、つまりタビタは経済的に生活の苦しいやもめたちのために、自分の賜物を生かして衣服をこしらえていたのです。それだけではないかもしれません。タビタ一人では、衣服を作るのには限界があります。もしかしたらタビタはヤッファの教会で裁縫教室のようなものを開き、そこでやもめたちに裁縫を教えていたのかもしれません。やもめたちの生活が少しでも楽になるようにと考えてのことです。かもしかのように、いえガゼルのようにやもめたちのために軽快に活発に動き回っていたタビタを思い浮かべるとき、そのような想像も許されるのではないかと思います。
復活の主イエスがペトロを用いて
しかしそのタビタが病気になって死にました。働き過ぎて病気になったのかもしれません。いずれにしても教会のために、特にやもめのために仕え、尊い働きをなしたタビタも、病の力、死の力の前にはなすすべがなかったのです。人々は彼女の遺体を清めて階上の部屋に安置しました。ヤッファの教会の人たちは、ヤッファからほど近くのリダにペトロがいると聞いて人を送り、ペトロに「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼みました。ペトロが到着すると、人々は彼をタビタの遺体が安置されている階上の部屋に案内しました。そこでペトロは皆を部屋から外に出すと、「ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』」と語りかけました。するとタビタは「目を開き、ペトロを見て起き上がった」のです。やはりお気づきの方もあるかもしれませんが、この出来事とよく似た出来事が、主イエスの地上のご生涯の中にもありました。ルカ福音書8章49節以下で、ヤイロという会堂長の娘が死んで、主イエスがその娘を甦らせる出来事が語られています。その54、55節に、「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」とあります。主イエスは「娘よ、起きなさい」と呼びかけ、ペトロは「タビタ、起きなさい」と呼びかけました。そして主イエスがヤイロの娘を甦らせたように、ペトロはタビタを甦らせたのです。しかしこのよく似た二つの出来事にも決定的な違いがあります。それは、ペトロだけがひざまずいて祈ったことです。それは、今も生きて働かれる復活の主イエスの力を、主イエスのみ業を求めて祈ったということです。アイネアの癒しがそうであったように、ここでもペトロは自分の力でタビタを甦らせたのではありません。復活の主イエスがペトロを用いてタビタを甦らせたのです。
「死んだら終わり」という思いに支配されそうになる中で
タビタの死は、ヤッファの教会の人たちに深い悲しみと嘆きを引き起こしました。かけがえのない存在であったタビタを失った深い悲しみと嘆きに押し潰され、「死んだら終わり」という思いに支配されそうになったのです。私たちは、それはおかしいと思うかもしれません。何故ならすでに主イエスは復活されていましたし、洗礼を受け、主イエスと結ばれたキリスト者には、世の終わりの復活と永遠の命が約束されていたからです。それなのに「死んだら終わり」という思いに支配されるなんてあってはならない、そう思うのです。確かに頭の中で考えるだけならその通りです。しかし死の力は、復活と永遠の命の約束を信じている私たちをも圧倒することがあるのではないでしょうか。私たちも教会のメンバーの死に、親しい者の死に、家族の死に直面し、大切な人を失った深い悲しみと嘆きに押し潰され、「死んだら終わり」という思いに支配されそうになるのです。しかしだからこそ、今も生きて働かれる主イエスは、ペトロを用いてタビタを甦らせてくださいました。深い悲しみと嘆きの中で、「死んだら終わり」という思いに支配されかけている人たちに、今も生きて働かれる主イエスは、主イエスと結ばれて生きる者には、死が終わりではないことを、死の先に希望があることを示してくださったのです。タビタは甦りましたが、ずっと生き続けたわけではありません。数十年の地上の生涯を終えて死んだのです。しかしその死で終わりではない。その死の先で、世の終わりに復活と永遠の命にあずかるのです。タビタの甦りは、主イエスの復活によって与えられている世の終わりの復活と永遠の命が確かな約束であることを、私たちには死が終わりではなく、死の先に希望があることを指し示しているのです。
起きなさい
リダとヤッファの教会で起こったことは、私たちの教会でも起こります。それは、床に横たわっていた方が急に起き上がったり、死んだ方が甦ったりする、ということではありません。誤解を恐れずに言えば、それ以上のことが起こります。リダとヤッファの教会で起こったことは、教会が病と死の現実に直面し、その現実に向き合い、その現実に勝利した、ということです。もちろんそれは教会のメンバーや、あるいはペトロが特別な力を持っていたからではありません。そうではなく、今も生きて働かれる復活の主イエスがみ業を行ってくださり、病と罪の現実に勝利してくださったのです。このことが私たちの教会でも起こっています。私たちはキリスト者として生きる中で、病の力にのみ込まれ、神様は何もしてくださらない、という疑いと失望の中に陥ることがあります。圧倒的な死の力に直面して、復活と永遠の命の約束を信じているはずなのに、「死んだら終わり」という思いに支配されそうになることもあります。しかしそのような私たちのために、今も生きて働かれる主イエスは呼びかけてくださり、み業を行ってくださるのです。復活の主イエスは、病によって深い疑いと失望の中にある私たちに、「起きなさい」と呼びかけられます。たとえ体は思うように動かなかったとしても、すでに主イエスによる救いの恵みの中に入れられ、主イエスのものとされているのだから、安心して心を起こして、心を高く上げて、その救いの恵みに感謝して生きるよう呼びかけてくださり、そのように生きる力を与えてくださるのです。復活の主イエスは、死の力に圧倒されて、「死んだら終わり」という思いに支配されそうになっている私たちに、「起きなさい」と呼びかけられます。「死んだら終わり」という思いに支配され、うずくまっているのではなく、主イエスの復活によって与えられている世の終わりの復活と永遠の命の希望に支えられて、起き上がるよう呼びかけてくださり、その力をも与えてくださるのです。このことが私たちの教会でも起こっています。今も生きて働かれる主イエスのみ業によって、主イエスによる救いがすでに病と死の力に決定的に勝利していることを、教会は証ししているのです。
共に旧約聖書詩編30編が読まれました。その6節に「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とあり、12節に「あなたはわたしの嘆きを躍りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」とあります。私たちは病や死の力に圧倒され、のみ込まれそうになり、泣きながら夜を過ごし、嘆かずにはいられません。しかし今も生きて働かれる主イエスは私たちに語りかけ、み業を行ってくださり、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださり、嘆きを喜びに変えてくださるのです。
神に立ち帰り、神を信じる者たちが起こされていく
そのように教会が、病と死に勝利する主イエス・キリストの十字架と復活による救いを証しすることを通して、新たなキリスト者が起こされていきます。35節には「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」とあり、42節には「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」とあります。今も生きて働かれる主イエスのみ業によって、病と死の現実の中にあっても、なお救いの恵みに感謝し、世の終わりの復活と永遠の命に希望をおいて喜んで生きる私たちを用いて、神様に立ち帰り、神様を信じる者たちが起こされていくのです。